第4話《生きるということ》
焼け落ちた屋根から細い煙が入り込み、薄暗い室内を漂っている。割れた食器、倒れた椅子、煤に汚れた衣服。壁際には数人の遺体が折り重なるように倒れていた。
照準器を向けても反応はない。
《生体反応なし》
――やはり見間違いだったのだろうか。
グロリアは銃口を下げかけた。
そのとき、遺体の一つがわずかに動いた。すぐさま銃口を向ける。
「生きているのか?」
返事はない。
近づいてみると、男だった。背中には複数の銃創があり、すでに息絶えている。
「……死んでるじゃないか」
では、なぜ動いた。
グロリアは男の身体を見つめ、やがてその下から何かが覗いていることに気づいた。
小さな手だった。
男の身体を掴み、横へ転がす。
その下に、少女がいた。
六歳ほどだろうか。身体を丸め、両腕で頭を抱えている。衣服は血と煤で汚れ、露出した肌には無数の傷があった。片脚の膝から下はひどく腫れ、裂けた布地に血が滲んでいる。それ以外の血が男のものなのか、少女自身のものなのかは、見分けがつかなかった。
グロリアは銃を下ろした。
少女を覆っていた男を見る。背中から撃たれていた。逃げる途中、この子を庇ったのだろう。父親かもしれない。あるいは、まったくの他人だったのかもしれない。
グロリアには分からない。
ただ、この男が死んだことで、その下にいた少女が生きている。人間は死ねば何もできなくなる。だが、この男の亡骸は、死んだあとまで少女を守っていた。
「おい」
少女は動かない。
グロリアはしゃがみ込み、その頬へ指を当てた。
――冷たい。
それでも、かすかに息をしていた。
『グロリア。そっちはどうだ』
通信機からガルナの声が聞こえる。
グロリアは少女を見つめたまま答えた。
「……子供が一人、生きている」
『使えそうか?』
「今確認する」
通信を切り、長銃を背へ回してから少女の身体を抱き上げた。
軽かった。
六歳の子供がどれほどの重さなのかグロリアは知らなかったが、それでも軽すぎると思った。腕の中へ収まった少女は、傷ついた脚が揺れるとかすかに顔を歪めたが、声を上げることもなかった。
小屋の外では、街がまだ燃えていた。崩れ落ちた家々の隙間から黒煙が立ち昇り、焦げた木材と肉の臭いが入り混じる。生存者を探す中型武装ユニットが瓦礫を踏み越えて駆け巡り、そのたびに街のどこかで短い銃声が響いていた。
数時間前まで、ここには人々の暮らしがあった。
南の大国、ヴァルセナ連邦による攻撃は、それをわずかな時間で焼き尽くした。
グロリアの黄金色の瞳は、腕の中に抱いた傷だらけの少女へ向けられていた。
「お前、酷い怪我だな。これじゃヴァルセナに連れて行っても役には立たない」
憐れむでもなく、蔑むでもなく、ただ事実を告げた。
少女の唇が、かすかに動いた。
「……み……ず……」
「水?」
グロリアは首を傾げる。
「お前、もうどうせ死ぬのに、なぜ水を欲しがる」
少女は答えなかった。代わりに震える手を持ち上げ、グロリアの頬に触れた。小さな掌だった。血と煤に汚れ、指先は冷え切っている。それでも、その掌の奥にはかすかな温もりがあった。
――温かい……。
「水が……飲みたい……」
もう一度、少女は言った。
グロリアはしばらくその顔を見つめていたが、やがて片膝をつき、少女を膝の上で支えながら腰の水筒を外した。
蓋を開けると、少女の目が水筒を捉えた。力なく垂れていた手が伸び、グロリアの手からそれを奪い取った。
「おい」
制止するより早く、少女は水筒へ口をつける。喉を鳴らし、むせながら、それでも離そうとしない。まるで残された命のすべてを水と一緒に身体へ流し込もうとするように、息を継いでは飲み続けた。
やがて空になった水筒が、小さな手から落ちた。
