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紅月下のGloria   作者: ユノ・サカリス
第四章《命令のない明日》

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第22話《何者でもない》

 街を出てから、しばらく走った。


 北へ延びる道は途中から舗装が途切れ、轍の薄い林道へ変わった。グロリアは何度か速度を落とし、背後を振り返った。


 追ってくるものはない。


 空を横切っていたイルナの飛行艇も、もう見えなかった。遠くの砲声もいつしか途絶え、風が木々を揺らす音と、二輪の駆動音だけが耳に残っている。


 追手が来ないことの方が、しばらくは不自然に思えた。命令から逃げ、ヴァルセナから逃げ、街まで追われた。いつからか、背後に誰かがいることを前提に進んでいた。


「……グロリア」


 側車から声がした。


「なんだ」


「おしり、いたい」


 グロリアは速度を落とした。


「脚は?」


「ちょっといたい」


「尻とどっちだ」


 ルナは少し考えた。


「……おしり」


「なら休む」


 林道を外れ、木々の間へ二輪を進めた。比較的平らな場所を見つけ、エンジンを止める。


 急に静かになった。


 グロリアは耳を澄ませた。鳥の声。枝葉が擦れる音。小さな虫の羽音。銃声はない。


 側車の帯を外し、ルナを抱き上げる。


「歩くなよ」


「……分かってる」


「さっき歩いた」


「グロリア、いなかったから」


「今はいる」


「……うん」


 木の根元へ毛布を敷き、そこへ座らせた。ヘルメットとゴーグルを外してやり、医師から渡された鞄を開く。右脚には腫れが残っているが、街を出たときから大きく悪化した様子はなかった。


