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紅月下のGloria   作者: ユノ・サカリス
第三章《帰る場所の外側》

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第21話《一緒に行く》

「グロリア!」


 集会所の入口で、ルナが壁に手をついていた。こちらへ来ようとしている。右脚をほとんど使えていない。それでも一歩踏み出し、身体が大きく傾いた。


「何をしてる! 無理をするな!」


 叱ったはずなのに、走ったのはグロリアの方だった。倒れかけた身体を受け止め、そのまま抱き寄せる。細い腕が首へ回った。


「……グロリア」


「ああ」


「帰ってきた」


「戻ると言っただろう」


 それだけだった。それなのに腕を緩められなかった。熱はまだ少し残っている。呼吸もある。胸へ押しつけた身体から、確かに鼓動が伝わってくる。


 生きている。確かめる必要などないはずなのに、グロリアはルナを抱いたまま動かなかった。


「……くるしい」


「すまない」


 腕を緩める。それでも離せず、背中を支えたまま顔を見た。ルナの目が、グロリアの頬へ向く。


「……血」


「私のじゃない」


「誰の?」


 答えられなかった。ルナはしばらく待っていたが、もう一度尋ねることはしなかった。


 頭上を飛行艇が通り過ぎ、遠くで爆発音が響いた。グロリアはルナを抱き上げ、集会所へ入る。医師が廊下の奥から駆けてきた。


「歩かせるなと言っただろ!」


「私が歩かせたんじゃない。あんただろ」


「ほかの怪我人を診ている間に出ていったんだよ。待ちなさいと言ったのに」


 ルナがグロリアの胸元へ顔を埋めた。


「……グロリア、いなかったから」


 医師が黙った。グロリアも何も言えなかった。


 外では銃声が続いている。しかし先ほどまでとは違い、射撃と爆発が南へ遠ざかり始めていた。


「イルナ軍が来た」


「ヴァルセナ兵が南へ退いているそうだ。さっき運ばれてきた人が言っていた」


 医師の言葉に、グロリアは耳を澄ませた。上空では飛行艇の駆動音が続いている。攻め込んできた部隊は、空からの反撃に対応しきれていないのかもしれない。


 このまま退けば、街にはイルナ軍が入る。


 グロリアは左腕へ目を落とした。赤い腕章がある。


「私も、ここにはいられないな」


 医師は否定しなかった。


「今日ここで何をしたかを知っている人間はいる。だが、それで軍があんたを自由にするとは限らない」


「分かってる」


「なら、今のうちに出た方がいい」


 グロリアは腕の中のルナを見た。


「この子を頼めるか」


 ルナが顔を上げた。


「……やだ」


「ここにいろ」


「やだ」


「医者がいる。薬もある。イルナ軍も来た。私についてくるより安全だ」


「行く」


「どこへ」


「グロリアと」


「どこへ行くかも決めていない」


「一緒に行く」


「脚も治っていない」


「行く」


 同じ言葉しか返ってこなかった。グロリアは医師を見る。


「どうすれば納得する」


「私に聞くな」


「医者だろう」


「脚は診られるが、意地までは治せないよ」


 医師は息を吐き、ルナを見た。それからグロリアへ視線を戻す。


「あんたはどうなんだ」


「何がだ」


「この子と離れたいのか」


 答えようとして、言葉が止まった。


 ルナをこの街へ連れてくる。医者に診せ、安心して休める場所へ預ける。そうすれば、自分は離れられる。そのはずだった。


「……分からない」


「そうか」


 医師はそれ以上聞かなかった。


 グロリアはルナを抱いたまま目を閉じた。頬に、まだ指の感触が残っている。


『行きなさい……エルン』


 ミレナが呼んでいたのは、十二年前に奪われた息子だった。最後まで待ち続けた、自分ではない誰か。それでも、その言葉を聞いたのは自分だった。


 たった数時間だった。食事を運んできた。空腹を聞かれ、食べなさいと言われた。自分が匙を持つまで見ていた。武器を返し、ここで死なせたくないと言った。


 母親とは、ああいうものなのだろうか。四歳より前の記憶を探しても、答えは出てこなかった。


 腕の中で、ルナが服を掴んでいる。


 自分も、この子が食べるところを見ていた。水を飲むところも、眠るところも、熱が下がるのも見ていた。死なせたくないと思った。それが何なのかは、まだ分からない。


