第8話《北へ消えた》
街の灯りが見えなくなっても、森へ入っても、足を止めなかった。時折ルナの名を呼ぶと、肩口で小さな声がした。そのたびに、もう少し先へ進んだ。
腕時計が午前三時半を過ぎた。集合地点に自分はいない。ガルナも来ない。今頃は呼び出しが繰り返されているだろう。だが、もうその声は聞こえなかった。
やがて木々の向こうが薄く青み始めた。夜の黒が少しずつ形を失い、東の空に細い光が滲んでいく。
グロリアは足を止め、背中のルナを支え直した。眠っている。呼吸はまだ浅い。それでも生きていた。
昨日までなら、夜が明ければ次の命令が届いた。どこへ行き、何を守り、誰を殺すのか。それを自分で決める必要はなかった。けれど今朝は、命令に従って行き先を決めるつもりはなかった。
グロリアは白み始めた空を見上げた。そして初めて、自分で選んだ朝の向こうへ歩き出した。
――同じ頃、ネルヴァスク南区画に設けられた集合地点では、撤収を前にしたヴァルセナ兵たちが次々と帰還していた。
午前三時半を過ぎても戻らない兵士が二人いた。ガルナと、グロリア・レイス。
「まだ応答はないのか」
ヴァルセナ連邦軍、第九機動追跡隊の隊長を務めるレイヴ・オルディス少佐は、簡易指揮所の端末へ目を落とした。二十八歳の若い隊長は、帰還した兵士たちの喧騒の中でも落ち着いていた。
集合時刻を過ぎても戻らない二名について、司令部から確認を命じられていた。
「グロリアの端末は〇三一二を最後に反応なし。ガルナの端末は街外れの同じ地点から動いてません」
隣でシエナ・ヴェルク中尉が答える。二十一歳の副隊長は、画面上に二人の移動記録を並べた。端末を操作する指に迷いはない。
「最後の通信は」
「第三分隊との交信です。〇二四七。診療所を確認中と報告しています。そのときガルナと一緒かと聞かれて、『ああ』と」
「ガルナ本人の応答は?」
「ありません。その交信に答えたのはグロリアだけです」
レイヴは地図を拡大した。グロリアの位置情報は診療所を離れたあと北へ移動し、街の北端で途切れている。一方、ガルナの反応はそれより南、西寄りの街外れで止まったままだった。最後の交信が行われた時刻まで記録を戻しても、二つの位置は重ならない。
二人が一緒にいたのなら、位置が合わない。少なくとも、二人の端末は別々の場所にあった。
「ガルナのところへ行く」
レイヴが歩き出すと、シエナも端末を閉じて後を追った。
まだ夜の闇が濃い街には、焼けた臭いが残っていた。ところどころで炎が燻り、瓦礫の間を兵士たちが行き交っている。戦闘は終わっている。少なくともヴァルセナ軍の記録上、この街はすでに制圧済みだった。
ガルナの端末が示す場所は、一軒の焼けた小屋だった。入口近くに兵士が一人、前のめりに倒れている。
シエナが先に屈み、首筋へ指を当てた。
「死亡しています」
「確認を続けろ」
シエナは遺体を調べ、識別情報を照合した。
「ガルナ上等兵です」
二人で身体を仰向けにすると、額の傷が露わになった。一発だった。ガルナの長銃はすぐ脇の床に落ちている。周囲にはほかにも遺体があったが、この兵士の近くに、激しく争ったと分かる痕跡は見当たらなかった。
「綺麗に一発ですね。グロリアなら外さない」
「額に当てた。それだけでグロリアとは決められん」
シエナは傷からレイヴへ視線を移した。
「……それもそうですね」
レイヴはしゃがみ、ガルナの軍装と、その周囲を確かめた。衣服に大きな乱れはない。正面から撃たれたらしいことは分かる。だが、相手との距離も、撃たれる直前に何をしていたのかも、この場を見ただけでは断定できなかった。
「隊長。グロリアがやったと思います?」
「分からん」
「ガルナの監視対象はグロリアです。二人は行動を共にしていた。ガルナはここで死んで、グロリアは集合命令を無視して北へ向かった。そのうえ端末まで切ってる。疑うには十分かと」
「疑うにはな」
レイヴは立ち上がった。
「だが、グロリアは気に入らない相手を殺すような兵士じゃない。命令に疑問を持つことはあっても、それを理由に任務を放棄する人間でもなかった」
シエナがガルナの遺体を見る。
「でも、実際に消えました」
「だから分からんと言っている」
