第4話 隣を歩きたい人
十月に入り、朝晩の空気がようやく秋らしくなってきた。
直人が勤める会社では、来年の春に向けた商品の商談が始まっていた。取引先を回る日が続き、営業部の机には持ち帰った資料や商品の見本が積み重なっている。
その日の午後も、直人は取引先から戻ったばかりだった。
鞄を机の下へ置き、商談で使った資料を広げる。注文数や納期を確認してから、手帳に書き留めた顧客の声をパソコンへ入力していった。
『蓋が少し固い。年配のお客さんには開けづらいかもしれない』
家庭用の収納容器について、取引先の担当者から聞いた意見だった。
売れ行きは悪くない。ただ、使いづらさについては以前にも似たような指摘があった。
机の端に置いていた見本を手に取り、蓋へ指を掛ける。少し力を込めると、乾いた音を立てて外れた。開けられないほどではないが、指の力が弱い人には扱いづらそうだった。
「高瀬、今日の商談どうだった?」
振り返ると、藤田課長が立っていた。
「追加注文の方向で進んでいます。ただ、使い勝手について意見がありまして」
直人が容器を見せると、課長も何度か蓋を開け閉めした。
「なるほどな。確かに少し固い」
「前にも似た意見があったんです。商品企画のほうで、一度検討してもらえないでしょうか」
「いいけど、変えるとなると費用もかかるぞ。まずは過去の報告をまとめてくれ。それを見て相談しよう」
「わかりました」
直人は手帳へ必要な項目を書き足した。
営業の仕事は嫌いではない。取引先との交渉がまとまり、注文をもらえたときには達成感もある。
ただ、使っている人からの意見を聞くたびに、その先が気になっていた。
誰かが不便だと感じているなら、どうすれば使いやすくなるのか。そういうことを考え、実際の商品へ反映させる仕事にも関わってみたかった。
もっとも、今の自分には知識が足りない。まずは営業の立場でできることから始めるしかなかった。
直人が資料を整理していると、課長が思い出したように声をかけてきた。
「そういえば、高瀬。まったく別の話なんだけどさ」
「はい?」
「お前、今付き合ってる人いるのか?」
突然の質問に、キーボードを打つ手が止まった。
「いえ、いませんけど」
「そうか。実はうちの家内の知り合いで、誰かいい人がいれば紹介してほしいって話があってな。年もお前と近いらしいんだ」
「……はあ」
「一度、食事でもどうかと思って。もちろん、無理にとは言わないけどな」
課長は普段から部下の面倒をよく見てくれる人だった。今回も親切心なのだろう。
直人は少し考えたが、その場で返事をする気にはなれなかった。
「ありがとうございます。少し考えさせてください」
「おう。急がなくていいよ」
課長が席を離れると、直人は再びパソコンへ向かった。
二十六歳なのだから、そういう話が出ても不思議ではない。同級生の中には、すでに結婚して子供がいる者もいる。
自分もいつかは結婚するのだろうが、今のところ具体的な相手を考えたことはなかった。
仕事の資料へ目を戻したところで、机の上のスマートフォンが震えた。
小春からだった。
『お兄ちゃん、今度の日曜日って空いてる?』
夏祭りで再会してから、二人はときどき連絡を取り合っていた。
学校の話が届く日もあれば、直人が仕事帰りに見かけたものについて話すこともある。忙しくてすぐに返せない日もあったが、以前よりずっと身近な相手になっていた。
『空いてるよ。どうした?』
『デザインの学校の説明会に行くんだけど、そのあと少し会えないかな』
説明会の会場は、今の住まいからそれほど遠くない場所にあるらしい。
直人は予定表を確かめ、問題ないと返信した。
『ありがとう! 終わる時間がわかったら連絡するね』
すぐに返ってきた文字を見て、日曜日の欄へ予定を書き込んだ。
それから机の端にあった容器を片づけ、課長に頼まれた資料を探し始めた。
*
日曜日の午後、待ち合わせの喫茶店へ行くと、小春はすでに窓際の席に座っていた。
今日は薄い色のブラウスに、紺色のカーディガンを羽織っている。椅子の横には大きな鞄が置かれ、その口から厚い冊子が何冊か覗いていた。
