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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編

僕とイヴの六日間

作者: 守野伊音

 雨が降る。たくさん、たくさん、雨が降る。





「坊ちゃま。レオ坊ちゃま、朝でございますよ」

 優しい声と柔らかな揺れで、レオポルドは目を覚ました。

「まだ眠たいよ、イヴ……」

 夜更かしなんてしていないのに、どうしても眠くて眠くて堪らなかったレオポルドは、優しい手に甘えてシーツに潜っていく。

「まあ……」

 イヴは、レオポルド付のメイドだ。両親が多忙であまり構ってくれなかった代わりに、イヴがレオポルドを可愛がってくれた。だから、レオポルドも姉のようにイヴを慕っている。

 両親を恋しがって泣くレオポルドをいつもあやし、我儘を嗜めつつも宥め、寝物語を聞かせてくれたのはいつだってイヴだった。

『ねえ、ねえ、どうしてお父様とお母様はレオといてはくださらないの?』

 寂しくて寂しくて、ぐずって癇癪を起して泣くレオポルドを、イヴはいつも抱きしめ、頭を撫でてくれる。旦那様も奥様もお忙しいのですよと言いながら、それでもレオポルドをいつでも大切に思っていると言って、レオポルドが生まれてきたときの話や、覚えてもいない赤ん坊の頃の話をしてくれた。自分の誕生を両親や皆がどれほど喜んだのか、初めて歩いた日、初めて喋った日、その時の両親の喜びようを彼女自身もとても嬉しそうに話してくれて、それが聞きたいが為にレオポルドは何度も同じ話をねだった。

 雷が怖くてべそをかいた日などは、一晩中でも子守唄を唄ってくれた。

『大丈夫ですよ、坊ちゃま。イヴがおりますからね』

『怖いよぉ、怖いよ、イヴ』

『大丈夫です。イヴはいつでも坊ちゃまのお傍におりますよ。イヴが坊ちゃまを守って差し上げますから、何も怖いことはありませんよ』

 その言葉の通り、イヴはいつでも一緒にいてくれた。

 最近は、いつまで経っても子ども扱いしてくるイヴに少々辟易して乱暴な態度を取ってしまったりもするけれど、レオポルドはイヴが大好きだった。


 両親にはいい子に思われたくて言えないわがままも、イヴになら言える。やだやだ、まだ眠たいよと頭を振れば、イヴを困った声を上げた。

「どう致しましょう……朝食は坊ちゃまの大好きな生クリームのスコーンですよ?」

「え? 食べる!」

「まあ」

 バターたっぷりの外はかりっと中はふわっとしたスコーンも好きだけど、ほろほろとした柔らかさのある生クリームのスコーンは、レオポルドの大好物だ。慌てて飛び起きると、くすくす笑いながら優しい手が跳ねてしまった髪を梳いてくれた。


 朝から大好物が食べられてご機嫌になったレオポルドは、そこでようやく異変に気が付いた。

「ねえ、イヴ」

「はい、坊ちゃま」

「ここはどこ?」

 本やシーツに見覚えはあるし、家具だって幼い頃から慣れ親しんだ物が多いけれど、ここはレオポルドの屋敷ではないことが分かるくらいは違っている。まず、窓の形が違うのだ。レオポルドの寝室の窓は長方形なのに、ここの窓は丸い。分厚いカーテンがかかっていて外の景色が見えないけれど、まあるく切り取られたようなカーテンが珍しくてまじまじと見てしまう。

「レオ坊ちゃま。お父様とお母様はお仕事がございますので、少し遅れていらっしゃるそうです。ですので、ここでイヴとお迎えを待っていましょうね」

「そうなの? ねえ、ここはどこなの?」

「別荘ですよ、坊ちゃま。覚えていらっしゃいませんか?」

 優しく頭を撫でられてレオポルドは思い出した。幼い頃から少々喘息の気があり、発作が起こった時の為に薬が手放せない。そんなレオポルドの元に、叔母が療養地の話を持ってきた。空気の綺麗な場所で少しの間療養してはという主治医の言もあり、両親は叔母の言葉に乗った。それまでは相続の問題などで揉めていたそうなので、レオポルドとしては、自分も元気になれるし両親が難しい顔をしているのを見なくて済むしで、一石二鳥だと喜んだ。

 そうして、屋敷から離れたこの場所に来たのだ。運悪く、雨が降りやまない中での移動となったし、両親は仕事の都合で後から来ることになってしまったけれど、そんなこと気にならないくらいレオポルドはこの小旅行を楽しみにしていた。



 雨は未だに降りやまず、暇になったレオポルドは屋敷を探検することになった。そして、酷く驚いた。実家も広いと思っていたけれど、この屋敷は更に広い。廊下は先が見えないくらいまっすぐ遠くまで続いているし、部屋もたくさんある。

 面白くなって全部の部屋を覗いていたレオポルドは、途中でふと首を傾げた。

「他のみんなは?」

 実家ではあれだけ使用人がいたのに、誰とも擦れ違わない。仕事をしている姿さえ見かけない。しんっと静まり返った屋敷に気付いた瞬間、すっと温度が下がったような気さえした。

