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「大きくなったらお嫁さんにしてね」とお願いしたら、お兄ちゃんは笑って約束してくれました  作者: 澄野 朔


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第5話 約束の、その先へ

 十二月の半ば、直人は小春を夕食に誘っていた。


 仕事を終えて駅へ向かう途中、スマートフォンにメッセージが届いた。


『お兄ちゃん、今日は寒いから暖かくしてきてね』


 直人は思わず笑った。


 夏祭りで再会してから、小春には何度も寒くないかと尋ねてきた。そのたびに心配しすぎだと言われていたのに、最近は彼女のほうから同じことを言ってくる。


『そっちこそ。風邪ひくなよ』


『大丈夫! 今日はちゃんとマフラーしてるから』


 続けて送られてきた写真には、白いマフラーの端が写っていた。小さな雪の結晶の模様が入っている。


 直人は返信してからコートの襟を立て、改札へ向かった。


 電車は帰宅途中の人たちで混み合っていた。つり革につかまりながら窓の外を眺めていると、ガラスに映った自分の顔が妙に落ち着かなく見える。


 先月、小春と会った帰り道。


 駅とは反対の方向へ歩き出したとき、自分でも少し驚いた。小春の家が近づいても、もう少し一緒にいたくて、結局、家の近くまで送ってから駅へ引き返した。


 あの日、ようやく自分の気持ちを認めた。


 それから何度か連絡を取り合い、夕食に誘うまでには、そう時間はかからなかった。


 ただ、伝えたいことをどう切り出すかは、まだ決められずにいた。


     *


 駅前の広場には、冬のイルミネーションが飾られていた。


 大きなケヤキに白い光が巻きつけられ、葉を落とした枝先まで細かな灯りが続いている。夏祭りの日には木陰になっていた場所も、今は向こう側の店までよく見えた。


「お兄ちゃん!」


 聞き慣れた声に顔を向けると、小春が広場の端から歩いてきた。


 淡いベージュのコートに、写真で見た白いマフラーを巻いている。髪は肩のあたりで揺れ、直人の前まで来ると、嬉しそうに笑った。


「待たせたか?」


「ううん。私も今来たところ。ほら、ちゃんと暖かくしてきたよ」


 小春は少し得意そうにマフラーを指さした。直人のコートにも目を向け、今日は大丈夫そうだと満足げにしている。


 商店街にはクリスマスの飾りが並び、店先から聞こえる音楽も先月とはすっかり変わっていた。小春は学校帰りに見つけた雑貨店の話をしながら、ショーウインドーの前で一度足を緩めた。


 小さなガラス細工がいくつも飾られている。


「こういうの、小春は好きそうだな」


「うん。でも、買っても置くところがないんだよね。今、机の上が大変なことになってるから」


「そんなに散らかってるのか?」


「作品と道具がいっぱい。冬休みになったら片づけるつもり」


 そう言いながらも、飾られたガラス細工からなかなか目を離さない。


 直人はその隣に立ち、ガラス越しに並ぶ小さな置物を眺めていた。


 夕食は、商店街の奥にある洋食店で取ることにした。


 以前から小春が気になっていた店らしく、席に着くと楽しそうにメニューを開いた。


「お兄ちゃん、何にする?」


「ハンバーグかな」


「私もそれにしようと思ってたんだけど、オムライスもおいしそうなんだよね」


「じゃあ、両方頼んで分けるか?」


「いいの?」


「俺もオムライス食べたいし」


 料理が運ばれてくると、二人で皿を寄せ合って少しずつ交換した。小春はオムライスの卵を見て、家で作ったときのことを思い出したらしい。


「この前、もう一回作ってみたんだけどね。やっぱりうまく包めなかった」


「写真、送ってくれなかったな」


「だって失敗したんだもん。味はおいしかったよ。お母さんにも褒めてもらったし」


「じゃあ、十分じゃないか」


「もう。お兄ちゃんは見た目にこだわらなすぎ」


 小春は笑いながら、オムライスを一口食べた。


 家で作るならソースも工夫したいらしい。直人にはよくわからない違いまで熱心に話すので、次に作るときには写真を送ってもらうことになった。


 食事のあいだ、小春は進路についても話してくれた。


 第一志望は、グラフィックデザインを学べる美術大学に決めたという。年が明ければ一般選抜の試験があり、冬休みも実技の練習や受験勉強に充てる予定だった。


「しばらく遊びに行けなくなるかも」


 小春は少し残念そうに言った。


「試験が終わってからでいいよ。せっかく頑張ってきたんだし」


「……そう?」


「ああ。俺も仕事が忙しくなる時期だしな」


 小春はほっとしたように笑い、今度は直人の仕事について尋ねた。


 直人も、商品企画に関わる仕事を目指して少しずつ勉強を続けていることを話した。小春は興味深そうに聞いていたが、途中からは直人が昼休みに食べた弁当の話になり、なぜかまた料理の話へ戻ってしまった。


