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紅月下のGloria   作者: ユノ・サカリス
第二章《選択の代償》

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第10話《生きるために殺す》

 ルナの指は、いつまでもグロリアの軍服から離れなかった。


「……困ったな」


 老人が呟いた。


 グロリアも同じことを考えていた。この者たちにルナを預ければ、自分の役目は終わるはずだった。戦火の届いていない街まで連れていく。それが、この子を生かすと決めた自分の責任だと思っていた。


 だが、ルナは行こうとしない。


「ルナ。私といる方が危険だ」


「……やだ」


「この人たちなら、お前を街まで連れていってくれる」


「……やだ」


「なぜだ」


 ルナは答えなかった。ただ、軍服を掴む指に力を込めた。理由を聞いたところで、六歳の子供が説明できるとは思えない。生きたいと言ったときもそうだった。この子はいつも、言葉より先に身体で選ぶ。


 グロリアは小さく息を吐き、ルナの手に自分の手を重ねた。


「分かった。なら、私も行く」


「待て」


 銃を持った男が声を上げた。


「冗談じゃない。赤腕を連れて歩けっていうのか」


「この子を置いていくわけにはいかない」


「置いていけなんて言ってねぇ。そいつだけ連れていくと言ってるんだ」


「ルナが嫌だと言っている」


「子供の言うことだろ!」


「だから無視していい理由にはならない」


 男の眉間に皺が寄った。老人が二人の間へ入る。


「もういい」


「爺さん」


「この子をここで泣かせても仕方ない。街までだ。それ以上は一緒に行かん」


 老人はグロリアの長銃へ視線を移した。


「ただし、その銃はこちらによこせ。腰の短銃もだ」


「それはできない」


 グロリアは即答した。二人の男が銃を握り直す。


「私たちと一緒に来るなら、武器は預けてもらう」


「あんたたちを完全に信用したわけじゃない」


「それはこちらも同じだ」


「だから渡せない」


 グロリアは老人をまっすぐ見た。


「あんたたちが何もしなければ、私も危害を加えるつもりはない」


「赤腕の言葉を信じろと?」


「信じなくていい。私もあんたたちを信じていない」


 男の一人が顔をしかめた。


「だったら一緒に歩けるわけねぇだろ」


「同じ場所へ向かうだけだ。仲間になる必要はない」


 老人はグロリアを見つめ、それから二人の男へ目を向けた。


「この先も軍に会わずに済むとは限らん。銃を取り上げれば、そのとき守る人間が一人増える」


「こいつが俺たちを守ると思うのか」


「少なくとも、その子は守るだろう」


 老人はルナを見てから、グロリアへ向き直った。


「お前は先頭を歩け。銃は背負ったままにしろ。襲われでもしない限り、勝手に抜くな」


「分かった」


「こちらへ向ければ撃つ」


「そちらが先に向けたなら、私も撃つ」


 老人は険しい顔のまま頷いた。


「その子は私たちが運ぶ。それも条件だ」


 グロリアは少し考えたあと、頷いた。自分が背負うより、交代できる彼らに任せた方が早い。


 女がルナを背負おうとすると、また細い指が軍服を掴んだ。


「大丈夫だ。私は前にいる」


 グロリアはその手を外した。ルナは不安そうに見上げたが、今度は抵抗しなかった。


 一行は北東へ向けて歩き始めた。


 グロリアが先頭。その数メートル後ろを老人と女、子供が歩き、最後尾に銃を持った二人の男がつく。


 女の背中から、ルナの灰色の瞳がずっとグロリアを見ていた。


 奇妙な隊列だった。誰もグロリアを仲間だとは思っていない。グロリア自身も、そのつもりはなかった。ただ向かう場所が同じだから、同じ道を歩いている。それで十分だった。


 森は次第に深くなり、日の光も枝葉に遮られていった。鳥の声と、六人分の足音だけが続く。


 グロリアは背後の男たちを意識していた。特に、先ほどから敵意を隠そうともしない男。振り返るたび、その手は銃に掛かっていた。老人が視線を向けると離すが、しばらくすればまた握っている。


