第3話 見慣れない横顔
駅の改札を抜けると、夕方の熱気がまとわりついてきた。
直人は腕時計を確かめ、待ち合わせ場所になっている駅前の広場へ向かった。改札の脇には夏祭りの案内が貼られ、赤い提灯の写真とともに、今夜の花火の打ち上げ時刻が大きく印刷されている。
駅前の景色は、記憶にあるものとはずいぶん違っていた。
昔ながらの書店があった場所にはドラッグストアが建ち、駅へ続く歩道もきれいに整備されている。学校帰りによく立ち寄ったパン屋は見当たらず、代わりに知らない名前のカフェができていた。
それでも、広場の端に立つ大きなケヤキだけは変わっていない。
直人はその木のそばで足を止め、スマートフォンを取り出した。
『駅に着いた。ケヤキのところにいるよ』
送信すると、すぐに既読がついた。
『もうすぐ行く!』
画面に表示された名前を見て、少し笑ってしまう。
小春。
こうして連絡を取るようになったのは、つい最近のことだった。
きっかけは母親からの電話だ。
『小春ちゃん、覚えてる? 宮原さんのところの』
忘れるはずがない。
近所に住んでいた女の子で、学校から帰ると自分の家に遊びに来ていた。夏休みには朝から玄関のチャイムを鳴らし、こちらが宿題を終えるまで部屋で待っていることもあった。
引っ越す日には、Tシャツを涙で濡らされてしまった。
母親同士はその後も連絡を取り合っていたらしい。小春が直人と話したがっていると聞き、連絡先を渡してもよいか尋ねられたのだ。
もちろん、断る理由などなかった。
初めて届いたメッセージは、いかにも小春らしいものだった。
『お兄ちゃん、久しぶり! 小春です。覚えてる?』
画面を見た瞬間、昔の呼び声が耳によみがえった気がした。
それから何度かやり取りをして、夏祭りの話になった。
『今年、来られない?』
今の住まいからなら、電車で一時間半ほどの距離だ。仕事も休みだったし、久しぶりに昔の町を歩いてみたい気持ちもあった。
そうして約束したものの、実際に待ち合わせ場所へ来てみると、何となく落ち着かなかった。
最後に会った小春は、まだ小学生だった。
こちらの服をつかんで離さず、何かあるたびに「お兄ちゃん」と呼んでいた女の子。
今は、どんなふうになっているのだろう。
「お兄ちゃん!」
聞き覚えのある呼び方に、顔を上げた。
ケヤキの向こうから、一人の女性が歩いてくる。
濃い青色の浴衣に、白い花模様が入っていた。髪は後ろでまとめられ、耳元に小さな飾りが揺れている。片手に巾着を持ち、もう片方の手をこちらへ大きく振っていた。
直人は一瞬、声をかけるのが遅れた。
「……小春?」
「そうだよ。久しぶり!」
目の前まで来た彼女は、嬉しそうに笑った。
笑うと目尻が少し下がるところに、確かに覚えがあった。昔の小春も、楽しいことがあるとこんな顔をしていた。
ただ、顔立ちはすっかり大人びている。髪をまとめたせいか首筋がすっきりして見え、こちらを見上げる角度も、記憶にあるものとは違っていた。
「……大きくなったなあ」
思わず口にすると、小春が吹き出した。
「それ、絶対言われると思った」
「いや、だって。最後に会ったとき、こんなに小さかっただろ」
腰の辺りに手をかざすと、小春は不満そうに眉を寄せた。
「八歳だったんだから、当たり前でしょ」
「それもそうか」
「もう十八歳なんだよ。十年もたってるんだから」
十年。
言葉にすると、ずいぶん長い。
最後に会った頃、直人は十六歳だった。今は二十六歳になり、毎朝ネクタイを締めて会社へ通っている。
小春が高校生になっていても、何も不思議ではない。
それなのに、目の前で話している姿を見ると、なかなか実感が追いつかなかった。
「お兄ちゃんは、あんまり変わってないね」
「そうか? 俺だって十年分は年取ってるぞ」
「うん。でも、笑い方とか声とか、昔のまま」
「それは小春もだろ」
「そう?」
小春は少し首を傾げ、それからまた笑った。
その仕草には、よく知っている女の子の面影があった。
「ところで、よく俺だってわかったな」
