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「大きくなったらお嫁さんにしてね」とお願いしたら、お兄ちゃんは笑って約束してくれました  作者: 澄野 朔


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第2話 雨の日の約束

 夏祭りから一週間ほどたった土曜日、朝から雨が降っていた。


 小春は窓際の机に座り、開いた台本とにらめっこをしていた。鉛筆で丸をつけたところを何度か読み返しているのに、どうしても途中で笑ってしまう。


「王子様。私は、あなたのことが大好きです」


 声に出してみると、やっぱり頬が緩んだ。


 机に広げているのは、秋の学芸会で使う劇の台本だった。題名は『二つの国の王子様とお姫様』。夏休みに入る少し前、学校で配られたものだ。


 三年生のクラスで配役を決めたとき、小春はお姫様の役に選ばれた。先生に名前を呼ばれた瞬間、嬉しくて思わず立ち上がってしまい、みんなに笑われたことを覚えている。


 お母さんにも褒めてもらったし、お友達にもおめでとうと言われた。


 でも、一番見せたい人には、まだ話せていない。


 夏祭りの日、浴衣姿をかわいいと褒めてくれたお兄ちゃん。今度はお姫様の衣装を着たところも見てもらいたかった。


 もっとも、衣装を着られるのはまだ先だ。今は夏休みの間に台詞を覚えなければならない。お姫様は出番が多く、先生からも頑張って練習するように言われていた。


 小春は鉛筆を置き、窓の外を眺めた。


 雨粒がガラスを伝い、庭の向こうに見える高瀬家の屋根を白く霞ませている。せっかくの夏休みなのに、これでは外で遊べそうにない。


 お兄ちゃんも、今日は家にいるだろうか。


 もし練習相手になってもらえたら、王子様の台詞を読んでもらえる。


 そうしたら、さっきの言葉だって、お兄ちゃんに向かって言えるのだ。


 小春はもう一度台本を開いた。


 夏祭りの夜、花火を見上げたお兄ちゃんが「きれいだな」とつぶやいたときのことを思い出す。


 あれは花火のことだったけれど、今度は自分のほうを見てもらえるかもしれない。


 そんなことを考えていると、台所からお母さんに呼ばれた。


「小春、ちょっと来てくれる?」


「はーい!」


 居間へ行くと、お母さんは洗濯物を畳んでいるところだった。小春が隣へ座ると、手に持っていたタオルを膝の上へ置いた。


「今日も直人くんのおうちへ遊びに行くつもりだった?」


「うん。劇の練習、手伝ってもらおうかなって」


「そう……」


 お母さんは少し困ったような顔をした。


「どうしたの?」


「実はね、直人くんのお父さん、お仕事で遠くへ行くことになったんだって」


「遠く?」


「うん。それで、高瀬さんのご家族も一緒にお引っ越しすることになったの」


 小春は、お母さんが何を言っているのか、すぐにはわからなかった。


 引っ越しなら知っている。学校でも、遠くへ転校したお友達がいた。最後の日にはみんなで寄せ書きを渡し、その子は泣きながら教室を出ていった。


「……お兄ちゃんも?」


「そうよ」


「いつ?」


「来週の土曜日って聞いたわ」


 壁のカレンダーには、今日の日付にお母さんが小さな丸をつけていた。その真下にある来週の土曜日まで、ちょうど七日しかない。


「じゃあ、来年のお祭りは?」


 お母さんはすぐには答えなかった。


「お兄ちゃん、約束したんだよ。来年も一緒に花火見ようって。輪投げだって、またやるんだもん」


 夏祭りの日、直人は来年こそ景品を取ると言って笑っていた。小春はそのとき、来年の夏が来るのを当たり前のように楽しみにしていた。


「お引っ越し、急に決まったそうなの。直人くんも、お祭りのときには知らなかったんだと思うわ」


 お母さんが肩に手を置いてくれた。


 約束を忘れたわけではないらしい。それなら、どうして一緒に花火を見られなくなるのだろう。


 もう一度カレンダーを見る。


 来週の土曜日は、何度見ても同じ場所にあった。


「……お兄ちゃんに会ってくる」


「今日は荷造りで忙しいかもしれないわよ」


「少しだけでいいから」


 顔を上げると、お母さんはしばらく小春を見つめていた。それから洗濯物を脇へ寄せ、電話を手に取った。


