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紅月下のGloria   作者: ユノ・サカリス
第四章《命令のない明日》

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第27話《ここにいる》

 広場を離れると、兵士の声は少しずつ遠ざかっていった。


 グロリアはルナを抱いたまま集合住宅へ戻り、二階まで階段を上った。さっき出たばかりの部屋なのに、扉を開けた瞬間、ルナが小さく「ただいま」と言った。


 グロリアは鍵を持ったまま、その横顔を見る。


「誰に言ったんだ?」


「お家」


「家は返事をしないぞ」


「グロリアがする」


「私が?」


「うん」


 しばらく考えてから、グロリアは口を開いた。


「……おかえり」


 それで満足したらしく、ルナは笑った。


 買ってきた食料で簡単な夕食を済ませた。昼のスープほどのものは作れなかったが、蛇口を捻れば水が出て、備え付けの調理器で鍋を温められた。薪を集める必要もない。それでも、扉一枚を閉めただけで夜を迎えられることが、グロリアには妙に落ち着かなかった。


 食後、浴室の椅子へルナを座らせた。右脚の包帯を濡らさないよう、湯で絞った布で身体を拭く。髪も洗ってやると、ルナは目を閉じ、長い息を吐いた。


「お風呂、入らないの?」


「脚が治ってからだ」


「グロリアは?」


「あとで入る」


「ずるい」


「私の脚は怪我をしていない」


 不満そうな顔をされたが、そこは譲らなかった。


 ルナを寝台へ運び、毛布を掛けてから、グロリアも風呂を使った。湯を浴びているあいだも、無意識に扉の向こうの物音を拾っていた。軍の宿舎でも、野営でもない。隣にいるのは兵士ではなく、眠る準備をしている少女だけだった。