「イヴ?」

 返事がないことを訝しがりながら振り向くと、イヴはいつものように両手を前で揃え、にこりと笑う。

「大丈夫ですよ、坊ちゃま。イヴがおります。さあ、坊ちゃま。今日は何をして遊びますか? お人形遊びが宜しいですか?」

「も、もうお人形遊びなんてしないよ!」

 身体が弱くて家の中で遊ぶことが多かったためか、自分のしていた遊びが世間では女の子が好んでしていたものだと知った時から、レオポルドは恥ずかしくてぬいぐるみもお人形も封印したのだ。そもそも喘息にはぬいぐるみはあまりよくないと主治医から言われていたのに、手放せなかった自分に辟易していた両親達は逆に喜んだのだけれど。

「イヴはそうやっていつも僕を子ども扱いする! 僕はもう六つになったんだよ!」

「イヴにとって、坊ちゃまはいつまでも坊ちゃまでございますよ」

「もう、イヴ!」

 今年十八になったイヴは、くすくすと笑って次の部屋を案内してくれた。






 雨が降る。たくさん、たくさん、雨が降る。

 とても怖い声がする。あんなに大きな声を出したら喉が裂けてしまいそうだと思うほど、大きな声がする。

『イヴ! やめなさい!』

『――――い!』

『イヴ!』

『―――ない!』




『イヴ! レオを離して!』


 雨が、降る。





 二日目。今日も雨が止まない。

 昨日は屋敷中を探検して疲れ切り、早々に眠ってしまったレオは、今日も雨音を聞きながら目を覚ました。しんっと静まり返った薄暗い部屋を寝ぼけた目で見まわして、ごしごし目を擦る。

 いつもはイヴに起こされるまで目が覚めないのに、今日は自分で起きることが出来た。イヴに褒めてもらえるかなと鼻歌交じりにカーテンを開けようとした手を、いつの間にか部屋に入ってきていたイヴが押さえた。

「わあ! びっくりした! いつ部屋に入ってきたの?」

 それには答えず、イヴは言った。

「坊ちゃま、昨日イヴとお約束しましたね?」

「あ……」

 この屋敷で過ごすにあたって、守ってほしいことがあるとイヴは言った。

 一つ。カーテンは決して開けてはならないこと。

 一つ。来客は全てイヴに知らせて、出迎えてはならないこと。

 一つ。外に出てはならないこと。

 一つ。食べ物は、全てイヴが用意したものを食べること。

 そのどれもが些細なことだけれど、こうやってきちんと約束するのは珍しかった。身体のことで、ちゃんと薬を飲むことや、無理に走らないことなど決められていることはあったけれど、イヴは基本的に好きなことをさせてくれた。古参のメイドが「次期ご当主様にはふさわしくありません」と眉を顰めるようなことでも、両親の許可を取ってきてくれて、色んな経験をさせてくれたのだ。だからレオポルドは自分で着替えだって出来るし、お茶だって入れられる。どれも、自分でやってみたいとイヴにねだって教えてもらったのだ。

 そのイヴが、まるで王族みたいに家のことは何一つするなと言うので、不思議に思って首を傾げる。

「ねえ、イヴ。どうしてカーテンを開けてはいけないの?」

「雨ばかりですから。気が滅入ってしまいますもの」

「早く止むといいな。そうしたら、お父様とお母様も早く来てくださるかな」

 雨でみんな遅れているのかもしれない。

 だから、この広い屋敷でレオポルドとイヴだけでみんなを待っているのだ。

 この時のレオポルドは、そう信じていた。




 雨が降る。たくさん、たくさん、雨が降る。

 前が見えない。とっても寒い。いろんな人の怒鳴り声がぐるぐる回る。

『イヴ! レオを離しなさい!』

『渡さない!』

『イヴ!』

『絶対に渡さない!』

『イヴ!』

 確かなのはレオポルドを抱きしめるこの腕だけだ。

 でも、いつもみたいに優しく抱きしめてくれているわけじゃない。まるで物みたいにぶんぶん視線が回る。

『イヴ! レオを返して!』

『私の坊ちゃまは、絶対に渡さない!』


 雨が降る。

 たくさん、たくさん、雨が降る。





 三日目。今日も雨が止まない。カーテンを開けていないのでよく分からないけれど、雨音は今日もざあざあと音を届けてくる。

 黙々と大人しく本を読んでいたレオポルドは、ふとそれに気づいて行儀悪くにじり寄った。

 ここは本がいっぱいある部屋だ。だから、隣の部屋からクッションを持ち込んで床に敷き詰めて、行儀悪く寝ころんで本を読みふけっていたのだが、部屋の隅に黒ずみを見つけて首を傾げる。クッションを敷き詰めている時は気が付かなかった。