「じゃあ、おばさんに聞いてあげる。邪魔にならないようにね」


 自分の部屋へ戻り、机に広げた台本を手に取った。


 練習なんてしている場合ではないかもしれない。お兄ちゃんだって、今日はきっと忙しい。


 それでも置いていく気にはなれず、透明な袋に入れてから手提げ鞄へしまった。


 お姫様になったと話せば、いつものように褒めてもらえるだろうか。


 そう考えながら、鞄を抱えて玄関へ向かった。


     *


 高瀬家の玄関には、見慣れない段ボール箱がいくつも積まれていた。


 傘を畳んでいると、直人のお母さんが扉を開けてくれた。


「あら、小春ちゃん。いらっしゃい。雨の中、大変だったでしょう」


「こんにちは。お兄ちゃん、いますか?」


「いるわよ。二階で荷物を片づけてるから、呼んでくるわね」


 靴を脱いで上がると、廊下にも箱が並んでいた。いつも壁に掛かっていた絵はなくなり、居間の棚にあった花瓶も見当たらない。


 ガムテープを引き出す音が、奥の部屋から聞こえてくる。


 何度も遊びに来た家なのに、今日は知らない場所のようだった。


 階段の上で足音がした。


「母さん、さっきの箱って――あれ、小春?」


 直人が顔を出した。


 古いTシャツに短パン姿で、片手にはガムテープを持っている。小春を見つけると、少し驚いた顔をしてから笑いかけてくれた。


「どうした、こんな雨の日に」


 いつもと同じ声だった。


 その声を聞いたら、さっきまで考えていたことが全部どこかへ行ってしまった。


「お兄ちゃん、引っ越すの?」


 直人は階段を下りてきて、ガムテープを玄関の棚へ置いた。


「ああ……聞いたのか」


「お母さんが言ってた」


「そっか。ごめんな。俺からも話そうと思ってたんだけど」


「ほんとに行っちゃうの?」


「うん。父さんの仕事が急に決まってさ。来週には出ないといけないんだ」


 直人の後ろにも、段ボール箱が見えた。


 その一つには、黒い字で「直人 部屋」と書かれている。


「……行かないで」


 思わず口から出た言葉に、直人は困ったような顔をした。


 小春の前にしゃがみ、目の高さを合わせてくれる。


「俺も、ここの学校を離れるのは嫌なんだけどな。友達とも、なかなか会えなくなるし」


「じゃあ、行かなきゃいいのに」


「そういうわけにもいかないんだよ。父さんだけ向こうに行かせるわけにもいかないし」


 お父さんのお仕事が大事なことは知っている。


 自分のお父さんも毎日会社へ行くし、帰りが遅くなる日だってある。それでも、夜になれば同じ家へ帰ってくる。


 お兄ちゃんは、今度から違う家に帰るのだろうか。


「夏祭りの約束、守れなくなりそうでごめんな」


 直人の声が、少し小さくなった。


 小春は首を横に振った。


 謝ってほしいわけではなかった。いつもみたいに、来週も遊ぼうと言ってほしかった。


 けれど、目の前には引っ越しの荷物が積まれている。


 何も言えずにいると、直人が手提げ鞄へ目を向けた。


「それ、学校のやつ?」


 鞄の口から、透明な袋に入れた台本が覗いていた。


 小春は慌てて取り出した。


「秋の学芸会でやるの。わたし、お姫様の役になったんだよ」


「えっ、主役じゃん。すごいな、小春」


 直人が目を丸くした。


 思っていたとおりの反応だったので、少しだけ胸を張る。


「先生がね、台詞を大きな声で言えたからって」


「へえ。頑張ったんだな」


 台本を受け取った直人は、表紙を眺めてから何ページかめくった。


 小春はその手元を見ていた。


 いつもなら、衣装のことも、お友達の配役のことも、きっと全部話していた。けれど今日は、直人が台本を読んでくれているだけで嬉しかった。


「お兄ちゃん、王子様のところ、読んでくれる?」


「俺が?」


「うん。練習したいの」


 直人は一度、階段の上を見た。部屋の片づけがまだ途中なのだろう。


「……ちょっとだけでいいから」


 そう付け加えると、直人は台本を閉じて笑った。


「わかった。片づけの休憩にするか」


 おばさんに声をかけてから、二階へ案内してくれた。階段を上るとき、小春が後ろについてくるのを確かめるように、ときどき振り返ってくれる。


 その背中を見上げながら、今日は少しでも長く一緒にいられたらいいと思った。