「おばさんに写真見せてもらったから」
「……母さん、何を送ったんだ?」
「この前、旅行に行ったときの写真」
直人は額を押さえた。
確か、母親に頼まれて観光地の看板の前に立ったときのものだ。日差しが眩しくて、ひどい顔をしていた覚えがある。
「あれかよ。もっとましなのあっただろ」
「私は好きだけどな、あの写真」
「ほんとか?」
「うん。お兄ちゃんらしい顔してる」
何とも返しづらいことを言われ、直人は苦笑した。
小春は楽しそうに笑いながら、商店街のほうを指さした。
「そろそろ行こうよ。屋台、もう始まってると思う」
「ああ。案内、頼むな」
「任せて!」
そう答えると、小春は先に歩き出した。
人通りの多い歩道へ出たところで、こちらを振り返る。直人が隣に並ぶのを確かめてから、再び足を進めた。
*
夏祭りの会場へ続く道は、昔と少し変わっていた。
駅から商店街を抜け、住宅街の細い道を通っていく。以前は遠回りしなければならなかった場所に新しい歩道ができていて、小春は迷うことなくそちらへ入った。
「ここ、昔は通れなかったよな」
「そうなの? 私が中学生のときには、もうあったよ」
「へえ。便利になったな」
「この先に新しい公園もできたんだよ。小さいけど、春は桜がきれいなの」
道の両側には、見覚えのない家が並んでいる。
直人にとっては知らない景色でも、小春にとっては毎日歩く町なのだろう。曲がり角で迷うこともなく、すれ違う自転車をよけながら、時折こちらの歩調まで気にしてくれていた。
「駅前の本屋、なくなってたな」
「ああ、あそこね。私が中学生のときに閉まっちゃった」
「よく漫画買ってたんだけどな」
「今はドラッグストアだよ。結構便利なの」
「夢がないなあ」
「お兄ちゃんがいない間に、町も変わるんです」
わざと偉そうに言われ、直人は笑った。
商店街へ入ると、軒先に祭りの提灯が吊られていた。まだ明るいせいで灯りは目立たないが、通りの奥からは太鼓の音が聞こえてくる。
小春は途中で友達の話をした。
中学の頃、初めて友達同士だけで電車に乗って映画を見に行ったこと。高校では文化祭の実行委員を手伝ったこと。準備が間に合わず、放課後まで残って作業したこと。
話を聞きながら歩いていると、何度も通ったはずの道が、知らない町のように感じられた。
「そういえば、小春は今、高三だよな。進路はもう決めたのか?」
「まだ全部は決まってないけど、デザインの勉強ができる学校に行きたいんだ」
「デザイン?」
「うん。絵を描くのも好きなんだけど、ポスターとか、普段使うものの形を考えるのも面白くて」
小春は商店街の掲示板の前で足を緩めた。
貼られているのは、今夜の花火の案内だった。
「これ、花火の時間がちょっと見づらいでしょ?」
「そうか?」
「ほら、ここの文字。背景と色が似てるから、離れると読みにくいの」
言われて少し下がってみると、確かに小さな文字が背景に紛れている。
「……本当だ」
「文化祭のポスターを作ったときもね、最初は自分の好きな色をいっぱい使ったんだけど、先生に『遠くから見たら読めないよ』って言われちゃって」
「なるほど。それで勉強したくなったのか」
「うん。まだ知らないことばっかりだけど、ちゃんとやってみたいんだ」
小春は掲示板から離れ、少し照れくさそうに笑った。
直人はもう一度、花火の案内へ目を向けた。
メーカーで働いていると、商品の見た目や使いやすさについて客から意見を聞くことがある。営業の自分には、すぐにどうにかできないことも多い。
そのことを少し話すと、小春は興味深そうに聞いていた。
「お兄ちゃん、メーカーで働いてるんだよね」
「ああ。営業だけどな。お客さんのところへ行って、注文の相談に乗ったりしてる」
「じゃあ、毎日スーツ?」
「だいたいな」
「見てみたいかも」
「何を?」
「スーツのお兄ちゃん」
「普通の会社員だぞ。面白くも何ともないって」
「そうかな。昔は制服だったから、ちょっと想像できない」
小春は直人のシャツをちらりと見て、何かを想像したのか、小さく笑った。
