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紅月下のGloria   作者: ユノ・サカリス
第三章《帰る場所の外側》

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第18話《選択の続き》

「……グロリア」


 呼ばれて振り向くと、ルナが空になった器を両手で持っていた。


「なくなった」


「全部食べたからだ」


「……もっとある?」


「食べすぎだ」


「あるわよ」


 ミレナが立ち上がった。


「熱が下がったばかりなんだから、少しだけね」


 ルナの器を受け取る。その手つきが妙に自然だった。


「あなたの分は、まだ残ってるわよ」


「あとで食べる」


「ルナが食べてるところは、ずっと見てたのに」


「ルナは怪我をしている」


「あなたも疲れてるでしょう」


「私は怪我をしていない」


「そういう話じゃないの」


 また分からなかった。けれど今度は聞き返さず、グロリアは残っていた食事を口へ運んだ。温かさは、まだ消えていなかった。


 ミレナが少量のおかわりを持って戻ると、ルナは嬉しそうに匙を握り直した。それも食べ終える頃には瞼が重くなり、横になるとほどなく眠った。


 ミレナは空になった器を盆へ戻し、毛布から出ていたルナの肩を覆ってやった。


「夕方にもう一度来るわ」


「世話係だからか」


 扉へ向かったミレナが振り返る。


「そういうことにしておいて」


 扉が閉まった。グロリアはしばらくそこを見ていた。やはり、よく分からなかった。


 窓からは午後の光が差し込んでいる。街へ着いたのは一時半頃だった。ルナを医務所へ送り、尋問を受け、気づけばすでに三時を回っている。


 グロリアは眠るルナへ目を向けた。


 ここまで連れてくれば終わると思っていた。戦火の届いていない街へ送り届け、医者に診せる。あとはこの街の人間に任せ、自分は離れる。そのために山を越えてきた。


 実際、ルナは治療を受けた。熱も下がり、食事を頬張って笑っていた。目的は果たしたはずだった。それなのに、まだ離れると決められない。


『ルナを置いていくと、まだ決めていない』


 尋問で口にした言葉が蘇った。なぜ、そう答えたのか。答えを探すうちに、別の懸念が浮かんだ。


 ヴァルセナが自分を追っている可能性がある。


 ガルナが死に、自分は部隊へ戻らず、通信端末も捨てた。軍が何もしないとは考えにくい。すでに追跡隊が動いていたとしても不思議ではなかった。


 グロリアは窓の外へ視線を戻した。軒先には洗濯物が揺れ、荷車を押す男の横を子供が走っていく。銃を持った者もいるが、数は多くない。


 追跡隊が来れば、捜索だけで終わる保証はなかった。戦火が届いていないことと、戦火が届かないことは違う。分かっていたはずなのに、医者のいる街へ着くことばかり考えていた。


 ――安全とは何だ。


 昨日まで攻撃されていなかった場所なのか。今日も兵士がいない場所なのか。それとも、明日も誰にも銃を向けられない場所なのか。


 最後の条件を満たす場所を、グロリアは知らなかった。四歳まで暮らしていた故郷も、ヴァルセナが来るまでは安全だった。ルナの街も、きっとそうだった。


 ならば、自分は何を基準にこの街を安全だと決めたのだろう。


 戦火がまだ届いていない。ただそれだけだった。


 眠っているルナを見る。ここに置いていけば、この子は生きられる。そう思ったのではない。そう思いたかっただけなのかもしれない。


 

 街の北西に延びる尾根では、レイヴたちが配置の報告を待っていた。


「第三機動中隊、配置を開始しました」


 シエナの報告に、レイヴは双眼端末を覗いたまま答えた。


「南側は」


「第一小隊が街道の封鎖位置へ移動中。第二小隊は東へ展開しています。西側は車両の進入が難しいため、歩兵を回しています」


 時刻は午後四時を過ぎていた。北西の尾根から見下ろす街は、二時間前とほとんど変わっていない。煙突から煙が上がり、人が道を歩いている。


「武装者は」


「確認できたのは十四。正規軍らしい部隊は見当たりません。東側の監視所にも動きはありません」


「車両は」


「軍用と思われるものはなし」


 レイヴは端末を下ろした。


 第三機動中隊の目的は、この街の確保だった。第二次北進計画に含まれていた拠点の一つ。それが予定より早まったにすぎない。グロリアの逃亡は作戦を早めるきっかけにはなったが、この街が選ばれた理由ではなかった。


