第17話《温かい食事》
医師が必要なことを聞き終えると、グロリアは再び集会所へ戻されることになった。
ルナは医務所に残し、グロリアだけを連れていく。だが、それを聞いた途端、ルナは毛布を握りしめて首を振った。
「……やだ」
「すぐ戻る」
「やだ」
起き上がろうとして脚を動かし、痛みに顔を歪め、それでもグロリアの服を掴もうとする。医師が宥めても駄目だった。
「向こうに寝かせられる部屋はある?」
医師が見張りへ尋ねた。
「奥の部屋なら」
「担架で運ぼう。離すたびに暴れて、傷を痛めるよりいい。私もあとで診に行く」
連れていかれたのは、尋問を受けた部屋の奥だった。窓と机が一つずつ、壁際には簡素な寝台が二つある。
見張りの男がグロリアを振り向かせ、手首の拘束具を外した。
「この部屋の中だけだ。外へ出るときは、また掛ける」
グロリアは手首を擦った。扉の外には見張りが残り、長銃も短銃も返されなかった。
ルナは寝台へ横になると、ほどなく眠った。額に触れると、熱は先ほどより引いている。呼吸も穏やかだった。
グロリアは窓際の壁に背を預けた。外では男たちが行き交っている。自分が来たことで警戒を強めたのか、それとも普段からそうなのかは分からない。銃を持つ者も見えたが、軍人らしい統一された動きではなかった。
しばらくして、扉が開いた。
入ってきたのは、あの女だった。両手に盆を持ち、その上には湯気の立つ器が二つ載っている。
「食事よ」
女は机へ盆を置くと、眠っているルナを見た。
「熱は?」
「下がっている」
「そう。薬が効いたのね」
「たぶんな」
女はグロリアへ目を向けた。昼間と同じ目だった。敵を見る目とも、子供を見る目ともつかない。
「あなたたちの世話をすることになったわ。見張りは外の人たちがする」
「自分からか」
「ええ」
「なぜだ」
女はすぐには答えなかった。
「あなたに聞きたいことがあるから」
何についてなのかは分かった。
「あんたの息子のことか。確か、エルン」
「……ええ」
女は椅子を引いた。
「ミレナ」
グロリアは目を向けた。
「私の名前。あなたの名前だけ知っているのも、変でしょう」
「ミレナ」
「そうね」
グロリアは一度その名を口にした。それ以上は何も言わなかった。
食べ物の匂いに気づいたのか、寝台から小さな声がした。ルナが目を開け、鼻を動かしている。
「……ごはん?」
「起きたのか」
グロリアはルナの上体を支え、背中へ畳んだ毛布を入れた。脚を伸ばしたまま座らせると、ミレナが器を運んできた。穀物を柔らかく煮たものに、小さく切った野菜と肉が入っている。
「ゆっくり食べなさい。熱いから」
ルナは頷いた。
最初の一口だけは慎重だった。だが、すぐに二口目を運び、三口目には頬が膨らんでいた。
「詰め込むな」
ルナは口を動かしながらグロリアを見た。飲み込んでから、唇を開く。
「……おいしい」
笑った。
グロリアは、その顔をしばらく見ていた。水を欲しがった顔も、乾パンを噛んでいた顔も、背中にしがみついていた顔も覚えている。泣いた顔なら何度も見た。だが、ただ食べ物がおいしいというだけで浮かべる表情を、グロリアは知らなかった。
「そうか」
「グロリアも食べる?」
「あとで食べる」
「……おいしいよ」
「分かった」
ルナは再び器へ向かった。匙を運ぶ手を、グロリアは見ていた。一昨日は乾パンをひとかけら噛むのにも時間がかかっていた。その手が止まらないことを、今は確かめていたかった。
「あなたの分もあるわよ」
ミレナに声を掛けられ、グロリアは顔を上げた。
「冷める前に食べなさい」
「あとでいい」
「お腹、空いてるでしょ」
グロリアは机の器へ目を落とした。施設でも軍でも、決められた時間になれば必要な量が配られた。食べなければ注意されたこともある。体調を維持できない兵士は、任務に支障をきたすからだ。