直人に気づくと、嬉しそうに手を振った。
「お兄ちゃん、こっち!」
「悪い、待たせたか?」
「ううん。私も今来たところ」
向かいの席へ腰を下ろす。
店内には静かな音楽が流れていた。窓の外を行き交う人たちは秋物の上着を着ている。夏祭りの日にはあれほど暑かったのに、季節が変わるのは早い。
「説明会、どうだった?」
注文を済ませてから尋ねると、小春は待っていたように鞄を開いた。
「面白かったよ。作品もいっぱい見せてもらえたし、先生とも話せたの」
机の上に学校案内と作品集が並ぶ。
学生たちが制作したポスターや商品の包装、店の案内表示などが載っていた。小春は気に入ったページを開き、写真の端を指さす。
「この人の作品、文字が少ないのに何を伝えたいかすぐわかるでしょ。私、こういうの作れるようになりたいなって」
「確かに見やすいな」
「あと、こっちは紙を折って立体的に見せてるの。実物も置いてあったんだけど、すごかったよ」
説明会では教室も見学し、実際に学んでいる学生と話す機会もあったという。
資料の余白には、授業の内容や気になったことが細かく書き込まれていた。
「ずいぶん楽しそうだな」
「うん。行ってよかった」
小春は笑顔で答えたあと、作品集を閉じた。学校案内の後ろから、今度は数字を書き込んだノートが出てきた。
「ただ、まだ迷ってるんだ」
「何か気になることがあった?」
「学費。思ってたより結構かかるの。授業料だけじゃなくて、画材とか道具も必要だし、通うなら交通費もかかるでしょ」
ノートには入学金や授業料のほか、説明会で聞いた費用が項目ごとに書かれていた。奨学金についても調べたらしく、返済が必要なものには小さく印がついている。
「家でも相談してるんだけど、お母さんたちに全部お願いするわけにもいかないし」
「そうだな。安い金額じゃないもんな」
「うん。でも、せっかくなら行きたいところで勉強したいんだよね」
小春はノートの端を指で押さえ、しばらく数字を眺めていた。
直人は作品集をもう一度開いた。
「それだけやりたいなら、挑戦してみたらいいんじゃないか」
口にすると、小春が少し困ったように笑った。
「うん。でも、挑戦するにもお金がいるから」
「ああ……そうだよな」
「応援してくれるのは嬉しいよ。ただ、好きだから行きたいって言うだけじゃ決められないなって」
直人は開いた作品集へ目を落とした。
自分は社会人になって数年がたち、毎月給料を受け取っている。これから進学する小春とは事情が違う。
「ごめん。簡単に言いすぎた」
「そんなに謝らなくてもいいよ」
「いや、ちゃんと調べてるんだなと思って」
小春は照れくさそうに笑い、ノートを閉じた。
「今日、先生に作品も見てもらったの。学校で作ったポスターと、家で描いたものを少しだけ」
「どうだった?」
「悪くないって言ってもらえた。でも、どうしてその色にしたのかとか、誰に見てほしいのかとか、もっと考えたほうがいいって」
自分では理由があって選んだつもりでも、いざ尋ねられるとうまく説明できなかったらしい。
「ちょっと悔しくて。帰ったら、もう一回描き直すつもり」
「熱心だな」
「だって、やってみると面白いんだもん」
小春は鞄から薄いノートを取り出した。
手描きの文字や図案が並び、何度も消した跡が残っている。同じポスターでも文字の位置を変えたものがいくつかあり、色の組み合わせも試しているようだった。
直人がページを覗き込むと、小春は一つの案を指さした。
「こっち、文字がちょっと小さいかなって思ってるんだけど」
「確かに、離れると読みづらいかもな」
「やっぱりそうだよね。自分で描いてると、全部知ってるから読めちゃうんだよ」
小春は鉛筆を取り出し、文字の位置を少し変えてみた。
その様子を眺めながら、直人は先日、取引先で聞いた話を思い出した。
「そういえば、俺も最近、似たようなこと考えてるんだ」
「お兄ちゃんも、デザイン?」
「いや、そこまで格好いい話じゃないよ」
直人は笑ってから、仕事で使っている商品の話をした。
使っている人から不便だという声を聞き、改善できないかと考えていること。今は営業をしているが、いずれは商品を作る仕事にも関わってみたいこと。
