第22話《何者でもない》
街を出てから、しばらく走った。
北へ延びる道は途中から舗装が途切れ、轍の薄い林道へ変わった。グロリアは何度か速度を落とし、背後を振り返った。
追ってくるものはない。
空を横切っていたイルナの飛行艇も、もう見えなかった。遠くの砲声もいつしか途絶え、風が木々を揺らす音と、二輪の駆動音だけが耳に残っている。
追手が来ないことの方が、しばらくは不自然に思えた。命令から逃げ、ヴァルセナから逃げ、街まで追われた。いつからか、背後に誰かがいることを前提に進んでいた。
「……グロリア」
側車から声がした。
「なんだ」
「おしり、いたい」
グロリアは速度を落とした。
「脚は?」
「ちょっといたい」
「尻とどっちだ」
ルナは少し考えた。
「……おしり」
「なら休む」
林道を外れ、木々の間へ二輪を進めた。比較的平らな場所を見つけ、エンジンを止める。
急に静かになった。
グロリアは耳を澄ませた。鳥の声。枝葉が擦れる音。小さな虫の羽音。銃声はない。
側車の帯を外し、ルナを抱き上げる。
「歩くなよ」
「……分かってる」
「さっき歩いた」
「グロリア、いなかったから」
「今はいる」
「……うん」
木の根元へ毛布を敷き、そこへ座らせた。ヘルメットとゴーグルを外してやり、医師から渡された鞄を開く。右脚には腫れが残っているが、街を出たときから大きく悪化した様子はなかった。
「痛むか」
「ちょっと」
「熱は……」
額へ手を当てる。まだ少し熱い。
「分からない」
「お前に聞いてない」
ルナは額に置かれた手を見上げた。
「……グロリアの手、つめたい」
「そうか」
木々の上には、まだ夕日の色が残っている。暗くなる前に、休める場所を作る必要があった。
今夜はここで野営する。
そう決めてから、グロリアは妙な感覚を覚えた。軍でも野外で眠ることはあった。だが、そこには監視や待機といった目的があり、場所も時間も命令で決められていた。
今日は、ここで眠れと命じた者はいない。明日の行き先さえ、誰も決めていなかった。
荷物から覆い布を取り出し、枝へ渡して寝場所を作る。食料は二人で節約しても数日分。近くに小さな沢はあったが、この先も水と食べ物を手に入れられるとは限らない。
「少し待っていろ」
「どこ行くの?」
「食べるものを探す。遠くへは行かない」
「ルナも行く」
「歩けないだろう」
「……行けない」
それでも、小さな手は軍服の裾を離さなかった。グロリアはその指を見て、息を吐いた。
「近くだけだぞ」
ルナを背負い、長銃を手に取る。歩くたびに脚を揺らさないよう、ゆっくりと森へ入った。
ほどなく、木々の向こうに動く影を見つけた。
鹿だった。まだ若い。こちらには気づいていない。
グロリアは銃を構えなかった。二人では食べきれない。解体にも時間がかかり、残った肉を保存する手段もない。今殺す理由がなかった。
「……あれ」
肩口で声がした。
「鹿だ」
「あれ食べたい」
「食べきれない」
「食べる」
「無理だ」
「いっぱい食べる」
「お前の腹より大きい」
ルナが肩越しに鹿を見た。鹿もこちらに気づき、顔を上げる。次の瞬間には、木々の奥へ走り去っていた。
「あ」
「逃げたな」
ルナが残念そうに森の奥を見る。
「お前が喋るからだ」
「……グロリアも喋った」
「そうだな」
反論できなかった。
寝場所へ戻る途中で見つけたのは、野うさぎだった。
グロリアは足を止め、ルナへ静かにしているよう告げた。近くの倒木へ座らせてから、草の間で動く小さな身体へ銃口を向ける。
一発。乾いた音が森に響き、鳥たちが飛び立った。
ルナは何も言わなかった。グロリアが拾い上げた野うさぎを、じっと見ていた。
「……死んだ?」
「ああ」
「食べるため?」
「そうだ」
ルナはしばらく見つめ、それから自分の腹へ手を置いた。
「……おなかすいた」
「なら食べるぞ」
「うん」
それだけだった。
戻ると、グロリアは枯れ枝を集めて小さな火を起こした。湯を沸かし、野うさぎの処理をする。ルナは毛布に包まり、その手元を見ていた。
日が落ちる頃には、火の上で肉が焼けていた。
