第10話《生きるために殺す》
ルナの指は、いつまでもグロリアの軍服から離れなかった。
「……困ったな」
老人が呟いた。
グロリアも同じことを考えていた。この者たちにルナを預ければ、自分の役目は終わるはずだった。戦火の届いていない街まで連れていく。それが、この子を生かすと決めた自分の責任だと思っていた。
だが、ルナは行こうとしない。
「ルナ。私といる方が危険だ」
「……やだ」
「この人たちなら、お前を街まで連れていってくれる」
「……やだ」
「なぜだ」
ルナは答えなかった。ただ、軍服を掴む指に力を込めた。理由を聞いたところで、六歳の子供が説明できるとは思えない。生きたいと言ったときもそうだった。この子はいつも、言葉より先に身体で選ぶ。
グロリアは小さく息を吐き、ルナの手に自分の手を重ねた。
「分かった。なら、私も行く」
「待て」
銃を持った男が声を上げた。
「冗談じゃない。赤腕を連れて歩けっていうのか」
「この子を置いていくわけにはいかない」
「置いていけなんて言ってねぇ。そいつだけ連れていくと言ってるんだ」
「ルナが嫌だと言っている」
「子供の言うことだろ!」
「だから無視していい理由にはならない」
男の眉間に皺が寄った。老人が二人の間へ入る。
「もういい」
「爺さん」
「この子をここで泣かせても仕方ない。街までだ。それ以上は一緒に行かん」
老人はグロリアの長銃へ視線を移した。
「ただし、その銃はこちらによこせ。腰の短銃もだ」
「それはできない」
グロリアは即答した。二人の男が銃を握り直す。
「私たちと一緒に来るなら、武器は預けてもらう」
「あんたたちを完全に信用したわけじゃない」
「それはこちらも同じだ」
「だから渡せない」
グロリアは老人をまっすぐ見た。
「あんたたちが何もしなければ、私も危害を加えるつもりはない」
「赤腕の言葉を信じろと?」
「信じなくていい。私もあんたたちを信じていない」
男の一人が顔をしかめた。
「だったら一緒に歩けるわけねぇだろ」
「同じ場所へ向かうだけだ。仲間になる必要はない」
老人はグロリアを見つめ、それから二人の男へ目を向けた。
「この先も軍に会わずに済むとは限らん。銃を取り上げれば、そのとき守る人間が一人増える」
「こいつが俺たちを守ると思うのか」
「少なくとも、その子は守るだろう」
老人はルナを見てから、グロリアへ向き直った。
「お前は先頭を歩け。銃は背負ったままにしろ。襲われでもしない限り、勝手に抜くな」
「分かった」
「こちらへ向ければ撃つ」
「そちらが先に向けたなら、私も撃つ」
老人は険しい顔のまま頷いた。
「その子は私たちが運ぶ。それも条件だ」
グロリアは少し考えたあと、頷いた。自分が背負うより、交代できる彼らに任せた方が早い。
女がルナを背負おうとすると、また細い指が軍服を掴んだ。
「大丈夫だ。私は前にいる」
グロリアはその手を外した。ルナは不安そうに見上げたが、今度は抵抗しなかった。
一行は北東へ向けて歩き始めた。
グロリアが先頭。その数メートル後ろを老人と女、子供が歩き、最後尾に銃を持った二人の男がつく。
女の背中から、ルナの灰色の瞳がずっとグロリアを見ていた。
奇妙な隊列だった。誰もグロリアを仲間だとは思っていない。グロリア自身も、そのつもりはなかった。ただ向かう場所が同じだから、同じ道を歩いている。それで十分だった。
森は次第に深くなり、日の光も枝葉に遮られていった。鳥の声と、六人分の足音だけが続く。
グロリアは背後の男たちを意識していた。特に、先ほどから敵意を隠そうともしない男。振り返るたび、その手は銃に掛かっていた。老人が視線を向けると離すが、しばらくすればまた握っている。
グロリアは何も言わなかった。敵意だけでは人は殺さない。少なくとも、そう思いたかった。
背後で足音が止まった。
振り返ったグロリアは、こちらへ上がる銃口を見た。左へ跳んだ瞬間、乾いた音が森を裂く。すぐ脇の幹が弾け、樹皮が飛び散った。
グロリアはそのまま木の陰へ転がり込んだ。
「何をしてる!」
老人の怒声が響く。
「どけ!」
先ほどの男だった。
「こいつを街まで連れていくなんて、俺は認めねぇ!」
「銃を下ろせ!」
「こいつらが来なきゃ、こんなことにはならなかった!」
