第14話《世界の始まる場所》
山道の傾斜がさらにきつくなった頃、グロリアは大きな岩のそばで足を止めた。
「少し休む」
「……うん」
ルナを背中から降ろし、岩へ寄りかからせる。傷ついた脚の下へ畳んだ布を敷いてから、水筒を渡した。ルナは両手で受け取り、少しずつ水を飲んだ。
グロリアも隣へ腰を下ろした。森の中は静かだった。ときおり風が枝葉を揺らし、遠くで鳥の鳴く声が聞こえる。追手の気配はない。
「脚は」
「……いたい」
「昨日より?」
ルナは少し考えた。
「……分かんない」
「熱は」
「……あつい」
「それは私にも分かる」
額へ手を当てる。やはり熱は下がっていない。診療所で応急処置はしたが、いつまでも自分だけでどうにかできるとは思えなかった。山を越えれば街がある。そこまで行けば、少なくとも今よりまともな治療を受けられるはずだった。
グロリアが手を離すと、ルナは水筒を抱えたまま、ぼんやりと森へ目を向けた。
「ルナ」
「……なに?」
「昨日のことは、どこまで覚えている」
灰色の瞳がグロリアへ向いた。
「私がお前を見つける前だ」
「……分かんない」
「誰かと一緒だったか」
「……分かんない」
家や家族について尋ねても、答えは変わらなかった。ルナはそのたびに少し考え、首を横に振った。
「あの家に、男が死んでいた。お前の上にいた男だ」
「……うん」
「知っている人か」
「……分かんない」
「父親かもしれない」
ルナは何も答えなかった。悲しむ様子も、驚く様子もない。ただ、意味を探すようにグロリアを見ている。
「何なら覚えている」
ルナは俯き、水筒を見つめた。
「……ルナ」
「名前か」
「……うん」
「ほかには?」
しばらく待ったが、答えはなかった。
名前だけ。少なくとも今、この子が口にできるのはそれだけだった。家族も、自分がなぜ焼けた家の中にいたのかも分からない。それでも水を欲しがり、食べ物を求め、銃を向けられれば引き金を引いた。
生きたいと思うために、それまで生きてきた記憶は必要ないのかもしれない。だが、この子に残っているのは、本当に生き物としての命への執着だけなのだろうか。
「頭を打ったのか」
「……分かんない」
「そうだろうな」
聞いた自分が馬鹿だった。
頭を強く打ったのかもしれない。高熱と衰弱のせいで、今は答えられないだけかもしれない。あるいは、街で起きたことが、この子には受け止めきれなかったのかもしれない。グロリアには判断できなかった。
記憶が戻るのかどうかも分からない。戻ればいい、とも単純には思えなかった。
思い出すということは、失ったものを知ることでもある。家族がいたのなら、その顔を思い出す。暮らしていた家や、そこで交わした言葉、眠った場所も思い出すかもしれない。そして、それらを失った日のことも。
ヴァルセナが街を襲った。自分もそこにいた。長銃を持ち、イルナ人を殺していた。
もしルナがすべてを思い出したとき、この子はそれでも自分の背中にしがみつくだろうか。
そこまで考えて、グロリアは眉を寄せた。
なぜ、そんなことを気にしているのだろう。
「……グロリア?」
「なんでもない」
ルナが首を傾げる。
「休憩は終わりだ。行くぞ」
水筒と布をしまい、ルナの前へ背中を向けてしゃがむ。細い腕が首へ回った。腿の下へ腕を入れ、身体を持ち上げる。
軽い。何度背負ってもそう思う。それなのに、降ろしているときより背負っている方が落ち着くことに気づき、また妙な気分になった。
山道を歩き始めても、先ほどの答えが頭から離れなかった。
ルナには、自分と出会う前の記憶がないのかもしれない。今、思い出せる世界の始まりにいるのが、自分なのだとしたら。
水を与えた。乾パンを与えた。背負って歩いた。銃を向け、それでも殺さなかった。
信頼されていると思っていた。だが、この子には、ほかに頼れる相手がいないだけなのかもしれない。
