第十四話 問いに至った者
前へ、と座のまんなかから言われて、ニーヴは立ち上がった。
届けたら退くのが、この稼業の作法である。届ける前に退く作法は、七年の年季で教わらなかった。
負い籠を末席に残し、火の四隅で焚かれた広間のまんなかへ歩く。石の床は冷たく、満座の目は、それより冷たくも温かくもなかった。ただ、量っている。氏族長というものは、余所の娘が歩いてくる十歩のあいだにも値踏みを休まない人種であるらしい。
……上等だよ。量り合いなら、帳場育ちのお手のものだ。
ニーヴは膝を揃え、口の中でいちばん硬い声を選んだ。改まった座の声である。
「わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ。……発言の座を、いただきました」
息を、ひとつ。
「申し上げます。高地の谷のことが、一つ。南の川のことが、二つ。――坂の中程の、組合の棚のことが、三つ」
北の列で、エイフェが顎を引いた。
「高地グレン・ファーラの和平は、声で結ばれておりました。氏族の長どうしが、たがいを聞き手と定めて誓い、その声を器に封じて谷の祠に納めた。声のある限り、谷に血は流れぬ――谷の古老が、そう伝えています。祠の器を、わたくしはこの目で見ました。どの器にも、届け札がありません。届ける物ではないから、です。……その谷でこの秋、長らく静まっていた血が訳もなく噴きました」
「相違ない」エイフェが短く言った。「名代として、申し添える。訳は、いまも誰も知らぬ」
「南の川のことは、みなさまのほうがよくご存じです。百年動かなかった水利の取り決めが、この冬いきなり破られた。裁きの持ち込みが、この座に上がっています。なぜいまさら、と誰にも訳が分からない。……北の谷と、同じ言葉の形です」
南の列で身じろぎが一つあった。白いものの勝った髭の長である。争う二つの村を谷の枝に持つ、南の川筋の長老――ディアミドと呼ばれているのは、末席にいても聞こえていた。
「三つ目を申し上げる前に。名代どの。谷の唱えを、この座で」
エイフェは立って目を閉じた。高地の古い形の言葉が、火の四隅の広間に落ちた。
宛てられし声は、聞かるるまで、消えず。
聞くべき耳の絶えしとき、声は迷ふ。
――これ、エハヴの理なり。
「谷では、意味を説く者はおらぬ。唱えは唱えである、と」エイフェは座に戻った。「……説いたのは、この声継ぎ殿だ」
「訳のほうは、南の聖堂に残っていました。コルム」
柱の際で弟弟子が跳ねた。帳面と一緒に抱えてきた麻布から羊皮紙を引き出す。寄り合いのあいだ、要るかもしれないものはぜんぶ持ち歩くのが段取りです、と言い張って抱えてきた荷が、ほんとうに要る日が来たのである。
「よ、読みます。聖堂の年代記の、綴じの余白の書き入れです。――『土地の者、返る声をエハヴと呼ぶ。古き言にて、こだま、返る声の意なり。声は聞かるるまで消えずと信ず。俗信なり』」
「声は、聞かれるまで消えません」ニーヴは続けた。「器は、声の入れ物ではありません。割れてもこぼれない。塩壺で封じても、座る。器は、宛て名を結んだ札です。……そして、この冬。組合の棚で、器が一つ、封じられたまま終わりました。夏から棚番が毎日量ってきた器が、蜜蝋も紐もそのままに、開けたあとと同じ軽さになり切ったのです。聞かれもせずに、です。唱えの二行目のとおりに――聞くべき耳が、世のどこかで絶えた」
広間は、静かだった。四隅の火だけが、低く鳴っていた。
「棚のいちばん奥の段は、大移しの頃からあります。年代記に、一行だけあります。コルム」
「『大移し。決まり事ども、紙に移さる。運びの組合、器の棚を引き受く』」
「できたばかりの運び屋が、なぜその年からもう棚を引き受けているのか。届け損ねた声はまだ一つも無いはずなのに。……その最奥の段の器には、谷の祠と同じにどれ一つ届け札がありません」
ニーヴはそこで一度、口を閉じた。ここから先は、言葉の重さが変わる。