「泥?」

 黒ずみだと思ったのは、茶色い泥だった。泥は今さっきまで外にあったかのように濡れて、どろどろしている。

「窓が開いているのかな?」

 だったら閉めないと。カーテンを開けては駄目だと言われているけれど、窓を閉めるくらいのことでわざわざイヴを呼ぶべきじゃない。出来ることは自分でしないと。

 レオポルドはぴょんっと立ち上がり、カーテンに手をかけた。

「レオポルド」

 突然聞こえてきた声にびくりと肩を竦ませる。窓の外から声がしたのだ。

「叔母様?」

 声は叔母の物だった。そういえば、一緒に馬車に乗っていたはずの叔母は、今までどうしていたのだろう。

「ここを開けて、レオ。ねえ、開けてちょうだい? 雨に濡れてしまってとても寒いわ。ねえ、レオ、いるのでしょう?」

「分かりました。すぐに玄関を開けますから!」

 慌てて玄関に行こうとしたレオポルドを、叔母の声が止める。

「レオ。駄目よ。イヴに見つかっては駄目」

「どうしてですか?」

 叔母はイヴのことをよく知っているはずなのに、どうしてかくれんぼしているみたいなことを言うのだろう。

「レオ。早くそこから出ていらっしゃい。駄目よ。そこにいては駄目よ。早く、イヴから逃げるのよ。駄目よ、レオ。レオ」

「叔母様?」

 窓ガラスを叩く音がする。べちゃべちゃと鈍い音がするのは、叔母の手が濡れているからだろうか。カーテンを開けようとしたレオポルドの手は、また、いつの間にか部屋に入ってきていたイヴによって阻まれた。とても冷たい手にぎくりと身を竦ませる。いつもぽかぽかと温かいイヴの手が、どうしてこんなに冷たいのだろう。

「坊ちゃま。なりませんよ、レオ坊ちゃま」

「イ、イヴ。どうしてこんなに手が冷たいの?」

「先ほどまでぞうきんを絞っておりましたので。さあ、ここはイヴに任せて、坊ちゃまはお部屋にお戻りくださいませ。後で本もお持ち致しますので」

 さあ、さあと、優しく、けれど有無を言わさず部屋を押し出される。

「あ、あのね、イヴ! 叔母様が外にいらっしゃるんだよ! 早く中に」

 あれよあれよという間に部屋から出されながら、慌ててイヴの顔を見ようと振り向いた時、ぴかっと窓の外が光った。次いで雷鳴が轟く。どこか近くに落ちたのか、屋敷全部がびりびり震えるくらい大きな雷だった。光った拍子に窓の外に木々の陰が見えたけれど、そこに人影はない。

 そうして初めて思い出す。

 レオポルドがいた部屋は二階だ。叔母が、人が外にいるはずがないのだという事を。




 雨が降る。

 雨が降る。

 雨が降る。

 冷たい雨が降る。イヴに手を引かれるがままに走っていたら、途中で発作が起きる。はっとなって振り向いたイヴは、まるで人形に飲ませるように強引に口元を押さえて薬を放り込み、そのまま叩きつけるような雨で無理やり飲み込ませた。そして、まだ発作が落ち着いていないレオポルドを抱きかかえて走りだす。

 こんなに乱暴なのイヴじゃない。イヴに掴まれた顎が痛い。こんなに怖い顔をしたイヴなんて知らない。わあわあ泣き喚くレオポルドの口を塞いで、イヴはその目も塞いでしまった。





 四日目。今日も雨が止まない。

 目を覚ますと、窓際にイヴが立っていた。昨日はどうしてだか、何かが怖くて怖くて堪らなくて、眠るまでイヴに手を握っていてもらったのだ。昨日甘えてしまったので、イヴは心配してくれて少し早めに様子を見に来てくれたのだろう。

「おはよう、イヴ」

「おはようございます、レオ坊ちゃま。よくお眠りになれましたか?」

「うん」

 用意してもらっていた着替えに着替えている間に、朝食が用意される。生クリームのスコーンに、たっぷりの蜂蜜バター。ホットミルクに果物。レオポルドの大好きなメニューだ。

「あれ?」

 給仕をしてくれているイヴが首を傾げる。

「どうなさいましたか、坊ちゃま」

「泥だ」

「え?」

 何の気なしに部屋の扉を見たら、泥がべったりと張り付いていた。眠る前はこんなもの無かったのにと不思議に思う。

「まあ……申し訳ございません坊ちゃま。すぐに掃除いたします」

 イヴは慌てて一礼して部屋を出ていく。よく見ると扉だけじゃない。部屋の至る所に泥がついている。レオポルドが寝ていたベッドの頭側にも、誰かが投げつけたみたいに泥がへばりついていた。

 

「坊ちゃま」

 今日もぴたりと閉ざされたカーテン越しに、知らない男の声がする。

「坊ちゃま。そこにいちゃあいけませんよ。坊ちゃま。早くこちらにいらっしゃい。そこは危険ですよ。坊ちゃま。早く、その女から離れてください。その女はあなたを独り占めする気だ」

「誰?」

 また知らない声が続く。今度は女のものだ。

「坊ちゃま。どうか、どうか薬を分けてくださいませんか。うちの子が病気なんです。坊ちゃまのお薬をどうぞ分けてください。それがあればうちの子が助かるんです」

「え? 病気なの? 僕の薬は喘息の薬だよ?」

「ええ、ええ、それが必要なんです。どうぞ、薬も買えない親子を哀れと思うのなら、どうか」

「いいよ、ちょっと待ってね」

 喘息は苦しい。レオポルドも発作が起こる度に何度も苦しんできた。薬があったら治まるけれど、なかったらと思うと怖くなる。それくらい苦しいのだ。だから、薬がない人が可哀想だと思った。薬がないつらさはレオポルドだってよく分かるからだ。