 食事を終えたあと、二人は温かい飲み物を頼んだ。


 窓の外では、イルミネーションの灯りが買い物帰りの人たちを照らしている。隣の席にいた家族連れは、子供の上着を着せながら帰り支度を始めていた。


 小春はしばらく外を眺めていたが、やがて直人へ顔を向けた。


「お兄ちゃん、今日はどうしたの?」


「どうしたって?」


「何か、話したいことがあるのかなって」


 直人はカップを置いた。


「……わかるのか?」


「ちょっとだけ。さっきから、何か考えてるみたいだったから」


 小春は笑っていたが、いつものように冗談を続けることはしなかった。


 直人はテーブルに置いた手を見た。


 今夜は楽しかった。


 学校の話も、料理の話も、普段と変わらずできた。それでも、小春と向かい合っていると、伝えようと思っていた言葉が何度も胸につかえた。


「小春。この前、一緒に帰っただろ」


「うん。覚えてるよ」


「あの日、駅とは反対のほうまで歩いたから、帰るのがずいぶん遅くなったんだ」


 小春は少し申し訳なさそうに眉を下げた。


「ごめんね。遠回りになっちゃったもんね」


「いや。俺がそうしたかったんだよ」


 直人が顔を上げると、小春がこちらを見ていた。


「もう少し、小春と一緒にいたかった」


 彼女の指が、カップの持ち手に触れたまま止まった。


 直人は言葉を探した。


 十年ぶりに再会したときは、懐かしさばかりだった。けれど、会うたびに知らなかった一面を見つけ、いつの間にか次の約束を楽しみにするようになっていた。


 今日も、店を出たあとに別々の電車へ乗ることを考えると、少し名残惜しい。


「小春が好きだ」


 ようやく口にすると、彼女が小さく息を吸った。


「これからも、小春と一緒にいたいと思ってる」


 小春は直人を見つめたまま、何も言わなかった。


 驚かせてしまっただろうか。


 そう思ったとき、彼女が視線を落とした。


 膝の上で両手を重ね、何度か口を開きかけている。直人は急かさずに待った。


 やがて小春は顔を上げ、困ったように笑った。


「私ね、お兄ちゃんにまた会いたいって、ずっと思ってたの」


「ああ」


「でも、会ってみたら、昔とは違ってた。お仕事で悩んでたり、料理があんまり得意じゃなかったり」


「それは余計だろ」


「ふふっ。でも、そういうところも知れて嬉しかった」


 小春は一度息を吸い、まっすぐ直人を見た。


「私も、お兄ちゃんが好き」


 直人は、すぐには返事ができなかった。


「今のお兄ちゃんが好きなの」


 彼女の目元が少し潤んでいた。


 直人も胸の奥が熱くなるのを感じながら、ようやく笑った。


「……ありがとう」


「ふふっ。何、それ」


「いや、嬉しくてさ」


 小春は目元を指で軽く押さえた。直人がもう一度彼女を見ると、今度は照れくさそうに笑い返してくれた。


 窓の外では、白いイルミネーションが変わらず灯っている。さっきまで賑やかだった隣の席からは、いつの間にか家族連れがいなくなっていた。


「これから、付き合ってくれるか?」


 直人が尋ねると、小春は大きく頷いた。


「うん。よろしくお願いします」


 そう言って頭を下げるので、直人もつられて頭を下げた。


 顔を上げたときには、二人とも笑っていた。


 店を出る頃には、駅前の人通りも少なくなっていた。


 小春は白いマフラーへ顎を埋め、直人の隣を歩いた。すぐに次の言葉が出てくるわけではなく、二人で灯りのついた店を眺めながら、ゆっくり駅へ向かう。


 広場のケヤキが見えたところで、小春が小さく笑った。


「なんか、変な感じ」


「何が?」


「お兄ちゃんが、彼氏なんだなって」


「俺も、まだ慣れないよ」


 直人が答えると、小春はマフラーに口元を隠した。


 改札の前まで来ても、彼女はすぐには歩き出さなかった。


「今度は、ちゃんとデートしようね」


「今日のは違うのか?」


「今日は……途中からデートになったの」


 小春はそう言って笑い、手を振った。


