第20話《銃口の先に》
グロリアはミレナの胸元から、ゆっくりと手を離した。
もう血を押さえる意味はなかった。それでもすぐには立ち上がれず、土の上へ落ちていた手を取り、身体の脇へ戻す。開いたままの瞼を指先で閉じた。
「……ミレナ」
返事はない。
近くの壁が弾けた。破片が頬をかすめ、グロリアは反射的に身を伏せる。通りの向こうから銃声が続き、ヴァルセナ兵の怒号が重なった。
まだ戦闘は終わっていない。グロリアは長銃を握り、ミレナから離れた。
住民たちの銃声は、明らかに減っていた。南から入った兵士は街の中央へ達し、東側からも黒緑色の軍服が路地を埋め始めている。街を守っていた武装者が何人残っているのかは分からない。倒れたのか、逃げたのか。それを確かめる余裕もなかった。
「こっちだ!」
男の声がした。通りの先で、三人の住民が倒した荷車の陰から銃を撃っている。その向こうにはヴァルセナ兵。射撃が続く間に、一人が建物の陰へ消えた。
「右から来る!」
グロリアが叫ぶ。住民の一人が振り向いたとき、荷車の側面へ回り込んだ兵士が姿を現した。
グロリアは撃った。兵士が倒れる。別の銃口がこちらへ向くより早く、壁の陰へ戻った。
「下がれ!」
荷車の陰にいる住民の男が叫び返した。
「集会所を取られる!」
「ここにいても死ぬだけだ!」
「じゃあどうしろと!」
「生きて下がれ!」
銃弾が壁を削った。グロリアは長銃を構え直し、荷車へ近づこうとする兵士へ二発撃った。
「今だ!」
三人が荷車から離れる。一人が脇道へ走り、もう一人が後を追う。三人目が通りを横切ったところで倒れた。
「おい!」
グロリアは駆け寄ろうとした。だが、すぐ脇の地面を弾丸が叩き、足が止まる。倒れた男の背中から血が広がっていた。
ここに留まるな。
そう判断する自分と、ミレナの傷を押さえ続けた自分が、同じ身体の中にいた。
グロリアは走った。
集会所へ戻らなければならない。ルナは医師といる。ミレナはそう言った。だが、そこまで兵士が来ていない保証はない。
角を曲がろうとしたところで、前方から声が響いた。
「武器を捨てろ!」
グロリアは壁へ背をつけた。返事の代わりに銃声が返り、直後に短い連射音が重なる。
静かになった。
角からわずかに顔を出すと、路上に男が二人倒れていた。ヴァルセナ兵がその脇を通り、さらに先へ進んでいく。
抵抗は分断され、一つずつ潰されている。グロリアは別の路地へ入った。
「グロリア・レイス」
足が止まった。銃声の中でも、はっきり聞こえた。自分の名だった。
振り向くと、低い屋根の縁から一人の男が降りた。着地と同時に脚部の補助機構が沈み、短い駆動音を残す。黒緑色の軍服。その手には長銃があった。
さっき見た男だった。ミレナが撃たれたあと、遠くの屋根から姿を消した男。
グロリアは銃を上げた。ほぼ同時に、男もこちらへ銃口を向ける。
「動くな」
「そっちもな」
十メートルほどの距離を隔て、二人は止まった。
「グロリア・レイス。ヴァルセナ連邦軍所属」
「だった、らしい」
ミレナの言葉が、そのまま口から出た。
男の眉がわずかに動く。
「第九機動追跡隊、レイヴ・オルディス少佐だ」
「私を追っていたのか」
「そうだ。ガルナ上等兵を撃ったのは、お前か」
「違う」
「では誰だ」
「言わない」
レイヴは銃口を動かさなかった。
「その件は改めて確認する。だが、今この街でヴァルセナ兵を撃ったことは確認できている」
「ああ。撃った」
「なぜだ」
「ルナがいる」
「ルナ?」
「あの子の名前だ」
レイヴの目がわずかに動いた。
「その子供を守るために、味方を撃ったのか」
「味方だった」
言ってから、グロリアは自分の言葉を聞いた。過去形だった。
「一人の子供のためにか」
「一人なら、死んでもいいのか?」
