第7話《生かすための嘘》
焼けた小屋を出ると、夜の街にはまだ火が残っていた。崩れた家々の隙間で赤い炎が揺れ、黒煙が低く垂れ込めている。遠くではヴァルセナ兵の声と武装ユニットの駆動音が聞こえていた。
グロリアは瓦礫の陰へ身を寄せた。背中のルナは軽い。それでも数歩進むたび、首に回された腕から少しずつ力が抜けていくのが分かった。
「ルナ。起きてるか」
「……うん」
「眠るな」
「……眠い」
「駄目だ。もう少し起きていろ」
返事はなかった。グロリアは振り返れないまま、腿を支える手に力を込めた。首筋に触れるルナの頬が熱い。先ほどの冷たさとは違う。傷の状態を、明るい場所でもう一度確かめる必要があった。
生かすと決めた。ならば、まず治療が必要だった。
グロリアは記憶の中から、進軍中に確認した街の構造を呼び起こした。三本先の通りに診療所があったはずだ。制圧前の地図にも医療施設として登録されていた。すでに捜索された可能性は高いが、薬品まで回収されているとは限らない。
大通りを避け、建物の裏を進む。途中、ヴァルセナ兵が二人通り過ぎた。グロリアは崩れた塀の陰で息を潜めた。見つかれば説明を求められる。イルナ人の少女を背負っている理由を、今の自分には説明できない。兵士たちが遠ざかってから、再び歩き出した。
診療所は半分が焼け落ちていた。入口の扉は吹き飛び、壁には無数の弾痕が残っている。中へ入ると受付の奥に白衣を着た男が倒れていた。グロリアは一瞥し、その横を通り過ぎる。
「降ろすぞ」
ルナを診察台へ慎重に降ろし、傷ついた脚を伸ばして座らせた。長銃を手の届く場所へ立て掛け、残っていた照明をつける。薬品棚のいくつかは割れていたが、使えるものは残っていた。洗浄液、止血用の被覆材、包帯。軍で扱いを習ったものを選び、診察台の上へ並べた。
服の破れた部分を切り開き、傷口にかかる布地を切り取ると、脚の傷が露わになった。血と煤がこびりつき、その周囲は赤く腫れている。
「触るぞ」
「……痛い?」
「痛い」
ルナの顔が曇った。
「嘘をついても仕方ないだろう」
「……やだ」
「私もやりたくない。だが、このままにはできない」
ルナはしばらく傷口とグロリアを交互に見ていたが、やがて目を閉じた。
「……やって」
「ああ」
傷を洗い始めると、ルナの身体が強張った。声を上げまいとしているのか、唇を強く噛んでいる。
「我慢しなくていい」
「……いたい」
「知ってる」
「いたい……」
「ああ。もう少しだ」
グロリアは傷口を確かめながら処置を進め、新しい包帯を巻いた。腫れた脚には固定具を添える。治療の専門家ではない。軍で習った応急処置に過ぎず、これで治るわけでもなかった。それでも、血に汚れたまま背負い続けるよりはいい。
処置を終える頃には、ルナの額に汗が浮かんでいた。
「終わった」
「……もう痛くしない?」
「今はな」
グロリアは立ち上がり、診療所の奥を探した。給水設備は止まっていたが、備蓄庫から密封された水を数本見つけた。保存食もある。棚の下には物資の運搬に使う背嚢があった。中を確かめ、必要な分の水と食料、予備の包帯を詰める。薬品は表示を確認し、自分で扱いを判断できないものには手を出さなかった。
空だった水筒を満たし、ルナにも少しずつ水を飲ませた。
そのとき、通信機が鳴った。
《グロリア、応答しろ》
手が止まる。
《グロリア。こちら第三分隊。応答しろ》
ルナが通信機を見る。グロリアは数秒考えてから回線を開いた。
「こちらグロリア」
《どこにいる。ガルナと一緒か?》
答えはすぐに出なかった。ガルナは焼けた小屋で死んでいる。自分の短銃で撃たれた。撃った少女は今、目の前にいる。
「……ああ」
自分の口から出た言葉を、グロリアは妙な気分で聞いた。
《生存者確認は終わったか?》
「まだだ。診療所を確認している」
《急げ。〇三三〇までに南区画へ集合しろ。撤収準備に入る》
「了解」
回線を閉じた。
