第十五話 声継ぎ
継げばいい。名前も、声も。
言い切った声は暗い廊下の石壁に触れて、落ちた。落ちたきり、しばらく誰も拾わなかった。三百年の棚の前で、氏族長という氏族長が、若い声継ぎの一言を黙って量っていた。
「……継ぐ、と言うたな」
沈黙を破ったのは、ディアミドだった。
「声継ぎ殿。器なら、継げよう。桶でも畑でも、継げよう。じゃが、名は物ではない。絶えた名を、誰が、どの法で継ぐ」
「継ぎ聞きは、名と続き柄を継ぐ者の決まりです。続き柄は、親子でも、役でも成る。……なら、名の側にも、継ぐ道があるはずです」
「あるはず、では、寄り合いは動かん」
「……婚姻ならば、ある」
長たちの列の先頭で、エイフェが言った。
「高地では、家に跡の絶えるとき、婿が家の名ごと継ぐことがある。名は、縁を伝って渡るのだ。……モルナとわたしの家の縁組も、東西を繋ぐための、そのための縁であった」
「縁の先がとうに絶えておっては、婚姻の結びようもあるまい」ディアミドの声に、意地の悪さはなかった。ただ、どこまでもまっとうだった。「名だけが二十年、宙に浮いておる。それを、どの座が、誰に授ける」
「決まりごとを裁いて、割り前を決める座が、いまここに開いてます」ニーヴは言った。「名を裁けない道理が、ありますか」
「先例じゃ」長老は首を振った。「寄り合いは、先例で動く。先例のない裁きは、明くる年にはもう恨みの種よ。……名を継がせた先例など、わしは聞いたことがない」
聞いたことがない。それは、無いということではない。ニーヴは頭のなかで算盤を弾いた。玉は、もう湿っていなかった。
「終わった声の続きは、聞いた者の仕事――あの声は、そう言い置いて消えました。聞いたのは、この座の全員です」ニーヴは長老をまっすぐ見た。「探しましょう。……紙を」
声継ぎの口から紙と出たのが可笑しかったのか、ディアミドの髭が、わずかに動いた。
その晩の炉の間に、羊皮紙が広げられた。テオドラの写し――大移しの年の前後を写した、あの数枚である。要るかもしれないものはぜんぶ持ち歩くのが段取りですと言い張る、コルムの麻布から出てきた。
「よ、読みます。読めるところだけ、ですけど」
コルムが指で行を追い、ディアミドが灯から羊皮紙を遠ざけて読む。歳を経た目は、離すほどよく見えるものらしい。字の読めないニーヴは、茶を注いで回るよりほかにない。オシーンは炉端の定位置で湯の番をしていた。問いも急かしもしない。退く人の座り方で、ただ湯だけが減っていった。夜はゆっくり更けて、行は数えるほどしか進まなかった。
「……ディアミドさま。この字、なんですか」
コルムが、一箇所を指していた。
「名の字と継ぐの字が、並んでて。……ぼく、名と数なら読めるんです。だから、人の名前かと思って」
ディアミドは羊皮紙を受け取り、腕をいっぱいに伸ばした。
「…………名継ぎ、と読む」
炉の火が、爆ぜた。
長老は、その行の前後を、声に出してゆっくり読んだ。
「『――名の絶えし家あり。旧き宿意を遺すゆえ、寄り合い、これを裁き、名継ぎを立つ。縁ある者、名を継ぎ、旧き約定、これに帰す』」
誰も、すぐには口をきかなかった。
「大移しの、すぐのちの年じゃ」ディアミドが低く言った。「……三百年前に、同じ難儀に行き当たった者が、もうおる。行き当たって、同じ答えを出しとる」
「――あるじゃん! コルム!」
ニーヴは弟弟子の肩を両手で掴んで、がくがくと揺すった。コルムは揺すられながら耳まで赤くなって、それでも帳面だけはしっかり抱えていた。
「先例は、わしが座で立てる」ディアミドは羊皮紙を膝の上で整えた。「書き付けの検めは、わしの書役にやらせる。……文字の、出番じゃ」
