↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅月下のGloria   作者: ユノ・サカリス
第一章《命令の外側》

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/25

第5話《命の違い》

 先ほどまで、この子の名前も知らなかった。今はルナと知っている。水を飲むときにむせることも、乾パンをゆっくり噛むことも、自分の袖を掴む力がまだ残っていることも。


 そして今から、その少女をこの焼けた街に置いていく。


 グロリアは初めて、自分がしたことを後悔した。


 今日、何人殺したのかは覚えていない。照準器の向こうで撃ち抜いた男にも女にも、後悔はなかった。殺すべき相手だったから殺した。それが正しいかどうかを考えることと、引き金を引くことは別の話だった。


 なのに今は、一人の少女に水を飲ませ、乾パンをひとかけら食べさせたことを後悔している。


 人を殺したことではなく。人を生かしたことを。その矛盾を、グロリアはうまく説明できなかった。ただ、目の前のルナを見ていると、胸の奥にこれまで知らなかった何かが残った。


 グロリアはそれが何なのか考えようとして、やめた。立ち上がればいい。そしてこの小屋を出る。それだけで終わる。


 それなのに、膝は動かなかった。指先には乾パンの粉が残っている。ルナはまだ、その手を見ていた。


 ルナはここで死ぬ。自分は次の命令に従う。それが、これまで生きてきた世界の規則だった。


 そのとき、小屋の外から瓦礫を踏み砕く音が聞こえた。


 グロリアが振り返る。


 焼け落ちた入口に、一人の男が立っていた。


「何してる、グロリア」


 ガルナだった。


「生存者を確認していた」


「そいつか?」


「ああ」


 ガルナはルナへ近づき、値踏みするように見下ろした。ルナは逃げようともせず、ただ灰色の瞳で男を見上げている。


「ひでぇな。歩けるのか?」


「無理だろう」


「なら移送対象外だ。殺せ」


 ガルナはそれだけ言うと、グロリアを見た。


 あまりにも簡単な言葉だった。


 グロリアは何も答えなかった。


「聞こえなかったのか? そいつは連れていけない。置いていってもどうせ死ぬ。なら規定どおり処理しろ」


「……分かっている」


「なら早くしろ。まだ確認する区画が残ってる」


 正しい。少なくとも、ヴァルセナの兵士としては。


 グロリア自身、少し前まで同じことを考えていた。このままルナを置いていけば、おそらく朝までもたない。治療を受けられる可能性もなければ、食料を得る術もない。


 それなら、ここで終わらせた方がいい。苦しむ時間も短くて済む。なにより、その時間を延ばしてしまったのは自分だった。


 水を与えた。パンを与えた。死にかけていた命を、ほんの少しだけ先へ押してしまった。ならば、それを終わらせることまでが自分の責任なのかもしれない。


 グロリアは長銃へ手を伸ばした。


 その動きを見ていたルナが、グロリアの袖を掴んだ。弱い力だった。振り払おうと思えば、簡単に振り払える。それなのにグロリアの手が止まった。


「どうした」


 ガルナの声が低くなる。


「……この子は生きようとしてる」


「は?」


 ガルナが眉を寄せた。


「何を言っている」


「水を欲しがった。だから私は水を与えた。腹が減ったと言ったから、パンを与えた」


「それがどうした」


 グロリアはルナを見る。


 灰色の瞳がこちらを見上げていた。


「この状況でだ。街は焼かれた。周りには死体しかない。自分もまともに動けない。それでも水を飲んだ。パンを食べた。もっと食べたいと言った」


「だからなんだ」


「この子は、生きる方を選んでいる」


 ガルナはしばらく黙っていた。


 やがて鼻で笑う。


「お前、本気で言ってんのか?」


「私にも分からない」


「何が分からないんだ。そいつは助からねぇ。連れて帰る価値もない。だったら殺す。それだけだろ」


「分かってる」


「分かってねぇから撃てないんだろうが!」


 怒声が小屋の壁を震わせた。


 ルナの指が、グロリアの袖を少しだけ強く掴む。その感触が伝わってくる。


 グロリアは今日、何人もの人間を殺した。


 相手が敵であることに疑いはなかった。自分へ銃を向ける者、味方を攻撃する者、ヴァルセナの進軍を阻む者。それらを排除することに疑問は持っても、躊躇したことはなかった。