 いつも首からぶら下げている袋から薬を取り出して窓に近づく。

「ああ、ああ、ありがとうございます。ありがとうございます。どうぞ薬を恵んでください」

「うん。早くよくなってね」

 レオポルドはカーテンに手をかけた。

 その瞬間、ばあん! と凄まじい音がして思わず頭を抱えて蹲る。また雷が落ちたのかと思ったのだ。けれど、音を出したのは扉を叩き開けるようにして飛び込んできたイヴだった。こんな所作見たことがない。

「イヴ?」

「この薬は、坊ちゃまのものだ!」

 見たことがない、まるで獣のように吠えかかるイヴにレオポルドは腰を抜かして後ずさる。イヴは床を踏み抜かんばかりにべちゃべちゃと泥を撒き散らして、カーテン越しに窓を叩きつけた。

「散れ! 二度とこの屋敷に近づくな! 私の坊ちゃまは渡さない! 坊ちゃまは渡さない! 渡さない! 絶対に渡さない!」

 ばん、ばんと恐ろしい形相で窓を叩きつけるイヴが怖くて怖くて、レオポルドは泣き出した。するとイヴは、はっとなったように床に座り込むレオポルドを見て、慌てて膝をついて目線を合わせる。

「イヴ、こわいよ、イヴ。どうして、こわいよ、イヴ、こわいよぉ」

「レオ坊ちゃま……」

「イヴ、ねえ、どうして、どうしてぇ!」

 訳が分からなくて泣きじゃくる。イヴはいつも、困っている人に鞭打つような人間になるなと言っていた。出先で雨に降られたとき、傘を買えない子どもに自分の傘をあげてしまって、びしょ濡れで帰ってくるようなイヴが、どうして薬を渡してはいけないと言うのか分からない。どうしてイヴが怖いのか分からない。

 どうして、イヴから泥が溢れだしているのかも、分からなかった。




 雨が降る。

 たくさん雨が降る音がする。

 けれど、イヴの手がレオポルドの目と口を覆ってしまって、なんにも見えない。何も分からないまま泣きじゃくるレオポルドを、イヴは放り投げた。そこは狭くて雨風が流れ込んでくるほど古い小屋だ。そして、小屋の端にあった汚い樽の中に強引に押し込まれる。 

 肩を打って痛い。擦り傷になって痛い。怖い。寒い。イヴ、どうして? ねえ、イヴ、どうして?

 必死に言い募るレオポルドの口にハンカチを押し込み、イヴは。



 イヴは。






 五日目。今日も雨が止まない。

 目を覚ますと、ベッド以外の場所が泥だらけだった。壁には泥でつけた手形がいっぱい残っている。天井からもぼたぼたと泥が降ってくる。

「イヴ」

 いつもは呼ばなくても傍にいてくれるイヴの姿がない。着替えはあったけれど、朝食の用意もされていなかった。

 着替えだけは済ませたレオポルドは、靴を見つけられず、素足で泥の中に足を下ろして歩き出す。扉の取っ手は、泥に埋め尽くされていて見つけるのにちょっと苦労した。扉を開けると、廊下も壁も全部泥だらけだ。歩くたびに泥を引きずる音がする。泥は冷たくて、少しの距離を歩くだけで疲れてしまう。

「イヴ? どこにいるの?」

 朝食がなかったからまだ調理場にいるかと行ってみることにする。

 二階の寝室を出て、階段を目指す。長い廊下は、昨日まで沢山の部屋があったのに、今日は何故か両方が窓になっていた。その全てはぴたりと誂えた分厚いカーテンが閉ざしている。

「坊ちゃま」

「坊ちゃま」

「お坊ちゃま」

「レオポルド様」

 カーテン越しにくぐもった声がレオポルドを呼ぶ。

 時々雷鳴が轟く際に、外の影が見える。今度はちゃんと人の影があったが、ここは二階なのにみんな凄いなとレオポルドは思う。

「そこはいけません」

「あの女は坊ちゃまを独り占めにする気だ」

「早く、こちらに」

「逃げてください」

 声は不思議な事を言う。

 イヴをあの女あの女と呼ばれて、レオポルドは頬を膨らませた。

「イヴのこと、悪く言う人は嫌いだよ」

「ですが、お坊ちゃま。あの女といれば、ご両親と会えませんよ」

「え?」

 思わず窓に近寄って聞き返す。

「どうして? だって、お父様もお母様も、ここにきてくれるんだよ?」

「いいえ、いいえ、レオ。それは違うわ」

 今度は叔母の声だ。

「叔母様?」

「あの女はあなたを独り占めにして、帰さないつもりなのですよ。あなたは誘拐されたの。私達はここを開けられない。だから、開けて頂戴、レオ。こちらにいらっしゃい。逃げておいでなさい。あの女は、あなたを二度とお屋敷に返さないつもりなのよ。あなたを誘拐して、お兄様からお金を取るつもりなの」