*
夜明け前、炉の間には、ニーヴとエイフェだけが残った。
炭書きの壁の下でコルムは帳面を枕に寝入り、ディアミドは書役を従えて宿へ上がっていった。炉の火が、二人ぶんに小さくなった。
頼みごとの中身は、もう互いに分かっていた。分かっていて、ニーヴは損得から言った。言ってから頼むのが、あたしの流儀である。
「引き受けたら、あなたは名を一つ置いていくことになる。春に谷へ帰ったら、東の娘が西の名を取ったと石が飛ぶかもしれない。……谷に問おうにも、峠は閉じてる。誰にも相談できないまま、あなた一人で頷くことになるんだよ」
エイフェは、茶碗を両手で包んだまま、長いこと黙っていた。
「……なぜ、わたしなのだ」
「結ばれるはずだった縁が、一つ」ニーヴは指を立てた。「東と西が五十年ではじめて一つの名に頷いた、その名代があなただったのが、二つ。……三つ目は、損得じゃない。あなたが、あの谷の傷の根を、誰よりも長く探してきた人だから」
エイフェは茶碗を置いて、立ち上がった。戸口の隙間から、雪あかりの坂が見えた。北の峠のほうを、この人は見ていた。
「モルナの血は、わたしには一滴も流れておらぬ」
「知ってる」
「縁が結ばれる前に、あの家は絶えた。わたしが継げるのは、血ではない。……結ばれるはずだった縁と、谷がわたしに預けた役だけだ」
「それで立つんだよ。先例も、そう言ってた。縁ある者、って」
「肩に、家がふたつ載るな」エイフェはほんの少しだけ笑ったようだった。それから笑いを畳んで言った。「谷に問う峠は、閉じておる。……問えぬ日のためにこそ、名代というものはあるのだろう。谷は、わたしを一つの名で送り出した」
振り向いた顔は、もう据わっていた。
「谷の病の根がその名なら、わたしが薬になろう」
言い切って、それから当主代行は、ふっと年相応の顔に戻った。
「……声継ぎ殿。名を取り替えても、わたしはわたしか」
「あんたはあんただよ。名前がひとつ増えるだけ。……茶の約定も、そのままだしね」
「……道理である」
その日の朝の広間は、長くかからなかった。ディアミドが羊皮紙を掲げて先例を申し立て、書役が検めを裏書きし、いちばん年かさの長が乾いた声で言った。
「名は、名乗りで立つ。名乗りは、証しの前で立つ。……ならば、座は、また下りるのであろうな」
誰も、否とは言わなかった。二度下りた座は、もう道に迷わないのだった。
*
夕暮れ、氏族長たちはふたたび坂を下りた。供の衆は外に、長たちは廊下に、燭台はファーガルの手に。二度目の列は、一度目より静かで、一度目より速かった。
坂の町は、今度も黙って行列を見送った。ただ、今度は窓辺の灯がひとつずつ増えた。祝いとも弔いともつかないものが二度も坂を下りれば、町は眠るのをやめて、耳になる。
廊下の突き当たり。北の壁。
いちばん年かさの長が、敷居の外に立った。
「高地グレン・ファーラの名代。寄り合いは、先例に照らして、名継ぎを許す。……名乗るがよい」
エイフェが、進み出た。
「わたしはエイフェ。ニ・ファーラの娘にして、いまよりニ・モルナの名を継ぐ者」
名乗りの声は、張っていた。谷で若い衆の石を止めたときと同じ、斜面をまっすぐ伝う声だった。
「聞いた」年かさの長は、それだけ言った。「この座が、証しじゃ」
判も、紙も、要らなかった。名乗りと、証しに立つ耳。名というものは、あたしたちの稼業とそっくり同じ作法で立つのだった。
「……声継ぎ殿」エイフェが、棚の暗がりを見たまま低く言った。「谷の誓いは、祠にあると、わたしは教わって育った。……なぜ、ここに」