「今度、仕事帰りに会えば見られるんじゃない?」
「仕事帰りか。まあ、時間が合えばな」
「うん」
軽く頷いた小春は、それ以上その話を続けなかった。
ちょうど通りの先に祭りの入口が見え、人の流れが少し混み始めていた。
「ほら、着いたよ」
小春が指さした先には、見覚えのある神社の鳥居が立っていた。
周囲の店はすっかり変わっていたが、鳥居の形と、その奥に続く石段は記憶のままだった。
直人は少し懐かしくなり、歩く速度を落とした。
*
祭りの会場は、すでに大勢の人で賑わっていた。
焼きそばのソースの匂いに、甘い綿あめの匂いが混ざっている。屋台の呼び込みがあちこちから聞こえ、浴衣姿の子供たちが景品を手に走っていた。
小春は人の流れを見ながら歩きやすい場所を選んでいる。直人はその隣で、並ぶ屋台を一つずつ眺めた。
「昔より店が増えたな」
「そう? 私はあんまりわかんない」
「たこ焼きの店、あんなにあったっけ」
「お兄ちゃん、昔たこ焼き食べて、すごく熱がってたよね」
「……そんなことまで覚えてるのか」
「覚えてるよ。私が笑ったら、熱いんだから仕方ないだろって」
小春はそのときの直人の口調を真似してみせた。
「似てないぞ」
「えー、結構似てると思うけど」
笑い合いながら歩いていると、見覚えのある屋台が現れた。
輪投げだった。
「あっ、これ」
小春が立ち止まった。
景品の並ぶ台を見た途端、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「覚えてる? お兄ちゃん、全然入らなかったやつ」
「忘れてくれてよかったのに」
「だって、悔しそうだったんだもん」
直人は屋台を覗き込んだ。
小さなぬいぐるみやお菓子が、台の上に所狭しと並べられている。昔より景品の種類は増えているようだった。
「よし。今度こそ取ってやるか」
「十年ぶりなのに?」
「十年もたてば、少しは上手くなってるだろ」
「輪投げって、やらないと上手くならないと思う」
「……それを言うなよ」
結局、二人で一回ずつ挑戦することになった。
直人は小さなぬいぐるみを狙ったが、最初の輪は台の手前で跳ねて落ちた。二つ目も届かず、最後の一つだけが狙っていなかったお菓子の棒に引っ掛かった。
「お、入った」
「一個だけ?」
「一個入れば上出来だろ」
小春は笑いながら自分の輪を受け取った。
景品をじっと見比べ、少し身体を前へ倒して狙いを定める。最初の輪は外れたが、二つ目が小さなぬいぐるみの台に収まった。
「あっ、入った!」
思わず声を上げた小春に、屋台のおじさんが景品を渡してくれた。
受け取ったぬいぐるみを持ち上げ、直人のほうへ見せてくる。
「ほら、取れた!」
「やるじゃん。負けたな」
「ふふん。十年前の仕返し成功」
「何の仕返しだよ」
得意そうに笑う小春を見ていると、こちらまでおかしくなってきた。
そういえば、昔もここで輪投げをした。あのときは一つも入らず、ずいぶん悔しい思いをしたものだ。十年たってようやく一つ取れたと思ったら、今度は小春に負けてしまった。
直人は受け取ったお菓子を袋へしまい、ぬいぐるみを眺めている小春と並んで屋台を離れた。
通りには、さらに人が増えていた。
少し前を歩く家族連れが立ち止まり、その脇を子供がすり抜けようとしている。直人も歩調を緩めたところで、近くから泣き声が聞こえた。
五、六歳くらいの男の子が、母親らしい女性の隣で上を見ている。
視線を追うと、道へ張り出した木の枝に黄色い風船が引っ掛かっていた。紐が細い枝へ巻きついているらしく、風に揺れても落ちてこない。
「ママ、あれ……」
男の子がしゃくり上げながら指をさした。
母親も背伸びをしてみたが、風船には届かない。
直人が声をかけようとしたときには、小春がもう二人のそばへ歩いていた。
「風船、取れなくなっちゃったの?」
男の子が頷く。
小春は木の下まで行き、枝の位置を確かめた。
「ちょっと待っててね。取れるかな」
巾着を持ち直し、背伸びをして紐へ手を伸ばす。
