第24話《言わなかったこと》
空が白み始める頃、グロリアは吊るしていた鹿肉を火から外した。
夜のあいだ何度も薪を足し、肉を裏返した。軍で習った保存食作りも、すべて自分でやれば時間がかかる。仕上がりを確かめ、冷めたものから布へ包んだところで、毛布が動いた。
「……寝てない?」
「少しは寝た」
「眠くない?」
「眠い」
「ルナ、運転する」
「却下だ」
「できる」
「足が届かない」
ルナは毛布の中で脚を動かしかけ、やめた。グロリアは荷物を積み終えると、木へ背を預けた。
「もう少し寝る。出るのはそのあとだ」
「ルナ、起きてる」
「勝手に歩くなよ」
「分かってる」
目を閉じると、すぐに眠りが来た。
次に目を覚ましたとき、木々の間には朝日が差していた。起きていると言ったルナも、毛布を被って眠っていた。
食事と薬を済ませ、脚の状態を確かめる。熱は下がり、腫れも悪化していない。それでも、良く見えることと治っていることは違う。もう一度、医者に診せたかった。
火の始末を終え、ルナを側車へ乗せた。脚を支えて帯を留め、ヘルメットの顎紐とゴーグルを確かめる。
「今日は走るぞ」
「どこまで?」
「街があれば、そこまでだ」
「なかったら?」
「探す」
「おしり痛くなる」
「途中で休む」
「いっぱい?」
「必要なだけだ」
二輪を北へ走らせた。荒れた道では速度を落とし、何度か休憩を挟む。燃料は減り続けている。食料は増えたが、薬にも限りがあった。
昼を過ぎた頃、森が途切れた。高台へ出たところで二輪を止めると、ルナが声を上げた。
「……大きい」
眼下に街が広がっていた。先日までいたリゼノルトとは規模が違う。広い道路の間に集合住宅が並び、中心部には高い建物が集まっている。その向こうには巨大な栽培施設があり、透過素材の外壁越しに幾層もの緑が見えた。
だが、人の気配があるのは街の一部だけだった。閉ざされた商業区画には草が伸び、使われなくなった交通設備が道路脇に残っている。
街道の標識に、地名が記されていた。
「セラヴェスクか」
「知ってる?」
「名前だけだ」
「行く?」
「ああ」
答えてから、自分の身体へ目を落とした。赤腕も黒章も外した。だが、着ているものは今もヴァルセナの軍服だった。銃も同じだ。
グロリアは二輪を街道から外した。
「どうしたの?」
「このままでは捕まる」
「赤いの、ないよ」
「服と銃で分かる」
「じゃあ、どうする?」
「隠す」
木々の間で停車し、長銃と短銃、弾薬を防水布へ包んだ。倒木の根元へ収め、枝葉で覆う。場所を覚えてから立ち上がると、身体の一部を置いてきたような感覚がした。
兵士になってから、銃はいつも手の届く場所にあった。
「……置いてくの?」
「ああ」
「なくならない?」
「戻るまで見つからないといいがな」
軍服の上には、雨避けの覆い布を巻いた。襟と袖を隠し、裾を帯へ挟む。ルナがしばらく見ていた。
「……毛布みたい」
「分かってる」
「暑くない?」
「暑い」
「脱げば?」
「隠した意味がなくなる」
二輪へ戻り、荷台の包みを縛り直した。鹿肉はすべて二人で食べる必要はない。売れれば、薬や燃料を買えるかもしれない。できれば服も欲しかった。
街へ近づくにつれ、荷車や徒歩の家族が増えた。入口の簡易障壁ではイルナ兵が荷物を確認している。列の後ろには、さらに人が続いていた。
「ルナ。聞かれたことだけ答えろ」
「なんで?」
「余計なことを話すと長くなる」
「嘘つく?」
「できるだけ、つかない」
ルナは首を傾げた。それ以上は教えなかった。自分を隠すための話を、この子に覚えさせたくはなかった。
順番が来ると、兵士が二輪の前へ立った。
「どこから来た」
「ネルヴァスクだ」
兵士の表情が変わった。
「占領された街か」
「数日前、ヴァルセナが攻めてきた」
