↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅月下のGloria   作者: ユノ・サカリス
第四章《命令のない明日》

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/25

第23話《生かすための命》

 目を覚ますと、火はほとんど消えていた。


 白い灰の下に赤い熾火が残り、細い煙が朝の森へ溶けている。グロリアは覆い布の隙間から空を見上げた。木々の向こうが淡く明るみ始めていた。


 隣ではルナが眠っている。夜中に何度か額へ触れたが、熱は下がっていた。呼吸も穏やかだった。


 グロリアは毛布から抜け出し、消えかけた火へ細い枝を足した。小さな炎が戻ったところで、背後から声がした。


「……グロリア」


「起きたか」


 ルナが毛布から顔だけを出していた。


「……おなかすいた」


「起きて最初にそれか」


「うん」


 昨日の野うさぎは食べきっている。街でもらった食料は残っていたが、次に補給できる場所は決まっていない。


 今日は移動を控え、ルナの脚を休ませる。その間に食料を確保し、持ち運べるようにする。昨日は日暮れが迫っていたが、今なら処理に時間を使えた。


「鹿を探す」


 ルナの目が少し大きくなった。


「……食べる?」


「見つかればな」


「いっぱい?」


「お前が食べられる量には限界がある」


「いっぱい食べられる」


「昨日も聞いた」


 沢の水を沸かし、乾パンを一枚ずつ食べた。薬を飲ませ、脚の状態を確かめてから、グロリアは長銃を手に取った。


 ルナがそれを見つめる。


「……ルナも撃つ」


 グロリアは手を止めた。


「なぜだ」


「ルナも食べるから」


「食べるために、お前が撃たなければならないわけじゃない」


「でも、撃つ」


 小さな手が長銃へ伸びた。グロリアはその手を受け止めた。


「先に、覚えることがある」


 ルナを背負い、森へ入った。歩きながら、グロリアは銃を持つときの約束を一つずつ伝えた。


「撃つつもりのないものへ、銃口を向けるな」


「……うん」


「引き金に触るのは、撃つと決めてからだ」


「分かった」


 少しして、肩口で声がした。


「……グロリアに向けた」


「ああ」


「グロリアも、ルナに向けた」


「ああ」


「だめだった?」


「駄目だった」


「……どっちも?」


「どっちもだ」


 ルナは黙った。


「だから覚えておけ。次はしないために」


「……うん」


 湿った土に鹿の足跡が残っていた。跡を辿り、木々の間を進んだところで、グロリアは立ち止まった。


 朝日が差す草地に一頭いる。昨日見た鹿より大きい。地面へ頭を下げ、草を食んでいた。


 グロリアはルナを下ろし、倒木の陰へ座らせた。


「まだ撃ちたいか」


 ルナは鹿を見てから、小さく頷いた。


 長銃はルナの身体には大きすぎた。グロリアは銃を支え、反動を自分で受けられるよう、すぐ後ろへ身体を寄せた。


「ここから覗け。指はまだ掛けるな」


 ルナが照準器を覗き込む。


「見えるか」


「……鹿いる」


 小さな手が銃を握った。グロリアはその動きを支えながら、ルナの顔を見た。


「嫌になったら、やめていい」


「撃たなくてもいい?」


「ああ」


「そしたら?」


「あれは生きる」


「……ごはんは?」


「持っているものを食べる。ほかにも探せる」


 ルナはもう一度、照準器へ目を戻した。


 鹿はまだ草を食べている。耳が動き、少し顔を上げたが、こちらには気づいていない。


「……ルナのこと、知らない?」


「知らないだろうな」


「撃ったら、死ぬ?」


「当たればな」


 長い沈黙が続いた。グロリアは急かさなかった。


「……撃っていいの?」


「迷っているなら、今は撃つな」


「グロリアは?」


「食べるものを得るために撃つ」


「かわいそうじゃない?」


 グロリアは鹿を見た。


「かわいそうだとは思う」


「でも撃つ?」


「ああ」


 ルナの手に力が入った。照準器を覗いているのに、銃口は落ち着かなかった。


 ガルナを撃ったとき、この子は何を見ていたのだろう。自分へ向けられた銃。怒鳴る声。あのときは、考える時間もなかったのかもしれない。


 今、鹿はルナを殺そうとしていない。逃げる必要もなかった。


「……できない」


「なら、やめよう」


 グロリアが銃を引き取ろうとしたとき、鹿が顔を上げた。こちらを見て、身を翻す。


「ごはん、逃げちゃう」


