第5話《命の違い》
先ほどまで、この子の名前も知らなかった。今はルナと知っている。水を飲むときにむせることも、乾パンをゆっくり噛むことも、自分の袖を掴む力がまだ残っていることも。
そして今から、その少女をこの焼けた街に置いていく。
グロリアは初めて、自分がしたことを後悔した。
今日、何人殺したのかは覚えていない。照準器の向こうで撃ち抜いた男にも女にも、後悔はなかった。殺すべき相手だったから殺した。それが正しいかどうかを考えることと、引き金を引くことは別の話だった。
なのに今は、一人の少女に水を飲ませ、乾パンをひとかけら食べさせたことを後悔している。
人を殺したことではなく。人を生かしたことを。その矛盾を、グロリアはうまく説明できなかった。ただ、目の前のルナを見ていると、胸の奥にこれまで知らなかった何かが残った。
グロリアはそれが何なのか考えようとして、やめた。立ち上がればいい。そしてこの小屋を出る。それだけで終わる。
それなのに、膝は動かなかった。指先には乾パンの粉が残っている。ルナはまだ、その手を見ていた。
ルナはここで死ぬ。自分は次の命令に従う。それが、これまで生きてきた世界の規則だった。
そのとき、小屋の外から瓦礫を踏み砕く音が聞こえた。
グロリアが振り返る。
焼け落ちた入口に、一人の男が立っていた。
「何してる、グロリア」
ガルナだった。
「生存者を確認していた」
「そいつか?」
「ああ」
ガルナはルナへ近づき、値踏みするように見下ろした。ルナは逃げようともせず、ただ灰色の瞳で男を見上げている。
「ひでぇな。歩けるのか?」
「無理だろう」
「なら移送対象外だ。殺せ」
ガルナはそれだけ言うと、グロリアを見た。
あまりにも簡単な言葉だった。
グロリアは何も答えなかった。
「聞こえなかったのか? そいつは連れていけない。置いていってもどうせ死ぬ。なら規定どおり処理しろ」
「……分かっている」
「なら早くしろ。まだ確認する区画が残ってる」
正しい。少なくとも、ヴァルセナの兵士としては。
グロリア自身、少し前まで同じことを考えていた。このままルナを置いていけば、おそらく朝までもたない。治療を受けられる可能性もなければ、食料を得る術もない。
それなら、ここで終わらせた方がいい。苦しむ時間も短くて済む。なにより、その時間を延ばしてしまったのは自分だった。
水を与えた。パンを与えた。死にかけていた命を、ほんの少しだけ先へ押してしまった。ならば、それを終わらせることまでが自分の責任なのかもしれない。
グロリアは長銃へ手を伸ばした。
その動きを見ていたルナが、グロリアの袖を掴んだ。弱い力だった。振り払おうと思えば、簡単に振り払える。それなのにグロリアの手が止まった。
「どうした」
ガルナの声が低くなる。
「……この子は生きようとしてる」
「は?」
ガルナが眉を寄せた。
「何を言っている」
「水を欲しがった。だから私は水を与えた。腹が減ったと言ったから、パンを与えた」
「それがどうした」
グロリアはルナを見る。
灰色の瞳がこちらを見上げていた。
「この状況でだ。街は焼かれた。周りには死体しかない。自分もまともに動けない。それでも水を飲んだ。パンを食べた。もっと食べたいと言った」
「だからなんだ」
「この子は、生きる方を選んでいる」
ガルナはしばらく黙っていた。
やがて鼻で笑う。
「お前、本気で言ってんのか?」
「私にも分からない」
「何が分からないんだ。そいつは助からねぇ。連れて帰る価値もない。だったら殺す。それだけだろ」
「分かってる」
「分かってねぇから撃てないんだろうが!」
怒声が小屋の壁を震わせた。
ルナの指が、グロリアの袖を少しだけ強く掴む。その感触が伝わってくる。
グロリアは今日、何人もの人間を殺した。
相手が敵であることに疑いはなかった。自分へ銃を向ける者、味方を攻撃する者、ヴァルセナの進軍を阻む者。それらを排除することに疑問は持っても、躊躇したことはなかった。
殺すこと自体は難しくない。引き金を引けばいい。それだけのことだ。
なのに今、その簡単な動作ができない。
