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紅月下のGloria   作者: ユノ・サカリス
第四章《命令のない明日》

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第25話《暮らすということ》

 診療所で呼ばれるまで、それほど時間はかからなかった。


 診察室へ入ると、グロリアはルナを寝台へ座らせた。医師は右脚の包帯を解き、傷口と腫れを確かめてから、膝や足首をゆっくり動かした。


「痛いか?」


「……ちょっと」


「これは?」


「痛くない」


「じゃあ、こっちは」


「……いたい」


 ルナが顔をしかめると、グロリアは医師の手元を見た。


「まだ悪いのか?」


「痛みは残っているが、順調に治ってる」


 医師は傷口を洗い、新しい包帯を巻きながら続けた。


「熱も下がっているし、腫れも引いてきてる。薬は今ある分を飲み切ればいい。そろそろ歩く練習を始めてもいいだろう」


 医師は棚から小さな装具を取り出し、ルナの右脚へ合わせた。包帯に重なる部分を確かめながら、留め具を調整していく。


「歩くときは、これで脚を支える。着けたからといって、無理はさせるなよ」


 ルナは脚についた装具を見下ろし、そっと指で触れた。


「歩かせていいのか?」


「少しずつならな。最初は支えてやれ」


「どのくらい歩かせればいい?」


「痛みが強くならない程度だ」


「距離は?」


「決まってない」


「時間は?」


 医師がグロリアを見た。


「本人を見ながら決めろ」


 数字で示してくれた方が分かりやすかった。何歩ならいいのか、何分ならいいのか。決まっていれば、その通りにすればいい。だが、医師はそれ以上の基準をくれなかった。


「歩ける?」


 ルナが聞いた。


「ああ。ただし、いきなり走るなよ」


「走れる?」


「だから走るな」


 医師が笑った。


「寝る場所はあるのか?」


「ない」


「なら受付で聞いていけ。避難民用に空き住宅を開けてる」


 受付で尋ねると、避難民へ一時開放している集合住宅の場所を教えられ、一室の鍵と毛布を渡された。


 診察代は取られなかった。南部から逃れてきた避難民には、診察と最低限の処置が無償で行われているらしい。ただし、薬には限りがあるという。


 診療所を出ると、ルナがグロリアの腕を掴んだ。


「歩く」


「今?」


「歩いていいって言った」


「練習ならな」


 グロリアはルナを地面へ下ろし、片手で身体を支え、もう片方の手を握らせた。


「痛かったら言え。我慢するなよ」


「分かってる」


 ルナが一歩進んだ。もう片方の脚を出すと身体が傾き、グロリアの腕へ体重がかかった。


「痛いか?」


「ちょっと」


「なら、ゆっくりだ」


 また一歩。片脚ずつ確かめながら前へ運んでいる。それでも、数日前には立つこともできなかったのだ。グロリアは握られた手を離さず、その足元を見ていた。


 十歩ほど進んだところで、ルナが止まった。


「痛い?」


「……ちょっと疲れた」


「今日はここまでだ」


「まだ歩ける」


「本人を見ながら決めろと言われた」


「ルナ、本人」


「だから見て決めた」


「まだ歩けるのに」


「明日も歩けばいい」


 不満そうなルナを抱き上げ、側車へ戻した。


 次に向かったのは中央市場だった。建物の一階と広場を使った市場には、野菜や穀物、乾物、日用品が並んでいる。空き家の多い街とは思えないほど声が飛び交い、荷物を抱えた人々が店先を行き来していた。