「――ここから先は、わたくしの推し量りです。大移しの年、国の決まり事は紙に移された。けれど、誓いの声そのものは毀たれずにあの棚に納められた。この国の和平は、いまも声のまま、坂の中程の暗がりで生きている。……そして、いま、切れはじめている。谷で。川で。棚で」
*
しばらく誰も何も言わなかった。四隅の火が、薪をひとつ食んだ。
「……推し量り、と、自分で言われたな」
南の列から、ディアミドが立った。ゆっくりと、歳を経た者の立ち方だったが、声は少しも揺れなかった。
「先に言うておく。争うている二つの村は、どちらもわしの谷の枝だ。裁くのはわしの役で、裁けるものなら藁にもすがりたい。……そなたの話を、笑いに来たのではない」
正直な人らしかった。だから、続きは重かった。
「声継ぎ殿。そなたの言い分の、証しはどこにある」
「唱えと、書き入れと、器が」
「唱えは、意味を説く者がおらぬと名代どのが言われた。書き入れは――若い衆。すまぬが、終いの一言だけ、もういちど読んでくれるか」
コルムが、羊皮紙を握り直した。握った手が白かった。
「……『俗信なり』」
「俗信なり」ディアミドは静かに繰り返した。「書き留めた聖堂の写し手が、自らそう裁いておる。そなたの証しの紙が、そなたの言い分を俗信と呼んでおるのだ」
どこかの列で、息を吐く音がした。
「軽くなった器、と言われた。その軽さは、誰の掌の覚えだ。棚番と、そなたの。ざわめきは、誰の耳に聞こえる。そなたの耳に。……わしらの掌には量れず、わしらの耳には聞こえぬ」
責める声ではなかった。責める声なら、返しようもあった。
「文字はな、声継ぎ殿。誰の目にも、同じ文言を、幾度でも見せる。百年前の取り決めを、わしはこの冬、書役に三度読ませ、三度同じであることを検めた。検められる――それが、紙が国の役に立つ訳だ。大移しの長たちが決まり事を紙へ移したのも、それゆえであろう」
長老は、そこで初めて声を低くした。
「開けば消え、写しの取れぬものを、誰が検められる。……証しようのないものを、国の礎と呼ぶか」
満座のあちこちで顎が引かれた。頷きは波のように広間を渡った。
ニーヴは返す言葉を探した。探して、見つからなかった。
悔しいのではない。長老の言うことが、端から端までまっとうなのだった。まっとうな言葉には、まっとうな重さがある。検められないものを、国は礎にできない。それは、そうだ。それは、そうなのだ。あたしの耳も、掌も、あたしの外へは持ち出せない。
うつむきかけた目の先に、揃えた自分の掌があった。
開いた器の軽さを、一年ぶん覚えてきた掌である。
……ある。
一つだけ、ある。検められないのは、あたしの掌と耳だ。けれどあの棚には――三百年、誰にも検められないまま、検められる日を待ってきたものが一つある。
この幾晩、算盤の玉が一つ合わずにいた。あたしの器の届けの座には、証しに立つ者がいない。その玉がいま、音を立てて納まった。
ニーヴは顔を上げた。
「長老さま。仰るとおりです。わたくしの掌も、耳も、証しにはなりません」
「……ほう」
「けれど、一つだけ。この座のみなさまの耳で、検められるものがあります」
広間が、静まった。
「組合の棚のいちばん奥に、器が一つあります。届け札はありません。かわりに、器の肩に、組合の刻みで一行。――棚の、意味を、問うに至った。いつかの、声継ぎへ。……名でも続き柄でもなく、そう宛てられた器が、三百年前からあの段にあります」
ざわめきが、初めて人の側から起きた。
「先の夜、わたくしはその棚の前で名乗りを立てました。器は、答えました。……と申し上げても、それもまだわたくしの掌の覚えでしかありませんが」
「……開く気か」ディアミドの声が低くなった。「開けば消えるのだろう。写しは取れぬのだろう。三百年の声を、そなたの推し量りひとつに賭けて」
「賭けます」
言ってから、損得を並べた。並べて言うのが、あたしの流儀である。
