第21話《一緒に行く》
「グロリア!」
集会所の入口で、ルナが壁に手をついていた。こちらへ来ようとしている。右脚をほとんど使えていない。それでも一歩踏み出し、身体が大きく傾いた。
「何をしてる! 無理をするな!」
叱ったはずなのに、走ったのはグロリアの方だった。倒れかけた身体を受け止め、そのまま抱き寄せる。細い腕が首へ回った。
「……グロリア」
「ああ」
「帰ってきた」
「戻ると言っただろう」
それだけだった。それなのに腕を緩められなかった。熱はまだ少し残っている。呼吸もある。胸へ押しつけた身体から、確かに鼓動が伝わってくる。
生きている。確かめる必要などないはずなのに、グロリアはルナを抱いたまま動かなかった。
「……くるしい」
「すまない」
腕を緩める。それでも離せず、背中を支えたまま顔を見た。ルナの目が、グロリアの頬へ向く。
「……血」
「私のじゃない」
「誰の?」
答えられなかった。ルナはしばらく待っていたが、もう一度尋ねることはしなかった。
頭上を飛行艇が通り過ぎ、遠くで爆発音が響いた。グロリアはルナを抱き上げ、集会所へ入る。医師が廊下の奥から駆けてきた。
「歩かせるなと言っただろ!」
「私が歩かせたんじゃない。あんただろ」
「ほかの怪我人を診ている間に出ていったんだよ。待ちなさいと言ったのに」
ルナがグロリアの胸元へ顔を埋めた。
「……グロリア、いなかったから」
医師が黙った。グロリアも何も言えなかった。
外では銃声が続いている。しかし先ほどまでとは違い、射撃と爆発が南へ遠ざかり始めていた。
「イルナ軍が来た」
「ヴァルセナ兵が南へ退いているそうだ。さっき運ばれてきた人が言っていた」
医師の言葉に、グロリアは耳を澄ませた。上空では飛行艇の駆動音が続いている。攻め込んできた部隊は、空からの反撃に対応しきれていないのかもしれない。
このまま退けば、街にはイルナ軍が入る。
グロリアは左腕へ目を落とした。赤い腕章がある。
「私も、ここにはいられないな」
医師は否定しなかった。
「今日ここで何をしたかを知っている人間はいる。だが、それで軍があんたを自由にするとは限らない」
「分かってる」
「なら、今のうちに出た方がいい」
グロリアは腕の中のルナを見た。
「この子を頼めるか」
ルナが顔を上げた。
「……やだ」
「ここにいろ」
「やだ」
「医者がいる。薬もある。イルナ軍も来た。私についてくるより安全だ」
「行く」
「どこへ」
「グロリアと」
「どこへ行くかも決めていない」
「一緒に行く」
「脚も治っていない」
「行く」
同じ言葉しか返ってこなかった。グロリアは医師を見る。
「どうすれば納得する」
「私に聞くな」
「医者だろう」
「脚は診られるが、意地までは治せないよ」
医師は息を吐き、ルナを見た。それからグロリアへ視線を戻す。
「あんたはどうなんだ」
「何がだ」
「この子と離れたいのか」
答えようとして、言葉が止まった。
ルナをこの街へ連れてくる。医者に診せ、安心して休める場所へ預ける。そうすれば、自分は離れられる。そのはずだった。
「……分からない」
「そうか」
医師はそれ以上聞かなかった。
グロリアはルナを抱いたまま目を閉じた。頬に、まだ指の感触が残っている。
『行きなさい……エルン』
ミレナが呼んでいたのは、十二年前に奪われた息子だった。最後まで待ち続けた、自分ではない誰か。それでも、その言葉を聞いたのは自分だった。
たった数時間だった。食事を運んできた。空腹を聞かれ、食べなさいと言われた。自分が匙を持つまで見ていた。武器を返し、ここで死なせたくないと言った。
母親とは、ああいうものなのだろうか。四歳より前の記憶を探しても、答えは出てこなかった。
腕の中で、ルナが服を掴んでいる。
自分も、この子が食べるところを見ていた。水を飲むところも、眠るところも、熱が下がるのも見ていた。死なせたくないと思った。それが何なのかは、まだ分からない。