「……死にかけている人間を殺すことと、生きようとしている人間を殺すことは、同じなのか?」
ガルナは即答した。
「死ねば同じだ」
グロリアは黙った。確かにそうかもしれない。死という結果だけを見れば、違いなどない。
袖を掴む指は震えていた。浅い呼吸に合わせて、血に汚れた胸元が小さく上下している。グロリアがわずかに腕を動かすと、その指は布地を手繰り寄せた。
生きるということが何なのか、この子自身は知らないのかもしれない。「死ぬって何?」と尋ねるほど幼いのだから。
それでも身体は知っている。喉が渇けば水を求め、腹が減れば食べ物を求め、危険を感じれば誰かに縋る。生きたいと口にすることだけが、生きる意思なのだろうか。
「くだらねぇ」
ガルナが吐き捨てた。
「戦場でガキ一人拾ったくらいで何を考え込んでやがる。お前、今まで何人殺したと思ってる」
「覚えていない」
「だったら一人増えたところで同じだろ」
その言葉に、グロリアは顔を上げた。一人増えたところで同じ。確かに昨日までなら、そう考えただろう。
だが、今は違う。
「同じじゃない」
「あ?」
「先ほどまで、この子の名前を知らなかった」
グロリアは静かに言った。
「今は知っている」
ガルナの表情が歪む。
「……頭でも打ったか?」
「かもしれない」
口にしてから、それでは理由にならないと思った。名前なら、今日撃った男の名前も知っていた。妻がいることも、二人の子供がいることも。それでも殺せた。
なのに、なぜこの子だけが違う。
触れたからなのか。自分の水を飲み、自分の食べ物を口にしたからなのか。照準器の向こうにいた男も、こうして目の前で袖を掴んでいたなら、自分は撃てなかったのだろうか。
それとも、四歳のあの日、ヴァルセナ兵に選別され、生かされた自分と重ねているだけなのか。
「もういい」
ガルナが長銃を持ち上げた。
「お前がやらねぇなら、オレがやる」
「待て」
「どけ」
ガルナが一歩踏み出す。
グロリアはルナの前に膝をついたまま、動かなかった。
「おい、グロリア」
「……待てと言っている」
「命令違反するつもりか?」
その問いに、答えは出なかった。命令に背く理由を、グロリアはまだ言葉にできない。
袖を引いていた力が緩んだ。グロリアはルナへ目を戻しかけたが、ガルナが横へ動き、その姿を追った。
「チッ。面倒くせぇな」
ガルナはグロリアの右側へ回り込み、その肩の脇からルナへ銃口を向けた。
その瞬間だった。
乾いた銃声が、小屋の中で炸裂した。
「っ……!」
グロリアの右耳を激しい耳鳴りが貫いた。
近い――あまりにも近い銃声だった。
何が起きた。そう考えたときには、ガルナの身体が揺れていた。
「……ぁ?」
額の中央に、小さな穴が開いている。そこから一筋の血が流れ、眉間を通り、鼻筋を赤く染めていく。長銃が手から滑り落ちた。
ガルナは何かを言おうと口を動かしたが、声にはならなかった。そのまま膝が折れ、前のめりに床へ倒れる。
グロリアは動けなかった。右耳では甲高い音が鳴り続けている。誰が撃った。小屋の中にいるのは、自分とガルナとルナ。
グロリアはゆっくりとルナを振り返った。床に置いた装備ベルト。ホルスターが空になっている。そして、そのすぐ傍ら。
ルナが短銃を握っていた。
小さな両手で、グロリアの銃を抱えるようにして持っている。反動に耐えられなかったのか腕は下がり、銃口から細い煙が立ち昇っていた。
ルナは倒れたガルナを見ていた。自分が何をしたのか理解しているのか、その灰色の瞳からは読み取れない。やがてルナはグロリアを見上げた。
「……お前」
グロリアの表情が変わった。
「お前! なんてことをした!」
ルナの手から短銃を奪い取る。気づけば、その銃口をルナへ向けていた。
ルナは逃げなかった。ただ、先ほどまでと同じ灰色の瞳でグロリアを見上げている。
「人を殺したんだぞ!」
叫んだ瞬間、グロリア自身が言葉を失った。
人を殺した。
今日、自分が何度繰り返したのかも覚えていないことを、六歳の少女に向かって責めている。
短銃を握る手が震えた。