「痛むか」


「ちょっと」


「熱は……」


 額へ手を当てる。まだ少し熱い。


「分からない」


「お前に聞いてない」


 ルナは額に置かれた手を見上げた。


「……グロリアの手、つめたい」


「そうか」


 木々の上には、まだ夕日の色が残っている。暗くなる前に、休める場所を作る必要があった。


 今夜はここで野営する。


 そう決めてから、グロリアは妙な感覚を覚えた。軍でも野外で眠ることはあった。だが、そこには監視や待機といった目的があり、場所も時間も命令で決められていた。


 今日は、ここで眠れと命じた者はいない。明日の行き先さえ、誰も決めていなかった。


 荷物から覆い布を取り出し、枝へ渡して寝場所を作る。食料は二人で節約しても数日分。近くに小さな沢はあったが、この先も水と食べ物を手に入れられるとは限らない。


「少し待っていろ」


「どこ行くの?」


「食べるものを探す。遠くへは行かない」


「ルナも行く」


「歩けないだろう」


「……行けない」


 それでも、小さな手は軍服の裾を離さなかった。グロリアはその指を見て、息を吐いた。


「近くだけだぞ」


 ルナを背負い、長銃を手に取る。歩くたびに脚を揺らさないよう、ゆっくりと森へ入った。


 ほどなく、木々の向こうに動く影を見つけた。


 鹿だった。まだ若い。こちらには気づいていない。


 グロリアは銃を構えなかった。二人では食べきれない。解体にも時間がかかり、残った肉を保存する手段もない。今殺す理由がなかった。


「……あれ」


 肩口で声がした。


「鹿だ」


「あれ食べたい」


「食べきれない」


「食べる」


「無理だ」


「いっぱい食べる」


「お前の腹より大きい」


 ルナが肩越しに鹿を見た。鹿もこちらに気づき、顔を上げる。次の瞬間には、木々の奥へ走り去っていた。


「あ」


「逃げたな」


 ルナが残念そうに森の奥を見る。


「お前が喋るからだ」


「……グロリアも喋った」


「そうだな」


 反論できなかった。


 寝場所へ戻る途中で見つけたのは、野うさぎだった。


 グロリアは足を止め、ルナへ静かにしているよう告げた。近くの倒木へ座らせてから、草の間で動く小さな身体へ銃口を向ける。


 一発。乾いた音が森に響き、鳥たちが飛び立った。


 ルナは何も言わなかった。グロリアが拾い上げた野うさぎを、じっと見ていた。


「……死んだ?」


「ああ」


「食べるため?」


「そうだ」


 ルナはしばらく見つめ、それから自分の腹へ手を置いた。


「……おなかすいた」


「なら食べるぞ」


「うん」


 それだけだった。


 戻ると、グロリアは枯れ枝を集めて小さな火を起こした。湯を沸かし、野うさぎの処理をする。ルナは毛布に包まり、その手元を見ていた。


 日が落ちる頃には、火の上で肉が焼けていた。


 上手い料理とは言えなかった。軍で野外調理の訓練は受けているが、味を楽しむための技術ではない。火を通し、食べられる状態にする。それだけだ。


 ルナは渡された肉を両手で持ち、慎重に齧った。


「どうだ」


 ルナは噛んだ。もう一度噛んだ。


「……かたい」


「食べられる」


「ミレナのごはんのほうがおいしい」


 グロリアの手が止まった。炎が薪を割る音だけがした。


「……そうだな」


 ルナはそれ以上、ミレナのことを言わなかった。グロリアは自分の肉へ目を落とし、また一口食べた。


 食事を終え、医師の指示を確かめて薬を飲ませる頃には、森は暗くなっていた。


 グロリアは火のそばへ座り、左腕を見た。


 赤い布がある。兵士になってから、いつもそこにあった。イルナに生まれ、ヴァルセナへ連れていかれた子供たち。その中から兵士になった者へ与えられる印。


 赤腕。


 森で避難民に会ったとき、外せと言われても外さなかった。外したところで、過去は消えない。イルナ人を殺してきた自分が、布一枚で別の人間になれるわけではない。


 今も、その考えは変わっていなかった。


 グロリアは腰からナイフを抜いた。


「……なにするの?」


 毛布に包まっていたルナが見ている。グロリアは腕章の縫い目へ刃先を差し込んだ。糸を一本、切る。もう一本。赤い布が少しずつ軍服から離れていく。


「……取るの?」


「ああ」


「取っていいの?」


「駄目だ」


 ルナが瞬きをした。


「ヴァルセナでは、故意に外せば重罪になる」


「……じゅうざい」


「捕まれば処罰される」


「じゃあ、取らないほうがいい?」


 最後の糸を切ると、赤い布が手の中へ落ちた。


「もう捕まるつもりはない」


 左腕に、縫いつけられていた跡だけが残った。


 グロリアは胸元へ刃を移した。そこにはヴァルセナ連邦軍への所属を示す黒い軍章がある。


 黒章。


 初めて軍服を与えられた日から、その意味を教えられてきた。国に属する者。国を守る者。命令を受け、遂行する者。


「……それも?」


「ああ」


 糸を切る。黒章も手の中へ落ちた。


 赤と黒。二枚の布が掌に並んだ。何かが変わったようには見えなかった。


 黒緑色の軍服を着ている。長銃も短銃もある。十二年間ヴァルセナで覚えたことも、撃った人間の数も消えてはいない。銃を構えれば、きっと明日も同じように撃てる。


 ただ、その銃をどこへ向けるかは、もうヴァルセナに決めさせるつもりはなかった。


「……捨てる?」


 ルナが聞いた。グロリアは二枚の布を見た。


「いや」


 小さく畳み、装備袋の奥へ入れる。


「どうして?」


「捨てても、なかったことにはならない」


「……じゃあ、なんで取ったの?」


 グロリアは答えようとして、少し考えた。以前なら、過去が消えないことが、外さない理由だった。今は同じ理由で、捨てずに持っていこうとしている。


「これからも命令に従うつもりはない。だが、従ってきたことまで捨てるつもりはない」


「……分かんない」


「今は、それでいい」


 ルナは毛布へ顎を埋めた。


 グロリアは左腕へ触れた。布がなくなった場所には、周囲より濃い軍服の色が残っている。それを隠そうとは思わなかった。


 イルナに生まれたことも、ヴァルセナで育ったことも変わらない。腕章を外したからといって、帰れる場所ができるわけでもなかった。


 隣のルナにも、帰る家の記憶はない。


 明日は水と食料を確かめ、脚の状態を見て、進む道を決める。軍にいた頃なら誰かに与えられた予定を、今度は自分で考える。


「……グロリア」


「なんだ」


「明日も一緒?」


 炎に照らされた灰色の瞳が、こちらを見ていた。


「ああ」


「明後日は?」


「一緒だ。どこにいるかは分からないがな」


 ルナは少し考えたあと、毛布の中へ肩を引っ込めた。


「……じゃあ明日、鹿」


「食べきれないと言っただろう」


「いっぱい食べる」


「無理だ」


 ルナが不満そうに頬を膨らませる。グロリアはその肩から落ちかけた毛布を直し、火へ目を戻した。


 命令はない。帰還する部隊もない。どこへ進み、どこで休むのか、自分で決めなければならない。それを自由と呼ぶのか、グロリアにはまだ分からなかった。


 ただ一つだけ、決まっていることがある。


 明日も、ルナと生きる。


 今は、それだけでよかった。

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