レイヴは小屋の中へ視線を巡らせた。割れた食器、倒れた椅子、折り重なった遺体。戦闘と火災の痕跡の中から、ガルナの死に繋がるものを見分けなければならない。
「上には、どう報告します?」
「確認できたことを報告しろ。ガルナ上等兵死亡。グロリア・レイスは所在不明。軍用端末の信号は街の北端で消失」
「グロリアが殺した可能性は?」
「容疑と事実を分けろ。まだ分からないことを事実にするな」
「でも、上はそう考えるでしょうね」
「だろうな」
ガルナの監視対象だった兵士が消え、監視役だけが頭を撃ち抜かれている。集合命令には現れず、端末の信号も途絶えた。疑うなという方が無理だった。それでも、疑いだけでは何が起きたかは分からない。
レイヴは遺体と現場の保全を手配し、小屋を出た。
「シエナ。診療所へ行く」
シエナが端末を開いた。
「グロリアが最後に通信した場所ですね」
「そこで何をしていたのか確認する。位置記録どおりなら、この小屋を出たあとに立ち寄っている」
「何か残ってると思います?」
「残っているかどうかを確かめるのが仕事だ」
シエナは肩をすくめ、レイヴのあとを追った。
数分後、二人は半ば焼け落ちた診療所へ入った。
レイヴは入口で足を止めた。薬品棚が開いている。洗浄液の容器や被覆材の包装が、診察台のそばに残されていた。床には切り取られた衣服の一部と、血を拭った布が落ちている。
「グロリアが怪我してたって報告、ありました?」
「ない」
シエナが診察台へ近づき、残された血痕を見る。
「報告しなかっただけかもしれませんけど」
「その可能性はある」
レイヴは床へ屈み、切り取られた衣服へ目を向けた。ズボンの裾らしかった。縦に切り開かれた布を拾い、元の形を確かめるように切り口を合わせる。脚を通すには細すぎる。少なくとも、大人の軍服ではなかった。
「……子供?」
シエナの声が低くなった。
「おそらくな」
「じゃあ、治療を受けたのは」
「この服の持ち主かもしれん」
レイヴは布の位置を記録させ、元の場所へ戻した。小さな服と血のついた布、使われた処置用品。それだけなら、診療所に残っていても不思議ではない。いつ、誰が使ったのかはまだ分からなかった。
だが、グロリアはここにいた。
レイヴは備蓄庫へ目を向けた。扉は開いており、水と保存食の入った箱が残っている。いくつかは開封されていたが、元の量が分からなければ、何がどれだけ持ち出されたかまでは判断できない。
「食料もありますね」
シエナが棚を覗き込んだ。
「北へ逃げるつもりなら、ここで調達できます」
「水もな」
「負傷した子供を連れていたとしたら、立ち寄る理由にはなる」
レイヴは頷き、診療所の奥から入口までをゆっくり見渡した。
グロリアは北へ向かい、その端末の信号が途絶えた。その前に立ち寄った診療所には、子供が手当てを受けたらしい痕跡がある。一方で、移送対象の児童を確保したという報告は届いていない。
「一人じゃなかったんでしょうか」
「そう考えれば、確かめることは増える」
レイヴはシエナへ向き直った。
「児童の選別記録と、各部隊の通信記録を照合しろ。グロリアがここへ来るまでに、誰かを見つけていなかったか調べる」
「イルナの子供を、ですか」
「この街の住人ならな」
シエナは端末へ指を走らせた。レイヴはもう一度、小さな衣服の切れ端を見た。
――グロリアはイルナ出身だった。だから同じ出自の子供を助けたのか。そう考えるのは簡単だ。だが、それで説明がつくのなら、なぜ彼女は昨日までヴァルセナの兵士として戦えていたのか。
ここで何かが変わった。あるいは、小屋の中ですでに変わっていた。
「……なるほど」
「何がです?」
「理由だ。グロリアが消えた理由が、少し見えてきた」
レイヴは診療所を出た。シエナが後を追う。
「だったら、なおさら追うんですか?」
「追う」
「子供を助けただけかもしれないのに?」
レイヴは足を止めなかった。
「かもしれん。だが、兵士が一人死んでいる。それを置き去りにはできない」
東の空は、わずかに青みを帯び始めていた。
「第九機動追跡隊を出す。グロリア・レイスを見つける」
「捕まえるんじゃなく?」
「まず見つける」
レイヴは街の北に広がる森を見た。
「そのあとで、本人に聞く」




