第18話《選択の続き》
「……グロリア」
呼ばれて振り向くと、ルナが空になった器を両手で持っていた。
「なくなった」
「全部食べたからだ」
「……もっとある?」
「食べすぎだ」
「あるわよ」
ミレナが立ち上がった。
「熱が下がったばかりなんだから、少しだけね」
ルナの器を受け取る。その手つきが妙に自然だった。
「あなたの分は、まだ残ってるわよ」
「あとで食べる」
「ルナが食べてるところは、ずっと見てたのに」
「ルナは怪我をしている」
「あなたも疲れてるでしょう」
「私は怪我をしていない」
「そういう話じゃないの」
また分からなかった。けれど今度は聞き返さず、グロリアは残っていた食事を口へ運んだ。温かさは、まだ消えていなかった。
ミレナが少量のおかわりを持って戻ると、ルナは嬉しそうに匙を握り直した。それも食べ終える頃には瞼が重くなり、横になるとほどなく眠った。
ミレナは空になった器を盆へ戻し、毛布から出ていたルナの肩を覆ってやった。
「夕方にもう一度来るわ」
「世話係だからか」
扉へ向かったミレナが振り返る。
「そういうことにしておいて」
扉が閉まった。グロリアはしばらくそこを見ていた。やはり、よく分からなかった。
窓からは午後の光が差し込んでいる。街へ着いたのは一時半頃だった。ルナを医務所へ送り、尋問を受け、気づけばすでに三時を回っている。
グロリアは眠るルナへ目を向けた。
ここまで連れてくれば終わると思っていた。戦火の届いていない街へ送り届け、医者に診せる。あとはこの街の人間に任せ、自分は離れる。そのために山を越えてきた。
実際、ルナは治療を受けた。熱も下がり、食事を頬張って笑っていた。目的は果たしたはずだった。それなのに、まだ離れると決められない。
『ルナを置いていくと、まだ決めていない』
尋問で口にした言葉が蘇った。なぜ、そう答えたのか。答えを探すうちに、別の懸念が浮かんだ。
ヴァルセナが自分を追っている可能性がある。
ガルナが死に、自分は部隊へ戻らず、通信端末も捨てた。軍が何もしないとは考えにくい。すでに追跡隊が動いていたとしても不思議ではなかった。
グロリアは窓の外へ視線を戻した。軒先には洗濯物が揺れ、荷車を押す男の横を子供が走っていく。銃を持った者もいるが、数は多くない。
追跡隊が来れば、捜索だけで終わる保証はなかった。戦火が届いていないことと、戦火が届かないことは違う。分かっていたはずなのに、医者のいる街へ着くことばかり考えていた。
――安全とは何だ。
昨日まで攻撃されていなかった場所なのか。今日も兵士がいない場所なのか。それとも、明日も誰にも銃を向けられない場所なのか。
最後の条件を満たす場所を、グロリアは知らなかった。四歳まで暮らしていた故郷も、ヴァルセナが来るまでは安全だった。ルナの街も、きっとそうだった。
ならば、自分は何を基準にこの街を安全だと決めたのだろう。
戦火がまだ届いていない。ただそれだけだった。
眠っているルナを見る。ここに置いていけば、この子は生きられる。そう思ったのではない。そう思いたかっただけなのかもしれない。
街の北西に延びる尾根では、レイヴたちが配置の報告を待っていた。
「第三機動中隊、配置を開始しました」
シエナの報告に、レイヴは双眼端末を覗いたまま答えた。
「南側は」
「第一小隊が街道の封鎖位置へ移動中。第二小隊は東へ展開しています。西側は車両の進入が難しいため、歩兵を回しています」
時刻は午後四時を過ぎていた。北西の尾根から見下ろす街は、二時間前とほとんど変わっていない。煙突から煙が上がり、人が道を歩いている。
「武装者は」
「確認できたのは十四。正規軍らしい部隊は見当たりません。東側の監視所にも動きはありません」
「車両は」
「軍用と思われるものはなし」
レイヴは端末を下ろした。
第三機動中隊の目的は、この街の確保だった。第二次北進計画に含まれていた拠点の一つ。それが予定より早まったにすぎない。グロリアの逃亡は作戦を早めるきっかけにはなったが、この街が選ばれた理由ではなかった。
「グロリア・レイスは」
「集会所へ戻ったあと、外へ出た姿は確認されていません。子供も同じ建物へ運ばれました」
「監視を続けろ。作戦開始までは接触しない」
「逃げた場合は?」
「移動先を追え。捕捉するために、中隊の配置を崩すな」
シエナが頷き、通信機へ手を添えた。
「第三機動中隊からです。配置完了見込み、一六四五。作戦開始は一七〇〇とのことです」
「了解。こちらもそれに合わせる」
シエナが通信を返す。街の屋根には、まだ陽が当たっていた。
四時半を過ぎた頃、グロリアたちのいる集会所へ医師が訪れた。
ルナは目を覚ましたものの、まだ眠そうにしていた。額に触れられ、脚の包帯を確認されるあいだも、グロリアの袖を掴んで離さなかった。
「熱はかなり下がってる。傷も今のところ悪化はしていない」
「歩けるようになるのか」
「回復を見ないと何とも言えないけど、今は無理だ。少なくとも数日は安静にさせたい」
「……数日」
「無理に動かせば治るものも治らなくなる。今夜はここで休ませて、明日の朝、また診るよ」
医師が帰ると、ルナはグロリアを見上げた。
「……グロリア、一緒にここで暮らすの?」
「まだ分からない」
「まだ?」
「そうだ」
「いつ分かる?」
「分からない」
ルナはそれ以上聞かなかった。少なくとも今すぐ離れる話ではないと受け取ったのか、掴んでいた袖を離し、枕へ頬を沈めた。
グロリアは窓際の椅子へ戻った。
――数日。そんな時間があるのか分からない。
自分だけが街を出るなら、事情を話せば認められるかもしれない。追手を連れてくるなと言った者たちも、反対はしないだろう。
追跡隊を別の方向へ引きつければ、ルナをここで休ませられる。だが、この街へ入ったことをすでに知られていたなら、自分が去っても捜索される可能性はある。一緒にいたルナについても調べるかもしれない。
連れていけば、治療した脚を悪化させるかもしれない。置いていけば、追手が来たとき、そばにいられない。
どちらが生かすことになるのか、グロリアには分からなかった。
選択肢が二つあるからといって、どちらかが正しいとは限らない。それでも、選ばなければならないときがある。
あの焼けた家では、水を与え、食べ物を与えた。それだけでは終われなかった。殺さないと決め、背負った。軍を捨て、人を殺し、山を越えた。
街へ着けば、何かが決まると思っていた。だが今は、治療を受けたこの子を動かすべきかどうかで迷っている。一度の選択で終わることなど、何もなかった。
「……グロリア」
「なんだ」
「外、きれい」
ルナが窓を見ていた。傾いた陽が街の屋根を照らし、長く伸びた影のあいだを人が歩いている。
「ああ」
街へ着いてから、窓の外には何度か目を向けていた。だが、きれいかどうかを考えたことはなかった。ルナは横になったまま、窓の向こうを眺めていた。
午後五時を告げる鐘が、街のどこかで鳴った。
ひとつ、ふたつ。三つ目が響いたとき、別の音が重なった。
低く、遠い音。窓ガラスがわずかに震え、グロリアの目が山へ向いた。
「……グロリア?」
四つ目の鐘。また、低い音。
風ではない。雷でもない。グロリアはその音を知っていた。
五つ目の鐘が鳴るより先に、立ち上がっていた。