 直人も手を上げた。


 彼女が改札へ向かうのを見送ってから、帰りの電車の時刻を確かめる。


 次に会う約束は、まだ決まっていない。


 それでも、また会えるのが楽しみだった。


     *


 年が明けると、小春は受験勉強で忙しくなった。


 直人も取引先への挨拶回りや年度末に向けた商談が続いていたが、十二月に交わした映画の約束を忘れてはいなかった。


 けれど、試験が近づくにつれて、小春から届くメッセージには学校や勉強の話が増えていった。


 一月のある夜、直人が帰宅して夕食を済ませた頃、小春から電話がかかってきた。


『お兄ちゃん、今大丈夫?』


「ああ。ちょうど飯食い終わったところ」


『よかった。ちょっと声聞きたくなっちゃった』


 小春は笑っていたが、いつもより少し疲れた声だった。


 話を聞くと、学校でも家でも受験の準備を進めているものの、思うようにできない日が続いているらしい。


『今日はデッサンの練習してたんだけど、何回描いても気になるところがあって』


「そういう日もあるんだな」


『うん。先生には前よりよくなってるって言われたんだけど、自分で見るとまだまだだなって』


 直人は台所の流しへ食器を運び、スマートフォンを耳に当て直した。


 小春は少し黙ったあと、申し訳なさそうに続けた。


『ごめんね。今度の日曜日も、やっぱり会えなくなりそう』


 もともと、その日は二人で映画に行くつもりだった。


 直人は仕事の予定を調整し、午後を空けていた。残念ではあったが、小春が受験のために時間を使いたいこともわかっている。


「気にするなよ。試験が終わったら行こう」


『でも、お兄ちゃんだって忙しいのに、お休み空けてくれたでしょ』


「休みは休みだよ。たまには家のこともやらないとな」


『……会いたかったな』


 直人は蛇口を閉め、濡れた手を布巾で拭いた。


 仕事の帰りに小春の好きそうなものを見つけると、今度一緒に来られたらと思う。休みの日には、何となくスマートフォンを確かめてしまうこともあった。


「俺も会いたかったよ」


 そう答えると、電話の向こうが少し静かになった。


『……本当?』


「ああ」


『そっか。嬉しい』


 小春の声が少し明るくなった。


『じゃあ、試験が終わったら、絶対に映画行こうね』


「もちろん。楽しみにしてる」


 電話の向こうで、紙を重ねるような音がした。


 小春はまだ机に向かっているのだろう。直人がそろそろ勉強へ戻らなくていいのかと尋ねると、彼女はもう少しだけ話したいと言った。


『お兄ちゃんは、お仕事どうだった?』


「今日は外回りばっかりだったよ。寒くて参った」


『ちゃんと暖かくしてた?』


「小春に言われたからな」


『ふふっ。ならよかった』


 直人は昼間の商談であった小さな出来事を話した。


 小春も学校で友達と笑ったことを話してくれた。受験とは関係のない話をしているうちに、彼女の声がいつもの調子へ戻っていく。


 やがて小春が時計を見たらしく、名残惜しそうに息をついた。


『そろそろ戻らなきゃ。話してくれてありがとう』


「俺も楽しかったよ。無理しすぎるなよ」


『うん。お兄ちゃんも、ちゃんと休んでね』


 電話を切ったあと、台所には洗いかけの食器が残っていた。


 直人はスマートフォンを置き、袖をまくって続きを片づけた。


 それからも、二人はなかなか会えなかった。


 小春が勉強に集中している日は、直人から何度も連絡することはなかった。代わりに、彼女から短いメッセージが届けば返し、話したいという夜には電話をした。


 試験が近づく頃には、小春のほうから明るい連絡が増えていた。


『今日は前よりうまく描けたよ』


『よかったな』


『うん。もう少し頑張る!』


 直人はその返事を見てから、自分も机に向かった。


 仕事で必要になった資料が、まだ何冊か残っている。疲れて読み進められない夜もあったが、小春が頑張っていることを思い出すと、もう少しだけ開いてみようという気になった。


