第1話 お兄ちゃんと夏祭り
鏡の中には、いつもより少しだけお姉さんになった自分がいた。
宮原小春は浴衣の袖を広げ、右を向いたり左を向いたりしていた。薄い水色の生地には小さな白い花が咲いていて、動くたびに帯の結び目が背中に当たる。髪もお母さんに結んでもらい、耳の上には花の飾りまでつけてもらった。
小学三年生になった今年の夏、小春は八歳になった。去年より背も伸びたし、一人でできることも増えている。だから今日は、去年とは違うところを見せたかった。
「お母さん、これ、変じゃない?」
「変じゃないわよ。よく似合ってる」
「後ろも?」
「後ろも大丈夫。ほら、動かないで」
お母さんが帯の結び目を直してくれる。少し引っ張られると、お腹の辺りがきゅっと締まった。
ちょっと苦しい。でも、今日は我慢できる。
これから大好きなお兄ちゃんと、夏祭りに行くのだから。
お兄ちゃん――高瀬直人は、近所に住んでいる十六歳の高校生だ。小春が小さい頃から一緒に遊んでくれて、困ったことがあれば助けてくれる。小春よりずっと背が高くて、知らないことを聞けば大抵は教えてくれる、頼もしいお兄ちゃんだった。
今日の浴衣も、直人に見せたくて選んだものだ。
学校のお友達が、好きな男の子と会うときはかわいくするのだと教えてくれた。小春だって、そんなことくらい知っている。
いつものTシャツと半ズボンではなく、今日はちゃんと浴衣を着た。髪だって、いつもより時間をかけて結んでもらっている。
きっと、お兄ちゃんもびっくりするはずだ。
そんなことを考えていたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
「あっ、お兄ちゃん!」
「小春、走らないの!」
お母さんに注意され、廊下へ飛び出しかけた足を慌てて止めた。玄関で下駄を履くのにもたついていると、外から聞き慣れた声がする。
「こんばんはー」
扉を開けると、直人が立っていた。
いつものTシャツにジーンズ姿で、肩には小さな鞄を掛けている。小春がこんなに頑張っておしゃれをしたのに、直人は普段とほとんど変わらない格好だった。
「おう、小春。準備できたか?」
「うん!」
小春は一歩下がり、両手で浴衣の袖を広げた。
直人の視線が髪飾りから浴衣へと移っていく。小春は背筋を伸ばした。お母さんに何度も直してもらった帯も、白い花の模様も、ちゃんと見てほしかった。
「お、いいじゃん。似合ってるな」
「ほんと?」
「ああ。かわいいぞ」
小春は袖を広げたまま固まった。
かわいい。
お兄ちゃんが、かわいいって言ってくれた。
嬉しくて、思わず笑いそうになる。けれど、そんな顔を見せるのは少し恥ずかしかったので、小春はわざと澄ました顔をしてみた。
「……知ってるもん」
「なんだよ。じゃあ聞くなよ」
直人がおかしそうに笑う。
昨日、お母さんと一緒に浴衣を選んでよかった。髪を結んでもらっている間、じっとしていたのも無駄ではなかったらしい。
ところが、直人はすぐに小春の足元へ目を向けた。
「それ、ちゃんと歩けるか?」
「歩けるよ!」
「下駄、慣れてないだろ。鼻緒が痛くなったら言えよ」
「大丈夫だもん」
「帰りに足が痛いって泣くなよ?」
「泣かないもん!」
せっかくかわいいと言ってくれたのに、どうしてすぐそういうことを言うんだろう。
小春が頬を膨らませていると、お母さんが玄関へ出てきた。
「直人くん、今日はお願いね。九時までには帰ってきてちょうだい」
「はい。わかりました」
「この子、楽しくなると周りが見えなくなるから」
「もう三年生だよ!」
小春が抗議すると、直人は笑いながらこちらを見下ろした。
「じゃあ、三年生のお嬢さん。行きますか」
そう言って、大きな手を差し出してくれる。
小春はその手を見つめた。
本当は、すぐに握りたかった。でも、お母さんの前で手を引いてもらうのは、小さい子みたいで恥ずかしい。
「わたし、一人で歩けるもん」
「そっか。じゃあ行こう」
直人はあっさり手を引っ込め、門のほうへ歩き出した。
小春は慌てて後を追いかけた。
もう、お兄ちゃんのばか。
それでも、二人で並んで歩き始めると、足取りは自然に軽くなった。まだ明るさの残る通りの向こうから、祭り囃子が聞こえてくる。