「外れなら、組合は三百年の預かりものを、わたくしの見当ひとつで使い切ります。組合の名には傷が残り、わたくしは生涯、量り違えた声継ぎです。当たりなら――この国は、どの帳面より確かな証しを、みなさま全員の耳でいちどきに聞きます。……どちらでも、二度目はありません」
「二度目のない証しなど」
「二度目がないから、申し上げるのです」
ニーヴは長老の目をまっすぐに見た。
「開けば消える。写しは取れない。それが声の弱みだと仰るなら。――消える瞬間を、この座の全員で、見ればいいんです」
ディアミドは、動かなかった。動かないまま、目だけが量りの皿から皿へ動くのが分かった。
「一度きりの声を、聞くべき耳をひとつ残らず同じ座に集めて、皆で聞く。読み返しはできません。けれど、この国の長という長が同じ声を同じ刻限に聞いた――その事実は、どの書役の写しよりも堅い。……開けてよいのは、宛先だけ、が組合の決まりです。あの器の宛ては名ではありません。役です。棚の意味を、問うに至った者。その座に立てるのは、いま――」
息が、足りなかった。
「――あたしです」
口上の声が、一言だけ割れた。素の声が、火の四隅の広間にぽつんと落ちた。誰も笑わなかった。
「……わたくしです。言い直します。その検めの確かさごと、この座で、検めてください」
末席で、オシーン・マクブライが立った。
「組合長として、申し上げる」
言葉を銅貨のように惜しむ人の申し状は、今日も短かった。
「その器は、組合が三百年、預かり申した。……預かった声は、必ず届ける。掟の、一条にございます」
それだけ言って、座った。
座の預かり手――いちばん年かさの長は、長いこと黙っていた。
「……器を、ここへ運べばよかろう」
「なりません」ニーヴは言った。「わたくしの名乗りの証しに立ったのは、あの棚です。棚を証しの座から外すわけには参りません。それに」
それに、の先は、口上の声では言えなかった。だから、ただの声で言った。
「三百年、待った側です。待った側が出向くのではなくて――聞く側が、下りるべきだと思います」
沈黙は長かった。四隅の火が二度、薪を崩した。
やがて、座の預かり手が言った。
「……座を、移す」
*
冬の日は短い。長たちが立ち上がったとき、広間の高窓はもう暮れの色をしていた。
坂の町はその行列を黙って見た。年に一度この月にだけ戸の開く広間から、氏族長という氏族長が列を成して下り、坂の中程の声継ぎの組合の前で止まったのである。祝いとも弔いともつかない行列だった。誰も、祝いかい、弔いかい、と訊かなかった。訊きようのない届けもあるのだと、坂の町はその晩、知らないままに知った。暮れの坂には、粉のような雪が舞いはじめていた。列の中程では、丘向こうの谷のルアリが例の膝当ての毛織りを人目も構わず巻き直していた。
……ついでに言うと、この届けの勘定は付けようがない。語り手の払いが済んでいるのかどうか、三百年前の帳面はもうない。道のりは廊下の突き当たりまで。半日道の、百分の一もない。たぶんこの稼業でいちばん短くて、いちばん重い配達である。
供の衆は、外に残された。戸をくぐったのは長たちと名代と、組合の者だけである。それでも帳場が埋まり、炉の間が埋まり、廊下に立ったままの列ができた。座る場所は、はじめからない。立って聞くのがふさわしい声も、世にはあるのだろう。
廊下の突き当たり。北の壁。
ファーガルが、錠を開けた。
「……嬢ちゃんや」棚番は、燭台を提げて、いつもの訥々で言った。「客が、多いの」
「三百年ぶんだよ、爺さま」
老人は頷いて、最奥の段から両手で器を下ろした。五十年、磨きつづけてきた手つきである。敷居のすぐ内の板に布を敷き、その上へそっと据えた。
オシーンは、今夜も敷居を跨がなかった。跨がぬまま、敷居の外に膝を揃えた。触れさせるな、を守り抜いてきた人の、いつもの立ち会いである。エイフェが長たちの列の先頭に、ディアミドがその隣に立った。コルムは炉の間の柱の陰で、帳面を胸に抱えていた。
ニーヴは敷居の前に膝を揃えた。
耳の奥で、ざわめきが鳴っていた。いつものように――いや、いつもより張りつめて。
息を、ひとつ。ふたつ。
