第26話《国を守る子供たち》
市場を出る頃には、陽が傾き始めていた。
グロリアは買った食料と着替えを側車へ積み、診療所の受付で教えられた住所を確かめた。ルナを座らせて帯を留め、ヘルメットとゴーグルを着けさせると、街の中心部から離れる道へ二輪を走らせた。
案内された集合住宅は、古い建物が並ぶ一角にあった。同じ形の建物がいくつも並び、その多くは窓を閉ざしている。それでも、いくつかの手すりには洗った服が掛けられ、入口では荷物を運び込む家族の姿が見えた。
かつては、もっと多くの人間がここで暮らしていたのだろう。
二輪を停め、ルナのヘルメットを外して抱き上げる。
「歩く」
「今日はもう歩いただろう」
「少しだけ」
「階段だ」
「歩ける」
「明日だ」
不満そうな顔を無視して建物へ入った。
指定された部屋は二階にあった。鍵を差し込むと、少し引っかかったあと、古い錠が音を立てて外れた。
小さな台所と居間、その奥には寝台が二つ置かれている。ほかには机と椅子が二脚だけで、家具の上には薄く埃が積もっていた。
ルナを椅子へ座らせ、水道の栓を捻る。しばらく管の奥で音がしたあと、水が流れ出した。
「水は出る」
「お風呂ある?」
「探してみる」
浴室はあった。湯も出た。照明も点き、窓も閉まる。寝具はなかったが、毛布は受付で渡されている。雨風を防ぎ、眠るには十分だった。
戻ると、ルナは椅子に座ったまま周囲を見回していた。
「ここで寝るの?」
「ああ」
「今日?」
「今日からだ」
「明日も?」
「しばらくはな」
ルナはもう一度、部屋を見回した。
「二人のお家?」
グロリアは答えようとして、口を閉じた。
借りているだけだ。いつまで使えるのかも分からない。戦火がここまで届けば、また出ていかなければならない。けれど、ルナは嬉しそうだった。
「……ああ。二人の家だ」
「ほんと?」
「しばらくはな」
ルナが笑った。その顔を見ているうちに、グロリアの口元もわずかに緩んだ。
「あ、グロリア、笑った」
「……そうか?」
「うん」
言われて、自分の頬へ触れた。笑おうとしたわけではなかった。
「もう一回」
「無理だ」
「なんで?」
「笑えと言われて笑えるものじゃない」
「ルナ笑えるよ」
ルナが歯を見せた。
「それは顔を作ってるだけだ」
「笑ってる」
「そうか」
また口元が緩んだ。
「あ、笑った」
「うるさい」
ルナが楽しそうに笑った。
グロリアは布で家具の埃を拭い、荷物をほどき始めた。食料を台所へ置き、衣類を寝台の脇へまとめる。畳んだ黒緑色の軍服も、その中へ入れた。
何もなかった部屋に、少しずつ二人のものが増えていく。どれだけここにいるのかは分からない。それでも今夜は、ここで眠る。
そのとき、窓の外から、低い走行音が聞こえた。
グロリアの手が止まった。二輪の動力音とは違う。重い車両が、複数台で走っている。
窓へ近づくと、通りへ軍用車両が入ってきていた。車体にはイルナ軍の標章がある。数台が集合住宅の前を通過し、その先の広場で停まった。荷台から兵士たちが降り、机や機材を運び始める。
「グロリア?」
「軍が来た」
「ヴァルセナ?」
「違う。イルナだ」
ほかの部屋でも、住民たちが窓から外を見ていた。
やがて、拡声器を通した声が建物の間に響いた。
「十二歳以上の男子がいる世帯は、身分を確認できるものを持って広場へ集合してください。避難民も対象です」
開いていた窓が、いくつも閉まった。
「十二歳以上の男子は、全員登録が必要です。繰り返します。対象者のいる世帯は、広場へ集合してください」
「何するの?」
ルナが聞いた。
「分からない」
だが、予想はついた。何の登録なのかは、確かめておきたかった。グロリアはルナを抱き上げ、階段を下りた。
入口を出ると、住民たちが広場へ集まり始めていた。大人の男に混じり、まだ母親より背の低い少年もいる。グロリアは人垣の後ろへ立った。
兵士たちは机を並べ、携帯端末を起動していた。銃は肩に掛けたままで、住民へ向けてはいない。その中央で、一人が声を張った。
「南部戦線の拡大に伴い、非常動員令が発令されました。セラヴェスク居住者、および現在市内に滞在する避難民のうち、十二歳以上の男子は動員登録の対象となります」
ざわめきが広がった。
「十二歳?」
男が声を上げた。
「子供だぞ」
「年齢と適性によって配置は分けられる。年少者は補給、通信、輸送、施設作業が優先になる」
「優先って何だ。前線にも出すのか?」
兵士は少し黙った。
「戦況によっては、その可能性もある」
怒声が上がった。
「ふざけるな!」
別の場所では、女が少年の肩を抱いていた。
「この子は十三歳よ。南から逃げてきたばかりなの」
「避難民も例外ではない。対象者は列に並べ」
「家を焼かれて、ここまで逃げてきたのよ!」
「分かっている」
「何が分かるの!」
兵士は言い返さなかった。母親の腕の中で、少年が俯いている。
「南部の戦線は維持できていない」
兵士が言った。
「このまま後退が続けば、セラヴェスクも戦場になる!」
「だから子供を連れていくの?」
「この国を守る人間が必要だ」
グロリアは、その言葉を聞いていた。
――守る。
ヴァルセナでも、何度も聞いた言葉だった。土地が必要なのは、人々を守るため。資源が必要なのは、国を守るため。戦うのは、生き残るため。
だが、同じではない。ヴァルセナは南から攻めてきた。イルナは、自分たちの土地を守ろうとしている。その違いは分かっていた。
母親に肩を抱かれた少年へ、目を向ける。
十二歳なら、自分はすでに銃を撃っていた。標的の中心へ当てれば褒められ、命令を正確に理解すれば評価された。誰を撃つのかは、自分で決める必要がなかった。
「グロリア」
腕の中からルナが呼んだ。
「なんだ」
「あの子、兵隊になるの?」
「まだ決まってない」
「なりたいの?」
「……分からない」
広場では登録が始まっていた。男たちが机の前へ並び、その列には少年もいる。
一人の男が兵士へ詰め寄った。
「俺は行く。だから息子は置いていけ。まだ十四だ」
「世帯ごとではない。対象者本人の登録が必要だ」
「俺一人で二人分働く」
「代わりは認められない。息子も登録する。決まったことだ」
「じゃあ何のために俺が行くんだ!」
兵士は答えなかった。男の隣で、十四歳の少年が唇を噛んでいた。
グロリアはルナを抱いたまま、二階の窓を見上げた。
ついさっきまで、あそこにいた。二人のお家。ルナがそう言った。水が出て、湯が出て、寝台が二つある。それだけの部屋が嬉しかった。
けれど、あの部屋だけで暮らせるわけではない。食べ物を作る人間がいる。傷を診てくれる医師がいる。誰かが街を守らなければ、ヴァルセナが来る。
では、その誰かは誰なのか。
「国を守るためだ!」
広場に兵士の声が響いた。
イルナが土地を守ろうとしていることは分かる。だが、あの少年が何を守りたいのかは、まだ誰も聞いていなかった。
「帰ろう」
グロリアが言った。
「お家?」
「ああ」
ルナを抱き直し、集合住宅へ戻る。
その背後で、また一人、少年の名前が呼ばれた。