「谷が谷のために立てた誓いは、祠に」ニーヴは言った。「国が国のために数えた約定は、大移しの年に、ここへ。……役宛ての声が言った、永代の血讐の手打ち。あれが、あなたの谷の、根の誓いだと思う。谷の祠の誓いはみんな、その上に立ってきた。――ここから先は、器に訊きます」
ニーヴは敷居の前に膝を揃えた。オシーンは今夜も敷居を跨がず、外に膝を揃えている。退く人の、見届ける座である。
息を、ひとつ。ふたつ。
「口上を申し上げます。この声の語り手の名を、わたくしは知りません。名の代わりに、こう申します。――語り手は、三百年前、この谷に手打ちを誓った長。宛て名は、モルナ。ならびに、その名を継ぐ者のすべて。……宛て名の座を、モルナの名を継ぐ者、エイフェが継ぎます。証しに立つは、わたくしと、この座のみなさまと――この棚」
ざわめきが、引いた。
手前から、奥へ。ひとりずつ口をつぐんでいく、あの引き方で。そして最奥の段の暗がりの、ひとところで――何かが、座り直した。
「……この子か」
ファーガルが奥へ立ち、両手で器を一つ下ろした。下ろした掌が、途中で一度止まった。
「……軽う、なりかけとる」五十年量ってきた手が、確かめるようにゆっくり上下した。「……じゃが、まだ、おる」
布の上に、器が据えられた。すぐ隣の段には、夏から量られつづけて冬に軽くなり切った、あの器の場所がある。ファーガルはそちらへも一度だけ目をやった。
「……間に合う子と、間に合わなんだ子が、おるの」
名継ぎは、万能の薬ではない。尽きかけた誓いまでしか、救えない。尽きてしまった声は、名を継いでももう戻らない。――それを忘れないために、ニーヴはその空の場所へ、一度だけ頭を下げた。
それから、刻み紐に指をかけた。口上は、もう申し上げてある。棚じゅうが、証しに聞いた。
三百年前の結いは、素直にほどけた。
そして、声がした。
――ファーラの長が、これを言う。聞くは、モルナの長。ならびに、その名を継ぐ者の、すべて。……語り部が、証しに立つ。
西の、長。
廊下のどこかで、息の詰まる音がした。いまは分家筋と呼ばれるあの家は、三百年前――西岸の、長の家だったのだ。
――谷を分かつ川を、境と定める。境の石は、動かさぬ。西の血を、東は、二度と流さぬ。……この手打ち、モルナの名の続くかぎり、破れぬ。
低い、岩を積むような声だった。カハルとも、ロアグとも違う。それでいて、あの谷の冬の川音と同じ底を持つ声だった。
――のう、モルナの。ここまで、三代かかった。……もう、誰の子も、川へは沈めん。これから先の谷の誓いは、みな、この誓いの上に立てい。
――名を継ぐ者よ。おぬしの顔は、知らん。知らんでも、宛てる。……声の、ええところじゃ。――守れよ。
エイフェは、目を開けたまま聞いていた。瞬きを惜しむ聞き方だった。守れよ、のところで、革の胴着の肩がひとつ、小さく上下した。
声は、言い終えて――境に据えた石から、確かめ終えた手がゆっくり離れるように、消えた。
あとには、廊下のどこかで誰かが長く吐いた、息の音だけが残った。
「……承った」
エイフェの声が、暗がりに短く落ちた。返事の届く先は、もうない。ないと知っていて、この人は返事をした。それが、聞くということなのだった。
誰も、動かなかった。
二十年前、その名が絶えた。東を縛る根の誓いは宛てを欠いて、掌にも分からぬ遅さで、ゆっくりと効き目を抜いていった。谷の者は訳も知らぬまま手が荒れ、この秋とうとう箍が外れた。荒れはじめたのが二十年前で、噴いたのがこの秋。二つの日付のあいだにあったのは憎しみではなく、薄れていく一つの声だった。