「口上を申し上げます。この器の語り手の名を、わたくしは知りません。名の代わりに、刻みのとおりに申します」
燭台の火が、静かだった。
「語り手は、三百年前に、この棚を組合へ託した人。宛て名は、棚の意味を問うに至った、いつかの声継ぎ。――宛て名の座に、ニーヴ・オケリガンが立ちます。証しに立つは、この棚と、この座のみなさま」
言い終えるかどうかのうちに、ざわめきが引いた。
手前から、奥へ。大勢がひとりずつ口をつぐんでいく、あの引き方である。二度目は、早かった。棚はもう、こちらを知っているのだ。
静まり返った暗がりの中で、ニーヴは刻み紐に指をかけた。
三百年前の結いは――思いのほか、素直にほどけた。三百年、誰にも解かせなかった結いとは思えない、拍子抜けするほど静かなほどけ方だった。
そして、声がした。
――これを聞く者よ。まず、名乗るがよい。それが、作法じゃ。
廊下がどよめく前に、ニーヴは背筋を立てた。
「わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ。……棚の意味を、問いに来ました」
答えるはずのない声が、答えるはずのない間を、そこに置いた。まるで、三百年先の名乗りを聞き終えるための間が、初めから語りの中に編んであったかのように。
――よし。では、聞け。
遠く炉の間で、火が爆ぜた。廊下の長たちは、衣擦れの音ひとつ立てなかった。
――紙に移したのは、文言だけよ。
低い、乾いた、よく通る声だった。老いた声である。老いてなお、語るために整えられた声だった。
――名乗りが先じゃったな。わしの名は、言うまい。もう、どの帳面にもない名じゃ。役で名乗る。……わしは、語り部の長。この国の、最後の語り部の長じゃ。
語り部。ニーヴの知らない言葉だった。知らないのに、意味だけがまっすぐ胸へ渡ってきた。語る、部。声で何かを預かってきた、人々。
――文字の来る前、この国の決まりは、みな声じゃった。境の定めも、婚姻の約定も、血讐の手打ちも。長どうしが、たがいを聞き手と定めて語り、わしら語り部が証しに立った。……宛てられた声は、聞かれるまで、消えん。高地の古い衆が、エハヴと呼んだあの理よ。誓いの宛て名はの、相手の長と――その名を継ぐ者の、すべてじゃ。名を継ぐ者は、代々に絶えん。じゃから誓いは、聞かれても聞かれても宛てが尽きず、代々の上に残って効きつづける。……破れぬ約定というものが、この世にあった訳よ。
声は、そこでひと呼吸、間を置いた。語りの息継ぎまで、様になっている人だった。
――大移しの年。海の向こうから来た文字が、聖堂に満ち、商家に満ちた。若い長たちは言うた。決まり事は、紙に書けば残る、とな。わしは、否まなんだ。文字には文字の取り柄がある。書けば残る。読み返せる。検められる。……のう。三百年先の座にも、いま、そう言うた者がおろう。
廊下で、息の止まる音がした。ディアミドだと、音で分かった。
――紙を、恨むな。紙は、ようやっとる。……ただの。
声が、一段沈んだ。
――効き目は、紙に乗らなんだ。文言は移り、効き目は移らなんだ。移らぬことを、移した者らは知らなんだ。知らぬまま、役目は済んだと言うて――誓いの器を、毀とうとしたのじゃ。
燭台の火が、微かに鳴った。
――わしは、止めた。先祖の声を毀つは不敬じゃ、と言うてな。ほんとうの訳は、言わなんだ。言うても、もう届かなんだ。文字を選んだ耳に、声の効き目は、俗信じゃったでな。……器は、できたての運びの組合へ預けた。届かなんだ声の棚に、紛らせて。決まりの訳は忘れられても、決まりは残る。――手を、触れさせるな。理由は、問うな。開く者が、来るまで。……わしが組合に言い残したのは、その三つよ。三百年で、いくつ残ったかの。
敷居の外で、衣擦れがひとつ鳴った。オシーンが頭を垂れたのだと、見ないでも分かった。棚の奥からも、布の擦れる音がした。五十年、問わずに磨いてきた人の耳にも、この声は届いている。