「そうは言っていない」
「なら、人数は関係ない」
近くの通りで銃声が響いた。レイヴの通信機から報告が流れたが、男は視線を外さなかった。
グロリアも、その胸へ照準を置いたまま口を開いた。
「さっきの女を撃ったのは、お前か」
「女?」
「武器は持っていなかった。私のところへ走ってきた」
レイヴは短く答えた。
「私だ」
「名前はミレナだ」
「そうか」
「なぜ撃った」
「お前と行動していた。抵抗者への協力と判断した」
「私を呼びに来ただけだ」
「そこまでは分からなかった」
グロリアの指に力が入った。
分からなかった。それでも、この男は撃った。
自分もそうしてきた。照準の向こうで何が起きているのか、その人間が何を考えているのか。すべてを確かめてから撃ったことなどない。
だが、それを知っていることと、今この男へ銃を向けていることは、別だった。
「投降しろ、グロリア・レイス」
「できない」
「子供については、保護を要請する」
「確実に生かせるのか」
「処遇を決める権限は私にはない」
「なら、銃は下ろせない」
レイヴの指が引き金に触れていた。グロリアも同じだった。
この距離なら撃てる。だが、先に撃っても無傷で済む保証はない。相手の銃口は、こちらのわずかな動きにもついてくる。引き金を引くことだけを考えればよかった頃とは違った。
ここで倒れれば、ルナのところへ戻れない。
「長銃を置け」
「そちらが先だ」
レイヴは動かなかった。
遠くで爆発が起きた。その余韻が消える前に、別の音が空から降りてきた。重く連続する駆動音。レイヴの通信機から、シエナの声が響く。
『少佐。上空に飛行艇! 識別信号、イルナです!』
レイヴの目がわずかに動いた。グロリアは撃たなかった。銃口はこちらを向いたままだった。
『現在四機。北東から接近中。後続も確認しています!』
「早いな」
レイヴが低く呟く。
『こちらの展開を察知していたのでしょうか』
「……あの避難民が知らせたか」
『山で会った四人ですか?』
「確認は後だ。飛行艇の動きを報告しろ」
頭上を巨大な影が横切った。屋根の切れ間に灰白色の機体が見え、その後方にも別の影が続いている。
イルナ軍だった。
飛行艇が街の南へ機首を向ける。次の瞬間、地面を揺らす爆発が起きた。屋根の向こうに炎が上がり、遅れて破片が降ってくる。
『第三機動中隊より支援要請! 南側の部隊が攻撃を受けています!』
グロリアはレイヴを見ていた。レイヴも、まだこちらへ銃口を向けている。
再び頭上で駆動音が膨らんだ。
路地の先が閃いた。
二人がほぼ同時に動く。グロリアは脇の石壁へ飛び込み、レイヴは向かいの建物の陰へ消えた。轟音とともに土煙が噴き上がり、さっきまで立っていた場所へ瓦礫が転がる。
グロリアは身を低くしたまま、長銃を構えた。向こうの壁は煙で見えない。通信へ指示を返すレイヴの声だけが、かすかに聞こえた。
追えば、まだ見つけられるかもしれない。
頬へ触れたミレナの指を思い出した。銃を握る自分の手には、まだ血が残っている。
「ミレナ……」
声にしても、もう返事はない。
その向こうで、集会所の屋根が見えた。
グロリアは銃口を下げ、路地を走り出した。
土煙の反対側で、レイヴも建物の角へ目を向けていた。白銀の髪が路地の奥へ消えたことは見えた。だが、追おうと踏み出した足を、通信機からの報告が止めた。
『南側の退避経路が塞がれています! 誘導が必要です!』
「位置を送れ。私が向かう」
レイヴはグロリアの消えた路地から視線を切り、南へ走った。
グロリアは振り返らなかった。
レイヴの顔も、ミレナの最後の声も、頭から消えたわけではない。それでも、今は足を止めなかった。
集会所まで、あと一つ角を曲がればいい。
その先に、ルナがいた。