 試験当日の朝、直人は短いメッセージを送った。


『気をつけて行ってこい。いつもどおりにな』


 しばらくして返信が届いた。


『うん。行ってきます!』


 直人は画面を見ながら、ゆっくり文字を打った。


『行ってらっしゃい』


 送信すると、スマートフォンをポケットへしまった。


 電車がホームへ入ってくる。


 直人はいつもの車両へ乗り込み、会社へ向かった。


     *


 二月の終わり、小春から電話がかかってきた。


 直人は仕事を終え、帰りの電車を待っているところだった。


「もしもし?」


『お兄ちゃん! 受かった!』


 いつもより大きな声に、思わずスマートフォンを耳から少し離した。


「……本当か?」


『うん! 第一志望の大学!』


 直人はホームの端へ寄った。


 電話の向こうで、小春が笑っている。


 家族にも報告したこと。担任の先生が喜んでくれたこと。合格通知を何度も確かめたこと。


 話しながら、途中で何度か声が詰まった。


 直人は電車を一本見送り、彼女の話を聞いていた。


「おめでとう、小春。よく頑張ったな」


『……うん。ありがとう』


 少し鼻にかかった声がした。


 直人も胸の奥が熱くなるのを感じていた。


『お兄ちゃん、会いたい』


「ああ。俺も会いたいよ」


 次の休日は、二人とも予定がなかった。


 直人が映画の約束を持ち出すと、小春は電話の向こうで弾んだ声を上げた。


     *


 約束の日、二人は以前から話していた映画を見に行った。


 小春は上映中、ときどき小さく笑っていた。映画が終わると、まだ明るいロビーで感想を話し始め、気に入った場面について直人が答える前から次の話題へ移ってしまう。


 直人が自分とは違う場面を気に入ったと話すと、小春は少し意外そうな顔をした。


「そこ、私あんまり気にしてなかった。でも、言われてみるとそうかも」


 彼女は考え込むように歩きながら映画館を出た。


 昼食を取ったあと、二人は川沿いの遊歩道へ向かった。


 夏祭りの日には花火を見た場所だった。


 冬の終わりとはいえ、川を渡る風はまだ冷たい。遊歩道には散歩をする人がときどき通り、対岸の木々は春を待つように細い枝を伸ばしていた。


 小春は手すりのそばで立ち止まり、川面を眺めた。


「ここ、懐かしいね」


「まだ半年くらいしかたってないぞ」


「そうだけど。あのときは、まさかこうなるなんて思ってなかったから」


 直人も隣に立ち、静かに流れる水を見た。


 あの夏、すぐ近くで花火を見ていた小春に、どう接していいかわからなくなった。


 今では彼女と並んでいることにすっかり慣れている。それでも、会えなかった時間が長かったせいか、今日はときどき小春の顔を確かめてしまう。


 小春は、大学に入学したら受けてみたい授業の話をした。見学のときに見た制作室や学生たちの作品も、よく覚えているらしい。


「四年間、あっという間かもしれないな」


 直人が言うと、小春は少し考えた。


「そうかな。私には、すごく長い気もする」


「まあ、これから始まるんだもんな」


「うん。楽しみだけど、ちょっと怖い」


 小春は手すりに指を添え、川の向こうへ目を向けた。


 風が吹くと、髪が頬にかかる。指でそれを耳へ掛けながら、彼女はしばらく何かを考えているようだった。


「お兄ちゃん」


 呼ばれて顔を向けると、小春が直人を見ていた。


「私、大学でもちゃんと勉強したい。いろんな人に会って、今まで知らなかったことも覚えたいんだ」


「ああ。いいと思うよ」


「でもね、それだけじゃなくて」


 小春は言葉を探すように、少しだけ視線を落とした。


「お兄ちゃんとも、ずっと一緒にいたい」


 直人は彼女の横顔を見た。


 小春は何度か息を整え、それから再びこちらへ向き直った。


「大学を卒業しても、そのあとも。ずっと」


 受験のあいだ、二人はほとんど会えなかった。