誰も動かない。動けないのではなく、動かない。この座にいる全員が、次に来るものを知っていた。
エイフェが、立った。
両手に、組合の窯の、真新しい素焼きの器。肌の白い、焼きたての器である。三百年の器の隣に置くと、生まれたばかりの子どもの顔をしていた。
ニーヴは膝を揃え、宛ての口上を唱えた。
「わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ。語り手はエイフェ・ニ・モルナ、ニ・ファーラの娘。宛て名はカハル、東の長、ならびにその名を継ぐ者のすべて、グレン・ファーラ在。――この座の、証しに立ちます」
エイフェは器を捧げ持ち、目を閉じて、開けた。
――モルナの名を継ぐ者が、これを言う。聞くは、カハル、東の長。ならびに、その名を継ぐ者の、すべて。……組合の声継ぎと、この座が、証しに立つ。
――谷を分かつ川を、境と定める。境の石は、動かさぬ。東の血を、西は、二度と流さぬ。……この手打ち、ファーラの名の続くかぎり、破れぬ。
文言は、一句も違えなかった。ただ、名の座る場所だけが、そっくり入れ替わっていた。三百年前の誓いと、いまの誓い。二つは、川を挟んだ両岸のように、向かい合って同じ形をしていた。
――……二十年、遅れた。ここからは、一日も、遅れぬ。
それだけが、彼女自身の言葉だった。語り終えるまで、誰の咳の音もしなかった。廊下の長たちは、あの谷を知る者も知らぬ者も、同じ深さで頭を垂れていた。
声は消える。消えることは、この仕事の始めから知っていた。それでも、と思う。消えた声とそっくり同じ高さに、いま、新しい声が立ち上がっていく。
語り終えたエイフェの手から、ニーヴは器を受け、蜜蝋で口を塞ぎ、組合の刻み紐を定めの結いに結んだ。
耳を、澄ます。
――座った。
継がれた。
声は消えても、継がれる。
頬を、ひとすじ、勝手に落ちていくものがあった。声継ぎは座では泣かない。師匠、ごめんなさい。今日だけは、駄目でした。
「――成りました。確かに、お預かりします」
口上の声だけは、崩れなかった。崩れないために、稽古というものはあるのだった。
「……検めた」廊下で、ディアミドが言った。「二度、この耳で検めた。文言は、わしが書役に留めさせる。効き目は、そなたらが預かれ。……手分けじゃ」
「長老さま。あなたの川は――」
「わしの川の声が、どこの器でまだ息をしとるのか。それとも、もう軽うなり切っとるのか。……誰にも分からん。分からんうちは、人が裁く。それが、わしの役よ」老いた目が、それでも少しだけやわらいだ。「……そなたらは、そなたらの探し物をせえ」
「探します。札のある子から、順に」
新しい器は、春まで組合が預かることに決まった。ファーガルはそれを、最奥の段の、空いたところへ納めた。
「……ひと冬、三百年の子らの隣じゃ。行儀は、教えてもらえ」
「春、峠が開いたら」エイフェが言った。「わたしが谷へ帰る。この器は、祠へ納める。……声継ぎ殿。届けてくれるか」
「承ります」
「東の誓いは、東の長が立てる。カハルは言うておった。――いつか、この谷に、新しい誓いの立つ日まで、と」エイフェは棚の暗がりへ、深く辞儀をした。「立つ日が、来たと伝える」
散会の廊下で、コルムが帳面の隅に小さく付けていた。名継ぎの座、一件。誓いの声、一件――書きながら口の中で唱えるのが、この男の癖である。
「勘定の欄は、空けておきますね。……付けようのない届けが、あるので」
こちらを見ずに、段取りの男は言った。一年前には、なかった欄の空け方だった。
*
年が、明けた。