銃を持つ自分を必要とする者は、これまでもいた。だが、ルナは武器を取り上げられた自分にも手を伸ばした。何もできずに寝台の横へ座っているだけで、安心して眠った。
この子は、自分に何かをしてほしいだけではない。そばにいてほしいのだ。
それを嬉しいと思っていることに気づき、グロリアは目を開けた。
外から男が入ってきた。顔に煤がつき、肩に巻いた布へ血が滲んでいる。先ほど荷車の陰で一緒に戦った男だった。
「まだいたのか」
「今から出る」
「だったら使え」
男が差し出したものを、グロリアは片手で受け取った。鍵だった。
「裏に側車付きの軍用二輪がある。古いが走る。燃料も半分以上残ってる」
「お前のか」
「ああ」
「なぜ私に渡す」
男は鼻で息を吐いた。
「さっきあんたが撃たなきゃ、俺はここにいない」
「それとこれは別だ」
「俺が決めることだろ」
グロリアは鍵を見た。
「返せないかもしれない」
「返しに来たら、そのとき考える」
男は足元へ装備袋を置いた。
「弾も入ってる。ヴァルセナ兵から拾ったものだ。使えるか確かめろ」
「……助かる」
「礼を言えるんだな」
「言う必要があるときは言う」
「変な赤腕だ」
男は少しだけ笑った。ルナへ目を向け、入口で足を止める。
「その子を乗せるなら、頭に被せるものもいるな。待ってろ」
男が出ていくと、医師は二人を奥の部屋へ呼んだ。ルナを寝台へ降ろし、脚を確かめる。グロリアはその間に荷物をまとめ、渡された弾薬を確認した。
「傷は開いていない。だが、もう歩かせるな」
医師は包帯を整え、小さな鞄を渡した。
「洗浄液と包帯、薬を入れた。使い方も書いてある。側車では脚を支えて、できるだけ揺らさないように。腫れが増したり、熱が上がったら、すぐ医者を探せ」
「分かった」
「連れていくなら、次に治療を受けられる場所を考えておけ。ただ遠くへ行けばいいわけじゃない」
グロリアは頷いた。今度は、街へ着いたあとも考えなければならない。
戻ってきた男に案内され、裏へ回る。軍用二輪は傷だらけだった。側車の座席には毛布が敷かれ、男が持ってきたヘルメットとゴーグルが置かれている。
「側車に積んであった。合うか?」
グロリアはルナへ被せ、内側の調整帯を締めた。軽く動かしてずれないことを確かめ、顎の留め具を掛ける。
「……おもい」
「少し我慢しろ」
ゴーグルを目に当てると、ルナが顔を上げた。
「見えるか」
「……グロリア、見える」
「前も見ろ」
ルナは首を動かし、それからまたグロリアへ顔を戻した。
「グロリアは?」
「私のはない」
ルナの手が顎の留め具へ伸びた。
「外すな。お前が被っていろ」
その手を下ろし、グロリアはルナを側車へ移した。背中へ毛布を挟んで上体を預けさせ、右脚の下にも畳んだ布を入れる。身体を支える帯を留め、傷へ圧迫がないか確かめた。
「痛くないか」
「だいじょうぶ」
「嘘をつくな」
「……ちょっと痛い」
「どこだ」
ルナが膝の下を指した。グロリアは毛布の位置を変え、脚全体を支え直す。
「これなら?」
「……うん」
荷物を固定し、長銃を走行の邪魔にならない位置へ収めた。医師が水と食料の包みを渡してくれる。
「無理はさせるなよ」
「そうする」
グロリアは医師と男を見た。
「世話になった」
男が北へ続く道を指す。
「街を出たら分かれ道がある。東へ行けば街道に出る。北は細いが、二輪なら通れる」
「分かった」
エンジンを始動すると、低い振動が車体を伝った。ルナが側車の縁を握り、ゴーグル越しにグロリアを見上げる。
「……どこ行くの?」
グロリアは北へ続く道を見た。イルナ軍が進んできた方角は避けたい。その先で休める場所と、次にルナを診てもらえる場所を探さなければならない。
「まずは北だ。その先は、まだ分からない」
ルナは少し考えた。
「一緒?」
グロリアは振り返った。
ミレナの声が、もう一度だけ胸の奥を過ぎる。
――行きなさい。
「ああ」
グロリアは前を向いた。
「一緒だ」
軍用二輪が走り出す。
行き先は、まだ決まっていなかった。だが、この子を届けて一人で去るための道を、グロリアはもう探していなかった。