今夜は、直人と二人きりだ。
それだけで、小春には特別な一日だった。
神社へ続く道には、赤い提灯がずらりと並んでいた。
いつもは静かな通りに屋台がぎっしり並び、焼きそばのソースの匂いや甘い綿あめの匂いが混ざっている。色とりどりのお面を売る店には子供たちが集まり、その向こうでは金魚すくいの水槽がきらきら光っていた。
小春は何から見ようか迷ってしまった。
金魚も見たいし、綿あめも食べたい。去年は一つも取れなかった輪投げにも挑戦したかった。
神社の入口には、八時から花火が上がると書かれた大きな紙が貼ってある。小春がそれを読んでいる間に、直人は近くのたこ焼き屋へ目を向けていた。
「小春、たこ焼き食うか?」
「お兄ちゃん、さっきおやつ食べてなかった?」
「祭りのたこ焼きは別だろ」
「そうなの?」
「そういうもんなんだよ」
直人があまりに真剣な顔で言うので、小春は笑ってしまった。
高校生になると、おやつを食べてもたこ焼きが入るお腹になるのだろうか。小春にはよくわからなかったけれど、直人が嬉しそうなので、一緒にお店へ向かうことにした。
境内へ入ると、人の数がぐっと増えた。
小春の目の高さでは、大人たちの背中ばかりが見える。少し離れた屋台を覗こうとしても、誰かが前を通るたびに隠れてしまった。直人にはその向こうまで見えているらしく、歩きながら屋台の看板を探している。
小春は浴衣の裾を気にしながら、人の隙間から金魚の水槽を覗こうとした。
そのとき、前を歩いていた人たちが急に足を止めた。
後ろから来た人を避けようと横へ動いた拍子に、下駄の先が石畳の継ぎ目に引っ掛かる。
「わっ……!」
身体が傾いた。
慌てて足を出そうとしても、浴衣の裾が邪魔をしてうまく動けない。地面が近づいたと思った瞬間、腰の辺りをしっかりした腕が支えた。
「おっと。大丈夫か?」
身体が横へ引き寄せられ、気がつくと直人のすぐ隣に立っていた。
直人は小春を支えたまま、自分の身体を人の流れとの間に入れている。さっきまで目の前にあった大人たちの足は、もう直人の向こう側だった。
「どっかぶつけた?」
小春は首を横に振った。
「……ううん」
「よかった。ここ、足元がちょっと悪いな」
直人は石畳を一度確かめると、小春の身体からそっと腕を離した。
何でもなかったように、再びたこ焼きの屋台を探し始める。
けれど、小春はすぐには歩き出せなかった。
さっき身体を支えてくれた腕が、思っていたよりずっと力強かったのだ。
小春は自分の腕を見下ろした。
直人の腕は、これより何倍も太い。転びそうになった自分を、片腕で支えてしまった。
「小春?」
呼ばれて顔を上げると、直人が少し先で待っていた。
「こっち歩こう。人が多いから」
直人は小春を屋台のある側へ寄せ、自分は人が行き交う側に立った。
小春はそのTシャツの袖をつまんだ。
直人が振り返る。
「どうした?」
「……手、つないで?」
「ああ、そうだな。はぐれたら大変だし」
大きな手が差し出される。
小春は、今度は迷わず握った。
直人の指は長くて、小春の手なんてすっぽり包んでしまう。歩き出してから、そっと握る力を強めてみた。
すると、直人も握り返してくれた。
嬉しくなって顔を上げる。
でも、直人はちょうど目当ての屋台を見つけたところで、看板を眺めていた。
「よし、あそこにしよう。結構並んでるな」
お兄ちゃんは、たこ焼きのことしか考えていないらしい。
小春は少しだけ頬を膨らませたけれど、つないだ手を離すつもりはなかった。
結局、直人は念願のたこ焼きを買い、小春は大きな綿あめを買ってもらった。
たこ焼きは焼きたてで、直人は一つ口に入れるなり、慌てて息を吸い込んでいた。
「熱っ……!」
「お兄ちゃん、ふーふーしないからだよ」
「わかってる。わかってるけど、腹減ってたんだよ」
「子供みたい」
「小春に言われたくないな」
そう言いながら、次の一つはずいぶん慎重に冷ましている。
小春はその様子がおかしくて、綿あめを食べながら笑ってしまった。直人は少し悔しそうだったけれど、小春が綿あめを分けてあげると、甘すぎると言いながらも食べてくれた。
そのあと、二人は輪投げの屋台に立ち寄った。