寄り合いは果て、長たちは順に谷へ下り、坂の町は身の丈に戻った。帳場の板壁の炭書きをコルムが削り、削った壁にまた新しい列が伸びる。どんな年の明けにも、声継ぎの朝は来るのである。
寄り合いのあいだ、ニーヴは棚の札の宛て名を、谷々の供の衆に問うて回っていた。五十年、名は札の上にいた。誰も、国じゅうの谷が一つの坂に集まるこの月に、名を問うて回らなかっただけだった。
年明けの荷とともに、ある谷から言伝てが上がってきた。ヌーラという名に聞き覚えがあったのは、谷の年寄りの供頭だった。五十年前に流れてきて所帯を持った女の、里の母の名だという。その女は十年前に亡くなり、娘が家を継いでいる――言伝てはそれだけで、それだけで足りた。
そして雪の朝、モイラの荷車が坂の下に一人の客を降ろした。
四十がらみの、手の大きな女だった。名をグラーニャといった。遠出の埃を払う間も惜しむふうで、女は炉の間の敷物の前に膝を揃えた。
ファーガルが、五十年磨いてきた器を自分の両手で棚から運んできた。ニーヴは敷物の脇に膝を折って、老人を見上げた。
「爺さまの、届けでしょ」
「……わしで、ええのかの」
「爺さまじゃなきゃ、駄目だよ」
棚番は、長いこと器を見ていた。それから敷物の前に膝を揃えた。五十年ぶりの届けの座である。口上は、一度もつかえなかった。毎晩、胸の内で稽古してきた人なのだった。
「語り手はヌーラ、サイヴの母。宛て名はサイヴ、ヌーラの娘。――宛て名の座を、娘グラーニャが継ぎます。証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」
刻み紐が、ほどけた。
――サイヴ。……戸は、開けとくで。いつでも、おかえり。
それきり、声はひと呼吸だけ黙って、笑いの気配を残して言い足した。
――達者で、おいで。
声は――五十年、風にも閉てられなかった戸が、帰った者の手でそっと閉てられるように、消えた。
あとには、炉の間の外を、雪を踏んでいく誰かの足音だけが残った。
グラーニャは、両手で顔を覆っていた。覆ったまま、くぐもった声で言った。
「……うちの戸も、閉てたことが、ありません。母の言いつけで。……訳は、教わりませんでした」
訳は失われても、決まりは残る。残った決まりが、五十年ぶんの道の先で、いま届いた。
「五十年」ファーガルが、訥々と言った。「……わしが、待たせてしもうた。すまなんだ。今日まで、かかった」
「預かっとってくだすったんでしょう」グラーニャは首を振った。「五十年。……戸を、閉てんでおってくれたのと、おんなじです」
老人は、何も言わなかった。言わずに、空になった器を布で受け、いつもの手つきで拭いた。拭く手だけが、今日は震えていた。
「しっかし、まあ」帰り支度のモイラが、しんみりを振り払うように言った。「あんなに短くて、五十年がかりの届けかい」
「短い声ほど、高くつくんだよ」
今度の高さは、銅貨では付かない。五十年と、五十年ぶんの毎朝のひと言が、運び賃だった。
明くる朝、磨きの手伝いに入ったニーヴの前で、ファーガルはいつものように錠を開け、どの棚より先にあの段の前へ行って――立ち止まり、それから何も言わずに、隣の段から磨きはじめた。五十年続いた朝のひと言は、もう要らないのだった。
その晩、染物屋の店先で母が反物を一枚広げて見せた。新しい青が、上がったのだという。春先の、雪のやんだ朝の空の色をしていた。
「あんたの肩掛け、この青で染め直しといた。二年目が、来るんじゃろ」
「……ありがと、母さん」
「手が青う染まらん仕事で、よかったねえ」
それだけ言って、女主人は帳場へ引っ込んだ。シボーンが灰かきの手を止めて、にやりと笑った。