 殺すこと自体は難しくない。引き金を引けばいい。それだけのことだ。


 なのに今、その簡単な動作ができない。


「……死にかけている人間を殺すことと、生きようとしている人間を殺すことは、同じなのか?」


 ガルナは即答した。


「死ねば同じだ」


 グロリアは黙った。確かにそうかもしれない。死という結果だけを見れば、違いなどない。


 袖を掴む指は震えていた。浅い呼吸に合わせて、血に汚れた胸元が小さく上下している。グロリアがわずかに腕を動かすと、その指は布地を手繰り寄せた。


 生きるということが何なのか、この子自身は知らないのかもしれない。「死ぬって何?」と尋ねるほど幼いのだから。


 それでも身体は知っている。喉が渇けば水を求め、腹が減れば食べ物を求め、危険を感じれば誰かに縋る。生きたいと口にすることだけが、生きる意思なのだろうか。


「くだらねぇ」


 ガルナが吐き捨てた。


「戦場でガキ一人拾ったくらいで何を考え込んでやがる。お前、今まで何人殺したと思ってる」


「覚えていない」


「だったら一人増えたところで同じだろ」


 その言葉に、グロリアは顔を上げた。一人増えたところで同じ。確かに昨日までなら、そう考えただろう。


 だが、今は違う。


「同じじゃない」


「あ?」


「先ほどまで、この子の名前を知らなかった」


 グロリアは静かに言った。


「今は知っている」


 ガルナの表情が歪む。


「……頭でも打ったか?」


「かもしれない」


 口にしてから、それでは理由にならないと思った。名前なら、今日撃った男の名前も知っていた。妻がいることも、二人の子供がいることも。それでも殺せた。


 なのに、なぜこの子だけが違う。


 触れたからなのか。自分の水を飲み、自分の食べ物を口にしたからなのか。照準器の向こうにいた男も、こうして目の前で袖を掴んでいたなら、自分は撃てなかったのだろうか。


 それとも、四歳のあの日、ヴァルセナ兵に選別され、生かされた自分と重ねているだけなのか。


「もういい」


 ガルナが長銃を持ち上げた。


「お前がやらねぇなら、オレがやる」


「待て」


「どけ」


 ガルナが一歩踏み出す。


 グロリアはルナの前に膝をついたまま、動かなかった。


「おい、グロリア」


「……待てと言っている」


「命令違反するつもりか?」


 その問いに、答えは出なかった。命令に背く理由を、グロリアはまだ言葉にできない。


 袖を引いていた力が緩んだ。グロリアはルナへ目を戻しかけたが、ガルナが横へ動き、その姿を追った。


「チッ。面倒くせぇな」


 ガルナはグロリアの右側へ回り込み、その肩の脇からルナへ銃口を向けた。


 その瞬間だった。


 乾いた銃声が、小屋の中で炸裂した。


「っ……!」


 グロリアの右耳を激しい耳鳴りが貫いた。


 近い――あまりにも近い銃声だった。


 何が起きた。そう考えたときには、ガルナの身体が揺れていた。


「……ぁ?」


 額の中央に、小さな穴が開いている。そこから一筋の血が流れ、眉間を通り、鼻筋を赤く染めていく。長銃が手から滑り落ちた。


 ガルナは何かを言おうと口を動かしたが、声にはならなかった。そのまま膝が折れ、前のめりに床へ倒れる。


 グロリアは動けなかった。右耳では甲高い音が鳴り続けている。誰が撃った。小屋の中にいるのは、自分とガルナとルナ。


 グロリアはゆっくりとルナを振り返った。床に置いた装備ベルト。ホルスターが空になっている。そして、そのすぐ傍ら。


 ルナが短銃を握っていた。


 小さな両手で、グロリアの銃を抱えるようにして持っている。反動に耐えられなかったのか腕は下がり、銃口から細い煙が立ち昇っていた。


 ルナは倒れたガルナを見ていた。自分が何をしたのか理解しているのか、その灰色の瞳からは読み取れない。やがてルナはグロリアを見上げた。


「……お前」


 グロリアの表情が変わった。


「お前! なんてことをした!」


 ルナの手から短銃を奪い取る。気づけば、その銃口をルナへ向けていた。


 ルナは逃げなかった。ただ、先ほどまでと同じ灰色の瞳でグロリアを見上げている。


「人を殺したんだぞ!」


 叫んだ瞬間、グロリア自身が言葉を失った。


 人を殺した。


 今日、自分が何度繰り返したのかも覚えていないことを、六歳の少女に向かって責めている。


 短銃を握る手が震えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。