「そんなの嘘です! いくら伯母様だって、イヴのことを悪く言うのなら僕は許しません!」

「だったら、聞いてごらんなさい。イヴに、ここから出ていいかと。一歩でもいいから出てもいいかと。あなたは外を見たことがあって? お兄様とお義姉様は、すぐそこまであなたを迎えに来ているのですよ? けれど、イヴがあなたにそれを教えてくれたのかしら?」

 知らない。そんなの聞いていない。

 レオポルドはぎゅっと服の裾を握り締めた。

「ああ、ああ……可哀相に。あなたは何も知らないのですね。姉のように慕ったイヴに裏切られるのはつらいでしょうに…………でも、大丈夫ですよ。お兄様とお義姉様が迎えに来ています。さあ、外に出ていらっしゃい。今ならイヴはいないでしょう?」

「どうして? どうしてイヴはいないの?」

「だって、イヴなら今」

 弾んだような叔母の語尾が引っくり返る。ぎゃああと、餌を奪われた烏のような叔母の悲鳴がした。

「おりますとも。イヴは、いつでも坊ちゃまのお傍におります」

 雷鳴が轟く。カーテン越しに見える影は二人分だ。

 スコーンを二つ重ねたみたいな影が叔母で、その上に伸し掛かって腕を振り上げているのは。

「イヴ…………?」

 イヴの腕が振り下ろされる度に、ぎぃぎぃと、軋むような叔母の声が聞こえる。雷光の時だけ見えるシルエットの中で、叔母は天に向けて腕を伸ばして。

 がくりと落とした。

 

「坊ちゃま。すぐに朝食の用意を致しますので、もう少しだけお待ちくださいませね。イヴは、少し、仕事が残っておりますので。お部屋にご本を用意しておりますので、そちらをご覧になっていてくださいませ」

 寝物語を聞かせてくれる時みたいな柔らかい声音でイヴが言う。きっと、いつもみたいに優しく、砂糖菓子みたいに微笑んでいると思う。

「さあ、坊ちゃま。お部屋にお戻りを」

 レオポルドは、いつの間にか泥の消えた廊下を転がるように駆け出してベッドに飛び込んだ。心臓がどくどくいって、発作が出そうだと無意識に判断した思考はほぼ自動的に薬を飲みこんでいた。ベッドの傍にあった水差しから水を一気飲みして、なんとか呼吸を落ち着かせる。

 たくさんの声がレオポルドを呼ぶ。

 けれど、どれもが遠ざかる。甲高い、耳を劈く悲鳴を上げて消えていく。

 レオポルドはクッションを頭の上に乗せて硬く目を閉じ、やがて眠ってしまった。





 雨が降る。

 たくさん、たくさん、雨が降る。


 赤い、雨が。



『坊ちゃまは渡さない坊ちゃまは渡さない坊ちゃまは渡さない』

 ぶつぶつと低く薄暗い声で幾度も幾度も繰り返すイヴの声が聞こえる。

『私の坊ちゃまは決して渡さない。私のレオ坊ちゃまは渡さない渡さない渡さない』

 柔らかく、温かく、優しい声音しか知らなかったイヴの声は、レオポルドの身体を凍らせてしまう。だから、さっきまでわあわあ泣きじゃくっていたのに、今は怖くて寒くて声も出せない。

 壊れた樽の隙間から見えるイヴは、背中しか見えない。いつもきっちり結われていた髪は解け、泥が絡みついている。

 遠くから叔母の声がする。知らない男達の声も近づいてくる。

『坊ちゃまは、絶対に、渡さない』

 イヴの手には、錆びた鉈がしっかりと握られていた。

 




 六日目。今日も雨が降る。

 今日も着替えだけが用意されていて、朝食がない。

 お腹がぐうぐう鳴って、水差しの水をがぶ飲みする。胃がきゅうっとなって切ない。そういえば、最後に食事をとったのはいつだろう。

 泥だらけの部屋を出ると、天井から降ってきた泥がぼたりと服に落ちてきた。今日は、とても静かだ。雨の音だけを聞きながら、調理場を目指す。

 泥がぼたぼたと降ってくる調理場にイヴはいた。

 まっすぐ立っているのに、頭だけが真横に倒れている。頭から泥が垂れて、イヴの掌越しにぽたぽたと泥が落ちていく。

「おはようございます、坊ちゃま」

 イヴが振り向かないで朝の挨拶をする。こんなの初めてだ。いつだってイヴはレオポルドと視線を合わせてくれる。そうしてにっこりと笑ってくれていたのに、今は背中だけしか見せてくれない。