上手い料理とは言えなかった。軍で野外調理の訓練は受けているが、味を楽しむための技術ではない。火を通し、食べられる状態にする。それだけだ。
ルナは渡された肉を両手で持ち、慎重に齧った。
「どうだ」
ルナは噛んだ。もう一度噛んだ。
「……かたい」
「食べられる」
「ミレナのごはんのほうがおいしい」
グロリアの手が止まった。炎が薪を割る音だけがした。
「……そうだな」
ルナはそれ以上、ミレナのことを言わなかった。グロリアは自分の肉へ目を落とし、また一口食べた。
食事を終え、医師の指示を確かめて薬を飲ませる頃には、森は暗くなっていた。
グロリアは火のそばへ座り、左腕を見た。
赤い布がある。兵士になってから、いつもそこにあった。イルナに生まれ、ヴァルセナへ連れていかれた子供たち。その中から兵士になった者へ与えられる印。
赤腕。
森で避難民に会ったとき、外せと言われても外さなかった。外したところで、過去は消えない。イルナ人を殺してきた自分が、布一枚で別の人間になれるわけではない。
今も、その考えは変わっていなかった。
グロリアは腰からナイフを抜いた。
「……なにするの?」
毛布に包まっていたルナが見ている。グロリアは腕章の縫い目へ刃先を差し込んだ。糸を一本、切る。もう一本。赤い布が少しずつ軍服から離れていく。
「……取るの?」
「ああ」
「取っていいの?」
「駄目だ」
ルナが瞬きをした。
「ヴァルセナでは、故意に外せば重罪になる」
「……じゅうざい」
「捕まれば処罰される」
「じゃあ、取らないほうがいい?」
最後の糸を切ると、赤い布が手の中へ落ちた。
「もう捕まるつもりはない」
左腕に、縫いつけられていた跡だけが残った。
グロリアは胸元へ刃を移した。そこにはヴァルセナ連邦軍への所属を示す黒い軍章がある。
黒章。
初めて軍服を与えられた日から、その意味を教えられてきた。国に属する者。国を守る者。命令を受け、遂行する者。
「……それも?」
「ああ」
糸を切る。黒章も手の中へ落ちた。
赤と黒。二枚の布が掌に並んだ。何かが変わったようには見えなかった。
黒緑色の軍服を着ている。長銃も短銃もある。十二年間ヴァルセナで覚えたことも、撃った人間の数も消えてはいない。銃を構えれば、きっと明日も同じように撃てる。
ただ、その銃をどこへ向けるかは、もうヴァルセナに決めさせるつもりはなかった。
「……捨てる?」
ルナが聞いた。グロリアは二枚の布を見た。
「いや」
小さく畳み、装備袋の奥へ入れる。
「どうして?」
「捨てても、なかったことにはならない」
「……じゃあ、なんで取ったの?」
グロリアは答えようとして、少し考えた。以前なら、過去が消えないことが、外さない理由だった。今は同じ理由で、捨てずに持っていこうとしている。
「これからも命令に従うつもりはない。だが、従ってきたことまで捨てるつもりはない」
「……分かんない」
「今は、それでいい」
ルナは毛布へ顎を埋めた。
グロリアは左腕へ触れた。布がなくなった場所には、周囲より濃い軍服の色が残っている。それを隠そうとは思わなかった。
イルナに生まれたことも、ヴァルセナで育ったことも変わらない。腕章を外したからといって、帰れる場所ができるわけでもなかった。
隣のルナにも、帰る家の記憶はない。
明日は水と食料を確かめ、脚の状態を見て、進む道を決める。軍にいた頃なら誰かに与えられた予定を、今度は自分で考える。
「……グロリア」
「なんだ」
「明日も一緒?」
炎に照らされた灰色の瞳が、こちらを見ていた。
「ああ」
「明後日は?」
「一緒だ。どこにいるかは分からないがな」
ルナは少し考えたあと、毛布の中へ肩を引っ込めた。
「……じゃあ明日、鹿」
「食べきれないと言っただろう」
「いっぱい食べる」
「無理だ」
ルナが不満そうに頬を膨らませる。グロリアはその肩から落ちかけた毛布を直し、火へ目を戻した。
命令はない。帰還する部隊もない。どこへ進み、どこで休むのか、自分で決めなければならない。それを自由と呼ぶのか、グロリアにはまだ分からなかった。
ただ一つだけ、決まっていることがある。
明日も、ルナと生きる。
今は、それだけでよかった。




