第23話《生かすための命》
目を覚ますと、火はほとんど消えていた。
白い灰の下に赤い熾火が残り、細い煙が朝の森へ溶けている。グロリアは覆い布の隙間から空を見上げた。木々の向こうが淡く明るみ始めていた。
隣ではルナが眠っている。夜中に何度か額へ触れたが、熱は下がっていた。呼吸も穏やかだった。
グロリアは毛布から抜け出し、消えかけた火へ細い枝を足した。小さな炎が戻ったところで、背後から声がした。
「……グロリア」
「起きたか」
ルナが毛布から顔だけを出していた。
「……おなかすいた」
「起きて最初にそれか」
「うん」
昨日の野うさぎは食べきっている。街でもらった食料は残っていたが、次に補給できる場所は決まっていない。
今日は移動を控え、ルナの脚を休ませる。その間に食料を確保し、持ち運べるようにする。昨日は日暮れが迫っていたが、今なら処理に時間を使えた。
「鹿を探す」
ルナの目が少し大きくなった。
「……食べる?」
「見つかればな」
「いっぱい?」
「お前が食べられる量には限界がある」
「いっぱい食べられる」
「昨日も聞いた」
沢の水を沸かし、乾パンを一枚ずつ食べた。薬を飲ませ、脚の状態を確かめてから、グロリアは長銃を手に取った。
ルナがそれを見つめる。
「……ルナも撃つ」
グロリアは手を止めた。
「なぜだ」
「ルナも食べるから」
「食べるために、お前が撃たなければならないわけじゃない」
「でも、撃つ」
小さな手が長銃へ伸びた。グロリアはその手を受け止めた。
「先に、覚えることがある」
ルナを背負い、森へ入った。歩きながら、グロリアは銃を持つときの約束を一つずつ伝えた。
「撃つつもりのないものへ、銃口を向けるな」
「……うん」
「引き金に触るのは、撃つと決めてからだ」
「分かった」
少しして、肩口で声がした。
「……グロリアに向けた」
「ああ」
「グロリアも、ルナに向けた」
「ああ」
「だめだった?」
「駄目だった」
「……どっちも?」
「どっちもだ」
ルナは黙った。
「だから覚えておけ。次はしないために」
「……うん」
湿った土に鹿の足跡が残っていた。跡を辿り、木々の間を進んだところで、グロリアは立ち止まった。
朝日が差す草地に一頭いる。昨日見た鹿より大きい。地面へ頭を下げ、草を食んでいた。
グロリアはルナを下ろし、倒木の陰へ座らせた。
「まだ撃ちたいか」
ルナは鹿を見てから、小さく頷いた。
長銃はルナの身体には大きすぎた。グロリアは銃を支え、反動を自分で受けられるよう、すぐ後ろへ身体を寄せた。
「ここから覗け。指はまだ掛けるな」
ルナが照準器を覗き込む。
「見えるか」
「……鹿いる」
小さな手が銃を握った。グロリアはその動きを支えながら、ルナの顔を見た。
「嫌になったら、やめていい」
「撃たなくてもいい?」
「ああ」
「そしたら?」
「あれは生きる」
「……ごはんは?」
「持っているものを食べる。ほかにも探せる」
ルナはもう一度、照準器へ目を戻した。
鹿はまだ草を食べている。耳が動き、少し顔を上げたが、こちらには気づいていない。
「……ルナのこと、知らない?」
「知らないだろうな」
「撃ったら、死ぬ?」
「当たればな」
長い沈黙が続いた。グロリアは急かさなかった。
「……撃っていいの?」
「迷っているなら、今は撃つな」
「グロリアは?」
「食べるものを得るために撃つ」
「かわいそうじゃない?」
グロリアは鹿を見た。
「かわいそうだとは思う」
「でも撃つ?」
「ああ」
ルナの手に力が入った。照準器を覗いているのに、銃口は落ち着かなかった。
ガルナを撃ったとき、この子は何を見ていたのだろう。自分へ向けられた銃。怒鳴る声。あのときは、考える時間もなかったのかもしれない。
今、鹿はルナを殺そうとしていない。逃げる必要もなかった。
「……できない」
「なら、やめよう」
グロリアが銃を引き取ろうとしたとき、鹿が顔を上げた。こちらを見て、身を翻す。
「ごはん、逃げちゃう」
ルナの指が動いた。
銃声が森に響く。鹿の脇で土が弾け、その姿が草地を駆けていった。