「イヴ、僕、お腹が空いたよ」

「…………申し訳ございません、坊ちゃま」

 イヴは身体の横に垂らしたままだった両手を自分の前に掲げて、ため息をついた。

「イヴはもう、お食事を作って差し上げることが叶いません」

 その手は、真っ赤に染まっていた。

 真っ赤で、泥だらけで、真っ黒で。

「イヴ? どうしたの? 汚れが落ちないの? 大丈夫だよ、僕が一緒に洗ってあげるよ」

 泥の海を掻き分けてイヴの傍に近寄ったレオポルドの前で、イヴの首がかくりと反対側に倒れた。

「いいえ、いいえ、坊ちゃま。この汚れはもう落ちません。ですが、一つだけお願いしても宜しゅうございますか?」

「いいよ? イヴのお願いなんて珍しいね」

 何だかいつもと逆で、楽しくなってしまう。いつだってわがまま言うのも、お願いするのもレオポルドだったからだ。そう言うと、イヴもくすくす笑った。

「どうか、イヴを見ないでください」

「え?」

「さあ、坊ちゃま。イヴの裾を握ってくださいませ。そうして、イヴについてきてください」

 イヴのお願いを考える間もなく、促されるままにイヴのスカートの端を握る。レオポルドが握ったと確認したイヴは、さっきよりも高さを増した泥の中を歩き始めた。いつもなら抱き上げてくれるイヴは、今日は泥を掻き分けるように先を歩いている。

 廊下は酷く長い。長くて、長くて、先は真っ暗でどこまで続いているのかも分からない。雨の音だけがざあざあと響く。

「ねえ、イヴ。何かお歌うたって?」

「何の歌が宜しいですか?」

「イヴの好きな歌がいい」

「私の好きな歌ですか?」

「うん。イヴの好きな歌がいい」

 イヴはちょっと考えた。

「では、イヴの一番好きな歌にしましょうか」

「うん!」

 澄んだ声が雨音の中で歌を紡ぐ。とっても綺麗な、冬の歌。寒いのは苦手で、いつも鼻の頭を真っ赤にしているイヴは、それでも冬が大好きだった。

 どうしてと聞いたら、坊ちゃまが生まれた季節ですからと嬉しそうに笑ってくれる。その笑顔が見たくて、何度も何度も同じ質問をして、同じ話をねだった。この歌はレオポルドも教えてもらったから歌える。一緒に歌っていたら、冬の歌なのに身体がぽかぽかしてきた。雨音も、雷鳴も気にならない。

 どこまでも続く廊下を、レオポルドとイヴはずっとずっと歩き続けた。







 七日目。

 雨が、止んだ。





「いたぞ――!」

「生きてる! ああ、生きてる!」

「ああ、ああっ……よかった! 坊ちゃま!」

 たくさんの声がする。

「旦那様、奥様! 生きていらっしゃいます! ああ、よかった、坊ちゃま! 坊ちゃま!」

 聞き覚えのある声は厩の人だ。

 ぱりぱりと何かで張り付いた目蓋を一所懸命開けると、ぼろぼろで今にも崩れそうな小屋の入り口に両親が駆け込んできた。いつもきっちりしている髪はぼさぼさで、父親の髭は伸びて、母親は化粧すらしていない。いつもは皺一つない服は泥と葉っぱで見る影もなかった。

「レオポルド!」

 泥と同化してしまったと思うほど泥に埋もれた身体を引っ張り出されて、母親の胸に抱かれる。その母親ごと父親に抱きしめられて、レオポルドは首を傾げた。

「レオポルド、レオポルド、レオポルドっ……!」

「ああ、こんな奇跡が、レオポルド!」

 父も母も泣きじゃくってしまって、レオポルドは困ってしまう。だって、両親だけではないのだ。屋敷の使用人まで、たくさん、こんな森の中に集まって泥だらけになって泣いているのだ。

「…………みんな、どうしたのですか?」

 主治医の先生が駆け込んできて、両親の腕に抱かれたまま脈を計られる。

「旦那様、奥様。今はとにかくレオ坊ちゃまを落ち着いた場所に」

 そう言う先生もぼたぼたと涙を零していた。ぼろぼろ泣く父親に抱きかかえられ、手を母親に握られたまま小屋を出る。ちかっと目を刺したのは太陽だ。もう、随分と見ていなかったような気がする。

 見知った顔と、見知らぬ顔。たくさんの顔があったけれど、その全てが歓喜に満ちていた。みんな泥だらけで、いつもはぱりっとした皺の無い服を着ている執事達も腕捲りして泥まみれだ。

 その中に、一つの顔を探す。いつもなら誰より早く駆けつけてきて、抱きしめてくれる人がいない。

「旦那様!」

 レオポルドを泥の中から引っ張り上げてくれた厩の男が、引き攣った悲鳴を上げた。声は、小屋の裏から聞こえてきた。

「何だ、どうした!」

 さっと父親が歩を進めて小屋の裏に回った瞬間、たくさんの手がレオポルドの目を覆った。

でも、見えてしまった。父の、母の、厩の男の、執事の、知らない男の、女の、みんなの手が視界を遮ったのに、レオポルドは見てしまったのだ。

 イヴは、見ないでと言ったのに。




 イヴは、泥の中、叔母と知らない男達に折り重なるように埋まり、事切れていた。







 叔母はお金が欲しかった。屋敷が欲しかった。でも、屋敷は長男である父の物で、父の後は一人息子であるレオポルドが継ぐ。叔母だって貴族で、貴族の元に嫁いでいるのだからどうしてそんなにお金が欲しかったのか、レオポルドには分からない。両親達はレオポルドに詳しく話してはくれなかったからだ。零れ聞いた話では、叔母の浪費癖や、おじが浮気相手へ貢いでいたということが分かったけれど、分かったところで意味なんてない。お金が欲しくて、誰かを殺そうと思うような気持ちも分からないし、一生、分かりたくなんてない。