     *


 直人の部屋は、前に来たときよりずいぶん広く感じられた。


 本棚は半分ほど空になり、机には教科書やノートが積まれている。壁に貼ってあったポスターも外され、四隅に小さなテープの跡だけが残っていた。


 窓際には、いつも小春が座っていた座布団がまだ二枚置いてある。


「そこなら座れるな。ちょっと待って」


 直人は床の箱を動かし、散らばっていた雑誌をまとめて場所を空けてくれた。


 向かい合って座ると、窓を打つ雨の音がよく聞こえた。直人は長い足を折りたたむのが窮屈そうで、片膝を立てたまま台本をめくっている。


「王子、王女、王様、大臣……結構いっぱい出るんだな」


「うん。でも、わたしと王子様が一番たくさん喋るの」


「主役って大変だな。台詞、もう覚えたのか?」


「半分くらい!」


「じゃあ、ちゃんと練習しないとな」


 小春は嬉しくなって、鉛筆で大きく丸をつけたページを開いた。


 お姫様が王子様に気持ちを伝える場面だ。


 劇の中では、隣り合う二つの国に王子様とお姫様がいる。二人は春のお祭りで出会い、何度も会ううちに仲良くなっていく。


 王子様がお姫様に花を渡したり、お姫様が王子様をお祭りに誘ったりする場面が、小春は好きだった。


 学校で練習したときには、王子様役の男の子を相手にしても、少しも恥ずかしくなかった。


 なのに、今日は台本を開いただけで顔が熱くなる。


「小春、どこから読むんだ?」


「ここ!」


 直人にページを示すと、台詞の場所を確認してくれた。


「お、告白するところか」


「そうだよ」


「じゃあ、俺は次の台詞だな」


 直人は台本を膝に載せ、小春が準備するのを待ってくれた。


 小春は立ち上がり、机の横にある少し広い場所へ移動する。


 先生には、台詞を言う相手の顔を見るように教わっていた。一度深呼吸をしてから直人のほうを向くと、覚えたはずの言葉がなかなか出てこない。


「……王子様」


「おう」


「お兄ちゃん、返事しないで!」


「あれ、まだ俺の台詞じゃないのか」


 直人が慌てて台本へ目を落としたので、思わず笑ってしまった。


「もう。ちゃんと読んでよ」


「悪い悪い。もう一回な」


 今度は直人も口を閉じて待ってくれた。


 小春は台本を持ち直し、もう一度顔を上げた。


「王子様。私は、あなたのことが大好きです」


 思ったより大きな声が出た。


 直人は一度、自分の台詞を確かめてから読み上げた。


「私も、あなたのことが大好きです」


 台本を持つ指に、きゅっと力が入った。


 お兄ちゃんが、好きだって。


 もちろん、劇の台詞だ。それでも、直人の声で聞くと、学校で練習したときとは全然違った。


「小春、次だぞ」


「あっ、うん!」


 慌ててページへ目を戻したけれど、次の台詞を一つ飛ばしてしまい、直人に教えてもらうことになった。


 それからしばらくは、二人で笑いながら練習を続けた。


 直人は王子様らしい話し方がよくわからないらしく、ときどき妙に低い声を出す。小春が笑うと直人まで笑ってしまうので、同じところを何度か読み直した。


「お兄ちゃん、もっと格好よく言ってよ」


「格好よくって、どうやって?」


「王子様みたいに!」


「それがわかんないんだって」


 困った顔をした直人が、今度は普通の声で台詞を読む。


 小春には、そちらのほうがずっと格好よく聞こえた。


 途中で直人が水を飲みに行き、戻ってくるまでの間、小春は一人で台詞を確かめた。廊下には段ボール箱が並び、階下からは荷物を動かす音が続いている。


 戻ってきた直人は、扉のそばに置いてあった箱を一つ動かしてから、再び座布団に腰を下ろした。


「さて、どこまでやったっけ」


「ここまで。次、最後のところ」


 ページを開いたところで、少し手が止まった。


 そこから先は、王子様がお姫様と別れる場面だった。


 王子様の国では、多くの人が困っている。王子様は国のみんなを助けるために帰らなければならず、お姫様にも自分の国で待っている人たちがいる。


 小春は、この結末があまり好きではなかった。


 初めて台本を読んだときも、どうして二人が一緒にいられないのか、先生に尋ねたことがある。先生は、王子様にもお姫様にも、それぞれ大切な役目があるからだと教えてくれた。