 それでも、小春が自分の目標に向かって努力していることを、寂しいとは思っても嫌だと思ったことはなかった。


 これからも、互いに忙しい時期はあるだろう。仕事が思うように進まない日も、会う約束ができない日もあるかもしれない。


 けれど、その先の予定を考えるとき、そこにはもう小春がいる。


「俺も、一緒にいたいよ」


 直人が答えると、小春は少しだけ唇を結んだ。


「……ねえ、覚えてる?」


 声が、先ほどより小さくなった。


「お兄ちゃんが引っ越す前の、雨の日のこと」


 直人は小春を見た。


「劇の練習を手伝ってくれたでしょ。王子様とお姫様の」


 その言葉を聞いた途端、遠い記憶がよみがえった。


 雨の音が聞こえる部屋で、幼い小春が小指を差し出してきた。


 大きくなったら、わたしをお嫁さんにしてね。


「……覚えてるよ」


 直人が答えると、小春は目を見開いた。


「指切りもしただろ」


「うん。お兄ちゃん、『大きくなったらな』って言ってくれた」


 小春は嬉しそうに笑った。


「あのとき、すごく嬉しかったんだ」


 彼女は手すりに置いた右手を見つめ、指先をそっと握った。


「お兄ちゃんが引っ越してからも、学校で友達ができたし、楽しいこともいっぱいあったよ。でも、夏祭りの季節になると、ときどき思い出してた。今、何してるのかなって」


「そうだったのか」


「連絡先を聞いたときも、すごく緊張したんだから。覚えてなかったらどうしようって」


 直人は、夏祭りの日の彼女を思い出した。


 十年ぶりに会ったのに、小春は昔と変わらない調子で自分を呼んだ。


 あの笑顔の裏で、そんなことを考えていたらしい。


 小春は手すりから指を離した。


「私ね、あのときのお願い、今でも覚えてるよ」


「ああ」


「でも、今はちゃんと、お兄ちゃんがどんな人か知ってるつもり」


 彼女は少し照れくさそうに笑った。


「知らないところも、まだいっぱいあると思うけどね」


「それは俺も同じだよ」


 直人が答えると、小春はゆっくり頷いた。


「だから、これからも一緒にいたいの」


 小春は川へ目を向けた。


「大学で勉強して、卒業して。そのあとも、お兄ちゃんの隣にいたい」


 直人はすぐには答えず、彼女の言葉を受け止めていた。


 小春は十八歳だ。


 これから大学へ進み、新しい生活を始める。四年後には、今とは違うことを考えているかもしれない。


 直人自身も、仕事や暮らしがどう変わるかわからなかった。


 それでも、小春と将来について話したいと思った。


 まだわからないことがあるなら、そのとき一緒に考えればいい。


 直人は手すりから身体を離し、小春へ向き直った。


「小春」


 彼女もこちらを向いた。


「大学を卒業したら、俺と結婚してくれないか」


 小春は何度か瞬きをした。


 少し開いた唇から、すぐには声が出てこなかった。


 川沿いを歩いていた親子連れが通り過ぎ、遠くで自転車のベルが鳴った。


 直人は彼女の返事を待った。


 やがて小春がゆっくり頷いた。


「……はい」


 声が少し掠れていた。


 直人も胸の奥が熱くなり、何とか笑った。


 小春は目元を指で押さえたあと、困ったように笑いながら言った。


「お兄ちゃん、ずるい」


「何が?」


「私から言おうと思ってたのに」


「そうだったのか」


「うん。今日は、ちゃんとお願いしようって決めてたんだよ」


 直人は少し驚いた。


 小春は照れくさそうに視線を落としたが、すぐに顔を上げた。


「でも、嬉しい。すごく」


 その声に、直人もようやく肩の力が抜けた。


 小春が目元を拭っているあいだ、二人はしばらく川のほうを向いていた。風はまだ冷たかったが、雲の切れ間から差し込む日差しは、先ほどより少し暖かくなっていた。


「四年後なんだね」


 小春がぽつりと言った。


「ああ」


「長いかな」


「どうだろうな。あっという間かもしれないぞ」


「……そうかも」


 小春は静かに笑った。


