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紅月下のGloria   作者: ユノ・サカリス
第三章《帰る場所の外側》

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第17話《温かい食事》

 医師が必要なことを聞き終えると、グロリアは再び集会所へ戻されることになった。


 ルナは医務所に残し、グロリアだけを連れていく。だが、それを聞いた途端、ルナは毛布を握りしめて首を振った。


「……やだ」


「すぐ戻る」


「やだ」


 起き上がろうとして脚を動かし、痛みに顔を歪め、それでもグロリアの服を掴もうとする。医師が宥めても駄目だった。


「向こうに寝かせられる部屋はある?」


 医師が見張りへ尋ねた。


「奥の部屋なら」


「担架で運ぼう。離すたびに暴れて、傷を痛めるよりいい。私もあとで診に行く」


 連れていかれたのは、尋問を受けた部屋の奥だった。窓と机が一つずつ、壁際には簡素な寝台が二つある。


 見張りの男がグロリアを振り向かせ、手首の拘束具を外した。


「この部屋の中だけだ。外へ出るときは、また掛ける」


 グロリアは手首を擦った。扉の外には見張りが残り、長銃も短銃も返されなかった。


 ルナは寝台へ横になると、ほどなく眠った。額に触れると、熱は先ほどより引いている。呼吸も穏やかだった。


 グロリアは窓際の壁に背を預けた。外では男たちが行き交っている。自分が来たことで警戒を強めたのか、それとも普段からそうなのかは分からない。銃を持つ者も見えたが、軍人らしい統一された動きではなかった。


 しばらくして、扉が開いた。


 入ってきたのは、あの女だった。両手に盆を持ち、その上には湯気の立つ器が二つ載っている。


「食事よ」


 女は机へ盆を置くと、眠っているルナを見た。


「熱は?」


「下がっている」


「そう。薬が効いたのね」


「たぶんな」


 女はグロリアへ目を向けた。昼間と同じ目だった。敵を見る目とも、子供を見る目ともつかない。


「あなたたちの世話をすることになったわ。見張りは外の人たちがする」


「自分からか」


「ええ」


「なぜだ」


 女はすぐには答えなかった。


「あなたに聞きたいことがあるから」


 何についてなのかは分かった。


「あんたの息子のことか。確か、エルン」


「……ええ」


 女は椅子を引いた。


「ミレナ」


 グロリアは目を向けた。


「私の名前。あなたの名前だけ知っているのも、変でしょう」


「ミレナ」


「そうね」


 グロリアは一度その名を口にした。それ以上は何も言わなかった。


 食べ物の匂いに気づいたのか、寝台から小さな声がした。ルナが目を開け、鼻を動かしている。


「……ごはん?」


「起きたのか」


 グロリアはルナの上体を支え、背中へ畳んだ毛布を入れた。脚を伸ばしたまま座らせると、ミレナが器を運んできた。穀物を柔らかく煮たものに、小さく切った野菜と肉が入っている。


「ゆっくり食べなさい。熱いから」


 ルナは頷いた。


 最初の一口だけは慎重だった。だが、すぐに二口目を運び、三口目には頬が膨らんでいた。


「詰め込むな」


 ルナは口を動かしながらグロリアを見た。飲み込んでから、唇を開く。


「……おいしい」


 笑った。


 グロリアは、その顔をしばらく見ていた。水を欲しがった顔も、乾パンを噛んでいた顔も、背中にしがみついていた顔も覚えている。泣いた顔なら何度も見た。だが、ただ食べ物がおいしいというだけで浮かべる表情を、グロリアは知らなかった。


「そうか」


「グロリアも食べる?」


「あとで食べる」


「……おいしいよ」


「分かった」


 ルナは再び器へ向かった。匙を運ぶ手を、グロリアは見ていた。一昨日は乾パンをひとかけら噛むのにも時間がかかっていた。その手が止まらないことを、今は確かめていたかった。


