第9話 障害物の裏へ
「これ、借りてもいいですか?」
研究棟へ案内された俺が最初に指差したのは、立派な魔道具でも高価そうな測定器でもなかった。
部屋の隅に置かれた、幅一メートルほどの鉄板だった。
「……それかい?」
白い研究外套を着た男性が、少し意外そうな顔をする。合同実習のあと、俺たちを研究棟へ誘ってくれた先生だ。
「いいけど、何に使うんだい?」
「盾の代わりに」
「盾?」
「昨日、盾に負けたので」
「引き分けだったでしょう」
隣のセリアが訂正する。
「でも一発も通らなかった」
「それはそうだけど」
先生は俺たちを交互に見て、楽しそうに笑った。
「なるほど。もう次の実験を始めるつもりなんだね。私はオルド。魔法基礎研究科の講師をしている。設備の使用は僕が責任を持とう。ただし、壊す前に許可を取ること」
「分かりました」
「本当に?」
セリアが疑わしそうに見てきた。
「……努力する」
「そこは約束して」
早速、鉄板を実験区画へ運んだ。
厚みのある板を床の固定具へ差し込み、その後ろに薄い紙を吊るす。鉄板は俺の胸より少し高く、正面からは紙が完全に隠れていた。
「さて」
俺は十歩ほど離れた場所に立つ。
昨日の噴水を思い出す。水面に広がった波は、石柱に遮られても、その後ろへ回り込んでいた。
なら、《波魔法》でも同じことができるかもしれない。
「まず、普通に撃ってみる」
「魔力量は揃えて」
「了解」
俺は手のひらを鉄板へ向けた。いつもの集束。波を細く、まっすぐに放つ。
ガンッ!
鉄板が震えた。後ろの紙は動かない。
「まあ、そうなるよな」
「今のは壁に撃った時と同じでしょう」
「うん。でも比較するものは必要だろ?」
「……そうね」
セリアが記録を取る。
次は波を広げる。最初に《波魔法》を使った時のように、手のひらから周囲へ散らす。
「いけ」
ぶわっと空気が震えた。鉄板の左右へ波が広がる。
そして――
「……あ」
後ろの紙が、わずかに揺れた。
「動いたわね」
「動いた!」
思わず鉄板の裏へ回る。紙は破れていない。風に揺れた程度の変化しかないが、確かに動いていた。
「これ、どこから届いたんだ?」
「板の横を通っただけじゃない?」
「その可能性もある」
実験区画の空気が動いただけかもしれない。それなら、板の陰に波が回り込んだ証拠にはならない。
「もっと近くで確かめよう」
俺は紙の位置を変えた。鉄板のすぐ後ろと、板の左右にも紙を吊るす。使う魔力と立ち位置は変えず、波の広がり方だけを変える。
細い波では、左右の紙も後ろの紙もほとんど動かない。広げた波では、左右が大きく揺れ、後ろの紙もわずかに動いた。
「回り込んでる……のかな」
「まだ分からないわ。横を通った波が、後ろで広がっただけかもしれない」
「そうだな。どのくらい回るのかも知りたい」
紙は揺れた。しかし位置を少し奥へ離すと反応が弱くなる。狙った場所へ届くほどの精度もない。
そこで前世の授業を思い出した。
水を入れた細長い水槽。板に開いた隙間。そこを通り抜けた波が、向こう側へ丸く広がる実験。
「……そうだ。隙間だ」
「隙間?」
「幅を変えたら、回り込み方も変わるんじゃないか?」
オルド先生に相談すると、鉄板を二枚用意してくれた。少し離して並べれば、間に細い隙間ができる。
「こういうものかな?」
「それです!」
まずは細く集めた波を撃つ。隙間を真っすぐ通過し、奥の紙を大きく揺らした。ただし、隙間の真正面だけだ。横へずらした紙にはほとんど届いていない。
「じゃあ、次は……」
今度は波の山と山の間隔を意識する。
《波魔法》を使う時、俺はこれまで主に広がる方向や細さを変えていた。けれど波には、細かく震えるものもあれば、ゆっくり大きくうねるものもある。
確か、障害物や隙間の大きさと、波の間隔が関係していたはずだ。
「……こうか?」