 ルナの指が動いた。


 銃声が森に響く。鹿の脇で土が弾け、その姿が草地を駆けていった。


「あ……」


 グロリアは長銃を引き取り、ルナの手を離させた。走る鹿を追い、一度だけ引き金を引く。鹿は脚をもつれさせ、草の上へ崩れ落ちた。


 ルナは倒木に座ったまま、銃とグロリアを交互に見た。


「今、撃つと決めていたか」


 小さな顔が横へ動いた。


「……逃げるから」


「逃げたら終わりでいい。焦って撃つな」


「……うん」


 教えた言葉を頷いて聞いたからといって、分かったことにはならなかった。銃を握らせたのは自分だ。グロリアは長銃を手元へ戻し、ルナには待つよう告げた。


 鹿へ近づき、その命が終わったことを確かめる。戻ると、ルナはまだ同じ場所を見ていた。


「……死んだ?」


「ああ」


「グロリア、当たった」


「そうだな」


「ルナ、当たらなかった」


 グロリアは隣へしゃがんだ。


「……よかった?」


「何がだ」


「当たらなくて」


 答えはすぐに出なかった。


「お前は、どう思う」


 ルナは自分の手を見た。


「……分かんない」


「そうか」


「でも、食べるんだよね」


「ああ」


「ルナも?」


「食べたいか」


 しばらくして、ルナが頷いた。


「食べる」


 グロリアはルナを背負って野営地へ戻り、二輪を取りに行った。鹿は一人で抱えて運べる重さではない。車体を近くまで寄せ、積み込むのに時間がかかった。


 戻ると、ルナは毛布の上で待っていた。


 グロリアが処理を始めても、目を逸らさなかった。見なくてもいいと伝えたが、灰色の瞳は手元を追い続けた。


「……血いっぱい」


「そうだな」


「さっき、歩いてた」


「ああ」


 グロリアは手を止めずに肉を分けた。少し前まで動いていた身体が、食べ物になっていく。その変化を、ルナは黙って見ていた。


 ヴァルセナでは、撃つべき相手を誰かが決めてくれた。疑問を持っても、命令に従えば次に何をするかは分かった。


 今は、自分で決めた。鹿を探すことも、ルナに銃を持たせることも、最後に自分で撃つことも。


 赤腕と黒章を外しただけで、判断が変わるわけではない。だが、間違えたときに差し出せる命令も、もうなかった。


 今日食べる分を取り分け、残りは燻して保存するための作業に移った。枝を組んで肉を並べると、ルナが顔を上げた。


「……いっぱいある」


「だから昨日、食べきれないと言った」


「食べきれる」


「何日かかけてな」


「今日いっぱい食べる」


「腹を壊すぞ」


 ルナは不満そうに肉を見つめた。


 手を洗って戻ると、毛布の上で小さな指が曲がったり伸びたりしていた。グロリアが腰を下ろすと、その手が止まる。


「……グロリア」


「なんだ」


「ルナ、人は撃てた」


 グロリアはルナを見た。


「鹿、撃つのこわかった」


「ああ」


「なんで?」


 朝の光の中、細い煙が二人の間を流れていく。


「同じじゃなかったからだろう」


「なにが?」


「ガルナは、お前を殺そうとした」


「……鹿は?」


「何もしていない」


「でも殺した」


「ああ」


「生きるためなら、殺していい?」


 グロリアは答えなかった。生きるために殺す。その言葉で、人間はどこまで許されるのだろう。自分を育てた国も、生きるために土地が必要だと教えていた。


「分からない」


 ルナが顔を上げた。


「グロリアも?」


「ああ」


 答えを待っていた目が、少しだけ揺れた。グロリアはその目を見たまま続けた。


「だが、私が殺したことは変わらない。食べられるところは、無駄にしない」


「……食べたら、いい?」


「食べれば何でもしていい、という話じゃない」


「むずかしい」


「そうだな」


 火にかけた肉から脂が落ちた。ルナの目がそちらへ向く。グロリアは火の通ったものを取り、食べやすい大きさに切って冷ました。


 差し出すと、小さな手が受け取った。


 ルナはすぐには口へ運ばなかった。肉を見て、グロリアを見て、それからひと口齧った。


 ゆっくり噛む。飲み込んで、残りを見つめる。


「……食べられる」


 グロリアは頷き、自分の分を口へ運んだ。


 正しい答えは、今日も見つからなかった。それでも腹は減る。ルナも、自分も、食べなければ生きていけない。


 草を食んでいた鹿の姿を、グロリアは覚えていた。


 覚えたまま、もうひと口食べた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。