――いちばん奥の段はの、いつかの声継ぎよ。届け損ねた声の段では、ない。この国の、根っこの約定じゃ。氏族の和平。境の定め。永代の、血讐の手打ち。……この国に、王のおらん訳を考えたことがあるか。三百年、誰も気づかず、誰にも破れなんだ誓いが、坂の中程の暗がりから国を抱いておったのよ。
誰も、動かなかった。息の音だけが、暗い廊下にいくつも並んでいた。
――さて。……おぬしのことじゃ。
――声を封じ、解き、待つ声のざわめきを聞く。その耳はの、語り部の血に沿うて伝わる。わしらは大移しのあと、散った。家々に溶け、市に紛れた。名簿は、ない。語り部の名を文字にせぬが、わしらの掟じゃったでな。声の職が、文字に膝を折るわけにはいかなんだ。……意地よ。意地の払いは、高うついた。系図は、はじめから文字の外――もう、誰にも辿れん。おぬしが誰の裔かも、わしには分からん。……分からんままで、ええ。耳は、系図がのうても生まれるでな。
――名も続き柄も宛てられぬ声は、役で宛てる。役宛て、というての。語り部の長にだけ許された宛て方じゃ。わしはこれを、棚の意味を問うに至った、いつかの声継ぎに宛てた。名は知らん。顔も知らん。三百年先か、五百年先かも、知らん。……知らんでも、宛てられる。それが、声のええところじゃ。
声が、そこで少し笑った。すぐに笑いを畳んだ。
――終いに、悪い報せを言うぞ。
――誓いは、名を継ぐ者のあるかぎり、残る。逆さに言えばの。……名の絶えたとき、誓いの宛ては、尽きる。宛ての尽きた声は、迷う。迷うた誓いは――もう、効かん。
――谷が荒れたか。川が荒れたか。棚の器が、軽うなったか。どれが先かは、わしには知りようがない。じゃが始まっとるなら、それが訳じゃ。……わしにできたのは、声を残すところまでよ。声は、聞かれて終わる。終わった声の続きは、聞いた者の、仕事じゃ。
間が、ひとつ。今度の間は、長かった。
――三百年、棚におった。……ようやっと、届いたわい。
ニーヴは、揃えた膝の上で手を固く握った。証しに立つ者は座では泣かない。泣かないが――三百年は、あんまりだった。
声は、言い足すことを探さなかった。探さないまま――語り終えた語り部が、火の輪から一歩、闇へ退くように消えた。
あとには、燭台の芯の、じ、と鳴る音だけが残った。
*
誰も、動かなかった。
どれほどの間そうしていたのか、ファーガルが膝を進め、役目を終えた器を布ごと引き取った。ただの素焼きに戻った器の、あの軽さである。五十年量り慣れた老人の手が、受け取るときわずかに震えていた。
ニーヴは敷居の前で膝を揃えたまま、棚の暗がりを見ていた。
夏から量られつづけ、封じられたまま終わった、あの器のことを考えていた。あれも、誓いだったのだ。どこかの谷か、どこかの川の。名を継ぐ者が絶え、宛てが尽きて、誰にも知られないまま――効かなくなった。
「……検めた」
廊下で、ディアミドが言った。低い、掠れた声だった。
「この耳で、検めた。……取り消そう。俗信と呼んだことも、証しようがないと言うたことも。あれは、検められた」
長老はそこで言葉を切った。切って、切ったまま続けた。誠実な人の、いちばん誠実な続け方だった。
「じゃが、声継ぎ殿。それなら、なおのことだ。誓いの宛ては、名を継ぐ者。名の絶えたとき、宛ては尽きると、声は言うた。谷の血は噴き、川の取り決めは破れ、棚の器はすでに一つ、軽くなり切った。……絶えた名は、戻らぬ」
モルナ、という名が、ニーヴの耳の奥をよぎった。二十年前に絶えた、谷の西岸の家の名である。
「宛ての尽きかけた誓いを――では、誰が聞くのだ」
問いは、責めではなかった。藁にもすがりたい、と最初に言った人の、ほんとうの問いだった。
誰も、答えなかった。廊下の列も、炉の間も、敷居の外の師匠も。棚だけが、三百年ぶんの静けさで答えを待っていた。
ニーヴの膝の上で、掌がゆっくりとひらいた。四十年待った声を、続き柄で届けた掌である。名のない宛てに、役で立った声継ぎである。
ニーヴは、息を、ひとつ吸った。
「――継げばいい。名前も、声も」