 大学の入学準備も、直人の仕事も、これから先のことも、まだ決めなければならないことがたくさんある。


 それでも今は、急いで答えを出す必要はなかった。


「じゃあ、約束だね」


「ああ。約束だ」


 直人が答えると、小春は満足そうに頷いた。


 川沿いの道を歩き始めた彼女に並ぶと、少し先で散歩中の犬が立ち止まり、道端の草を嗅いでいた。小春はその様子を見て笑い、直人も足を緩めた。


 しばらく歩いてから、彼女が思い出したように顔を上げた。


「お父さんとお母さん、びっくりするかな」


「するだろうな。うちの母親も驚くと思う」


「ちゃんと二人で話そうね」


「ああ」


 そのあとも二人は、いつものように学校や仕事の話をしながら歩いた。


 川の向こうには、冬の終わりの空が広がっていた。


     *


 婚約の話を聞いた両家の親は、予想どおり驚いた。


 小春の両親は、娘がまだ高校生であることを心配した。ただ、大学で学び、卒業してから結婚したいという二人の考えを聞くと、少しずつ落ち着いて話せるようになった。


 直人の母親は、幼い小春がよく家へ遊びに来ていたことを思い出し、懐かしそうに笑った。


 誰もがすぐに賛成したわけではない。それでも、二人が急いで入籍しようとしているのではないことを知ると、これからのことは時間をかけて考えていこうと受け止めてくれた。


 やがて三月になり、小春は高校を卒業した。


 卒業式の日、直人は駅で彼女を待っていた。


 制服姿の小春は、卒業証書と友達からもらった花束を抱えて現れた。泣いたあとなのか、目元が少し赤くなっている。


「お兄ちゃん!」


 直人を見つけると、昔と同じように手を振った。


「卒業おめでとう」


「ありがとう! ちゃんと卒業しました!」


 小春は嬉しそうに卒業証書を持ち上げた。


 そのあと、二人で記念写真を撮った。


 春の風が制服の裾を揺らし、小春は花束を抱え直しながら、少し照れくさそうにカメラへ笑いかけていた。


     *


 それから、四年が過ぎた。


 春を間近に控えたある日の午後、直人は小春の通う大学を訪れていた。


 門を入った先には広い中庭があり、建物の間を学生たちが行き交っている。大きな作品を抱えて歩く学生もいれば、ベンチに座って話し込んでいる者もいた。


 直人が校舎の前で待っていると、ガラス扉の向こうに小春の姿が見えた。


 友人と話しながら出てきた彼女は、四年前より髪が少し長くなっていた。落ち着いた色のコートに、大きな鞄を肩から掛けている。片手には厚いファイルを持ち、何かを説明するようにページを開いていた。


 直人に気づくと、話の途中でこちらへ顔を向けた。


「お兄ちゃん!」


 隣の女性も直人の姿を見つけたらしく、笑顔で会釈した。


「あ、直人さん。こんにちは。この前の展示、見に来てくれてありがとうございました」


「こちらこそ。みんなの作品、面白かったよ」


「小春なんて、直人さんが帰ったあとも、感想聞き忘れたって騒いでたんですよ」


「ちょっと、それ言わなくていいから!」


 小春が慌てると、友人は楽しそうに笑った。


「じゃあ、小春。また連絡するね。直人さんも、失礼します」


 女性は手を振り、校舎のほうへ戻っていった。


 小春は少し照れた顔で友人を見送り、直人の隣へ並んだ。


「……変なこと言ってなかった?」


「別に。感想なら何度でも話すよ」


「もう聞いたからいいの」


 小春は笑い、肩の鞄を持ち直した。


 卒業制作は無事に終わり、必要な提出物もすべて揃ったという。春からは、大学で学んだことを生かせるデザイン制作の仕事に就く予定だった。


「やっと一段落だよ」


「お疲れさま。頑張ったな」


「うん。でも、まだ終わりって感じがしないんだよね」


 小春は校舎を振り返った。


 友人たちと夜まで作品を作ったこともあれば、納得できなくて何度も描き直したこともある。以前、展示の準備で徹夜しそうになったときには、直人も差し入れを持ってきたことがあった。


