第25話《暮らすということ》
診療所で呼ばれるまで、それほど時間はかからなかった。
診察室へ入ると、グロリアはルナを寝台へ座らせた。医師は右脚の包帯を解き、傷口と腫れを確かめてから、膝や足首をゆっくり動かした。
「痛いか?」
「……ちょっと」
「これは?」
「痛くない」
「じゃあ、こっちは」
「……いたい」
ルナが顔をしかめると、グロリアは医師の手元を見た。
「まだ悪いのか?」
「痛みは残っているが、順調に治ってる」
医師は傷口を洗い、新しい包帯を巻きながら続けた。
「熱も下がっているし、腫れも引いてきてる。薬は今ある分を飲み切ればいい。そろそろ歩く練習を始めてもいいだろう」
医師は棚から小さな装具を取り出し、ルナの右脚へ合わせた。包帯に重なる部分を確かめながら、留め具を調整していく。
「歩くときは、これで脚を支える。着けたからといって、無理はさせるなよ」
ルナは脚についた装具を見下ろし、そっと指で触れた。
「歩かせていいのか?」
「少しずつならな。最初は支えてやれ」
「どのくらい歩かせればいい?」
「痛みが強くならない程度だ」
「距離は?」
「決まってない」
「時間は?」
医師がグロリアを見た。
「本人を見ながら決めろ」
数字で示してくれた方が分かりやすかった。何歩ならいいのか、何分ならいいのか。決まっていれば、その通りにすればいい。だが、医師はそれ以上の基準をくれなかった。
「歩ける?」
ルナが聞いた。
「ああ。ただし、いきなり走るなよ」
「走れる?」
「だから走るな」
医師が笑った。
「寝る場所はあるのか?」
「ない」
「なら受付で聞いていけ。避難民用に空き住宅を開けてる」
受付で尋ねると、避難民へ一時開放している集合住宅の場所を教えられ、一室の鍵と毛布を渡された。
診察代は取られなかった。南部から逃れてきた避難民には、診察と最低限の処置が無償で行われているらしい。ただし、薬には限りがあるという。
診療所を出ると、ルナがグロリアの腕を掴んだ。
「歩く」
「今?」
「歩いていいって言った」
「練習ならな」
グロリアはルナを地面へ下ろし、片手で身体を支え、もう片方の手を握らせた。
「痛かったら言え。我慢するなよ」
「分かってる」
ルナが一歩進んだ。もう片方の脚を出すと身体が傾き、グロリアの腕へ体重がかかった。
「痛いか?」
「ちょっと」
「なら、ゆっくりだ」
また一歩。片脚ずつ確かめながら前へ運んでいる。それでも、数日前には立つこともできなかったのだ。グロリアは握られた手を離さず、その足元を見ていた。
十歩ほど進んだところで、ルナが止まった。
「痛い?」
「……ちょっと疲れた」
「今日はここまでだ」
「まだ歩ける」
「本人を見ながら決めろと言われた」
「ルナ、本人」
「だから見て決めた」
「まだ歩けるのに」
「明日も歩けばいい」
不満そうなルナを抱き上げ、側車へ戻した。
次に向かったのは中央市場だった。建物の一階と広場を使った市場には、野菜や穀物、乾物、日用品が並んでいる。空き家の多い街とは思えないほど声が飛び交い、荷物を抱えた人々が店先を行き来していた。
肉を扱う店を見つけ、グロリアは荷台から包みを下ろした。
「鹿肉を売りたい」
店主は四十代ほどの、顎に短い髭を蓄えた男だった。袖を肘までまくり、太い腕で売り台の上を空けた。
グロリアが包みを置くと、男は布を開き、燻された肉を一枚持ち上げた。表面を指で押し、匂いを確かめる。
「これ、嬢ちゃんがやったのか?」
「ああ」
男は別の包みも確認した。
「悪くない。これなら全部買う」
「全部?」
「量がある方が助かる」
提示された金額は、グロリアが考えていたより高かった。
「こんなにするのか?」
「今はな。南から人が増えてる。食う口ばかり増えて、肉を持ってくる奴は減ってるんだ」
男は肉を量りながら、グロリアを見た。
「まだ獲れるか?」
「鹿を?」
「猪でもいい。状態がよければ生でも買う」
「約束はできない」