 そのときは、そういうお話なのだと思っていた。


「小春?」


 直人に呼ばれて、顔を上げた。


「続き、やるか?」


「……うん」


 直人も立ち上がり、机の横へ移動した。二人で向かい合うには少し狭く、直人が足元の箱を端へ寄せてくれる。


 学校の王子様役の男の子は、小春とほとんど同じ背丈だった。


 でも、直人はずっと大きい。


 台本を持ったまま見上げると、さっきまでのふざけた顔ではなく、続きを待ついつもの優しい顔があった。


「王子様。本当に、行ってしまわれるのですか?」


 直人は台本を見ながら答えた。


「私の国には、困っている人たちがたくさんいます。みんなが安心して暮らせるよう、私が帰らなくてはなりません」


 小春は次の台詞へ目を移した。


 けれど、なかなか声が出てこなかった。


 玄関で聞いた直人の言葉が、まだ耳に残っている。


 お父さんの仕事が決まったから、来週には引っ越さなければならない。


 小春は台本の端を握り直し、ようやく続きを読んだ。


「……私も、あなたと一緒にいたいです。でも、私の国にも、待っている人たちがいます」


 最後のほうで、声が小さくなってしまった。


 直人は急かさずに待ってくれた。小春が顔を上げると、次の台詞をゆっくり読み始めた。


「国のみんなが安心して暮らせるようになったら、私は必ずあなたのところへ戻ってきます」


 小春は直人を見つめた。


「だから、それまで待っていてください」


 窓の外では、雨が軒先を打っている。


 直人は台本から顔を上げ、小春の返事を待っていた。


 最後の行には、お姫様が王子様の言葉を信じて待つと書かれている。


「……ずっと、待っています」


 読み終えると、直人は台本を閉じた。


「お疲れ。最後、ちょっと声が小さくなったな」


 小春はまだ最後のページを開いたままだった。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「王子様、本当に戻ってくるのかな」