 彼女の話を聞きながら、二人は中庭を抜けていった。


 途中、別の学生が小春へ声をかけてきた。卒業式のあとに集まる予定を相談しているらしく、二人はしばらく立ち止まって話していた。


 直人が近くの掲示板を眺めていると、話を終えた小春が戻ってきた。


「ごめんね。待たせちゃった」


「大丈夫だよ」


 小春は隣に並び、歩きながら友人たちの話を続けた。


 中庭には、春休みに入った学生たちの声が響いている。建物の間を抜けると、正門へ続く並木道が見えた。


「四年間、早かったな」


 直人が言うと、小春は少し考えた。


「私は、結構長かった気がする。いろんなことがあったから」


 直人にも、その四年間の中で思い出すことがいくつもあった。


 学校帰りの小春と待ち合わせた日。作品展の会場で彼女を探した日。仕事で疲れているときに電話がかかってきて、くだらないことで笑った夜。


 小春が以前より専門的な話をするようになり、直人にはわからない言葉も増えた。


 一方、直人も少しずつ商品企画に近い仕事へ関わるようになり、忙しくて約束を変更してもらったことがあった。


 そのたびに、二人で次の予定を考えてきた。


「そうだな。いろいろあった」


 直人が答えると、小春は満足そうに頷いた。


 正門が近づくと、彼女が歩調を緩めた。


「今日は、家具を見に行くんだよね」


「ああ。机、まだ決まってないからな」


「今度こそ決めたいな。お兄ちゃんの分も」


 卒業後に暮らす部屋は、すでに二人で決めていた。


 窓際に机を二つ並べられることが、小春にとって譲れない条件だった。直人のほうはそこまでこだわりがなかったが、二人で間取り図を見ながら考える時間は嫌いではなかった。


 小春は正門の脇で足を止め、少し眩しそうに空を見上げた。


「この道も、もうあんまり通らなくなるんだね」


 直人も振り返った。


 校舎へ続く並木道には、春を待つ木々が並んでいる。


 小春はしばらく眺めてから、鞄の位置を直した。


「じゃあ、行こうか。お昼食べてから家具を見に行こう」


「何が食べたい?」


「今日はお兄ちゃんが決めて。最近、私ばっかり決めてるから」


「そうだったかな」


「そうだよ。先週も、先々週も私だったもん」


 直人は思い返した。


 確かに、ここ最近は小春の希望を聞くことが多かったかもしれない。店を決めることに特にこだわりはなかったが、彼女に言われると、少し考えてみたくなった。


「じゃあ、駅の近くにあった店にするか」


「うん。行こう」


 小春は直人の隣へ並び、正門を出た。


 通りの向こうでは、桜の枝がまだ固い蕾をつけていた。


     *


 大学の卒業式が終わってから数日後、二人は婚姻届を提出するため、市役所へ向かった。


 朝からよく晴れていた。


 新しく借りた部屋には、まだ段ボール箱がいくつか残っている。窓際には先日選んだ机が二つ並び、片方には直人の仕事の資料、もう片方には小春の画材が置かれていた。


 小春は出かける前、鞄の中をもう一度確かめていた。


「お兄ちゃん、書類は?」


「持ってるよ」


 直人が封筒を見せると、彼女は安心したように息をついた。


「昨日も確認したのに、何か忘れてそうで」


「俺も同じだよ」


 直人は封筒の中身を確かめ、折れないように鞄へしまった。


 必要なものはすべて揃っている。それでも、今日はいつもより少し緊張していた。


 玄関を出ると、小春が鍵をかけた。


 まだ新しい鍵に慣れていないのか、少し手間取っていたが、きちんと閉まったことを確認すると、直人の隣へ並んだ。


 市役所までは、駅からバスに乗って少し行ったところだった。


 車内には買い物帰りらしい人や、書類の入った鞄を抱えた人たちが座っている。窓の外を住宅街の景色が流れ、交差点でバスが止まるたびに、春の光がガラスに反射した。


 小春は隣の席で、膝の上の鞄を両手で押さえていた。


 いつもなら窓の外を眺めたり、今日の予定について話したりするところだが、今朝は少し静かだった。


 直人も、特に何か話そうとはしなかった。


 バスが市役所前の停留所へ近づくと、小春がようやく顔を向けた。


「……緊張するね」


「ああ」


「四年前にも、こうなるって決めたのに」


 小春は小さく笑い、鞄の持ち手を握り直した。


 直人も膝の上の封筒へ目を落とした。


 四年前、川沿いで交わした約束。


 あのときは、まだずっと先のことだと思っていた。


 けれど、こうして隣に座っている小春は、もう大学を卒業している。二人で借りた部屋には家具が入り、帰りには足りない食器を買っていこうと話していた。


 バスが停まり、直人は封筒を鞄へ戻した。


「行こうか」


「うん」


 小春は立ち上がり、直人に続いてバスを降りた。


 市役所の中は、平日の午前中ということもあり静かだった。


 案内に従って窓口へ向かい、順番を待つ。向かい側の壁には市からのお知らせが貼られ、奥の窓口では職員が書類を確認していた。


 小春は隣で鞄を膝に載せ、二人の名前が書かれた婚姻届を見つめていた。