 肉を扱う店を見つけ、グロリアは荷台から包みを下ろした。


「鹿肉を売りたい」


 店主は四十代ほどの、顎に短い髭を蓄えた男だった。袖を肘までまくり、太い腕で売り台の上を空けた。


 グロリアが包みを置くと、男は布を開き、燻された肉を一枚持ち上げた。表面を指で押し、匂いを確かめる。


「これ、嬢ちゃんがやったのか?」


「ああ」


 男は別の包みも確認した。


「悪くない。これなら全部買う」


「全部?」


「量がある方が助かる」


 提示された金額は、グロリアが考えていたより高かった。


「こんなにするのか?」


「今はな。南から人が増えてる。食う口ばかり増えて、肉を持ってくる奴は減ってるんだ」


 男は肉を量りながら、グロリアを見た。


「まだ獲れるか?」


「鹿を?」


「猪でもいい。状態がよければ生でも買う」


「約束はできない」


「獲れたときでいい。持ってこい」


 グロリアは少し考え、頷いた。


「分かった」


 金を受け取り、燃料と携行用の食料を買った。それから、市場の外れにある衣料品店へ向かった。


 店先の籠には古着が積まれていた。値札を見ると、肉を売った金額に比べて驚くほど安い。


「服は余ってるんだよ」


 店の女が言った。


「着る人間の方が減っちまったからね。南から来た人には、もっと安くしてる」


 グロリアは覆い布を見下ろした。その下には、まだ黒緑色の軍服がある。


「二人分欲しい」


「好きなの選びな」


 女が出してくれた椅子へルナを座らせ、グロリアは籠から厚手の上着と動きやすそうなズボンを取った。


「これでいい」


「早いね」


「着られればいい」


「もうちょっと選んだらどうだい」


「何が違う?」


 女が笑った。


 ルナの前には、子供用の服を入れた籠が置かれた。小さな手が何枚か引っ張り出し、そのたびに戻している。


「決まったか?」


「まだ」


「着られれば何でもいいぞ」


「やだ」


「なぜだ」


「選ぶ」


 何が違うのか、グロリアにはよく分からなかった。


 しばらくして、ルナが淡い色の上着を胸へ当てた。


「これ」


「入るか?」


「入る」


「どうして分かる」


「分かる」


 女が大きさを確かめ、「大丈夫だよ」と笑った。ズボンは包帯を圧迫しない、柔らかくゆとりのあるものを選んでもらった。


 燃料や食料、二人分の服を買うと、残った金はそれほど多くなかった。グロリアは店の奥を借りて先に着替えた。


 黒緑色の軍服を脱ぐ。左腕には赤腕を外した跡が、胸には黒章を切り取った跡が残っている。畳んで荷物へしまい、買った服へ袖を通した。


 鏡の中の髪も瞳も、変わってはいない。ただ、軍服を着ていない自分を見るのは、ひどく久しぶりだった。


 次にルナを連れてきて、脚に気をつけながら着替えを手伝った。椅子へ座らせると、ルナは新しい袖を広げて見せた。


「どう?」


「ああ。いいんじゃないか」


「グロリアも変」


「なぜだ」


「兵隊じゃないみたい」


 グロリアは鏡の中の自分を見た。


「今は、それでいい」


 店を出ると、腕の中でルナが腹を押さえた。


「……おなかすいた」


「買った食料がある」


 ルナが鼻を動かした。市場の奥で大鍋から湯気が上がり、人々が椀を受け取っている。


「あれ食べたい」


「こっちにもあるだろう」


「温かいのがいい」


 グロリアも鍋へ目を向けた。肉と野菜の煮える匂いがした。


「グロリアもおなかすいた?」


「空いてる」


「じゃあ食べる」


 いつの間にか決まっていた。


 二人分を買い、市場の端にある長椅子へ座った。椀の中には豆と根菜が入り、小さく切った肉がいくつか浮いている。


 ルナが匙ですくい、息を吹きかけて口へ入れた。


「……おいしい」


 グロリアも食べた。


 温かかった。豆は柔らかく煮込まれ、肉の味が汁全体へ溶けている。香辛料の香りと野菜の甘みもあった。野営で食べた兎や鹿より、ずっとうまかった。


「グロリア」


「なんだ」


「これ、鹿?」


「知らない」


「鹿よりおいしい」


「そうか」


「グロリアの鹿より」


「それは言わなくていい」


 ルナがもう一口食べた。グロリアも匙を動かす。


 自分で獲った鹿を売り、その金で服を買い、燃料を買い、温かい食事を買った。命令されたわけではない。支給されたものでもない。


 隣では、新しい服を着たルナが夢中でスープを食べている。


「明日もこれ食べる?」


「金があればな」


「あるよ」


「使えば減る」


「じゃあ鹿、また獲る?」


 グロリアは匙を止めた。市場の男は、獲れたときに持ってこいと言っていた。


「……獲れたらな」


「ルナも行く」


「ああ」


 今度は迷わず答えた。


 二人で食べるためだけではない。肉を売れば、必要なものを買える。それを暮らすというのかもしれないと、グロリアは思った。


 ルナが空になった椀を見せた。


「おかわり」


「金が減る」


「鹿、また獲る」


「簡単に言うな」


 それでもグロリアは立ち上がり、もう一杯を買いに行った。

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