第9話《外さない赤》
森の中まで朝の光が届く頃、グロリアはようやく足を止めた。
一晩中歩き続けていた。背中のルナを降ろし、大きな木の根元へ座らせると、自分もその隣に腰を下ろす。脚の感覚が鈍い。身体は休息を求めていたが、眠る気にはなれなかった。
「ルナ。起きろ」
肩を軽く揺らすと、灰色の瞳がゆっくり開いた。
「……朝?」
「ああ」
「……ここ、どこ?」
「街から北へ十キロほど進んだ森だ」
ルナは周囲を見回した。木々の間から朝の光が差し込み、湿った土の上に細長い影を落としている。昨夜まで空を赤く染めていた炎も、ここからは見えない。
「……どこに行くの?」
グロリアは水筒を取り出す手を止めた。逃げることしか考えていなかった。
ヴァルセナへ戻れば、ガルナの死について説明を求められる。ルナの存在を知られれば、この子は殺される。それなら北へ向かう。それだけでここまで来た。
だが、北のどこへ行くのか。
地図は頭に入っている。イルナ北部には、まだヴァルセナ軍が到達していない地域がある。街もいくつか残っているはずだった。
「北へ行く」
「……北?」
「ああ。まだヴァルセナが来ていない街がある。そこまでお前を連れていく」
「グロリアも?」
「お前を届けたら、私はそこを離れる」
「……どこに行くの?」
「まだ決めていない」
ルナはグロリアを見つめたが、それ以上は聞かなかった。水筒を渡すと、両手で受け取り、少しずつ水を飲んだ。
グロリアは背嚢から保存食を取り出し、自分の分とルナの分に分けた。時間はかかったが、ルナは自分で食べることができた。
――生きている。
それを確かめるように食べる姿を見ていたグロリアは、ふと自分の左腕へ視線を落とした。
赤い腕章。
イルナで生まれ、ヴァルセナへ連れていかれ、兵士になった者たちに与えられた印。これをつけたまま北へ進めば、遠からず問題になる。イルナ人にとって、この赤はヴァルセナの側に立った者の印でもある。
――外すべきだ。
グロリアは腕章へ手を伸ばした。指先が布に触れる。これを外せば、少なくとも遠目には何者なのか分かりにくくなる。軍服もどこかで捨て、民間人の服を手に入れれば、追跡から逃れるうえでも都合がいい。
それでも、腕章を外すことはできなかった。これを外したところで、自分は何になるのだろう。
イルナ人に戻れるわけではない。昨日この手で殺した人間が生き返るわけでもない。ヴァルセナで十二年を過ごし、その命令で銃を撃ってきた事実も消えない。
布を一枚外しただけで昨日までの自分をなかったことにできるのなら、その方がよほど気味が悪かった。
グロリアは腕章から手を離した。
「……取らないの?」
ルナが見ていた。
「ああ」
「それ、ヴァルセナの?」
「少し違う。イルナで生まれて、ヴァルセナで兵士になった人間の印だ」
ルナは赤い布をじっと見つめた。
「グロリア、イルナなの?」
「ああ」
「ルナと同じ?」
「生まれた場所だけならな」
ルナは何かを考えているようだった。だが、それ以上は聞かなかった。
食事を終え、グロリアはルナの包帯を確認した。新たな出血はない。熱はまだ高い。専門的な治療を受けさせる必要がある。
「行くぞ」
荷物を胸側へ掛け直し、ルナへ背を向ける。細い腕が首へ回った。グロリアは立ち上がり、再び北へ歩き始めた。
昼近くになった頃だった。木々の向こうから、人の声が聞こえた。グロリアはすぐに足を止め、長銃へ手を掛けた。
複数人。少なくとも五人。話し声のほかに、枝を踏む音がする。武装ユニットの駆動音はない。
「ルナ。声を出すな」
背中で小さく頷く気配がした。グロリアは木の陰へ身を寄せ、相手が近づくのを待った。
最初に現れたのは、年老いた男だった。その後ろに女と子供が続き、さらに二人の男がいる。荷物を背負い、服は煤と泥で汚れていた。二人の男は銃を持っているが、軍装ではない。
避難民。グロリアは長銃から手を離した。
「待ってくれ」
五人が一斉にこちらを向いた。男たちが銃を構えるまで、一秒もかからなかった。
「ヴァルセナ兵!」
銃口がグロリアへ向けられる。
「待て! 撃つな」
「動くな!」
グロリアは木の幹に背を寄せてルナを支え、両手を見える位置へ上げた。背中で小さな身体が強張る。