いつもより間隔の長いうねりを作って放つ。
パサッ。
「あっ」
真正面だけじゃない。左右へ離して吊るした紙も動いた。
「今の、さっきより横へ広がったわ」
「やっぱり!」
今度は波の間隔だけを短くする。同じくらいの魔力を使うと、横の紙はさっきほど動かなかった。何度か繰り返しても似た傾向が出る。
「……これか」
前世で習った名前が、ようやく頭に浮かんだ。
「回折」
「かいせつ?」
「波が障害物の端や隙間の向こうへ広がる現象……だったと思う」
「名前は自信ないのね」
「でも、現象は今見た」
セリアは水を張った浅い容器を持ってきた。
「なら、水でも確かめましょう」
小さな仕切りを水面に立て、隙間の幅を変えながら波紋を作る。波の間隔に比べて隙間が広い時は比較的まっすぐ進み、狭くすると向こう側へ大きく広がった。
水の波と魔力の波が完全に同じとは限らない。それでも、似た結果が出るのは面白い。
「……なるほどな」
回り込ませる方法は見つかった。
でも。
「弱い」
「ええ。後ろの紙を破るには全然足りないわね」
狭く集めれば威力は高い。しかし障害物の陰へ回り込みにくい。回り込ませやすいうねりにすると、向こう側へ届く代わりに広く散る。
両方を同時に満たすのは難しい。
「だったら、もっと魔力を使えば――」
「使用量を増やす前に、別の方法を考えて」
セリアに止められた。
「無理に押し込んで突破するだけなら、昨日と同じでしょう」
「……それもそうか」
鉄板の裏へ目を向ける。波は届いている。弱いけれど、確かに届いている。
なら問題は、届いたあとの使い方だ。
「……待てよ」
「何?」
「左右から回り込ませたら、裏側で重なるよな?」
「二つの波を?」
「うん。前に試した《干渉》と同じ」
一発では弱い。でも二つの波が同じ場所へ、同じタイミングで届けば。
「強め合う可能性がある」
セリアが続きを口にした。
「そう!」
鉄板の左右から、それぞれ広がりやすい波を放つ。板の裏側の一点で重なるよう、撃つ時刻を調整する。
一回目は紙が少し揺れただけ。二回目はタイミングがずれてほとんど動かず、三回目は右側へ外れた。
「難しい……!」
「経路も距離も違うもの。簡単には揃わないわ」
俺は位置を変えず、二発目のタイミングだけ調整した。
五回目、六回目。そして七回目。
パリッ。
「……え?」
鉄板の裏へ回る。吊るした薄紙に、小さな裂け目が入っていた。
「破れた……?」
「本当に小さいけれど、さっきまでは破れていなかったわ」
「もう一回」
「待って。その紙では比較できないでしょう」
セリアが新しい薄紙を取り出し、同じ高さに吊るし直す。裂けた紙には日時と条件を書き添え、記録用の箱へしまった。
「……準備いいな」
「あなたがすぐ次を撃つと思ったから」
俺は苦笑しながら元の位置へ戻る。
使う魔力も、波の間隔も同じ。左右へ放ち、障害物の端を回り込ませ、裏側で重ねる。
パリッ!
新品の紙にも、小さな裂け目が生まれた。
「……再現できた」
思わず笑ってしまった。
まだ弱い。狙える場所も狭い。静止した紙だから成功しただけで、動く相手に使うのはもっと難しい。
でも昨日は盾の向こうへ一発も通せなかった。今日はそこにある紙を破った。
「回り込ませてから、集めればいいんだ」
「正確には、回り込んだ波を裏側で重ねているのね」
「……それだ」
何でも好きな場所で集束し直せるわけじゃない。出す位置や時間を最初から揃えなければ、裏側では重ならない。
「セリア、これ、動く盾でも試したい」
「まずは動く模型から」
「……はい」
すぐ止められた。
魔力ももうほとんど残っていない。今日はここまでにして、明日から動く模型で試そう。
俺は新しい紙にできた小さな裂け目を見つめた。
これまで正面からしか攻撃できないと思っていた場所に、穴が開いたような気分だった。