だが、この女は自分の任務遂行能力など気にしていない。
「……少し」
「なら食べなさい」
グロリアは椅子に座り、器を手に取った。一口食べる。温かかった。
「どう?」
「食べられる」
「そういうことを聞いたんじゃないんだけど」
グロリアには、それ以上の答え方が分からなかった。
ミレナは向かいへ腰を下ろした。
「あなたがいた施設には、イルナから連れていかれた子が何人いたの?」
「正確には知らない。途中で別の施設へ移された者もいた」
「ほかにも施設があるのね」
「ああ」
「どこに?」
グロリアは覚えている限りを答えた。自分がいた場所。訓練が始まる前に移された場所。別の区画へ送られた子供たち。だが、それぞれがその後どうなったのかまでは知らない。
「兵士にならなかった子は?」
「適性によって違う。整備や生産部門へ送られる者もいる。全員が軍人になるわけじゃない」
「じゃあ、エルンも……」
「分からない」
ミレナの声が止まった。
「同じ年に連れていかれた子供は大勢いる。私は、全員の名前を覚えているわけでもない」
「……そうよね」
「生きているとも、死んでいるとも言えない」
「分かってる」
少し強い声だった。グロリアは黙った。
ミレナは自分の手を見つめていた。
「分かってるのよ。あなたに聞いたって、あの子がどこにいるかなんて分からないことくらい」
ルナが匙を器へ当てる小さな音だけが続いた。
「でも、あなたは帰ってきた」
グロリアは顔を上げた。
「同じ四歳で連れていかれて、同じ十二年をヴァルセナで生きて……あなたは、ここへ帰ってきた」
「ここは私の故郷じゃない」
「分かってる」
ミレナはそう答えてから、しばらく何も言わなかった。
「……どうして、あなたなのかしら」
「何がだ」
「どうしてこの街へ来たのが、エルンじゃなくて、あなたなの」
答えはなかった。
「分からない」
「そうよね。あなたに分かるわけないわね」
ミレナは笑わなかった。
「ずっと、生きていてほしいと思ってた。どこでもいいから生きていて、いつか帰ってきてくれたらって。それだけ考えてた」
その視線が、グロリアの左腕へ落ちた。
「でも、あなたを見てたら……分からなくなった」
「何が」
「もし帰ってきたエルンが、あなたと同じだったら」
グロリアは黙って聞いた。
「ヴァルセナの服を着て、銃を持って、イルナの人を殺していたら。私は、それでも帰ってきてくれてよかったって思えるのかな」
ミレナの指が膝の上で組まれた。
「そんなこと、考えたこともなかった。生きていてほしいって、それだけだったから」
「生きていてほしいとは願えても、その子がどう生きるかまでは選べない」
「母親でも?」
「母親だから選べるのか?」
ミレナがグロリアを見る。
グロリアには母親というものがよく分からなかった。顔はわずかに覚えている。声も、断片なら残っている。だが、四歳までの記憶はもう遠い。任務や訓練とは関係なく、空腹を気にかけられた覚えもなかった。
それで困ったことはなかった。なのに今、目の前には自分が食べるまで見ている女がいる。
「……私には分からない」
「そう」
「だが、エルンが何をしているかも、まだ分からない」
ミレナの目がわずかに揺れた。
「兵士になったとも限らない。生きているかもしれない。違う場所で暮らしているかもしれない。私と同じとは限らない」
「慰めてるの?」
「事実を言っている」
ミレナはしばらくグロリアを見つめ、それからほんの少しだけ口元を緩めた。
「変な子ね」
「よく分からない」
「十六歳の子が、そんな顔で事実なんて言わないのよ」
「では、どんな顔で言うんだ」
「知らないわよ」
ミレナはそう言って、初めて少しだけ笑った。




