第6話《背負った命》
ルナは何も言わなかった。銃口を向けられているというのに逃げようともせず、ただグロリアを見上げている。
やがて、その頬を何かが流れた。血だと思った。違った。涙だった。一筋、また一筋と、煤に汚れた頬に細い跡を作っていく。ルナは声を上げなかった。顔を歪めることもなく、ただ銃口を見つめながら泣いていた。
グロリアが初めて見る、ルナの涙だった。
この街でルナがどう生きていたかなんて、グロリアは知らない。男の亡骸の下から見つけたときも、周囲に転がる死体を見せたときも、ルナは泣かなかった。水を欲しがった。腹が減ったと言った。そして、自分を殺そうとしたガルナを撃った。それでも泣かなかった少女が、今、自分の向けた銃の前で泣いている。
「……死にたくない」
かすかな声だった。グロリアの指が止まった。ルナは自分が口にした言葉の意味を確かめるように、もう一度唇を動かした。
「……死にたくない……」
死ぬって何?
そう尋ねた少女が、死というものを理解したのだろうか。いや、違う。理解などしていなくても、怖いのだ。自分へ向けられた銃口が。その先にあるものが。
生きるとは何かを知らなくても、人間は生きようとする。死とは何かを知らなくても、死にたくないと思う。それで十分なのではないか。
グロリアの銃口が、わずかに下がった。
視界の端に、ガルナの身体が入る。額から流れていた血は床へ落ち、小さな染みを広げていた。グロリアは再び短銃を持ち上げた。ルナの身体が小さく震える。
今ここで撃てば、すべて終わる。ガルナを殺したイルナ人の少女を処分した。それだけのことだ。
報告すればいい。生存者一名を確認。移送基準を満たさず。ガルナ上等兵は対象の抵抗により死亡。対象はその場で排除。
事実と大きく違ってはいない。武器を奪われた責任は問われるだろう。だが、命令に背いたことにはならない。ルナも苦しまずに済む。合理的だった。むしろ、撃たない理由の方が見つからない。
グロリアは引き金へ指を添えた。ルナは目を閉じなかった。涙を流しながら、黄金色の瞳を見つめている。その目を見たまま、グロリアは考えた。
なぜ撃てない。
今日殺した者たちとの違いは何だ。敵ではないからか。子供だからか。名前を知っているからか。
――違う。
どれも理由にならない。子供であっても敵になることはある。名前なら照準器の向こうにいた男のものも知っていた。敵でない人間を殺す命令だって、ヴァルセナでは珍しいことではない。
――では、なぜ。
ルナの唇が震えていた。
「……グロリア……」
自分の名前だった。グロリアは息を止めた。ルナが初めて、自分の名前を呼んだ。いつ教えたのだろうと思った。思い返して、ガルナが何度も呼んでいたことに気づく。
たったそれだけのことだった。それなのに、銃口が下がった。
「……どうして私の名前を呼ぶ」
ルナは答えない。
「私たちが、この街を焼いたんだぞ」
言葉にしてから、胸の奥に何かが沈んだ。
「お前をこんな目に遭わせたのも、ヴァルセナだ。私はその兵士だ。今日、この街で何人も殺した」
ルナは聞いているのか分からない。ただ泣いている。
「なのに、どうして私を見る」
返事はなかった。当たり前だった。六歳の少女に答えられるはずがない。グロリア自身にも答えられない問いを投げている。
視線を落とす。ルナの指が、床の上をわずかに動いた。先ほどまでグロリアの袖を掴んでいた手だった。今はもう届かない。
グロリアは短銃を見つめた。人間を殺す道具。それ以上でも、それ以下でもない。今日一日、自分は銃で何人もの命を奪った。そして今、同じ道具を六歳の少女へ向けている。
法も命令も、殺してよい理由もある。それでも撃てない。
――ならば。
グロリアは初めて、自分の中に生まれた答えをそのまま受け入れた。撃ちたくないのだ。理由など、そのあとで考えればいい。
グロリアは短銃を下ろした。
「……分かった」
ルナが涙に濡れた顔を上げる。
「お前を殺さない」
口にした瞬間、それが何を意味するのかをグロリアは理解していた。ガルナは死んだ。殺したのはルナだ。ヴァルセナへ連れて戻れば、この子は処分される。真実を報告すれば、それで終わりだ。
ならば、生かすためには隠さなければならない。この少女を。ガルナが死んだ理由を。そして場合によっては、自分自身さえもヴァルセナから。
たった一人の命のために、これまで自分を生かしてきた世界を敵に回すことになるかもしれない。合理的ではない。得るものより、失うものの方がはるかに多い。グロリアはそんな選択をする人間を、これまで愚かだと思っていた。
それでも、目の前には水を飲んだ少女がいる。パンを食べた少女がいる。人を殺してまで、生き残った少女がいる。そして今、涙を流しながら死にたくないと言った。
「ルナ」
グロリアは短銃の引き金から指を外した。
「生きたいんだな」
ルナはしばらくグロリアを見つめていた。やがて、小さく頷いた。それだけだった。グロリアは息を吐き、床に置かれた装備ベルトのホルスターへ短銃を戻した。
「なら、生きろ」
それは命令ではなかった。少なくともグロリアが生まれて初めて、誰かに与えた、生きることを許す言葉だった。
――生きろ。
随分と無責任な言葉だった。ルナは立つことすらできない。この街には生き延びるだけの水も食料もなく、治療を受けられる場所もない。自分がここを出れば、おそらく今日か明日には死ぬ。
殺さなければ生かしたことになるわけではない。
グロリアは残った乾パンを包み直して携行食の袋へ収め、空の水筒を拾った。装備ベルトを腰へ締め直し、長銃の負い紐を肩に掛けて銃を身体の脇へ回す。
それからルナへ背を向け、床近くまで身を低くした。
「乗れ」
ルナは涙を流したまま、グロリアの背中を見つめている。
「生きたいんだろ。だったら掴まれ」
しばらくして、細い腕が恐る恐るグロリアの首へ回った。グロリアは両手を後ろへ差し入れ、傷ついた脚を揺らさないよう腿の下から支えた。身体を持ち上げると、あまりの軽さに驚く。先ほど抱き上げたときにも感じたはずなのに、今はその軽さが妙に重かった。
立ち上がったグロリアは、床に倒れたガルナを見た。顔は床へ伏せられ、もう表情は見えない。自分を睨み、怒鳴りつけていた男が、ほかの遺体と同じように動かなくなっている。
背中でルナが身じろぎした。グロリアはその身体を支え直し、ガルナの脇を通り過ぎた。入口へ向かう足を止める声は、もう聞こえなかった。
「しっかり掴まってろ」
返事はない。ただ、首に回された腕に少しだけ力が入った。
これまでグロリアは、行けと言われた場所へ行き、殺せと言われた人間を殺してきた。そこに疑問を持つことはあっても、命令とは別の道を選んだことはない。
けれど今度は、誰にも命じられていない。
背中に一人の命を乗せ、グロリアは焼けた小屋を出た。