 直人は台本を覗き込んだ。


「どうだろうな。ここで終わりみたいだけど」


「戻ってくるって言ったよ」


「うん。だから、戻ってくるつもりなんだろうな」


 小春は最後のページをめくってみた。


 その先には、何も書かれていない。王子様が帰ってくるところも、お姫様と再会するところもなかった。


「……この二人、結婚したかったのかな」


 直人は少し考えた。


「好き同士なんだから、そうかもしれないな」


「だったら、結婚しちゃえばよかったのに」


「でも、王子には帰らなきゃいけない理由があるんだろ?」


 小春は唇を尖らせた。


 そんなことはわかっている。お姫様だって、王子様の国の人たちが困っているのを知っているから、最後には引き止めなかったのだ。


 それでも、二人が一緒にいられないところでお話が終わるのは嫌だった。


 直人は台本を重ね、机の上へ置いた。


「練習、よくできてたぞ。あとは最後の台詞をもう少し大きく言えたらいいな」


 小春が返事をする前に、直人は本棚の前へ戻った。残っていた本を何冊か抜き取り、机の上で大きさを揃えている。


 さっきまで王子様の台詞を読んでいたお兄ちゃんが、また引っ越しの準備を始めてしまった。


 小春は座布団の上に台本を置き、少し離れたところからその背中を見ていた。


 本が箱に入るたび、本棚の空いた場所が広くなっていく。


「ねえ、お兄ちゃん」


「ん?」


「お兄ちゃんも、戻ってくる?」


 直人の手が止まった。


 小春は座布団から立ち上がり、本棚のそばまで歩いた。


「お引っ越ししても、またここに来る?」


 直人は手に持っていた本を箱へ入れ、こちらを向いた。


「そうだな。休みのときに遊びに来られたらいいんだけど」


「……来年は?」


「それは、まだわかんないな。父さんの仕事もあるし」


 答えながら、直人は少し困った顔をした。


 小春はそれ以上聞けなくなった。


 机の上には、二人で使った台本が重ねられている。雨の日に持ってきた鞄も、窓際の座布団も、さっきと同じ場所にあるのに、この部屋だけがどんどん片づいていく。


 直人が次の本を取ろうとしたとき、そばへ近づいてTシャツの裾をつまんだ。


「お兄ちゃん」


「どうした?」


「……わたし、お兄ちゃんが好き」


 直人は少し驚いた顔をしたあと、笑った。


「知ってるよ。小春、昔から俺について回ってたもんな」


 小春は頬を膨らませた。


 そういうことじゃないのに。


 でも、どう言えばわかってもらえるのか、自分でもよくわからなかった。


 さっきは、お姫様の台詞を読むだけで胸がどきどきした。直人が大好きだと返してくれたときには、同じところをもう一度練習したくなった。


 今は台本も閉じている。それでも、まだ帰りたくなかった。


「わたしね、大きくなったら、お兄ちゃんのお嫁さんになりたい」


「えっ、お嫁さん?」


 直人が目を丸くした。


 小春は真剣に頷いた。


「うん」


「小春、まだ八歳だろ。ずいぶん先の話だな」


「すぐ大きくなるもん」


 来年になれば九歳になるし、その次には十歳だ。


 お兄ちゃんと同じ高校生になるには、まだ時間がかかる。それでも、いつまでも八歳のままではない。


 小春は直人を見上げた。


 夏祭りの日、どうしても手が届かなかった木の枝を思い出す。あのときは直人に風船を取ってもらったけれど、もっと背が伸びたら自分で取れるようになるかもしれない。


 遠くの町へ行くことだって、一人でできるようになるかもしれない。


 直人は小春の顔を見てから、抱えていた本を箱へ入れた。そしてしゃがんで、目の高さを合わせてくれた。


 Tシャツの裾をつまんでいた手を離すと、指先が少し汗ばんでいた。


「大きくなったら、わたしをお嫁さんにしてね」


 直人はしばらく小春を見ていた。


 窓の外では雨が降り続き、階下からは荷物を動かす音が聞こえている。


 返事がなかなか来ないので、もう一度お願いしようかと思ったところで、直人がふっと笑った。


「大きくなったらな」


「ほんと?」


「ああ」


「約束?」


 直人は小春の顔を見て、少し笑みを深くした。


 それから、自分の小指を差し出してくれた。


「ほら」


 小春は急いでその指に自分の小指を絡めた。


 直人の指は長く、小春がいつものように指切りをしようとすると、少し手が持ち上がってしまう。直人は小春に合わせて指を曲げ、歌が終わるまで待ってくれた。


 小春は、最後までしっかり歌った。


「これでいいか?」


 直人が尋ねる。


「うん!」


 頭を軽く撫でてもらい、少し照れくさくなった。


 直人は立ち上がると、また本棚の前へ戻った。小春はその隣へ行き、机の上に残っているノートを指さした。


「お兄ちゃん、わたしもお手伝いする」


「え、いいのか?」


「うん。軽いのなら持てるよ」


 直人は少し考えてから、蓋の開いた箱を一つ示した。


「じゃあ、そのノートを入れてくれる? 教科書は重いから、俺がやるよ」


 小春は両手でノートを持ち、言われた箱へ運んだ。


 何冊か重ねると、箱の底が見えなくなった。直人は隣で教科書をまとめ、ときどき小春に次のノートを渡してくれる。


 途中で一冊落としてしまったが、直人は怒らなかった。代わりに「傷ついてないか?」と聞いてきたので、小春は拾い上げたノートの角を確かめてから箱へ入れた。


 机の上が空になる頃には、雨も少し弱くなっていた。


 直人が段ボール箱の蓋を折りたたみ、ガムテープを引き出す。小春は箱の上を押さえる役を頼まれ、両手でしっかり押さえた。


「よし、助かった。ありがとうな」


 そう言われると、嬉しくなった。


 部屋の隅には、まだ片づけなければならないものが残っている。小春が次の箱を引き寄せると、直人も笑いながら隣にしゃがんだ。


 今日は、帰る時間になるまで手伝うつもりだった。


     *


 それからの一週間は、思っていたより早く過ぎていった。


 小春は何度か直人の家を訪ねたが、毎日会えるわけではなかった。荷造りもあったし、直人には学校の友達と会う約束もあった。


 顔を見せれば声をかけてくれたけれど、以前のように長く遊べる日は少なかった。


 台本は、自分の部屋でも練習した。


 王子様とお姫様が別れる最後の場面だけは、どうしても声が小さくなってしまう。先生からは大きな声で言うように教わっていたので、何度も読み直した。


 高瀬家へ行くたびに、直人の部屋から物がなくなっていった。


 机の上に積まれていた本は箱に入り、床の漫画も片づいた。最後には、窓際の座布団までしまわれてしまった。


 引っ越しの日は、朝からよく晴れていた。


 高瀬家の前には大きなトラックが止まり、玄関から段ボール箱が次々に運び出されていた。いつも居間の窓に掛かっていたカーテンはなくなり、開け放した玄関から家の奥まで見える。