「獲れたときでいい。持ってこい」
グロリアは少し考え、頷いた。
「分かった」
金を受け取り、燃料と携行用の食料を買った。それから、市場の外れにある衣料品店へ向かった。
店先の籠には古着が積まれていた。値札を見ると、肉を売った金額に比べて驚くほど安い。
「服は余ってるんだよ」
店の女が言った。
「着る人間の方が減っちまったからね。南から来た人には、もっと安くしてる」
グロリアは覆い布を見下ろした。その下には、まだ黒緑色の軍服がある。
「二人分欲しい」
「好きなの選びな」
女が出してくれた椅子へルナを座らせ、グロリアは籠から厚手の上着と動きやすそうなズボンを取った。
「これでいい」
「早いね」
「着られればいい」
「もうちょっと選んだらどうだい」
「何が違う?」
女が笑った。
ルナの前には、子供用の服を入れた籠が置かれた。小さな手が何枚か引っ張り出し、そのたびに戻している。
「決まったか?」
「まだ」
「着られれば何でもいいぞ」
「やだ」
「なぜだ」
「選ぶ」
何が違うのか、グロリアにはよく分からなかった。
しばらくして、ルナが淡い色の上着を胸へ当てた。
「これ」
「入るか?」
「入る」
「どうして分かる」
「分かる」
女が大きさを確かめ、「大丈夫だよ」と笑った。ズボンは包帯を圧迫しない、柔らかくゆとりのあるものを選んでもらった。
燃料や食料、二人分の服を買うと、残った金はそれほど多くなかった。グロリアは店の奥を借りて先に着替えた。
黒緑色の軍服を脱ぐ。左腕には赤腕を外した跡が、胸には黒章を切り取った跡が残っている。畳んで荷物へしまい、買った服へ袖を通した。
鏡の中の髪も瞳も、変わってはいない。ただ、軍服を着ていない自分を見るのは、ひどく久しぶりだった。
次にルナを連れてきて、脚に気をつけながら着替えを手伝った。椅子へ座らせると、ルナは新しい袖を広げて見せた。
「どう?」
「ああ。いいんじゃないか」
「グロリアも変」
「なぜだ」
「兵隊じゃないみたい」
グロリアは鏡の中の自分を見た。
「今は、それでいい」
店を出ると、腕の中でルナが腹を押さえた。
「……おなかすいた」
「買った食料がある」
ルナが鼻を動かした。市場の奥で大鍋から湯気が上がり、人々が椀を受け取っている。
「あれ食べたい」
「こっちにもあるだろう」
「温かいのがいい」
グロリアも鍋へ目を向けた。肉と野菜の煮える匂いがした。
「グロリアもおなかすいた?」
「空いてる」
「じゃあ食べる」
いつの間にか決まっていた。
二人分を買い、市場の端にある長椅子へ座った。椀の中には豆と根菜が入り、小さく切った肉がいくつか浮いている。
ルナが匙ですくい、息を吹きかけて口へ入れた。
「……おいしい」
グロリアも食べた。
温かかった。豆は柔らかく煮込まれ、肉の味が汁全体へ溶けている。香辛料の香りと野菜の甘みもあった。野営で食べた兎や鹿より、ずっとうまかった。
「グロリア」
「なんだ」
「これ、鹿?」
「知らない」
「鹿よりおいしい」
「そうか」
「グロリアの鹿より」
「それは言わなくていい」
ルナがもう一口食べた。グロリアも匙を動かす。
自分で獲った鹿を売り、その金で服を買い、燃料を買い、温かい食事を買った。命令されたわけではない。支給されたものでもない。
隣では、新しい服を着たルナが夢中でスープを食べている。
「明日もこれ食べる?」
「金があればな」
「あるよ」
「使えば減る」
「じゃあ鹿、また獲る?」
グロリアは匙を止めた。市場の男は、獲れたときに持ってこいと言っていた。
「……獲れたらな」
「ルナも行く」
「ああ」
今度は迷わず答えた。
二人で食べるためだけではない。肉を売れば、必要なものを買える。それを暮らすというのかもしれないと、グロリアは思った。
ルナが空になった椀を見せた。
「おかわり」
「金が減る」
「鹿、また獲る」
「簡単に言うな」
それでもグロリアは立ち上がり、もう一杯を買いに行った。




