第11話《知ることと許すこと》
誰も、すぐには動かなかった。
倒れた男の胸から流れた血が、湿った土へ染み込んでいく。もう一人の男は傍らに膝をついたまま俯き、老人も何も言わなかった。
グロリアは長銃を背負った。撃ったことを後悔しているのかと問われれば、分からない。あのまま撃たなければ、自分が死んでいた可能性はある。三発撃たれ、それでも撃ち返さなかった。四発目まで待つ理由などなかった。
ただ、自分が死ねない理由ができたことだけは分かった。ルナを生かすと決めた。だから自分も生きなければならない。
生きるために殺す。昨日までなら、それだけで話は終わったはずだった。
「……このまま一緒には行けんな」
老人の声に、グロリアは顔を上げた。
「だろうな」
驚きはなかった。老人は倒れた男を見てから、残された者たちへ視線を移した。誰も反対しなかった。グロリアを睨んでいる男も、ルナを背負った女も、その隣で怯えている子供も。
「先に撃ったのはこいつだ。お前は止めろと言った。それでも撃ち続けた。お前だけが悪いとは言わん」
「ああ」
「だが、こいつを殺したお前と、このまま何事もなかったように歩けるかは別の話だ」
「それも分かる」
老人はしばらくグロリアを見つめていたが、やがて女へ顔を向けた。
「その子も返そう」
グロリアはわずかに眉を動かした。
「ルナも?」
「そうだ」
「街まで連れていくと言っていたはずだ」
「言った。だが、事情が変わった」
老人は女の背中にいるルナを見た。
「その子がお前から離れたがらん。無理に連れていけば、お前への怒りがその子へ向くかもしれん。今の私たちでは、安全に連れていくと約束できん」
グロリアは倒れた男と、その隣にいるもう一人の男を見た。
老人の判断は正しいと思った。自分が同行しなければ、少なくとも自分への発砲は起きない。だが、ルナだけを預けても、そこには自分に仲間を殺された男がいる。ルナが自分から離れたがらないことも、すでに知られていた。
「分かった」
女がゆっくりとルナを降ろした。傷ついた脚に体重がかからないよう身体を支え、地面へ座らせる。ルナはすぐにグロリアへ両腕を伸ばした。
グロリアはその身体を抱き上げた。
「……グロリア」
「ルナ。大丈夫か」
首へ細い腕が回る。つい先ほどまで、もう背負う必要はないと思っていた重さだった。それが戻ってきた。
「すまんな」
老人が言った。
「なぜ謝る」
「その子を街まで連れていくと言った」
「事情が変わった。それだけだ」
「お前は変な娘だな」
「よく言われる」
老人の口元がわずかに動いたが、笑みにはならなかった。
「赤腕がどういうものかくらい、私たちも知っている」
グロリアの目が老人へ向いた。
「イルナの子供を連れ去り、ヴァルセナで育てる。自分たちの言葉を教え、自分たちの国を教え、最後には銃を持たせる。そうしてイルナへ戻ってきた者を、私たちは赤腕と呼ぶ」
「……そうか」
「お前もそうなんだろう」
「ああ。四歳だった」
老人の目がわずかに細くなった。
「家族は?」
「両親とも死んだ」
「ヴァルセナに?」
「そうだ」
老人はそれ以上聞かなかった。同情されるのかとグロリアは思ったが、その目にあったのはもっと複雑なものだった。
「なら、お前も奪われた側だ」
「だった、が正しい」
「なぜ過去形にする」
「昨日、私は奪う側にいた」
老人は黙った。
「私が四歳のときにされたことと、昨日ルナにしたことに、どれほど違いがあるのか分からない。私が連れ去られたからといって、昨日殺した人間が生き返るわけでもない」
グロリアは左腕の赤い布へ目を落とした。
「だから、それを外さんのか」
「外しても何も変わらない」
「そうかもしれんな」
老人は否定しなかった。
「気の毒だとは思う。だが、私たちも仲間を殺された」
その視線が、倒れた男へ落ちた。グロリアは老人の横顔を見た。
「それでも、私とは一緒に行けないんだろう」
「行けぬ」
老人は即答した。
「知っていることと、許せることは違う。許すことと、一緒に歩けることも違う」
「そうだな」
それでよかった。理解されたから仲間になれるわけではない。事情を知れば憎しみが消えるわけでもない。それなら、グロリアにも理解できた。
老人は倒れた男を見つめたまま続けた。
「こいつにも息子がいた」
グロリアの視線が男へ移る。
「十八だった。昨日、ヴァルセナに殺された」
「昨日?」
「ここから南西にある村だ。抵抗したらしい。撃たれて死んだ」
グロリアは何も言えなかった。男が自分へ向けた言葉を思い出す。
『こいつらが来なきゃ、こんなことにはならなかった』
あれはヴァルセナへの怒りだった。そして男の目には、赤い腕章を巻いたグロリアも、そのヴァルセナそのものに見えていたのだろう。
「私が殺したわけじゃない」
「分かっている」
「それでも、あの男には同じだったのか」
「それは本人にしか分からん。もう聞けんがな」
老人は静かに答えた。
グロリアは男の遺体を見つめた。名前も知らない。息子がいたことも、今知った。
ふと、昨夜照準器の向こうで倒れた男を思い出した。妻がいた。子供が二人いた。食卓を囲んで笑う写真まで見た。それでも、引き金は引けた。
今度は何も知らずに撃った。そして、殺したあとで知った。知ってから殺すことと、殺してから知ること。順番が違っても、死者は何も答えない。
「埋める」
老人が言った。荷物から折り畳み式のシャベルを取り出し、木々の間を見回す。道から少し離れた、土の柔らかい場所で足を止めた。
残った男が遺体の肩へ手を差し入れる。グロリアはルナを抱いたまま、一歩近づいた。
「運ぶなら――」
「いい」
男が低い声で言った。グロリアは足を止めた。
「触るな」
「……そうか」
それ以上は近づかなかった。
老人が戻り、男と二人で遺体を運んだ。交代で土を掘り、女も傍らで石や根を取り除いた。子供は荷物のそばに座り、誰にも話しかけず、その作業を見ていた。
グロリアは少し離れた場所で腰を下ろし、ルナを膝に抱いていた。手伝えることはある。周囲を警戒することも、土を掘ることもできる。だが、今は近づかないことを求められていた。
シャベルが石に当たる音が、何度も森に響いた。
木々の影が傾き始める頃、ようやく遺体を横たえられるだけの穴ができた。男は仲間の顔についた土を指で払い、しばらくその場を動かなかった。老人も急かさずに待っていた。
やがて穴が埋まり、土の色だけが周囲と違う場所が残った。
老人が立ち上がる。
「北東へ進め。さっき教えた街は本当にある。山を越えれば道も見つかる」
「分かった」
「ただ、ヴァルセナがいつまで来ないかは分からん」
「それで十分だ」
老人は頷いた。
グロリアはルナを背負い直した。細い腕が首へ回り、頬の近くに小さな呼吸が戻ってくる。
老人たちは東寄りの道へ進むことにしたらしい。同じ街を目指していたはずの一行が、グロリアたちと道を分けるために進路を変える。それを止める理由はなかった。
「行くぞ、ルナ」
「……うん」
グロリアは北東へ歩き出した。数歩進んでから、背中でルナが動いた。
「グロリア」
「なんだ」
「……重い?」
グロリアは少し考えた。
「重い」
背中の腕がわずかに緩んだ。
「でも、離すな」
ルナの腕が、もう一度しっかりと首へ回った。
グロリアは歩き続けた。自分で背負うと決めた命は、やはり重かった。