「この子はイルナ人だ。脚を負傷している。治療できる場所を探している」
「その子を降ろせ」
「歩けない」
「いいから降ろせ!」
グロリアはゆっくり膝をつき、ルナを地面へ降ろした。ルナはすぐにグロリアの服を掴んだ。
年老いた男がルナを見て、表情を変えた。
「……その子、ネルヴァスクの子か」
「そうだ」
「昨日、ヴァルセナが入った街だな」
「ああ」
銃を構えた男の一人がグロリアの左腕を睨んだ。
「その腕章……赤腕か」
声に明確な敵意が混じった。
「イルナ生まれのくせに、ヴァルセナの犬になった連中だ」
「そうだ」
男が一歩前へ出た。
「お前たちが、あの街を襲ったのか」
「そうだ」
「何人殺した」
「数えていない」
男の顔が歪んだ。
「ふざけるな!」
「ふざけてはいない」
「じゃあなんで、その子を連れてる!」
グロリアは答えようとして、言葉を止めた。自分でも、まだ正確には説明できなかった。
「……この子が生きたいと言った」
「軍へ連れていく気か」
「部隊には戻らない」
「それだけで、昨日まで仲間だった連中を裏切ったのか」
「裏切ったつもりはない」
男が銃口をグロリアの胸へ向けた。
「じゃあ何なんだ!」
「この子を生かすと決めただけだ」
森の中が静かになった。グロリア自身にも、それ以上の説明はできなかった。
年老いた男が、銃を持つ男の肩へ手を置いた。
「やめろ。子供がいる」
「でも、こいつはヴァルセナ兵だ!」
「見れば分かる」
老人はグロリアを見た。
「腕章を外さないのか」
「ああ」
「それを外せば、少なくとも今よりは話を聞く人間もいる」
ルナが軍服を引いた。腕章を外さなかったのは自分だ。そのために、この子まで銃口の前に置いている。それでも、赤の腕章を外せば済むとは思えなかった。
「私は昨日まで、それをつけてイルナ人を殺していた。今日外したからといって、別の人間にはならない」
老人は黙っていた。グロリアは続けた。
「この子を、戦火の届いていない街まで連れていきたい。北にまだ安全な街はあるか」
老人はしばらく答えなかった。
「ここから北東へ進め。山を越えた先に、リゼノルトという小さな街がある。今のところヴァルセナは来ていない」
「距離は」
「歩けば二日。だが、その子を背負ってならもっとかかる」
「分かった」
「いや……待て」
グロリアがルナを背負おうとすると、老人が止めた。
「その子は私たちが連れていく」
グロリアの手が止まった。
「私たちもその街を通る。男三人で交代すれば、一人で背負うより早い」
同行の女が近づき、ルナの傍らへ膝をついた。
「包帯は巻いてあるのね。熱は?」
「高い」
「なら、急がないと」
女はルナへ水を差し出した。老人が振り返ると、銃を持つ男の一人が、渋い顔のまま頷いた。
合理的だった。ルナを安全な街へ届ける。それが目的だった。自分と一緒にいる必要はない。むしろ軍に追われる可能性のある自分から離した方がいい。この者たちなら交代で運べる。ルナを受け入れる意思もある。
「……そうか」
グロリアはルナへ向き直った。
「ルナ。この人たちと行け」
ルナが顔を上げる。
「この人たちも北へ行く。私といるより安全だ」
「……グロリアは?」
「私は行かない」
「どうして?」
「私はヴァルセナ兵だ」
「でも、ルナを助けた」
「それは別の話だ」
グロリアはルナの肩から手を離した。
「ここまでだ」
目的は達成できる。そう思った。立ち上がろうとした瞬間、軍服の裾が引かれた。見ると、ルナの小さな手が布を握っている。
「ルナ」
指は離れない。
「この人たちについて行け」
ルナは首を横に振った。
「この人たちはイルナ人だ。お前と同じだ」
もう一度、首を横に振る。
「私といれば、ヴァルセナに追われるかもしれない」
それでも離さなかった。
グロリアには分からなかった。自分はこの子の街を焼いた側の人間だ。仲間を殺し、家を奪い、昨日までなら命令ひとつでこの子さえ殺していたかもしれない。
それなのに、ルナは女の差し出した水へ手を伸ばさず、自分の軍服を掴んでいた。
「……行かないで」
グロリアは、その小さな手を見つめた。