 グロリアは何も言わなかった。敵意だけでは人は殺さない。少なくとも、そう思いたかった。


 背後で足音が止まった。


 振り返ったグロリアは、こちらへ上がる銃口を見た。左へ跳んだ瞬間、乾いた音が森を裂く。すぐ脇の幹が弾け、樹皮が飛び散った。


 グロリアはそのまま木の陰へ転がり込んだ。


「何をしてる!」


 老人の怒声が響く。


「どけ!」


 先ほどの男だった。


「こいつを街まで連れていくなんて、俺は認めねぇ!」


「銃を下ろせ!」


「こいつらが来なきゃ、こんなことにはならなかった!」


 再び銃声が響き、弾丸が幹を削った。女はルナを背負ったまま身を低くし、子供を木の陰へ引き寄せる。泣き声が上がり、もう一人の男が撃った男の腕へ掴みかかった。


「やめろ!」


「離せ!」


 男はその手を振り払い、再びグロリアへ銃を向けた。グロリアの手が長銃へ伸びる。


 ――撃てる。


 距離は二十メートルもない。相手は興奮している。照準も定まっていない。次の弾が来る前に撃てば終わる。


 だが、脳裏に浮かんだのは、銃を握ったルナだった。小さな身体。硝煙を上げる短銃。床に倒れたガルナ。そして、自分の声。


 ――人を殺したんだぞ。


「銃を下ろせ」


 グロリアは木の陰から言った。


「私は撃たない」


「黙れ!」


「撃つ必要はない。私はお前たちの敵じゃない」


「ヴァルセナの軍服着て、何言ってやがる!」


 三発目。幹の縁を弾丸が削り、頬へ木片が当たった。


 もう一発来る。


 そう判断した瞬間、グロリアは木の陰から身体を出していた。長銃を構える。照準器を使う必要さえなかった。男の胸が銃口の先に入る。


 そして、引き金を引いた。


 一発。


 男の身体が揺れ、そのまま地面へ倒れた。


 泣いていた子供まで声を止めていた。グロリアは銃口を下げなかった。倒れた男は動かない。胸から血が広がっていく。


 狙った場所に当たっている。当然だった。外す距離ではない。


「……お前」


 もう一人の男が銃を構えた。グロリアも反射的に銃口を向ける。


「仲間を……!」


「やめろ!」


 老人が叫んだ。


「二人とも銃を下ろせ!」


「こいつが殺したんだぞ!」


「先に撃ったのはあいつだ!」


「だから殺していいのか!」


 男の言葉に、グロリアの指が止まった。


 だから殺していいのか。昨日から、何度同じ問いを繰り返しているのだろう。戦場だから。命令だから。敵だから。生きるためだから。


 人間は理由をつければ殺していいのか。


「私を殺そうとした」


「だから撃ったのか!」


「ああ。撃たなければ、私が死んでいたかもしれない」


「だったら死ねばよかっただろ!」


「それはできない」


 言ってから、自分でも妙な答えだと思った。昨日までなら、死ぬことについてもっと別の考え方をしたはずだった。兵士として戦い、任務の中で死ぬ。それも一つの結果に過ぎない。


 だが今は違う。


 グロリアは木の陰に身を低くしている女へ目を向けた。その肩越しに、ルナの灰色の瞳が自分を見ていた。


「……この子を街まで連れていくと決めた」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


「だから、それまでは死ねない」


 男が歯を食いしばった。


「ふざけんな……そんな理由で……!」


「やめろ」


 老人が男の銃身へ手を掛けた。


「先に撃ったのはあいつだ。……だからといって、すぐ納得しろとは言わん。だが、これ以上撃つな」


「でも……!」


「もう一人、ここに置いていくことになるぞ」


 男は答えなかった。老人の手を振り払うこともなく、倒れた仲間を見つめている。やがて銃口が地面へ向いた。


 グロリアも長銃を下ろした。


 男は仲間の傍らへ膝をつき、その肩を揺すった。返事はなかった。老人が屈んで首筋へ手を当て、黙って目を伏せた。


 女がルナを背負ったまま立ち上がる。ルナは泣いていなかった。ただ、グロリアを見ていた。


「……グロリア」


「なんだ」


「殺したの?」


「ああ」


「……あの人、死んだ?」


「ああ」


 答えを濁す意味はなかった。ルナの視線が、地面に倒れた男へ向かう。


「……殺さなくてもよかった?」


 グロリアは答えられなかった。


 殺さなければ、自分が撃たれていたかもしれない。相手はすでに三度引き金を引いていた。撃ち返した判断は間違っていない。そう説明することはできる。


 だが、それはガルナを撃ったルナにも言えるのではないか。


 ガルナはルナへ銃を向けた。ルナは撃った。そして自分は、あの子に怒鳴った。


 ――人を殺したんだぞ。


「……分からない」


 グロリアは答えた。ルナがこちらを見る。


「撃たなければ、私が死んだかもしれない。だから撃った。それが正しかったかは、分からない」


 正しいかどうかと、引き金を引くことは別の話だ。そう考えてきた。今も、その考えが間違っているとは思わない。


 ただ、引き金を引いたあとにも、問いは残るようになっていた。

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