 門のそばには小春のお母さんも来ていた。


 大人たちが挨拶を交わす間、小春は玄関を見つめていた。誰かが出てくるたびに顔を上げるけれど、なかなか直人の姿は見えなかった。


 やがて、聞き慣れた足音がした。


「小春」


 直人が玄関から出てきた。


 肩にはいつもの鞄を掛けている。夏祭りの日と似た格好だったけれど、今日は家の前にトラックがあり、玄関の中もがらんとしていた。


「来てくれたのか。ありがとうな」


 直人はいつものように笑いかけてくれた。


 小春も笑おうとしたけれど、なかなか口元が動かなかった。


「……もう行くの?」


「うん。そろそろ出るみたい」


 直人は家のほうを振り返り、お父さんたちの様子を確かめた。小春はその横顔を見ながら、肩に掛けた鞄のことを考えていた。


 学校へ行くときも、ちょっと出かけるときも、よく使っていた鞄だ。


 でも、今日はその鞄を持って、遠くの町へ行ってしまう。


 向こうには新しい学校がある。


 お兄ちゃんは、そこで新しい友達を作るのだろう。小春の知らない人たちと話して、一緒に遊んで、いつか向こうの夏祭りにも行くかもしれない。


 自分は、その中にいられない。


 小春は直人の鞄から目を離し、顔を見上げた。


「お兄ちゃん、新しいお友達ができても、わたしのこと忘れない?」


 直人は一瞬、きょとんとした。


「なんで忘れるんだよ」


「だって……向こうでも、いっぱい遊ぶでしょ?」


「そりゃ遊ぶだろうけど、だからって小春を忘れるわけないだろ」


 少しかがんで、小春の顔を覗き込む。


「今まで何回うちに遊びに来たと思ってるんだよ。小春みたいにしょっちゅう来るやつ、なかなかいないぞ」


「……うるさかった?」


「まあ、ちょっとな」


 直人が笑ったので、つい頬を膨らませてしまった。


「うるさくないもん!」


「ははっ。そういうところだよ」


 いつもどおりに笑うお兄ちゃんを見ていると、少しだけ声が出しやすくなった。


 今度の学校には知らない友達がたくさんできても、直人は自分のことを覚えていてくれるらしい。


 小春は、もう一つ聞きたかったことを口にした。


「……じゃあ、わたしのお姫様、見に来てくれる?」


 学芸会では白いドレスのような衣装を着るのだと、先生が話していた。まだ本物は見ていないけれど、小春はそれを直人に見せるのを楽しみにしていた。


「秋になったら、学芸会があるんだよ。お兄ちゃんに見てほしいの」


 直人は少し困ったように眉を下げた。


「ごめんな。秋はちょっと難しいと思う」


「……そっか」


 直人の返事を聞いて、視線を落とした。


 学校の舞台でお姫様になっても、客席にお兄ちゃんはいない。


 夏休みの間に覚えた台詞も、二人で笑いながら練習したところも、直人には見てもらえないのだ。


「でも、主役なんだろ?」


 直人が続けた。


「頑張って練習したんだから、きっとちゃんとできるって。思いっきりやってこいよ」


 小春は顔を上げた。


 直人は自分のことのように楽しそうな顔をしている。今から学芸会の話をするときも、少しも面倒そうにはしなかった。


「……うん。わたし、頑張る」


「ああ。楽しんでこいよ」


 そのとき、直人のお父さんが車の準備を終え、家族を呼んだ。


 直人が返事をして、肩の鞄を掛け直す。


 その動きを見た途端、小春はTシャツの裾をつかんでいた。


「……お兄ちゃん」


 直人はしゃがみ、小春と目を合わせてくれた。


 こんなふうに顔を近づけてくれるのも、今日が最後かもしれない。


 小春は握った服を離せずにいた。


「わたし、大きくなるからね」


 直人が少し驚いたように目を瞬かせた。


「ん?」


「すぐには無理だけど、ちゃんと大きくなるから」