「はぁ……はぁ……」
少女は肩で息をしていた。
グロリアは空になった水筒と、死ぬはずだった少女を交互に見た。
「……お前、生きる気なのか? 水を飲んだところで、苦しむ時間が延びるだけだ。今夜死ぬはずだったのが、明日になっただけかもしれない」
「……死ぬって何?」
グロリアは言葉に詰まった。
死とは何か。十六年間生きてきて何度も考えたことはあるのに、それを六歳ほどの子供に説明する言葉を、グロリアは持っていなかった。
やがて周囲へ目を向ける。答えなら、いくらでも転がっている。
「こういうことだ」
少女はグロリアの腕の中から、ゆっくりと辺りを見渡した。遺体を見ても、表情ひとつ変えない。
恐怖を知らないわけではないのだろう。おそらく、恐怖を感じるには多すぎるものを見てしまったのだ。
生気を失った灰色の瞳が、再びグロリアへ向けられる。
「……お腹すいた……」
グロリアは黙った。死ぬとは何かを尋ねた直後に、腹が減ったと言う。死を理解していないから、生きようとしているのか。それとも、生きようとしているから、死など理解する必要がないのか。
グロリアには分からなかった。
ただ一つ確かなのは、少女の身体が水を欲しがり、食べ物を欲しがっていることだった。それを生きたいという意思と呼ぶのなら、この小さな身体は本人よりずっと、生きるということを知っているらしい。
「……名前は?」
「……ルナ」
「ルナか」
グロリアは壁際の破片を足で払い、ルナを床へ座らせた。傷ついた脚を伸ばしてやると、小さな指が軍服の袖を掴んだ。痛みが引くのを待って、その手はゆっくりと離れた。
腰の背部に収めた携行食を取り出すため、装備ベルトを外して傍らへ置く。短銃の入ったホルスターが床に触れ、硬い音を立てた。
乾パンを一枚取り出して包み紙の上に置き、背から下ろした長銃の銃床で細かく砕く。長銃を脇へ置くと、指先でひとかけら摘まみ、ルナの口元へ運んだ。
「口を開けろ」
ルナは素直に口を開いた。
小さな顎がゆっくりと動く。噛む力さえほとんど残っていない。それでも時間をかけて咀嚼し、やがて喉が小さく動いた。
「……もっと食べたい」
もうひとかけら摘まもうとしたグロリアの指が止まった。
何をしているのだろう、と初めて思った。
「ルナ。私はお前を連れてはいけない」
灰色の瞳がグロリアを見上げる。
「その怪我ではヴァルセナは受け入れない。歩くこともできない子供に、治療を施してまで連れ帰ることは許されていない」
治療を受ければ助かるかもしれない。傷が癒えれば、また歩けるようになるかもしれない。だが、選別の規定に、回復を待つという項目はなかった。
「……ここにいるの?」
「ああ」
「ひとりで?」
グロリアは答えられなかった。ここに残ればどうなるかなど分かりきっている。治療する者はいない。食料もない。街は制圧され、生き残った大人は排除されている。
この脚では、水を探しに行くことさえできない。
「お前は、ここで死ぬ」
ルナは何も言わなかった。その言葉の意味を理解しているのかも分からない。
「だから、水も食べ物も与えるべきじゃなかった。下手に生かしたところで、お前が苦しむ時間を無駄に長引かせるだけだ」
グロリアは自分の指先を見つめた。水を欲しがったから、水を与えた。腹が減ったと言ったから、食べ物を与えた。
それだけのことだった。だが、その先に責任を持てないのなら、それは優しさなのだろうか。
「……いらぬ情をかけてしまった。すまなかった」
グロリアはルナを見る。
自分でも、なぜ謝ったのか分からなかった。ルナは壁に身体を預け、小さく息をしている。唇の端に乾パンの欠片がついていた。グロリアは手を伸ばしかけ、そのまま膝へ戻した。