「あ……」
グロリアは長銃を引き取り、ルナの手を離させた。走る鹿を追い、一度だけ引き金を引く。鹿は脚をもつれさせ、草の上へ崩れ落ちた。
ルナは倒木に座ったまま、銃とグロリアを交互に見た。
「今、撃つと決めていたか」
小さな顔が横へ動いた。
「……逃げるから」
「逃げたら終わりでいい。焦って撃つな」
「……うん」
教えた言葉を頷いて聞いたからといって、分かったことにはならなかった。銃を握らせたのは自分だ。グロリアは長銃を手元へ戻し、ルナには待つよう告げた。
鹿へ近づき、その命が終わったことを確かめる。戻ると、ルナはまだ同じ場所を見ていた。
「……死んだ?」
「ああ」
「グロリア、当たった」
「そうだな」
「ルナ、当たらなかった」
グロリアは隣へしゃがんだ。
「……よかった?」
「何がだ」
「当たらなくて」
答えはすぐに出なかった。
「お前は、どう思う」
ルナは自分の手を見た。
「……分かんない」
「そうか」
「でも、食べるんだよね」
「ああ」
「ルナも?」
「食べたいか」
しばらくして、ルナが頷いた。
「食べる」
グロリアはルナを背負って野営地へ戻り、二輪を取りに行った。鹿は一人で抱えて運べる重さではない。車体を近くまで寄せ、積み込むのに時間がかかった。
戻ると、ルナは毛布の上で待っていた。
グロリアが処理を始めても、目を逸らさなかった。見なくてもいいと伝えたが、灰色の瞳は手元を追い続けた。
「……血いっぱい」
「そうだな」
「さっき、歩いてた」
「ああ」
グロリアは手を止めずに肉を分けた。少し前まで動いていた身体が、食べ物になっていく。その変化を、ルナは黙って見ていた。
ヴァルセナでは、撃つべき相手を誰かが決めてくれた。疑問を持っても、命令に従えば次に何をするかは分かった。
今は、自分で決めた。鹿を探すことも、ルナに銃を持たせることも、最後に自分で撃つことも。
赤腕と黒章を外しただけで、判断が変わるわけではない。だが、間違えたときに差し出せる命令も、もうなかった。
今日食べる分を取り分け、残りは燻して保存するための作業に移った。枝を組んで肉を並べると、ルナが顔を上げた。
「……いっぱいある」
「だから昨日、食べきれないと言った」
「食べきれる」
「何日かかけてな」
「今日いっぱい食べる」
「腹を壊すぞ」
ルナは不満そうに肉を見つめた。
手を洗って戻ると、毛布の上で小さな指が曲がったり伸びたりしていた。グロリアが腰を下ろすと、その手が止まる。
「……グロリア」
「なんだ」
「ルナ、人は撃てた」
グロリアはルナを見た。
「鹿、撃つのこわかった」
「ああ」
「なんで?」
朝の光の中、細い煙が二人の間を流れていく。
「同じじゃなかったからだろう」
「なにが?」
「ガルナは、お前を殺そうとした」
「……鹿は?」
「何もしていない」
「でも殺した」
「ああ」
「生きるためなら、殺していい?」
グロリアは答えなかった。生きるために殺す。その言葉で、人間はどこまで許されるのだろう。自分を育てた国も、生きるために土地が必要だと教えていた。
「分からない」
ルナが顔を上げた。
「グロリアも?」
「ああ」
答えを待っていた目が、少しだけ揺れた。グロリアはその目を見たまま続けた。
「だが、私が殺したことは変わらない。食べられるところは、無駄にしない」
「……食べたら、いい?」
「食べれば何でもしていい、という話じゃない」
「むずかしい」
「そうだな」
火にかけた肉から脂が落ちた。ルナの目がそちらへ向く。グロリアは火の通ったものを取り、食べやすい大きさに切って冷ました。
差し出すと、小さな手が受け取った。
ルナはすぐには口へ運ばなかった。肉を見て、グロリアを見て、それからひと口齧った。
ゆっくり噛む。飲み込んで、残りを見つめる。
「……食べられる」
グロリアは頷き、自分の分を口へ運んだ。
正しい答えは、今日も見つからなかった。それでも腹は減る。ルナも、自分も、食べなければ生きていけない。
草を食んでいた鹿の姿を、グロリアは覚えていた。
覚えたまま、もうひと口食べた。