「言うとくけど、その青、あんたの相棒の分もあるんよ。鞍敷きにするんと」
驢馬のぶんまで染める店は、丘じゅう探してもうちだけだろう。
組合へ戻ると、炉端に茶が二つ湧いていた。ニーヴの茶碗が、先に膝の前へ来た。
「師匠。そういえば、先代……四つあったかも、五つあったかもって言ってたでしょう。三つで、全部でしたね。あの人、一句も落とさずに受けてたんですよ」
オシーンは、茶を一口飲んだ。
「……そうか」
二口目までの間が、いつもより長かった。言葉を銅貨のように惜しむ人の、それが精一杯の供養らしかった。
寝る前に、厩へ寄った。
「アネモネ。歌うよ」
歌った。文句の半分は、あいかわらず自分で作った。
アネモネが、耳を伏せた。
「……あんた、ほんっとうに変わらないね」
変わらないものが一つ厩にいるというのは、存外、悪くないものである。
*
雪が、ゆるみはじめた。
北から下りてきた行商の荷が、峠の根雪のゆるみを告げていった。エイフェは支度を整え、ニーヴは負い籠の革紐を新しい青の肩掛けの上から掛けた。
発つ朝、無窓の間に寄った。ファーガルが錠を開け、最奥の段からひと冬を越した器を両手で下ろして、ニーヴの負い籠へ納めてくれた。手前の段では、コルムが新しい帳面に札の宛て名をひとつずつ写している。棚には、まだ届いていない声が残っている。ざわめきは、いつものように鳴っていた。もう、耳鳴りとは呼ばない。
「行ってくるよ。……春だから」
棚は、答えなかった。答えないのが、いつもの返事だった。
「姉さん」帳面を胸に抱えて、コルムが言った。「札の写し、できてます。帰ってきたら、その、ぼくも」
「うん。一緒に探そう」
弟弟子は、耳まで赤くなって頷いた。
炉の間で、オシーンが茶碗を置いた。
「二年目だ。行け」
「はいっ」
坂の下で、エイフェとアネモネが待っていた。当主代行は毛織りを二重に巻き、荷驢馬は新しい青の鞍敷きの上で白い息を長く吐いた。負い籠の中では、ひと冬を越した器が静かに座っている。
「谷では、わたしが茶を出す。……約定である」
「今度こそ、約定どおりだね」
坂を下りきって町を出ると、道は雪解けのぬかるみを光らせながら丘のあいだを北へ縫っていた。石壁の際に、小さな白い花がもう一つ二つ咲きはじめている。羊を追う農婦が負い籠を見て足を止め、決まりの文句を投げて寄越した。
「声継ぎさん。祝いかい、弔いかい」
「――誓い!」
農婦は目を丸くして、それから歯を見せて笑い、道を空けてくれた。
継げばいい、と言ったのはあたしだ。言ってから知った。声を継いで運ぶ者だから、声継ぎ。世間の通り名はそう言う。でも、たぶん、はじめからもう一つの読みがあったのだ。継がれるべき声を、継ぐべき耳へ渡す者。名を継ぐ人がいて、声を継ぐ者がいて――それは同じ一つの理の、両の岸なのだった。
「届けて、そのあとは、どうする」
エイフェが、歩きながら訊いた。ニーヴは答える前に、一度だけ坂の町を振り返った。段々の屋根の中程に、北の壁の、窓のない部屋がある。あの暗がりで、まだ大勢が待っている。
春の風が、丘を渡って、谷ごとに違う歌を歌った。
「届け先は、これから探すよ。――全部だ」
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
五十年閉てなかった戸も、三百年待った棚も、みんな開きました。あとは茶の約定がひとつ——谷で果たされるのを待つばかりです。
この世界の声は、あとすこしだけ続きます。どこかの棚で、次の器が出番を待っています。その封が解かれるとき、またお目にかかれますよう。