小春は手を止め、興味深そうに聞いていた。
「お兄ちゃん、そういう仕事もやってみたいんだ」
「ああ。ただ、今の俺には知識が足りないからな。何から始めればいいのか、まだ手探りだよ」
「そうなんだ」
小春は少し考えたあと、笑った。
「お兄ちゃんでも、そういうこと迷うんだね」
「そりゃ迷うよ。二十六になったら何でもできるってわけじゃないからな」
「……そっか」
小春は納得したように頷き、自分のノートへ視線を戻した。
直人もカップを手に取った。
仕事の話をするとき、相手によっては気を遣わせてしまうことがある。だから、普段は同僚や先輩以外にあまり話さなかった。
けれど、小春はわからないことがあれば素直に尋ね、直人が答えると、それを自分なりに考えているようだった。
「今の仕事は嫌いじゃないんだけどな」
直人が続けると、小春は顔を上げた。
「うん」
「もう少し、違うこともやってみたくなったんだ」
「いいと思う」
小春はそう答えてから、少し笑った。
「お兄ちゃんが楽しそうに話してるから」
直人は思わず彼女の顔を見た。
「……そんなに楽しそうだったか?」
「うん。さっき、商品の話してるとき」
自分ではあまり意識していなかった。
仕事のことで迷っている話をしたつもりだったのに、小春にはそう見えたらしい。
「じゃあ、まずは今できることを頑張るかな」
「私もそうする。次はほかの学校も見てみるつもりなんだ」
小春はノートの最後のページを開き、次に見学する予定を書き込んだ。
直人も、自分の仕事の資料をもう少し進めようと思った。
窓際に置かれた二人分のカップからは、もう湯気が立っていなかった。
小春はノートを鞄へしまいながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、お兄ちゃんって、休みの日は何してるの?」
「買い物したり、部屋を片づけたり。たまに会社の人と飲みに行くくらいかな」
「……彼女さんと出かけたりは?」
「彼女はいないよ」
そう答えると、小春の手が一瞬止まった。
「そっか」
「ちょうど会社で、誰か紹介しようかって話はあったけどな」
「……女の人?」
「そりゃそうだろ」
直人が笑うと、小春も口元を緩めた。
けれど、閉じたばかりの鞄から手を離さず、しばらく何も言わなかった。
「会うの?」
「まだ返事してない。課長の知り合いらしいけど」
「……そうなんだ」
小春は窓の外へ目を向けた。
通りを歩いていた親子連れが、店の前を通り過ぎていく。小さな子供が母親の手を引っ張り、何かを指さしていた。
直人が伝票へ手を伸ばしたところで、小春がこちらへ向き直った。
「いい人なら、会ってみてもいいんじゃないかな」
「そう思う?」
「うん。お兄ちゃんが決めることだし」
小春は笑っていた。
ただ、返事をしたあとも、鞄の持ち手から手を離さなかった。
直人は何となく、それ以上紹介の話を続ける気になれなかった。
会計を済ませて外へ出ると、思っていたより風が冷たかった。
小春はカーディガンの前を軽く押さえ、直人と並んで駅へ向かった。途中、説明会で会った学生の話をしてくれたが、喫茶店にいたときより少し口数が少なかった。
駅の入口が見えてくると、小春はいつもの調子で笑った。
「今日はありがとう。また連絡するね」
「ああ。気をつけて帰れよ」
改札へ向かう背中を見送りながら、直人はさっきの会話を思い返していた。
紹介の話をしたとき、小春は何を考えていたのだろう。
気にはなったが、追いかけてまで聞くことではない気がした。
直人も自分の帰る路線へ向かい、改札を通った。
*
それからしばらく、直人は仕事に追われる日が続いた。
課長に頼まれた資料をまとめ、商品企画の担当者へ話をする機会をもらった。専門的な質問には答えられないことも多かったが、何を調べ、どんな知識が必要なのか、少しずつわかってきた。
すぐに部署が変わるわけでも、提案が採用されるわけでもない。それでも、これまで営業の仕事だけをしていた頃には知らなかったことに触れられるようになった。
その一方で、課長から持ちかけられた紹介話には、まだ返事をしていなかった。