再び銃声が響き、弾丸が幹を削った。女はルナを背負ったまま身を低くし、子供を木の陰へ引き寄せる。泣き声が上がり、もう一人の男が撃った男の腕へ掴みかかった。
「やめろ!」
「離せ!」
男はその手を振り払い、再びグロリアへ銃を向けた。グロリアの手が長銃へ伸びる。
――撃てる。
距離は二十メートルもない。相手は興奮している。照準も定まっていない。次の弾が来る前に撃てば終わる。
だが、脳裏に浮かんだのは、銃を握ったルナだった。小さな身体。硝煙を上げる短銃。床に倒れたガルナ。そして、自分の声。
――人を殺したんだぞ。
「銃を下ろせ」
グロリアは木の陰から言った。
「私は撃たない」
「黙れ!」
「撃つ必要はない。私はお前たちの敵じゃない」
「ヴァルセナの軍服着て、何言ってやがる!」
三発目。幹の縁を弾丸が削り、頬へ木片が当たった。
もう一発来る。
そう判断した瞬間、グロリアは木の陰から身体を出していた。長銃を構える。照準器を使う必要さえなかった。男の胸が銃口の先に入る。
そして、引き金を引いた。
一発。
男の身体が揺れ、そのまま地面へ倒れた。
泣いていた子供まで声を止めていた。グロリアは銃口を下げなかった。倒れた男は動かない。胸から血が広がっていく。
狙った場所に当たっている。当然だった。外す距離ではない。
「……お前」
もう一人の男が銃を構えた。グロリアも反射的に銃口を向ける。
「仲間を……!」
「やめろ!」
老人が叫んだ。
「二人とも銃を下ろせ!」
「こいつが殺したんだぞ!」
「先に撃ったのはあいつだ!」
「だから殺していいのか!」
男の言葉に、グロリアの指が止まった。
だから殺していいのか。昨日から、何度同じ問いを繰り返しているのだろう。戦場だから。命令だから。敵だから。生きるためだから。
人間は理由をつければ殺していいのか。
「私を殺そうとした」
「だから撃ったのか!」
「ああ。撃たなければ、私が死んでいたかもしれない」
「だったら死ねばよかっただろ!」
「それはできない」
言ってから、自分でも妙な答えだと思った。昨日までなら、死ぬことについてもっと別の考え方をしたはずだった。兵士として戦い、任務の中で死ぬ。それも一つの結果に過ぎない。
だが今は違う。
グロリアは木の陰に身を低くしている女へ目を向けた。その肩越しに、ルナの灰色の瞳が自分を見ていた。
「……この子を街まで連れていくと決めた」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
「だから、それまでは死ねない」
男が歯を食いしばった。
「ふざけんな……そんな理由で……!」
「やめろ」
老人が男の銃身へ手を掛けた。
「先に撃ったのはあいつだ。……だからといって、すぐ納得しろとは言わん。だが、これ以上撃つな」
「でも……!」
「もう一人、ここに置いていくことになるぞ」
男は答えなかった。老人の手を振り払うこともなく、倒れた仲間を見つめている。やがて銃口が地面へ向いた。
グロリアも長銃を下ろした。
男は仲間の傍らへ膝をつき、その肩を揺すった。返事はなかった。老人が屈んで首筋へ手を当て、黙って目を伏せた。
女がルナを背負ったまま立ち上がる。ルナは泣いていなかった。ただ、グロリアを見ていた。
「……グロリア」
「なんだ」
「殺したの?」
「ああ」
「……あの人、死んだ?」
「ああ」
答えを濁す意味はなかった。ルナの視線が、地面に倒れた男へ向かう。
「……殺さなくてもよかった?」
グロリアは答えられなかった。
殺さなければ、自分が撃たれていたかもしれない。相手はすでに三度引き金を引いていた。撃ち返した判断は間違っていない。そう説明することはできる。
だが、それはガルナを撃ったルナにも言えるのではないか。
ガルナはルナへ銃を向けた。ルナは撃った。そして自分は、あの子に怒鳴った。
――人を殺したんだぞ。
「……分からない」
グロリアは答えた。ルナがこちらを見る。
「撃たなければ、私が死んだかもしれない。だから撃った。それが正しかったかは、分からない」
正しいかどうかと、引き金を引くことは別の話だ。そう考えてきた。今も、その考えが間違っているとは思わない。
ただ、引き金を引いたあとにも、問いは残るようになっていた。




