ペット
少し長い独り言。
私、提灯鮟鱇は数年前にペットを飼っていました。
猫です。ブリティッシュショートヘアのブルーの子猫ちゃん。
垂れ気味の眉毛があって、上目遣いが可愛過ぎる男の子です。
子猫なので、ショートヘアでも毛が長くてもこもこしてて、もの凄く可愛らしいヤツでした。
その時は結構大きい部屋に住んでて、友達三人と同居していました。
家に誰もいないという状況が滅多に無いので、子猫としても安心です。
私が家に帰ると玄関までやってきます。
スリッパに履き替えると、そのスリッパの上に乗っかって動こうとしません。
子猫で純血なので体はかなり弱いだろうと、玄関の先の下駄箱がある所はしっかりドアを閉じて、ばい菌からしっかりシャットアウトしていました。
撫でる時も、まずはしっかり手を洗って消毒してから撫でてました。
ズボンも直ぐに履き替えます。
万が一があったら大変ですからね。
私は趣味でギターを弾くのですが、弾いていると側に来ます。
身体能力が他の子と比べて低かったので、私の足をよじ上るようにして懐に潜り込んできます。
そして、ギターと私の間に体をいれて、だらーっとするのが好きだったみたいです。
私を見ながら「んにゃ」って鳴きます。
その姿を見て、本当に癒されました。
ただ、そんな可愛い子が病気にかかってしまいます。
あの猫のエイズと言われる、恐ろしい病気です。
医者には「もう一週間も生きられない」と言われました。
それでも彼の回復を信じて、その病気から奇跡的に回復したという情報を片っ端から集めました。
外国のサイトの情報も集めました。
それを医者に見せながら、こういう治療は出来ないか、とか。
こういった餌を与えたら改善するんじゃないか、とか。
たくさん質問しました。
医者は試してもいいがそんなので良くならないと言っていました。
結果、どれもダメなようでした。
次の日には、もう自力では立ち上がれないほど衰弱してしまいます。
泣きそうでした。
そしたら獣医が私にこんな一言を告げました。
「彼は今、苦痛の頂点にいる。このまま苦しませるのではなく、安楽死させたほうがいい」
世界がふと暗くなったような気持ちでした。
もちろん、直ぐには答えは出せません。
自分の判断で生命を終わらせて良いとも思えません。
しかし、目の前には今にも死んでしまいそうな私の猫がいます。
とても苦しそうに呼吸をしています。
「○○」
私は彼の名前を呼びました。
すると、
なんと立ち上がったのです。
今にも死にそうで、ここ数日間立ち上がる事はもちろん、トイレに行く事も出来なかった彼が。
そして、あろう事かこちらに歩み寄って来たのです。
弱々しく一歩一歩、よろけながら。
私は、「もういいよ。よく頑張ったな。偉いぞ」と言って、彼を胸に抱きましたが、その時には彼はもう息もしていないようでした。
我慢していたものが溢れてきました。
「呼吸も出来ていません。安楽死させましょう」
獣医が再度そう告げる時、私は「お願いします」と言うほかありませんでした。
ロビーでどのくらい待っていたでしょう。
外は大雨が降ってジメジメした嫌な天気でした。
とても悲しい記憶です。
さて、どうしてこんな話をしたかと言うと。
実は先日、野菜を飼った時にもの凄く小さなカタツムリがいたのです。
あまりのミニチュアさに驚きつつも、とりあえずインターネットでカタツムリの飼い方を検索。
そう。
育てようと思ったのです。
瓶の中に餌となるキャベツを入れて、上にはガーゼで蓋をしました。
霧吹きで定期的に湿らせてやり、暗くて適温な場所に置いてあげました。
何日も経っていません。
さっき死んでしまったみたいです。
別に悲しくも何ともありませんでした。
「ああ、死んじゃった」とくらいにしか思いませんでした。
育てた期間も違いますが、やっぱり虫とほ乳類じゃ自分が感じる『死』のリアリティーが違うのでしょうか。
私は、愛情表現の近さというものだと思いました。
猫はぺたぺたくっ付いてきて、何とも愛らしいですよね。
甘えているの、ただじゃれているのかはわかりませんが人間は『自分に甘えている』と思うでしょう。
そうすればこちらも自然と愛情が湧いてくるものですよね。
カタツムリの場合、(彼らに感情があるのかはわかりませんが)どれだけ彼ら流の愛情表現をしたとしても、人間が見たら「お、角だしたな」くらいでしょう。
つまり、手段としての愛情表現は、こちらの主観で受け取り方が大きくかわってしまうんですよね。
猫は人に媚を売らなくても、好かれる。
カタツムリは媚を売ろうと、なんか気持ち悪い。
とりあえずここまでは、愛情表現の違いについて書きましたが、がらっと話を変えましょう。
先日、和歌山県で行われているイルカ漁の影響で、日本の世界水族館なんちゃら協会の登録が取消にされました。
シ○シェパードとかいう団体の創始者が、「賞賛に値する」とか仰っていたそうな。
ここで提灯の偏見意見を申し上げますと、『ベジタリアン以外そういう意見を言う資格はない』という事です。
実は私、提灯鮟鱇、牛肉を食べません。
何故かと言いますと、牛が好きなんです。
もの凄く可愛らしくて、「もー」って鳴き声も可愛くって、小型の牛がいたら飼いたいくらいです。
でも、一緒に飯を食いにいく友人が牛肉を注文しても何も言いません。
押しつけはよろしくないですよね。
しかも、もしそいつが注文した牛肉を食べきれなかった時は、自分で食います。
牛を愛する私が、牛を食べます。
何故かと言いますと、このまま残せば残飯として捨てられる。
そしたらこの牛の死は(勿論、一頭まるまるってわけではないですが)無駄になってしまいますよね。
ならば、私は食べます。
友人は「なんで食べないの? 牛肉おいしいじゃん」と言ってきます。
わかります。美味いですぶっちゃけ。
でも、好きなんです。彼らが。
自分一人では出来る事が少ないですが、それでも自分の出来る範囲では極力、牛のお世話にならないようにと思って、食事と牛革製品は気をつけています。
仮に。
牛が家畜ではなく、ペットとして飼われていたら。
ウチの猫ちゃんのように、ギターを弾いてるとやって来て「もー」と言いながら、鼻頭を押し付けてくるくらい懐いていたら。
世論は、牛を殺す事に異議を唱える人たちでいっぱいになるでしょう。
勿論、文化や風習の中で、そういった価値観と、動物の人間社会での立ち位置、役割分担は確立してきました。
そういったものは、外部から云々言うのは難しいのです。
もちろん、外部は口出し無用、と言いたいわけではありません。
しかし、もう少し土着の風習や伝統を尊敬する姿勢を出してもいいと思うんですよね。
もちろんイルカ漁も文化と伝統の中で生まれたものですよね。
自分からすると、イルカ漁もすき焼きも、三味線も、同じラインなのです。
ただ、人間が主観的に見て、愛情を感じるか感じないか。
それから、人間社会においての役割分担がしっかり確立されているか。
こういうことだと思うのです。
こんな事言うと荒れそうですが、
人間が生き物と向き合う姿勢は、快楽重視の殺戮主義者でも無い限り、人としてのモラルの範囲内である限り、別に口出ししなくてもいいのかなあなんて思ったりします。
ちなみに提灯鮟鱇、イルカ漁は「うわっ」と思います。
あ、死んだと思っていたカタツムリが動き出しました。