 銃を持つ自分を必要とする者は、これまでもいた。だが、ルナは武器を取り上げられた自分にも手を伸ばした。何もできずに寝台の横へ座っているだけで、安心して眠った。


 この子は、自分に何かをしてほしいだけではない。そばにいてほしいのだ。


 それを嬉しいと思っていることに気づき、グロリアは目を開けた。


 外から男が入ってきた。顔に煤がつき、肩に巻いた布へ血が滲んでいる。先ほど荷車の陰で一緒に戦った男だった。


「まだいたのか」


「今から出る」


「だったら使え」


 男が差し出したものを、グロリアは片手で受け取った。鍵だった。


「裏に側車付きの軍用二輪がある。古いが走る。燃料も半分以上残ってる」


「お前のか」


「ああ」


「なぜ私に渡す」


 男は鼻で息を吐いた。


「さっきあんたが撃たなきゃ、俺はここにいない」


「それとこれは別だ」


「俺が決めることだろ」


 グロリアは鍵を見た。


「返せないかもしれない」


「返しに来たら、そのとき考える」


 男は足元へ装備袋を置いた。


「弾も入ってる。ヴァルセナ兵から拾ったものだ。使えるか確かめろ」


「……助かる」


「礼を言えるんだな」


「言う必要があるときは言う」


「変な赤腕だ」


 男は少しだけ笑った。ルナへ目を向け、入口で足を止める。


「その子を乗せるなら、頭に被せるものもいるな。待ってろ」


 男が出ていくと、医師は二人を奥の部屋へ呼んだ。ルナを寝台へ降ろし、脚を確かめる。グロリアはその間に荷物をまとめ、渡された弾薬を確認した。


「傷は開いていない。だが、もう歩かせるな」


 医師は包帯を整え、小さな鞄を渡した。


「洗浄液と包帯、薬を入れた。使い方も書いてある。側車では脚を支えて、できるだけ揺らさないように。腫れが増したり、熱が上がったら、すぐ医者を探せ」


「分かった」


「連れていくなら、次に治療を受けられる場所を考えておけ。ただ遠くへ行けばいいわけじゃない」


 グロリアは頷いた。今度は、街へ着いたあとも考えなければならない。


 戻ってきた男に案内され、裏へ回る。軍用二輪は傷だらけだった。側車の座席には毛布が敷かれ、男が持ってきたヘルメットとゴーグルが置かれている。


「側車に積んであった。合うか?」


 グロリアはルナへ被せ、内側の調整帯を締めた。軽く動かしてずれないことを確かめ、顎の留め具を掛ける。


「……おもい」


「少し我慢しろ」


 ゴーグルを目に当てると、ルナが顔を上げた。


「見えるか」


「……グロリア、見える」


「前も見ろ」


 ルナは首を動かし、それからまたグロリアへ顔を戻した。


「グロリアは?」


「私のはない」


 ルナの手が顎の留め具へ伸びた。


「外すな。お前が被っていろ」


 その手を下ろし、グロリアはルナを側車へ移した。背中へ毛布を挟んで上体を預けさせ、右脚の下にも畳んだ布を入れる。身体を支える帯を留め、傷へ圧迫がないか確かめた。


「痛くないか」


「だいじょうぶ」


「嘘をつくな」


「……ちょっと痛い」


「どこだ」


 ルナが膝の下を指した。グロリアは毛布の位置を変え、脚全体を支え直す。


「これなら?」


「……うん」


 荷物を固定し、長銃を走行の邪魔にならない位置へ収めた。医師が水と食料の包みを渡してくれる。


「無理はさせるなよ」


「そうする」


 グロリアは医師と男を見た。


「世話になった」


 男が北へ続く道を指す。


「街を出たら分かれ道がある。東へ行けば街道に出る。北は細いが、二輪なら通れる」


「分かった」


 エンジンを始動すると、低い振動が車体を伝った。ルナが側車の縁を握り、ゴーグル越しにグロリアを見上げる。


「……どこ行くの?」


 グロリアは北へ続く道を見た。イルナ軍が進んできた方角は避けたい。その先で休める場所と、次にルナを診てもらえる場所を探さなければならない。


「まずは北だ。その先は、まだ分からない」


 ルナは少し考えた。


「一緒?」


 グロリアは振り返った。


 ミレナの声が、もう一度だけ胸の奥を過ぎる。


 ――行きなさい。


「ああ」


 グロリアは前を向いた。


「一緒だ」


 軍用二輪が走り出す。


 行き先は、まだ決まっていなかった。だが、この子を届けて一人で去るための道を、グロリアはもう探していなかった。

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