「あなたの分もあるわよ」


 ミレナに声を掛けられ、グロリアは顔を上げた。


「冷める前に食べなさい」


「あとでいい」


「お腹、空いてるでしょ」


 グロリアは机の器へ目を落とした。施設でも軍でも、決められた時間になれば必要な量が配られた。食べなければ注意されたこともある。体調を維持できない兵士は、任務に支障をきたすからだ。


 だが、この女は自分の任務遂行能力など気にしていない。


「……少し」


「なら食べなさい」


 グロリアは椅子に座り、器を手に取った。一口食べる。温かかった。


「どう?」


「食べられる」


「そういうことを聞いたんじゃないんだけど」


 グロリアには、それ以上の答え方が分からなかった。


 ミレナは向かいへ腰を下ろした。


「あなたがいた施設には、イルナから連れていかれた子が何人いたの?」


「正確には知らない。途中で別の施設へ移された者もいた」


「ほかにも施設があるのね」


「ああ」


「どこに?」


 グロリアは覚えている限りを答えた。自分がいた場所。訓練が始まる前に移された場所。別の区画へ送られた子供たち。だが、それぞれがその後どうなったのかまでは知らない。


「兵士にならなかった子は?」


「適性によって違う。整備や生産部門へ送られる者もいる。全員が軍人になるわけじゃない」


「じゃあ、エルンも……」


「分からない」


 ミレナの声が止まった。


「同じ年に連れていかれた子供は大勢いる。私は、全員の名前を覚えているわけでもない」


「……そうよね」


「生きているとも、死んでいるとも言えない」


「分かってる」


 少し強い声だった。グロリアは黙った。


 ミレナは自分の手を見つめていた。


「分かってるのよ。あなたに聞いたって、あの子がどこにいるかなんて分からないことくらい」


 ルナが匙を器へ当てる小さな音だけが続いた。


「でも、あなたは帰ってきた」


 グロリアは顔を上げた。


「同じ四歳で連れていかれて、同じ十二年をヴァルセナで生きて……あなたは、ここへ帰ってきた」


「ここは私の故郷じゃない」


「分かってる」


 ミレナはそう答えてから、しばらく何も言わなかった。


「……どうして、あなたなのかしら」


「何がだ」


「どうしてこの街へ来たのが、エルンじゃなくて、あなたなの」


 答えはなかった。


「分からない」


「そうよね。あなたに分かるわけないわね」


 ミレナは笑わなかった。


「ずっと、生きていてほしいと思ってた。どこでもいいから生きていて、いつか帰ってきてくれたらって。それだけ考えてた」


 その視線が、グロリアの左腕へ落ちた。


「でも、あなたを見てたら……分からなくなった」


「何が」


「もし帰ってきたエルンが、あなたと同じだったら」


 グロリアは黙って聞いた。


「ヴァルセナの服を着て、銃を持って、イルナの人を殺していたら。私は、それでも帰ってきてくれてよかったって思えるのかな」


 ミレナの指が膝の上で組まれた。


「そんなこと、考えたこともなかった。生きていてほしいって、それだけだったから」


「生きていてほしいとは願えても、その子がどう生きるかまでは選べない」


「母親でも?」


「母親だから選べるのか?」


 ミレナがグロリアを見る。


 グロリアには母親というものがよく分からなかった。顔はわずかに覚えている。声も、断片なら残っている。だが、四歳までの記憶はもう遠い。任務や訓練とは関係なく、空腹を気にかけられた覚えもなかった。


 それで困ったことはなかった。なのに今、目の前には自分が食べるまで見ている女がいる。


「……私には分からない」


「そう」


「だが、エルンが何をしているかも、まだ分からない」


 ミレナの目がわずかに揺れた。


「兵士になったとも限らない。生きているかもしれない。違う場所で暮らしているかもしれない。私と同じとは限らない」


「慰めてるの?」


「事実を言っている」


 ミレナはしばらくグロリアを見つめ、それからほんの少しだけ口元を緩めた。


「変な子ね」


「よく分からない」


「十六歳の子が、そんな顔で事実なんて言わないのよ」


「では、どんな顔で言うんだ」


「知らないわよ」


 ミレナはそう言って、初めて少しだけ笑った。

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