小春は三回とも外してしまった。最後の輪は景品のすぐ手前で跳ねたので、余計に悔しい。
直人が代わりに挑戦すると言い出したときには、きっと何か取ってくれると思った。直人は高校生だし、小春よりずっと背も高いのだから。
ところが、一つ目は景品の横を通り過ぎ、二つ目も外れた。三つ目は台に当たって、ころころと手前へ転がってきた。
「……おかしいな」
直人は首を傾げ、景品の並んだ台を見つめている。
小春はとうとう我慢できなくなった。
「お兄ちゃん、下手っぴ!」
「昔はもうちょっと上手かったんだけどな」
「ほんとに?」
「……たぶん」
小春が笑い続けていると、直人は少しむきになって、もう一度景品を振り返った。けれど、結局は肩をすくめて歩き出す。
その背中を追いかけながら、小春はまだ笑っていた。
さっきはあんなに頼もしかったのに、輪投げでは小春と同じように失敗する。
直人が悔しがるところを見るのは、なんだか面白かった。
そのとき、屋台の向こうに浮かぶ色とりどりの風船が目に入った。
赤、黄色、ピンク。どれも丸く膨らんでいて、提灯の明かりを受けてつやつや光っている。
その中に、一つだけどうしても欲しい風船があった。
空みたいな青い風船。
白い雲の絵が描かれていて、ほかの風船より少しだけ涼しそうに見える。
小春は直人の袖を引いた。
「お兄ちゃん、あれ!」
「ん? 風船か」
「青いやつ!」
直人は小春の指さす先を見て、財布を取り出そうとした。
けれど、小春は慌てて止めた。
「自分で買う!」
「お、そうか」
「お小遣い、まだあるもん」
小春は巾着から財布を取り出し、残った小銭を数えた。
風船を買えば、もう大きなものは買えなくなる。
それでも構わなかった。
お店のおじさんにお金を渡し、自分で青い風船を選ぶ。長い紐を手渡されると、風船は小春の頭よりずっと高いところへ浮かび上がった。
見上げると、白い雲の絵が本物の空に浮かんでいるようだった。
小春は紐を引いて、風船を近づけてみた。少し緩めると、また上へ上がっていく。
面白くて何度か繰り返していると、直人が隣から覗き込んだ。
「いいの買ったな。なくすなよ」
「大丈夫!」
小春は得意になって、風船を高く掲げた。
そのときだった。
屋台の間を抜けてきた風が、ふいに風船を大きく揺らした。
「あっ!」
紐が指の間を滑り抜ける。
慌ててつかもうとしたけれど、指先は空を切った。青い風船はふわりと浮かび上がり、屋台の脇に生えていた木へ流されていく。
空へ飛んでいってしまう。
そう思って息を呑んだが、長い紐が枝に引っ掛かった。
風船は葉っぱの間で揺れている。
小春はすぐに木の下へ駆け寄った。
紐は見えていた。手を伸ばせば届きそうなところにある。
けれど、背伸びをしても指先が触れない。下駄のまま跳んでみると、着地した拍子に足がぐらついた。それでも諦めきれず、もう一度、今度は思いきり手を伸ばしてみる。
やっぱり届かなかった。
青い風船は、すぐそこにあるのに。
小春は唇を噛んだ。
せっかく、自分のお小遣いで買ったのだ。
もう少ししっかり紐を握っていればよかった。おじさんから手渡されたときには、絶対に離さないつもりだったのに。
「小春?」
背後から声がした。
振り返ると、直人が立っていた。
小春は木の枝を指さした。
「……風船が、引っ掛かっちゃった」
「ああ、あそこか」
直人は枝を見上げ、それから小春の足元へ目を向けた。
「下駄で跳ねたら危ないぞ。ちょっとどいてな」
小春が木の下から離れると、直人は枝へ手を伸ばした。
小春にはどうしても届かなかった紐に、その指先が掛かる。直人は少しだけ背伸びをし、枝に絡まったところを丁寧にほどいていった。
葉っぱがかさりと揺れ、青い風船がゆっくり下りてくる。
「ほら、取れたぞ」
差し出された風船を、小春は両手で受け取った。
「すごい!」
「いや、そんな大したことじゃないだろ」
「すごいよ! わたし、ぜんぜん届かなかったのに!」
「そりゃ、身長が違うからな」
直人は笑っている。
小春は風船を胸の前に抱えたまま、その顔を見上げた。
さっきまで、あんなに遠かった枝。
何度跳んでも届かなかった紐。
直人は、それをあっという間に取ってしまった。
「お兄ちゃんって、かっこいいね」