 戻ると、ルナはまだ起きていた。


「寝ないのか?」


「グロリア待ってた」


「もう来た。寝ろ」


 灯りを消し、自分の寝台へ横になる。


 暗闇の中で、天井だけが薄く見えた。窓の外を、ときどき車両の音が通り過ぎる。遠くには人の声も残っていたが、広場で聞いた名前を呼ぶ声は、ここまでは届かなかった。


「グロリア」


「なんだ」


「グロリアのお母さんは?」


 隣の寝台へ顔を向けた。暗くて、表情までは見えない。


「死んだ」


「お父さんも?」


「ああ」


「いつ?」


「私が四歳のときだ」


「ルナより小さい?」


「そうだな」


 毛布が擦れる音がした。


「どうして死んだの?」


 グロリアは天井へ視線を戻した。四歳の頃の記憶は、ところどころ欠けている。顔も声も、もう正確には思い出せない。それでも、炎の色と焦げた匂いは残っていた。


「ヴァルセナが来た」


「……グロリアも、イルナだったよね?」


「ああ」


「なのに、どうしてヴァルセナの兵隊になったの?」


 どこから話せばいいのか、少し考えた。


「父親と母親が死んだあと、私はヴァルセナへ連れていかれた」


「ひとりで?」


「家族は、誰もいなかった」


「怖かった?」


「……覚えていない」


 本当に覚えていなかった。泣いたのか、逃げようとしたのか、両親を呼んだのか。それさえ曖昧だった。覚えているのは、その後のことの方が多い。


「ごはんもあった。寝る場所もあった。勉強もした」


「楽しかった?」


「分からない」


「また分かんない」


「分からないものは分からない」


 ルナが小さく笑った。


「それで兵隊になったの?」


「ああ」


「なりたかった?」


 昼間、広場に並んでいた少年が浮かんだ。父親の隣で唇を噛んでいた、十四歳の少年。


 自分が十二歳だった頃には、もう銃を撃っていた。決められた標的へ当てれば褒められた。命令を正確にこなせば評価された。それが自分の役割なのだと思っていた。


「……ほかに何になれるのか、考えたことがなかった」


 ルナは何も言わなかった。


 しばらくして、また毛布が動いた。


「グロリア」


「なんだ」


「ルナの町にも、兵隊で来たんだよね?」


 ネルヴァスク。焼けた家屋。瓦礫。倒れた人間。死体の下で動いた、小さな身体。


「ああ。前に話したな」


「人、撃った?」


「撃った」


 隣から声が消えた。


「お前を見つける前にも、人を撃った」


 口にすると、それはひどく単純な事実になった。


「……ルナのお父さんと、お母さんも?」


 グロリアは息を止めた。


 知らないとだけ答えることはできた。聞かれたことだけ答え、余計なことは話さない。そうやって、この街へ入った。


 けれど、今いるのは検問所ではなかった。


「分からない」


 暗闇の向こうへ、言葉を続けた。


「私が撃った人間の中にいたのかもしれない。いなかったのかもしれない。お前の父親も母親も、私は知らない」


「……死んだかも?」


「それも分からない」


 ルナは黙っていた。グロリアもそれ以上、言葉を重ねなかった。許してほしいとは言えなかった。自分が何をしたか、ルナが知らないままでいればいいとも思えなかった。


 やがて、小さな声がした。


「グロリアは、ルナも殺そうとした?」


「ああ」


「でも、殺さなかった」


「ああ」


「なんで?」


「撃ちたくなかったからだ」


 あの夜には、それ以上の答えを持っていなかった。


「それから、お前を生かすと決めた」


「今も?」


「今は少し違う」


「なにが?」


 グロリアは隣の寝台を見た。


「お前と生きると決めた」


 返事はなかった。


 何を考えているのか、暗闇の中では分からない。しばらく待っても声はなく、グロリアは天井へ目を戻した。


 やがて寝台が軋み、床に足が触れる音がした。


「ルナ?」


 隣で、小さな影が動いている。


「一人で歩くな。転ぶぞ」


「行ける」


 灯りを点けると、ルナは寝台の縁に掴まって立っていた。グロリアは起き上がり、その身体を抱き上げた。


「何をしてる」


「グロリアのとこ行く」


「呼べば私が行く」


「もう来た」


「私が迎えに来たんだ」


「一緒」


「……そうだな」


 自分の寝台へ座らせると、ルナはグロリアの袖を握った。


「ルナ、お父さんもお母さんも、顔分かんない」


「ああ」


「どこにいるかも」


「ああ」


 小さな指が布を握り直した。グロリアは隣に腰を下ろし、次の言葉を待った。


「でも、グロリアはここにいる」


「いる」


「明日も?」


「ああ」


 ルナは袖を離さなかった。


「グロリア、家族いない?」


「いない」


「ルナも?」


「お前には、いるかもしれない」


「でも、今はいない」


「……そうだな」


 ルナは少し考えてから、グロリアを見上げた。


「じゃあ、家族になる?」


 意味が分からなかったわけではない。ただ、家族というものは、そうやってなるものなのかと考えた。


「家族は、なろうと言ってなるものなのか?」


「だめ?」


「駄目とは言ってない」


「二人のお家なんでしょ?」


「ああ」


「明日も一緒?」


「ああ」


「明後日も?」


「ああ」


「じゃあ家族」


 あまりにも簡単だった。


 血が繋がっているわけではない。ルナの父親や母親が、どこかで生きているかもしれない。自分はこの子の故郷を襲い、家族を奪った側にいた。


 話したことを、ルナがどこまで理解したのかは分からなかった。今ここにいることが、許されたという意味になるとも思えなかった。


 それでも、袖を握る手は離れなかった。


「グロリアは、ルナの何?」


「……グロリアだ」


「ルナは?」


「ルナだろう」


「それで家族?」


 グロリアは答えを探した。


 生まれたときには、すでに家族がいた。失ってからは、ずっといなかった。誰かと家族になろうとしたことなど、一度もない。


「……たぶんな」


「じゃあ家族」


「たぶんだぞ」


「家族」


「聞いてるか?」


「聞いてる」


 ルナは少し笑い、袖を握ったまま横になった。


「自分の寝台に戻れ」


「やだ」


「二つある意味がないだろう」


「家族だから」


「家族は同じ寝台で寝るものなのか?」


「うん」


「誰に聞いた」


「ルナ」


「お前じゃないか」


 ルナは目を閉じた。もう戻るつもりはないらしかった。グロリアは毛布を引き寄せ、傷ついた脚に触れないよう、その隣へ身体を横たえた。


 やがて、袖を握る指から力が抜けていった。呼吸が少しずつ、ゆっくりになる。


 四歳で家族を失った。十六歳になるまで、それは失ったままのものだと思っていた。家族が、あとから増えることなど考えたこともなかった。


 ルナの肩へ毛布を掛け直す。


 この子の父親や母親が、いつか見つかるかもしれない。そのとき、ルナが何を望むのかは分からない。失った記憶を取り戻せば、自分を見る目も変わるかもしれない。


 それでも今夜、ルナはここへ来た。


 そして自分も、もうこの子を置いていくつもりはなかった。


「……家族か」


 小さく呟いてみる。不思議な言葉だった。けれど、嫌ではなかった。


 グロリアは灯りを消し、目を閉じた。


 二人の家で、家族になった最初の夜だった。

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