「グロリア・レイスは」


「集会所へ戻ったあと、外へ出た姿は確認されていません。子供も同じ建物へ運ばれました」


「監視を続けろ。作戦開始までは接触しない」


「逃げた場合は?」


「移動先を追え。捕捉するために、中隊の配置を崩すな」


 シエナが頷き、通信機へ手を添えた。


「第三機動中隊からです。配置完了見込み、一六四五。作戦開始は一七〇〇とのことです」


「了解。こちらもそれに合わせる」


 シエナが通信を返す。街の屋根には、まだ陽が当たっていた。



 四時半を過ぎた頃、グロリアたちのいる集会所へ医師が訪れた。


 ルナは目を覚ましたものの、まだ眠そうにしていた。額に触れられ、脚の包帯を確認されるあいだも、グロリアの袖を掴んで離さなかった。


「熱はかなり下がってる。傷も今のところ悪化はしていない」


「歩けるようになるのか」


「回復を見ないと何とも言えないけど、今は無理だ。少なくとも数日は安静にさせたい」


「……数日」


「無理に動かせば治るものも治らなくなる。今夜はここで休ませて、明日の朝、また診るよ」


 医師が帰ると、ルナはグロリアを見上げた。


「……グロリア、一緒にここで暮らすの?」


「まだ分からない」


「まだ?」


「そうだ」


「いつ分かる?」


「分からない」


 ルナはそれ以上聞かなかった。少なくとも今すぐ離れる話ではないと受け取ったのか、掴んでいた袖を離し、枕へ頬を沈めた。


 グロリアは窓際の椅子へ戻った。


 ――数日。そんな時間があるのか分からない。


 自分だけが街を出るなら、事情を話せば認められるかもしれない。追手を連れてくるなと言った者たちも、反対はしないだろう。


 追跡隊を別の方向へ引きつければ、ルナをここで休ませられる。だが、この街へ入ったことをすでに知られていたなら、自分が去っても捜索される可能性はある。一緒にいたルナについても調べるかもしれない。


 連れていけば、治療した脚を悪化させるかもしれない。置いていけば、追手が来たとき、そばにいられない。


 どちらが生かすことになるのか、グロリアには分からなかった。


 選択肢が二つあるからといって、どちらかが正しいとは限らない。それでも、選ばなければならないときがある。


 あの焼けた家では、水を与え、食べ物を与えた。それだけでは終われなかった。殺さないと決め、背負った。軍を捨て、人を殺し、山を越えた。


 街へ着けば、何かが決まると思っていた。だが今は、治療を受けたこの子を動かすべきかどうかで迷っている。一度の選択で終わることなど、何もなかった。


「……グロリア」


「なんだ」


「外、きれい」


 ルナが窓を見ていた。傾いた陽が街の屋根を照らし、長く伸びた影のあいだを人が歩いている。


「ああ」


 街へ着いてから、窓の外には何度か目を向けていた。だが、きれいかどうかを考えたことはなかった。ルナは横になったまま、窓の向こうを眺めていた。


 午後五時を告げる鐘が、街のどこかで鳴った。


 ひとつ、ふたつ。三つ目が響いたとき、別の音が重なった。


 低く、遠い音。窓ガラスがわずかに震え、グロリアの目が山へ向いた。


「……グロリア?」


 四つ目の鐘。また、低い音。


 風ではない。雷でもない。グロリアはその音を知っていた。


 五つ目の鐘が鳴るより先に、立ち上がっていた。

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