 いつもはレオポルドを毛嫌いする叔母が、あの日は珍しく一緒の馬車に乗りたがった。仲良く出来るようになるのだと、レオポルドも喜んで同意した。イヴは控えめに反対していたけれど、叔母は強引に乗ってきてしまったので後は黙ってレオポルドの隣に座った。叔母はイヴが相席することを心底嫌がったけれど、仕事で後から来る両親が見送ってくれながら、レオポルドに発作が起こった時、主治医と同じくらい信頼できるのがイヴだからといつも一緒に乗せてくれるのだ。

 そして、数台の馬車と一緒に目的地に向かった。


 けれど、いつしか周りの馬車が見えなくなった。イヴは何度も御者に他の馬車を探すように言っていたけれど、御者は何も答えなかった。馬車は、いつのまにか森の中を走っていた。御者が屋敷の者ではないと気づいたイヴは、進行方向に数人の男達が立っているのを見た瞬間、レオポルドを抱いて馬車を転がり出た。

『イヴ! 待ちなさい! レオポルドを返しなさい!』

 後ろから男達の怒声と、叔母の金切声が聞こえてくる。イヴは何度も泥に足を取られて転びながら、レオポルドを抱えて一度も振り向かずに走り続けた。

『イヴ! レオポルドを渡せばお金をあげるわ! あなたのようなメイドが一生かかっても手に入れられないようなお金よ!』

 何度も何度も、お金お金と叫ぶ叔母に、イヴは振り向かずに怒鳴った。

『坊ちゃまは絶対に渡さない! 無事に旦那様と奥様の元にお返しすると、約束したのだから!』

『このっ、メイドの分際で!』

『レオ坊ちゃまは、絶対に、あなたに渡さない!』

 どれだけイヴが必死に走ってくれても、レオポルドを抱いた女の足だ。すぐに追いつかれた。イヴは今にも崩れそうな掘立小屋に駆け込み、レオポルドを木が腐った樽の中に放り込んだ。そして、錆びた鉈を両手で握りしめ、震える自分を叱咤するように何度も何度も呟いた。

『坊ちゃまは渡さない、坊ちゃまは渡さない、坊ちゃまは必ずイヴがお守りします。絶対に、イヴがお守りしますから。絶対に、私の坊ちゃまは、あんな奴らに渡したりしません。絶対に渡しません。必ずお守りします。ですから、ああ、どうか、坊ちゃま』

 震えるイヴが振り向き、泣きながら笑った。



『イヴを、見ないでください』



 イヴが鉈を持って外に飛び出していって少し経ったとき、凄い音がした。

 連日降り続いた雨で山は決壊を起こし、土砂崩れが起こったのだと後で知った。土砂崩れは小屋に少し雪崩れ込んできていたけれど、そこで止まっていた。

 叔母と、叔母が雇ったらしい男達はみんな小屋の後ろで死んでいた。土砂で死んだのか、それとも他の何かだったのかは、誰にも分からなかった。

 イヴは傷だらけだった。刃物で何度も刺されたのだろう。きっと、土砂崩れが起こる前に絶命していた。それでも土砂から掘り出されたイヴの手は、叔母の足首を折れるほどに握りしめていたという。



『大丈夫です。イヴはいつでも坊ちゃまのお傍におりますよ。イヴが坊ちゃまを守って差し上げますから、何も怖いことはありませんよ』


 イヴは、その言葉を守ってくれた。約束を守って、レオポルドを守って、自分を守ってはくれなかった。

 レオポルドは泣いた。泣いて、泣いて、熱を出してもまだ泣いて。

 そうして冬がやってきた。



 一旦寝付くと、なかなかベッドから起き上がれなくなった息子の元に、両親はある物を持ってやってきた。

 レオポルドは今日、七歳になった。

「レオ、おはよう。そして、誕生日おめでとう」

「おめでとう、私達の可愛いレオ。生まれてきてくれてありがとう」

 メイド達は静かに後ろに控えている。イヴのように、姉のように傍に寄り添ってはくれない。それはメイドとして正しい姿だったけれど、イヴはそうしてくれた。だって、レオポルドが望んたから。

 また泣きそうになって、慌てて目元を擦る。忙しい両親は、寝付くことが多くなった自分を心配して、無理をして何度も何度も様子を見にきてくれている。早く元気になって、心配をかけないようにしなければならないのに、レオポルドの身体は全然いうことを聞いてくれない。

「おはようございます、お父様、お母様」

 頑張って笑顔を作ったら、少し悲しそうにされてしまった。でも、そんな顔をすぐに隠して、両親はにこりと笑ってレオポルドの胴程の大きさの何かを渡した。布で覆われているけれど、大きさに比べて薄いので、絵だと分かる。毎年一枚ずつ家族で肖像画を描いているのになと思いながら、促されるままに覆いを取る。