あと少しで指先が触れそうだったが、風に揺れて逃げてしまった。場所を変えてもう一度試しても、届くのは紐の先だけだった。
「うーん……」
小春は一度かかとを下ろし、直人を振り返った。
「お兄ちゃん、届く?」
「ちょっと見せて」
直人は木の下へ入り、枝を見上げた。
手を伸ばせば、紐の途中をつかめそうだった。ただ、強く引っ張ると枝が折れてしまうかもしれない。
背伸びをして紐をつかみ、巻きついた部分を指先で少しずつほどいていく。途中で風船が揺れたが、枝を押さえながら動かすと、やがて紐が外れた。
「よし、取れた」
風船を下ろすと、小春が両手で受け取った。
「ありがとう!」
そのまま男の子の前へしゃがみ、風船を差し出す。
「はい。もう飛んでいかないようにね」
男の子が紐をつかむのを待ってから、手首に緩く輪をかけてやった。母親がその紐を持ち直すと、男の子はようやく泣きやみ、風船を持った手を嬉しそうに上げた。
何度も礼を言う母親に、小春は少し照れたように笑った。
男の子が振り返りながら手を振ってくれたので、直人も小さく振り返した。
二人が人混みに紛れていくと、小春は自分の手を見た。
「もう少しで届いたんだけどなあ」
「結構高かったからな」
「あと五センチくらい背がほしかった」
「十分伸びただろ」
「お兄ちゃんには、まだ届かないね」
小春はそう言って笑った。
直人は木の枝を見上げた。
風船が引っ掛かっていた場所は、昔と同じ木だっただろうか。そこまでは覚えていない。
ただ、黄色い風船を受け取ったときの小春の手つきが、妙に懐かしかった。
「昔も、こんなことあったな」
直人が言うと、小春はすぐに頷いた。
「うん。私のは青い風船だった」
「ああ、そうだ。白い雲が描いてあったな」
「よく覚えてるね」
「小春が泣きそうだったからな」
「泣いてないもん」
「そうだったか?」
小春は少し考えてから、肩をすくめた。
「……泣きそうではあったかも」
直人が笑うと、小春もつられて笑った。
それから彼女は、先ほどもらったぬいぐるみを巾着へしまい、通りの先へ目を向けた。
「そろそろ花火の場所、取ったほうがいいかな」
「もうそんな時間か」
「うん。いいところ知ってるから、行こう」
小春は人混みの様子を確かめ、歩きやすそうなほうへ進んでいく。直人もそのあとに続いた。
少し先で立ち止まった小春が、振り返って手を振った。
「お兄ちゃん、こっちだよ」
「ああ、今行く」
追いつくと、小春はまた隣を歩き始めた。
*
花火が始まる少し前、二人は川沿いの遊歩道へ着いた。
会場の中心からは少し離れているが、川の向こうに空が広く見える場所だった。手すりの先には水面がゆっくり流れ、対岸には屋台の灯りが小さく並んでいる。
風が通るので、さっきまでの人混みよりずっと涼しかった。
「よくこんな場所、知ってたな」
「毎年、友達と来てるから。ここなら花火もよく見えるんだよ」
「なるほど。地元の人間にはかなわないな」
小春は少し得意そうに笑い、手すりのそばへ歩いた。
直人も隣に立つ。
川面を渡る風が浴衣の袖を揺らし、小春は髪の飾りに触れて、緩んでいないか確かめていた。
「でも、お兄ちゃんとここに来るのは久しぶり」
「そうだな」
「前も一緒に花火見たよね」
「ああ。覚えてるよ」
小春は川の向こうに目を向けたまま、少し間を置いた。
「来年も見ようって、約束したのも」
直人はその横顔を見た。
夏祭りの帰り道、そんな約束をしたことは覚えている。急に引っ越すことになり、小春に謝ったことも。
「……結局、守れなかったな。ごめん」
「ううん」
小春は首を横に振った。
「今日は来てくれたから」
そう言って、こちらへ笑いかける。
直人も笑い返したが、何となく言葉が続かなかった。
川の向こうから、花火の打ち上げを知らせる放送が流れてきた。周囲の人たちが空を見上げ、子供たちの声も少しずつ静かになっていく。
直人は小春の隣へ半歩近づいた。
遊歩道には人が集まり始めている。背後から来た家族連れが通れるように場所を空けながら、つい小春の位置を確かめていた。