ある日の夕方、直人は課長へ声をかけた。
「前に話していただいた紹介の件なんですが」
「ああ、どうする?」
「せっかくのお話なんですが、今回は遠慮させてください」
「そうか。まあ、本人がその気じゃなきゃ仕方ないな」
「すみません」
「謝ることじゃないよ。家内にはそう伝えておく」
課長はあっさり頷いた。
直人は礼を言い、自分の席へ戻った。
紹介してもらう相手に問題があるわけではない。ただ、今の自分は誰かと付き合う相手を探そうという気持ちになれなかった。
親切だからという理由で会っても、相手に失礼になる気がした。
仕事を終える頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。
鞄へ資料をしまい、スマートフォンを確認すると、小春から写真が届いていた。
以前見せてもらったポスターの下書きだった。
『この前、先生に言われたところを直してみた!』
文字の大きさや色の使い方が変わっている。何を知らせるためのポスターなのか、直人にも前よりわかりやすかった。
『前より見やすくなったと思う』
そう返すと、しばらくして返信が来た。
『本当? じゃあ、もうちょっと頑張ってみる』
直人は笑い、こちらも仕事の相談を進められたことを短く伝えた。
『すごい! お兄ちゃん、頑張って!』
続けて、もう一通。
『私も負けないからね』
駅へ向かう途中、直人はその返事をもう一度読み返した。
小春とは、あの日の喫茶店以来、何度も連絡を取り合っている。学校の話や、仕事の話。ときには買い物の途中で見つけたものの写真が送られてくることもあった。
紹介の話題は、一度も出ていない。
直人も、あえて話すことはしなかった。
*
十一月の終わり、小春から再び会いたいという連絡があった。
進路について家族と話し合い、学校の候補を絞っているところだという。
直人もちょうど休日に予定がなかったため、今度は小春の住む町へ向かうことにした。
駅を出ると、街路樹の葉はすっかり色づいていた。歩道には落ち葉が重なり、吹き抜ける風も冷たい。
待ち合わせた喫茶店は、駅から少し歩いたところにあった。
店に入ると、小春が奥の席から手を振った。
「お兄ちゃん!」
淡い色のセーターに、落ち着いた色のスカートを合わせている。椅子の背には薄手のコートが掛けられ、前の席には飲みかけの紅茶が置かれていた。
「寒かったでしょ。遠いところ、ありがとう」
「電車の中は暖かかったよ。小春こそ、待たせたか?」
「ううん。私もちょっと前に来たところ」
直人は向かいに座り、コートを脱いだ。
前に会ったときは机いっぱいに資料を広げていたが、今日は小さな鞄が椅子の横にあるだけだった。
「学校のほう、少し決まったんだって?」
「うん。二つまで絞ったよ。どっちにもいいところがあって、まだ迷ってるけど」
小春は、家族や学校の先生とも相談したことを話した。
学費については改めて家で話し合い、現実的に通える学校を中心に考えているという。入学してから必要になる費用も、以前より具体的にわかってきたらしい。
「受験はこれからだけどね。まずは、どっちを第一希望にするか決めなきゃ」
「そうか。大変だな」
「うん。でも、前よりは自分で決められそう」
小春は少し安心したように笑った。
直人も、仕事で商品企画の担当者に話を聞いてもらえたことを伝えた。異動できるかはまだわからないが、少しずつ勉強を始めているというと、小春は嬉しそうに頷いた。
「よかったね、お兄ちゃん」
「ああ。まだ入口だけどな」
「私もこれからだよ」
そう言って、二人で笑った。
そのあとは、学校や仕事の話をするでもなく、しばらく飲み物を楽しんでいた。
小春は窓の外を歩く人たちを眺め、ときどき両手でカップを包んでいる。直人もコーヒーを飲みながら、店内に流れる音楽へ耳を傾けていた。
「そういえば、お兄ちゃん」
「ん?」
「一人暮らしって、ご飯も自分で作るんだよね?」
「作る日もあるよ。疲れた日は弁当買って帰るけど」
「得意料理は?」
「得意ってほどじゃないな。野菜炒めなら失敗しないぞ」