 言い終わる前に声が震えた。


 顔を下げると、涙が頬に落ちた。慌てて目元をこすったけれど、何度拭いても濡れてしまう。


 直人は何も言わずに、小春の頭へ手を置いた。


「うん。元気でな、小春」


 その声を聞いた途端、こらえきれなくなった。


 小春は直人の胸に顔を押しつけた。


 Tシャツからは、少し汗の匂いがした。朝からずっと荷物を運んでいたのだろう。しがみつくと、直人は姿勢を崩さないように膝をつき直し、背中をゆっくり撫でてくれた。


 近くでトラックの扉が閉まる音がした。運転手の人が何かを確認する声に、直人のお父さんが返事をしている。


 直人の手は、急かすことなく背中を撫でてくれていた。


 小春はその手を感じながら、顔を上げるきっかけを探していた。ずっとこうしていたかったけれど、周りでは出発の準備が進んでいる。


 やがて顔を上げると、直人のTシャツの胸元に、小さな濡れた跡ができていた。


「……ごめんなさい」


「何が?」


「服、濡らしちゃった」


 直人は自分の胸元を見て、少し笑った。


「こんなの、すぐ乾くよ」


 その笑い方がいつもどおりだったので、小春も少しだけ笑えた。


 直人は立ち上がり、鞄を肩に掛け直した。車のそばではお父さんが待っていて、お母さんも最後の挨拶を終えたところだった。


 もう、出発する時間だった。


 小春は直人の後ろを追って、門のところまで歩いた。


 そこから先へ行けば、直人は車に乗ってしまう。小春は足を止めたまま、少しずつ離れていく背中を見つめた。


 もう少し一緒にいてほしかった。


 けれど、直人がお父さんとお母さんのところへ向かうのを、もう一度引き止めることはできなかった。


 直人が車の扉に手を掛けたとき、小春は思いきり息を吸った。


「お兄ちゃん!」


 振り返った直人に向かって、精いっぱい大きな声を出す。


「行ってらっしゃい!」


 直人は一瞬、目を丸くした。


 それから、いつものように笑った。


「おう。行ってきます」


 直人は後部座席へ乗り込み、窓を開けてくれた。


 小春は門の前から、その窓を見つめていた。車の中では直人のお母さんが何か話しかけていて、直人も返事をしている。


 エンジンがかかり、車がゆっくりと動き始めた。


 直人が窓から手を振る。


 小春も両手を上げ、できるだけ大きく振り返した。


 車は少しずつ遠ざかっていった。角を曲がる手前で直人がもう一度手を振ったので、小春は背伸びをして、その手が見えなくなるまで振り続けた。


 やがて車は角を曲がり、道路の向こうへ消えた。


 トラックが後を追って走り去ると、高瀬家の前は急に静かになった。


 どこかの庭から蝉の声が聞こえる。夏の日差しは相変わらず強く、雨上がりの道はもうすっかり乾いていた。


 小春は門の前に立ったまま、車が曲がった角を見つめていた。


 もう一度、あそこから戻ってこないだろうか。


 しばらく待ってみたけれど、道路を通るのは知らない車ばかりだった。


 隣にお母さんが来て、そっと肩に手を置いてくれた。


「小春、そろそろ帰ろうか」


 頷いてから、ようやく両手を下ろした。


 振り続けていたせいで、指先が少し痛い。


 右手を握ると、曲げた小指が手のひらに触れた。


 お母さんが差し出してくれた手を、左手でつかんだ。


 来た道を二人で歩き始め、家の角まで来たところで、一度だけ振り返った。


 高瀬家の玄関は閉まり、窓の向こうにはもうカーテンもない。


 いつもなら手を振ってくれるお兄ちゃんの姿も、そこにはなかった。


 小春はお母さんの手を握り直し、ゆっくりと歩き続けた。

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