「お兄ちゃん、何?」
「いや、人が増えてきたからさ」
「大丈夫だよ。もう迷子にならないって」
小春が笑った。
言われてみれば、今日は最初からずっと彼女に案内されている。
「……そうだったな」
「心配しすぎ」
からかうような声に苦笑したところで、最初の花火が上がった。
夜空に白い光が広がり、少し遅れて腹に響くような音が届いた。川面にも細かな光が散り、遊歩道に立つ人たちの顔が一瞬明るくなる。
「わあ……!」
小春が空を見上げた。
その横顔に花火の光が当たり、次の瞬間にはまた暗がりへ戻っていく。
直人も顔を上げた。
続けて赤い花火が開き、青い光がその周囲を彩った。何発も重なると、近くにいた子供たちから歓声が上がる。
久しぶりに見るこの町の花火は、記憶にあるよりもずっと大きく感じられた。
昔は、毎年のように友達と来ていた。
夏休みが始まれば祭りがあり、花火が終われば宿題の残りを気にし始める。そんな日々が、これからも続くものだと思っていた。
直人は手すりに腕を置き、空へ目を向けた。
そのとき、隣から小春が何か言った。
ちょうど大きな花火が打ち上がったところで、声がよく聞こえない。
「何?」
顔を向けると、小春もこちらを見ていた。
周囲の音に負けないよう、少し身を寄せてくる。
「今の、すごくきれいだったね!」
すぐ近くで声がした。
顔を向けたままの直人の目に、髪を留めた小さな飾りが映った。青い光を受けて、一瞬だけきらりと光る。
思っていたより近かった。
「ああ。そうだな」
返事をするまでに、わずかな間ができた。
小春は気にした様子もなく、もう次の花火を見上げている。
直人も空へ目を戻した。
少し前まで、隣に立っているのは小春なのだから、気をつけて見ていてやらなければと思っていた。
けれど、今の距離では、むしろ自分のほうが落ち着かなかった。
夜風に揺れた浴衣の袖が、直人の腕に軽く触れる。
小春は気づいていないようで、次々に打ち上がる花火を楽しそうに眺めていた。
直人は手すりに置いていた腕を少しずらした。
何を気にしているのか、自分でもよくわからない。
ただ、先ほどまでと同じ調子で話しかけようとしても、なぜか一拍遅れてしまう。
「お兄ちゃん、あれ見て!」
小春が指さした先で、金色の花火が大きく開いた。
細い光が何本も垂れ下がり、夜空をゆっくり流れていく。
「すごいな」
「でしょ?」
嬉しそうに振り返る小春につられ、直人も笑った。
そのあとは、二人で並んで花火を眺めた。
大きな音が響くたび、小春が少し肩をすくめたり、思いがけない色の花火に声を上げたりする。直人もときどき感想を返したが、途中からは言葉を交わさない時間のほうが長かった。
最後に何発もの花火が一斉に打ち上がると、川の向こうが昼間のように明るくなった。
小春の顔も、その光の中に浮かび上がる。
直人は空を見上げていたはずなのに、花火が消える直前、隣へ視線を向けていた。
*
花火が終わると、遊歩道にいた人たちが一斉に動き始めた。
帰り道は混み合っていたが、小春は慌てず、人の流れが落ち着く場所を選んで歩いた。大勢の人が駅へ向かう中、二人は少し遠回りをして商店街へ戻ることにした。
通りへ出る頃には、さっきまでの混雑も和らいでいた。
店のシャッターはほとんど下りている。祭り帰りの人がときどき通り過ぎるほかは静かで、遠くから片づけをする音が聞こえてきた。
「今日はありがとう」
小春が隣で言った。
「こっちこそ。久しぶりに来られて楽しかったよ」
「本当?」
「ああ。町も案内してもらったし、輪投げでは負けたしな」
「そこは忘れちゃだめだよ」
「はいはい」
小春は巾着に入れたぬいぐるみを軽く叩き、満足そうに笑った。
街灯の下を通るとき、白い花模様が浮かび上がる。昼間の明るさの中では気づかなかったが、浴衣の色はかなり深い青だった。
「その浴衣、似合ってるな」
直人が言うと、小春は足を少し緩めた。
「……本当?」
「ああ。いい色だな」
小春は自分の袖を見下ろし、そっと指でつまんだ。