 直人も用紙の端を指で押さえた。


 何日も前に二人で記入し、両家の親に証人の署名を頼んだ。何度も確認してきた書類なのに、こうして窓口の前で見ると、家の机に広げていたときとは少し違って見えた。


 番号が呼ばれ、二人は立ち上がった。


 直人が書類を差し出すと、小春も隣へ寄った。


 職員が内容を確かめ、必要な説明をしてくれる。直人はその言葉に耳を傾けながら、隣に立つ小春の気配を感じていた。


 彼女も真剣な顔で説明を聞いている。


 手続きは、思っていたより静かに進んだ。


 書類が受理され、二人は礼を言って窓口を離れた。


 廊下へ出たところで、小春が足を止めた。


 直人も立ち止まる。


 小春はしばらく何も言わず、手にした鞄を胸の前で抱えていた。やがて直人を見上げ、照れくさそうに笑った。


「……結婚したんだね」


「ああ」


 直人が答えると、小春は小さく頷いた。


 それきり、二人ともすぐには次の言葉が出てこなかった。


 廊下の向こうでは次の番号が呼ばれ、窓口へ向かう人がいる。市役所の中は、さっきまでと何も変わっていない。


 小春は少し不思議そうに周囲を眺めていたが、やがて直人のほうへ身体を向けた。


「帰ろうか」


「そうだな」


 二人は並んで出口へ向かった。


 自動ドアが開くと、外の空気が流れ込んできた。小春は髪を押さえ、眩しそうに空を見上げる。


 よく晴れた空には、薄い雲がゆっくり流れていた。


 市役所の前には、小さな花壇がある。


 植えられた花が風に揺れ、その向こうのベンチには年配の夫婦が並んで座っていた。夫婦は一冊の冊子を覗き込み、ときどき何かを話している。


 小春はその様子を少し眺めてから、鞄を肩に掛け直した。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「十年前の私に、教えてあげたいな」


 直人が顔を向けると、小春は少し悪戯っぽく笑った。


「大きくなったら、本当にお兄ちゃんのお嫁さんになれるよって」


 直人も笑った。


「きっと喜ぶだろうな」


「うん。絶対に喜ぶと思う」


 小春は自分の右手へ目を落とした。


 小指をそっと曲げる仕草に、直人は見覚えがあった。


 雨の日の部屋で、幼い彼女が差し出した小さな指。


 あの日、笑いながら指切りをした。


 こんな日が来るとは、考えてもいなかった。


 直人は小春の隣へ一歩近づいた。


「小春」


 呼ぶと、彼女が顔を上げた。


 直人は右手を差し出した。


「帰ろうか」


 小春は差し出された手を見つめた。


 それから直人の顔を見上げ、少しだけ目を細めた。


「……うん」


 彼女は自分から手を伸ばし、直人の手を取った。


 指先が触れ、ゆっくりと手のひらが重なる。小春の手は、思っていたより温かかった。


 二人は並んで歩き出した。


 バス停へ続く道には、昼前の穏やかな日差しが落ちていた。植え込みの間から伸びた草が風に揺れ、少し先では買い物袋を下げた人たちが信号の変わるのを待っている。


 新しい家へ帰る道には、まだ覚えていない曲がり角がいくつもある。


 小春は歩きながら、今日の夕飯をどうしようかと話し始めた。


 冷蔵庫にはまだあまり食材がなく、帰りにスーパーへ寄る必要があった。新しい台所も、二人で料理をするには少し狭そうだったが、昨日は小春が食器棚の位置を決め、直人が鍋をしまう場所を考えた。


「何か食べたいものある?」


「そうだな。野菜炒めなら作れるぞ」


「ふふっ。お兄ちゃん、そればっかり」


「失敗しないからな」


 小春は少し考え、つないだ手を軽く揺らした。


「じゃあ、今日は私がオムライス作るね」


「卵、ちゃんと包めるのか?」


「今日はきっとうまくできるよ」


「失敗したら?」


 小春は直人を見上げて笑った。


「そのときは、一緒に食べてね」


「ああ。もちろん」


 小春は満足そうに頷き、直人の手をもう一度握った。


 春の風が二人の間を通り抜ける。


 直人もその手を握り返し、彼女と同じ歩幅で歩いていった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


澄野(すみの) 朔(さく)です。


幼い日に交わした、何気ない約束。


十年の時を経て再会した二人が、今度は自分たちの意思で未来を選ぶ。そんな恋の物語をお届けしました。


小春と直人のこれからが、失敗したオムライスも一緒に笑って食べられるような、温かな日々でありますように。


全5話完結の現代恋愛を中心に、さまざまな物語を書いています。


ほかにも義姉・義妹などをヒロインにした独立作品を公開していますので、気に入っていただけましたら、シリーズ「5話で完結する、少し特別な恋愛物語」も覗いてみてください。


作品への評価や感想、作者のお気に入り登録なども、今後の創作の励みになります。


また別の物語でお会いできたら嬉しいです。

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