「本当? 味付けは?」
「塩こしょう」
小春は一瞬、真面目な顔で考えた。
「……それ、私でも作れるかも」
「簡単だからな」
「お兄ちゃん、もっとすごいの作れると思ってた」
「どんなのだよ」
「わかんないけど、肉じゃがとか」
「肉じゃがは作ったことないな」
直人が答えると、小春は楽しそうに笑った。
「そっか。お兄ちゃんも、できないことあるんだね」
「山ほどあるよ。昔の小春が知らなかっただけだ」
「ふふっ。そうかも」
小春は紅茶を一口飲み、今度は自分の家で夕飯を作ったときの失敗を話し始めた。
最近、オムライスを作ろうとして、卵をきれいに包めなかったらしい。
「お母さんはおいしいって言ってくれたんだけど、見た目が全然だめで」
「味がよければいいんじゃないか?」
「だめ。見た目も大事なの」
「さすが、デザインを勉強したい人は違うな」
「そういうことじゃないと思う」
小春が笑ったので、直人もつられて笑った。
十年前の彼女なら、何かができないときには自分のところへ持ってきていた。
けれど、今は失敗したことも笑いながら話せるらしい。
「次はきれいに作るつもりなんだ」
「できたら写真でも送ってくれよ」
「うん。失敗しなかったらね」
「失敗したのも見たいけど」
「それはだめ!」
小春は笑いながら、少し身を乗り出した。
直人も笑ってから、コーヒーを一口飲んだ。
いつもなら、このあたりで学校のノートを広げたり、直した作品を見せてもらったりしている。
今日はそうしたものが何もない。
それでも話題は途切れず、気づけばカップの中身がほとんどなくなっていた。
「そういえば、今日は作品を持ってきてないんだな」
直人が言うと、小春は少し照れたように笑った。
「うん。今日は、見てもらうものがなかったから」
「そうなのか」
「この前のポスターは、もう先生に出しちゃったし。学校のことも、まだ全部決まってないしね」
小春はカップを皿へ戻し、直人を見た。
「でも、お兄ちゃんとは会いたかったから」
何気ない調子で言ってから、少しだけ頬を緩めた。
「こうやって、普通にお話するのも楽しいね」
直人はすぐには返事をしなかった。
テーブルの向こうで、小春はいつものように笑っている。窓から差し込む午後の日差しが、セーターの肩を淡く照らしていた。
「ああ。俺も楽しいよ」
そう答えると、小春は嬉しそうに頷いた。
そのあと、二人は特に話題を決めることもなく、最近見た映画や休日の過ごし方について話した。
直人が昔好きだった映画の話をすると、小春は題名だけなら知っていると言った。反対に、小春が勧めてくれた作品は、直人が聞いたことのないものだった。
今度見てみると約束すると、小春は「感想聞かせてね」と笑った。
話の合間に短い沈黙が訪れても、無理に次の話題を探す必要はなかった。
小春が窓の外へ目を向ければ、直人も通りを歩く人たちを眺めた。店員が空いたテーブルを片づけ、奥の席からは小さな笑い声が聞こえてくる。
しばらくして、小春が時計を見た。
「あ、そろそろ帰らないと」
「もうそんな時間か」
「うん。明日も学校だし、帰ってからやることもあるんだ」
小春は椅子の背からコートを取り、袖に腕を通した。
直人も腕時計を確かめた。
まだ夕方には少し早い。それでも、これから家へ帰ることを考えれば、そろそろ店を出たほうがいい時間だった。
「今日はありがとう、お兄ちゃん」
小春は鞄を肩に掛け直し、こちらを見た。
「学校のことも聞いてもらえたし、いっぱい話せて楽しかった」
「俺もだよ」
「よかった。また連絡するね」
そう言って笑う顔を見ながら、直人は伝票へ手を伸ばした。
今日は、何かを相談するためだけに会ったわけではなかった。
小春の学校について聞きたいことはあったし、自分も仕事のことを話した。けれど、それらの話が終わったあとも、二人でずいぶん長い時間を過ごしていた。
直人は伝票を手にしたまま、椅子から立ち上がるのが少し遅れた。
次に会えるのは、いつになるだろう。
小春はこれから受験で忙しくなる。自分も年末に向けて仕事が立て込むだろう。しばらく予定が合わないかもしれない。