「昔、お兄ちゃんとお祭りに行ったときも、青い浴衣だったんだよ」
「そうだったな」
「覚えてる?」
「白い花の柄だっただろ」
小春が驚いたように顔を上げた。
「覚えてたんだ」
「なんとなくな」
実際には、さっき風船の話をしたときから、昔の夏祭りのことをいくつか思い出していた。
青い風船と、それを大切そうに持っていた小春。
あのときも、浴衣を褒めると嬉しそうに笑っていた。
「今日のもね、青いのがいいなと思って選んだの」
「そうなのか」
「うん。ちょっと迷ったんだけど」
小春はそこで言葉を切り、また歩き始めた。
直人も隣へ並ぶ。
それからは学校の話や祭りの話をしながら駅へ向かった。小春は何度か笑い、そのたびに耳元の飾りが小さく揺れた。
駅前のケヤキが見える頃には、夜風が少し涼しくなっていた。
直人は腕時計を確かめた。帰りの電車までは、まだ少し余裕がある。
改札の前で足を止めると、小春も隣に並んだ。
「じゃあ、俺はそろそろ帰るな」
「うん。気をつけてね」
「小春もな。遅い時間だし」
「大丈夫。ここからなら慣れてるよ」
「それでも、家に着いたら連絡くれよ」
「もう。お兄ちゃんって、やっぱりお兄ちゃんだね」
小春が笑った。
「何だよ、それ」
「昔から心配性だなって」
「そりゃ心配するだろ」
言い返すと、小春はおかしそうに笑った。直人もつられて笑い、もう何も言わなかった。
小春は巾着からスマートフォンを取り出し、画面を確認してから顔を上げた。
「また連絡するね。学校のこととか、決まったら報告する」
「ああ。待ってるよ」
「お兄ちゃんも、仕事の話とか聞かせてね」
「面白い話があればな」
「普通の話でもいいよ」
小春はそう言って笑い、スマートフォンをしまった。
改札の前には、電車から降りてきた人たちが次々に現れている。直人は通行の邪魔にならないよう少し脇へ寄り、小春と向かい合った。
「それじゃ、またな」
「うん。またね、お兄ちゃん」
小春は数歩離れたところで振り返り、小さく手を振った。
直人も手を上げた。
そのまま歩き出した彼女は、途中で人をよけながら、駅前の通りへ向かっていく。街灯の下を通るたび、青い浴衣が明るくなったり暗くなったりした。
姿が見えなくなる頃、直人はようやく改札へ向かった。
帰りの電車は、思っていたより空いていた。
座席に腰を下ろすと、冷房の効いた車内でようやく汗が引いてきた。足には祭りの間ずっと歩いていた疲れが残っている。
電車が動き始め、窓の向こうを駅の灯りが流れていった。
スマートフォンを取り出すと、小春からメッセージが届いていた。
『今日は楽しかった! 来てくれてありがとう』
続けて、輪投げでもらったぬいぐるみの写真が送られてくる。
直人は思わず笑った。
『俺も楽しかった。ぬいぐるみ、大事にしろよ』
そう返すと、間を置かずに返信が来た。
『もちろん! お兄ちゃんが負けた記念だから』
「……そこかよ」
小さくつぶやくと、向かいの座席に座っていた男性がちらりとこちらを見た。
直人は慌てて口を閉じ、スマートフォンを膝の上に置いた。
車内には電車の走る音が続いている。
窓に映った自分の顔を見ながら、今日の待ち合わせを思い返した。
あのとき、ケヤキの向こうから小春が歩いてきた。
名前を呼ばれるまで、目の前の女性が誰なのか、すぐにはわからなかった。
けれど、話し始めると昔の調子に戻れた。くだらないことで笑い合い、輪投げで張り合い、花火を見た。
こんなに楽しく過ごせるなら、もっと早く会っていてもよかったかもしれない。
そう思いながら背もたれへ身体を預けると、車内の灯りが少し揺れた。
スマートフォンがもう一度震える。
『家に着いたら連絡するね。お兄ちゃんも気をつけて!』
直人は短く返事を打ち、画面を消した。
窓の外では、知らない町の灯りが次々に流れていく。
懐かしい小春に会いに行った一日だった。
それなのに、電車に揺られながら思い浮かんだのは、記憶の中の小さな女の子ではなかった。
花火の音に負けないよう身を寄せ、すぐ隣で笑っていた、青い浴衣の小春だった。