嘘をついた。それだけのことなのに、人を殺したときよりも胸の奥に奇妙な感覚が残った。命令に疑問を持ったことは何度もある。ガルナへの報告をごまかしたこともある。しかし、ヴァルセナ軍そのものを欺くために嘘をついたのは初めてだった。
ルナがこちらを見ている。
「何だ」
「……ガルナ、いるって言った」
「ああ」
「……死んでるよ」
「知ってる。目の前で見ていた」
「……嘘?」
グロリアは少し考えた。
「ああ。嘘だ」
「嘘ついたら、怒られる?」
「場合によっては殺される」
ルナの目がわずかに大きくなった。
「……ごめんなさい」
思いがけない言葉に、グロリアは眉を寄せた。
「なぜお前が謝る」
「ルナが……撃ったから」
グロリアは少し黙った。
「ガルナを撃ったのはお前だ。だが、今嘘をついたのは私だ」
「……でも」
「別の話だ。お前が謝ることじゃない」
それだけ言って、グロリアは通信機へ手を掛けた。
位置情報を送っているのは軍用端末だ。通信機を外しただけでは追跡を止められない。端末の送信を止めれば、今度はそれ自体が異常として扱われる可能性がある。
今はまだ、切るべきではない。
集合時刻までは、捜索を続けていると思わせられるかもしれない。ただし、位置を確認されれば、どちらへ進んでいるかは分かる。稼げる時間がどれほどあるかは、軍がいつ自分に注意を向けるか次第だった。
グロリアはルナの包帯を確かめた。新たに血が滲んでくる様子はない。呼びかけると、ルナは顔を上げた。まだ疲れ切っているが、ここへ来たときより返事ははっきりしていた。
「ルナ、歩けるか」
診察台の縁へ寄ったルナを支え、床へ降ろす。足が触れた瞬間、ルナは顔を歪め、グロリアの腕へ体重を預けた。
「無理だな」
「……歩ける」
「今、脚に力が入らなかっただろう」
「……歩ける」
「そういうのを歩けないと言う」
グロリアはルナを座らせ直し、背嚢を胸側へ掛けた。長銃は身体の脇へ回し、負い紐を短く調整する。それからルナへ背を向け、身を低くした。
「また乗れ」
ルナは今度は迷わなかった。細い腕が首へ回る。グロリアは脚を支え、ゆっくりと立ち上がった。
診療所を出ると、夜はさらに深くなっていた。
グロリアは南へ向かわなかった。集合地点とは反対へ進み、焼けた街の北側を目指した。そこから先の地形は頭に入っている。丘陵を越えれば森林地帯が広がる。木々や起伏を使えば、開けた荒野よりは身を隠せるはずだった。
誰かに見つかれば終わる。それでも足は止めなかった。
街の外れまで来たところで、グロリアは崩れた建物の陰へ入り、端末の地図を開いた。森までの道筋と、その先の地形をもう一度頭へ入れる。画面の隅では、自分の位置を示す印が点滅していた。
これまでは、味方が自分を見失わないための印だった。今は、自分を見つけるための印になる。
グロリアは端末の電源を落とし、通信機とともに身体から外した。捜索を続けていると思わせるために端末を持ち歩くのは、ここまでだ。建物の床下にできた隙間へ押し込み、立ち上がる。
異常を悟られるかもしれない。だが、これから進む道まで知らせ続けるわけにはいかなかった。
グロリアは一度だけ振り返った。夜空の下で、イルナの街が赤く燃えている。昨日まで、そこに人が暮らしていた。食事をし、眠り、朝になれば目を覚ます。それだけの生活があったはずだ。
その街を焼いた側の人間が、そこから一人の少女を背負って逃げようとしている。
何をしているのだろう、とグロリアは思った。自分でも分からない。ただ、背中から伝わる呼吸だけは確かだった。
「……グロリア」
「なんだ」
「……眠い」
グロリアは歩調を緩めた。肩越しに届く声は小さいが、先ほどのように途切れはしない。
「寝ていい。ときどき呼ぶから、返事はしろ」
「さっき、寝るなって……」
「さっきとは状況が違う」
「……変なの」
「ああ。私もそう思う」
やがて首に回された腕から力が抜け、ルナの呼吸が一定になった。グロリアはその身体を支え直し、歩き続けた。