ならば記憶が戻れば、変わるのだろうか。自分と出会う前の世界を取り戻したとき、ルナは離れていくのだろうか。
「……本当に面倒だな」
「……また言った」
「今度は拾わなくていい」
「……聞こえる」
「なら忘れろ」
「……忘れたくない」
グロリアは足を止めた。
「なぜだ」
「……分かんない」
「またそれか」
再び歩き出そうとしたとき、首に回されていた片腕が離れた。腰の辺りで金属が擦れる。
グロリアは視線を落とした。短銃の留め具が外れている。その意味を捉えたときには、背後から伸びた銃口が、右のこめかみに触れていた。
グロリアはすぐに銃身を掴み、顔から外した。左腕でルナを支えたまま、右手で短銃を受け取る。ルナは抵抗しなかった。
「ルナ」
「……なに?」
「なぜ私に銃を向けた」
「……グロリアも、ルナに向けた」
グロリアは言葉を失った。
あの焼けた家を思い出した。ガルナを撃ったルナから短銃を奪い、人を殺したのだと怒鳴った。そして、その銃口をこの子へ向けた。
あのときルナは泣いた。
『……死にたくない』
死ぬという言葉の意味さえ知らなかった子供が、そう言った。
「……それ押したら、死ぬ?」
ルナの視線が、グロリアの手の中にある短銃へ向いていた。
「当たればな」
「……グロリアも?」
「私もだ」
短銃をホルスターへ戻し、留め具を掛け直す。そこへ小さな声が重なった。
「……グロリアも、死にたくない?」
グロリアの手が止まった。
死にたくないのか。
これまでは、自分の死を任務の中にある結果の一つとして考えていた。撃たれれば死ぬ。死ねばそこで終わる。そう考えていれば、自分がどうしたいかまで問う必要はなかった。
だが今は、死ねない理由がある。この子を街まで連れていく。それを果たすまでは死ねない。
それは、生きたいということなのだろうか。
「……分からない」
「……ルナは死にたくない」
「知ってる」
「グロリアは?」
同じ問いが返ってくる。
グロリアは目の前の山道を見た。その先にはまだ長い道が続いている。山を越え、その向こうの街まで、この子を連れていかなければならない。
「少なくとも、今は死にたくない」
「……なんで?」
「お前を街まで連れていくと決めたからだ」
「……ルナがいなかったら?」
グロリアは黙った。六歳の子供が、ときどき答えにくいことを聞く。
「分からない」
「……グロリアも分かんない?」
「ああ」
「……同じだね」
何が同じなのかを聞きかけて、やめた。自分もルナも、答えられないことばかりだった。
グロリアは腰の短銃へ手を添えた。留め具を確かめ、ルナの手が届かない腹側へホルスターをずらす。
「もう勝手に抜くな」
「……うん」
「確かめるために、人へ銃を向けるな」
「……グロリア、向けた」
グロリアは口を閉じた。
「ルナに」
「……そうだな」
「なんで?」
怒ったから。ガルナを撃ったから。ヴァルセナ兵として、それを見過ごせなかったから。理由はいくつか浮かんだが、どれを口にしても、あのときの自分を説明しきれる気はしなかった。
だが、説明できないことと、何も言わずに済ませることは違う。
「……あのとき、お前に向けるべきじゃなかった」
背中でルナが黙った。
「すまなかった」
しばらくして、細い腕が再び首へ回った。ルナが何を思ったのかは分からない。グロリアはその腕を確かめてから、歩き出した。
記憶のない子供に、自分は何を教えているのだろう。
水を与え、食べ物を与えた。同じ手で銃を向けた。ルナは、そのどちらも覚えている。覚えていてほしいことだけを選んで、残せるわけではなかった。
ルナが失った世界について、グロリアは何も知らない。これからこの子が知っていく世界のすべてを、自分が選べるわけでもない。
ただ、その世界が始まる場所に、自分がいる。それだけは、もう変えられなかった。