そんなことを考えている自分に気づき、直人は小春を見た。
彼女はコートの襟を整えながら、窓の外へ目を向けていた。横顔を見ているうちに、夏祭りの夜、すぐ近くで笑っていた姿が浮かんだ。
あのときは、なぜ落ち着かなくなったのかわからなかった。
今なら、わかる。
小春が好きなのだ。
胸の奥で、その言葉が静かに収まった。
「お兄ちゃん?」
呼ばれて顔を上げると、小春が不思議そうにこちらを見ていた。
「どうしたの? 疲れちゃった?」
「いや、何でもないよ。そろそろ出ようか」
「うん」
小春はいつものように笑った。
直人は伝票を持ってレジへ向かったが、さっきまでと同じ調子で話せるか、少し自信がなかった。
好きだと気づいたからといって、突然何かが変わったわけではない。小春は相変わらず楽しそうに隣を歩き、会計を済ませたあとには、店員へ丁寧に礼を言っていた。
その姿を見ながら、直人は今すぐ気持ちを伝えることは考えられなかった。
小春が自分をどう思っているのか、まだわからない。
それに、彼女はこれから大切な進路を決めるところだった。そんな時期に、帰り際の思いつきのように告白することはしたくなかった。
直人は先に扉を開け、小春が出るのを待った。
*
外へ出ると、風は思っていたより冷たかった。
冬が近づき、日が暮れるのも早くなっている。商店街には年末の飾りが出始め、店先からは暖かい灯りが漏れていた。
小春はコートの襟元を整え、空を見上げた。
「もう暗くなっちゃうね」
「そうだな。寒くないか?」
「大丈夫。今日はちゃんとコート持ってきたから」
直人が笑うと、小春も笑った。
駅へ向かう人と、住宅街のほうへ歩く人とが、商店街の角で分かれていく。直人の帰る駅は左手にあり、小春の家は反対方向だった。
「お兄ちゃん、帰りの電車は?」
「まだ余裕あるよ」
「そっか。今日はありがとう」
小春は鞄を肩に掛け直し、家のある方向へ目を向けた。
「じゃあ、私はこっちだから」
直人は頷きかけて、言葉を止めた。
ここで別れれば、自分は駅へ向かい、小春は家へ帰る。次に会う予定は、まだ決まっていない。
小春が一歩踏み出す前に、直人は声をかけた。
「小春」
「ん?」
「一緒に帰らないか?」
小春は少し驚いた顔をした。
「……でも、お兄ちゃん、駅はあっちだよ?」
「わかってる。途中まで送るよ」
「遠回りになっちゃうよ」
「少しくらい、いいだろ。まだ時間あるし」
小春は直人の顔を見つめた。
通りの向こうから自転車が一台近づいてきたので、二人は店先へ少し寄って道を空けた。
その自転車が通り過ぎると、小春はもう一度直人を見上げた。
「……うん。一緒に帰ろう」
嬉しそうに笑い、先に歩き始める。
直人も隣へ並んだ。
通りには帰宅途中の人たちが行き交い、足元では乾いた落ち葉が風に転がっている。商店街を抜けると住宅街の明かりが増え、夕食の支度をしているのか、どこかの家から料理の匂いが漂ってきた。
小春は学校で友達と作っている作品の話を始めた。
何人かで一つのものを仕上げるのは、思っていたより難しいらしい。色の好みが違ったり、締め切りが近づくと意見がぶつかったりすることもあるという。
「でもね、最後にみんなで見たら、結構いい感じになってたの」
「それはよかったな」
「うん。自分一人じゃ思いつかなかったところもあるし」
小春は鞄を持ち直し、歩きながら今日の続きを話してくれた。
直人も相槌を打ちながら聞いていた。自分が何か言わなくても、小春は楽しそうに話している。
細い道へ入るところで、小春が歩調を緩めた。
直人もそれに合わせて速度を落とす。歩道の端には落ち葉が吹き寄せられ、街灯の下で乾いた音を立てていた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「今日、こっちまで来てくれて嬉しかった」
小春は前を向いたまま言った。
「話したいこと、いっぱいあったから」
「俺もだよ」
直人が答えると、小春は振り返って笑った。
そのまま並んで歩いているうちに、商店街の音が少しずつ遠ざかっていった。
街灯が一つずつ灯り始めた道を、二人は急がずに歩いていった。