間違ってはいない。自分も、そこにいた。
「その子は家族か?」
「違う。その日から一緒にいる」
「親は?」
「私にはいない。この子の親は分からない」
兵士がルナへ顔を向けた。
「嬢ちゃん、家族は?」
「……分かんない」
兵士は少し待ったが、それ以上は聞かなかった。視線が包帯へ落ちる。
「脚は、もう医者に診せたのか?」
「リゼノルトで。だが、まだ歩かせられない」
「向こうも戦闘になったと聞いた」
「なった」
兵士は息を吐き、荷台へ回った。
「荷物を見せろ」
グロリアは包みを解いた。薬、包帯、水、食料。兵士は布に包まれた肉を見て、眉を動かした。
「これは?」
「鹿肉だ。昨日仕留めた。売れるなら売りたい」
「狩ったのは、お前か?」
「ああ」
「銃は?」
「街の外に置いてきた」
「なぜだ」
「持ち込んでいいか分からなかった」
「種類は」
「長銃と短銃だ」
兵士の目がグロリアへ戻った。覆い布の下で、背中を汗が伝う。
「取りに戻るなら、ここで申告しろ。街の中で勝手に持ち歩くな」
「分かった」
後ろで荷車が軋んだ。子供の泣き声がし、別の兵士が列を整理するため声を張り上げた。目の前の兵士は荷物を返し、再びルナを見た。
「用件は肉を売るだけか?」
「この子を医者に診せたい。それが先だ。あとは薬と燃料が欲しい」
「二つ目の交差路を右だ。診療所がある。避難民の受け付けもしている」
「助かる」
「肉は中央市場で聞け。買い取る店もある」
兵士が道を空けた。
グロリアは二輪を発進させた。障壁を越えても、背後から呼び止める声はなかった。
銃を向けられなかった。左腕を見て、赤腕と呼ぶ者もいなかった。
街の人間が自分を受け入れたわけではない。何者なのかを、まだ知らないだけだった。
それでも、両手は縛られていない。ルナも隣にいる。グロリアは握っていたハンドルから、少しだけ力を抜いた。
広い道路の両側には空き家が並んでいたが、中心部へ近づくと景色が変わった。古い集合住宅には洗濯物が掛かり、閉ざされていたらしい入口から、荷物を運び込む人々が見える。
建物の前で男が床を掃いていた。女が窓を開けると、埃が日差しの中へ流れ出した。その脇では、荷物の上に座った子供がパンを齧っている。
南から逃げてきた者たちなのかもしれない。人が減った街へ、住む場所を失った人間が入っていく。空いている家があっても、そこへ来たかったわけではないのだろう。
「グロリア」
「なんだ」
「入れたね」
「ああ」
「嘘ついた?」
グロリアは少し考えた。
「言わなかったことはある」
「なに?」
「私が、どちらにいたかだ」
ルナがこちらを見る。
「それ、嘘?」
「……どうだろうな」
ネルヴァスクから来た。ヴァルセナが攻めてきた。親はいない。あの日からルナと一緒にいる。どれも事実だった。
ただ、あの街を襲った兵士の中に自分もいたことを、話さなかった。
兵士はおそらく、街を焼かれて逃げてきた娘だと思った。その間違いに気づきながら、自分は訂正しなかった。
嘘をつかなければ、人を欺いたことにはならないのか。
そう考えても、今から戻って伝えるつもりはなかった。ルナを医者へ連れていくためだと言えば、それで済む気もした。だが、その理由を自分に言い聞かせるのも、どこか違う気がした。
診療所の標識が見えた。グロリアは速度を落とした。
「先に医者だ」
「鹿は?」
「そのあとだ」
「おなかすいた」
「診てもらってから食べよう」
「鹿?」
「ああ」
ルナは膝にかけた毛布の上で手を重ねた。
グロリアは診療所の前へ二輪を寄せた。入口にはすでに何人かが座り、呼ばれるのを待っている。
エンジンを止め、ルナのゴーグルを外した。
事実だけを話しても、人を欺いたことになるのか。答えは出ていない。それでも今は、ルナの脚を治すことの方が先だった。