 そうして、息を飲む。


 そこには、イヴがいた。



 雨が降るのだ。雨が降って、イヴの顔がよく見えない。雨の中で思い出すのはイヴの恐ろしい形相と後ろ姿だ。大好きだった笑顔が思い出せない。握った裾の感触は鮮明なのに、あの大好きだった笑顔だけが雨に遮られてよく見えなかった。

 なのに、イヴはここにいた。レオポルドを膝に乗せて本を読んでくれている。

 目元をちょっと伏せて、早く早くと続きをねだるレオポルドを見下ろして、くすくすと笑っている。

『坊ちゃま』

 さっき堪えたはずの涙が溢れた。両親も涙を流しながらレオポルドを抱きしめた。

『イヴはいつでも坊ちゃまのお傍におりますよ』

 イヴは約束を守ってくれる。だから、イヴはここにいた。ここにいたんだ。ずっと、ここにいるんだ。


『だから、大丈夫ですよ。なんにも怖いことはありませんよ、レオ坊ちゃま。イヴは、ここにおりますからね』





 泣いて、泣いて、泣いて。

 次に目を覚ました時、喘息はすっかり治っていた。






「イヴが喘息を持っていってしまったの?」

 息子よりも自分に似た孫が、枕元に飾ってある絵を眺めながら、ほぉーと息を吐いた。感嘆したときの動作が祖父の自分よりも爺臭い孫に、レオポルドはちょっと苦笑する。

「レオハルトはイヴの話が大好きだね」

「うん! あ、でも……」

 口籠った孫に首を傾げる。孫は、ぷくっと頬を膨らませた。その頬を見ると潰したくなる自分は悪い大人だろうか。

「お母様は、自分のほうが好きだって仰るんだよ」

 その言葉に思わず噴き出した。

「お婆様もだよ。イヴのように強く優しい女性を嫁に迎えることを家訓とするようにと、そりゃあ凄くてね…………私よりもイヴが好きで嫁に来てくれたような気がするよ。でもね、レオハルト。そんな強くて優しい女性を守れるように、私達はもっともっと強くて優しくならなければいけないよ」

「はい、お爺様! ……それは、家訓に追加ですか?」

「いいや。これは、我が家の男に代々伝えるお婆様達には内緒の約束だ。男と男の約束だよ」

 この頃大人扱いされることが特に嬉しいらしい孫は、男と男の約束と聞いて興奮したように何度も何度も頷いた。頬が高揚した孫は、興奮も冷めやらないままにお父様にも確認してくると部屋を飛び出していった。

 その姿にどこか懐かしい思いを抱きながら、レオポルドは何十年も変わらぬ姿で微笑む絵を見上げた。

 今日は少し調子が良くて、久しぶりに孫とたくさん話をすることが出来た。幼い孫に身近な死を教えたのは妻だった。じゃあ、自分が教えられるものはと今まで考えていた。最後に伝えられてよかった。

「イヴ、私は、君に恥じない人生を送ることができたのだろうか」

 彼女の命に報える人間になれたかは、あちらに逝けば聞けるだろうか。

 レオポルドは、最早遠い昔となってしまった声を探しながら、静かに目を閉じた。









 レオハルトは大好きな祖父と交わした男と男の約束を、父親も知っているのか、もし知らなければ教えてあげなければと廊下を走り抜けていた。誰かに見つかったら叱られるかもしれないけれど、今日位いいやと勝手に決めて走る。幸いにも誰にも見つからなかった。

 父は母と庭園にいると聞いたのでそっちに向かおうとすると、前から誰かが歩いてくる。

 見たことのないメイドと、自分くらいの年の男の子だ。男の子はメイドと繋いだ手を嬉しそうに振って、祖父が好きだった冬の歌を歌っている。

 お客様だろうかと軽く挨拶すると、メイドは深々と頭を下げたけれど、少年のほうはちょっとくすぐったそうに笑うだけだった。

 違和感を覚えながら首を傾げてすれ違ったとき、はっと気づく。メイドの恰好は、随分昔に我が家が使っていた服だ。今は少し型が変わっている。あの制服は絵でしか見たことがない。

 そういえば、あの少年は自分に似ていたような気がする。そして、あのメイドが微笑めば、きっと、あの絵のような。


 弾かれたように振り返った先には、ついさっきすれ違ったはずのメイドも少年も誰もいなかった。

 何故か、両目から涙が零れ落ちる。悲しくもないのにどうしてだろう。男の子なのに泣き虫なのは恥ずかしいと一所懸命目元を擦っていたレオハルトの耳に、慌ただしい声が聞こえてきた。

 今いる場所から見える祖父の部屋の窓が少し開いていて、執事が泣いているのが見える。

 すとんと納得した。頭が理解する前に心が納得して、レオハルトは泣くことを自分に許した。





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― 新着の感想 ―
ふとした時に読み返して泣けてしまう。
[一言] これは泣けた
[良い点] 怖い中にも愛情と優しさが溢れていて、泣けました。 18の女の子が突然鉈だけで男たちと戦わなきゃいけなくなる状況…壮絶すぎるけど、守りきったイブは本当にすごい。 コミカライズされたらすご…
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