思ったまま口にすると、直人は少し驚いたようだった。
「風船取っただけだぞ?」
「でも、かっこいいもん」
「そりゃどうも」
直人は照れくさそうに笑い、小春の頭をぽんと撫でた。
大きな手が髪の上を通る。
嬉しくて、少しくすぐったい。
小春はその手が離れていくのを見送り、そっと背伸びをしてみた。直人の肩には、まだまだ届きそうもない。
もし同じくらい背が高かったら、あの風船も自分で取れただろうか。
「何してんだ?」
「なんでもない!」
直人は不思議そうに笑った。
それから風船の紐を受け取り、先のほうに小さな輪を作る。手を出すように言われて差し出すと、直人は小春の手首に輪を通し、結び目を確かめた。
「これなら飛んでいかないだろ」
小春は手首を高く掲げてみた。
青い風船が頭の上でふわふわ揺れる。少しくらい紐を引っ張っても、手首の輪は抜けなかった。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「今度は気をつけろよ。もっと高い木だったら、俺にも届かないからな」
「お兄ちゃんなら取れるよ」
「買いかぶりすぎだって」
直人はそう言って笑った。
小春はもう一度、さっき風船が引っ掛かっていた枝を見上げた。
自分も早く、あの高さに手が届くようになりたい。
いつか直人と同じくらい大きくなれたら、今度は自分で風船を取ってみせよう。
そんなことを考えながら、直人の隣へ戻った。
境内が急に賑やかになったのは、それからしばらくしてのことだった。
太鼓の音がやみ、人々が空を見上げたり、境内の奥へ歩いていったりしている。小春が首を傾げていると、直人が神社の入口を指さした。
「そろそろ花火だな」
小春は、さっき見かけた案内のことを思い出した。
八時からの花火。
すっかり忘れていたけれど、今夜のお祭りには、それもあるのだった。
「お兄ちゃん、花火見よう!」
「もちろん。そのつもりで来たんだし」
境内の奥には、空を見上げる人たちが集まっていた。
小春の背では、前の人たちが立っていると花火が見えそうにない。直人もそれに気づいたのか、少し離れた石段のほうへ歩いていった。
そこには屋台がなく、人の数も少なかった。
神社の屋根の向こうに、暗い空が大きく広がっている。
「ここなら見えそうだな」
直人が石段に腰を下ろしたので、小春も隣に座った。
下駄を脱ぐと、足の指が少し楽になった。いつの間にか鼻緒の当たっていたところが赤くなっている。
「やっぱり痛かったか」
直人が気づいて、少し呆れた顔をした。
「ちょっとだけだもん」
「だから言えって言っただろ」
「だって、まだ遊びたかったんだもん」
「もう。無理するなよ」
言いながら、直人は鞄からペットボトルのお茶を出してくれた。
小春はお礼を言って受け取り、冷たいお茶を飲んだ。歩き回っていたせいか、思っていたより喉が渇いている。飲み終える頃には、直人も隣で足を伸ばしていた。
小春はその靴を見た。
自分の下駄と並ぶと、ずいぶん大きい。直人の足なら、屋台の前で人に囲まれても、あんなに苦労しないのかもしれない。
試しに自分の足を伸ばしてみたけれど、直人の靴の先には到底届かなかった。
小春がもう少し足を伸ばそうとしていると、遠くで乾いた音がした。
続いて、夜空に大きな花が開く。
「わあっ!」
思わず立ち上がりかけた小春を、直人が笑いながら見上げた。
「始まったな」
赤い光が広がり、少し遅れてお腹の奥まで響くような音が届いた。
次は金色。
その次は緑色。
光の粒が空いっぱいに広がり、ゆっくりと落ちていく。小春は夢中になって見上げていた。近くの子供たちが歓声を上げ、大人たちも次の花火が上がるたびに空を指さしている。
夜空は、さっきまで真っ暗だったのに、花火が開くたびに違う色へ変わった。
小春は自分の手首に結ばれた風船を引き寄せた。
青い風船の表面にも、花火の光が映っている。赤い花火が上がると赤く、金色の花火が上がると金色に光った。
おかしくなって、そっと直人に見せようとしたときだった。
ひときわ大きな花火が、夜空いっぱいに開いた。
金色の光が幾重にも重なり、枝を広げた大きな木のように見えた。光の粒が降りてくる間、周りの歓声が少し遠くなったような気がした。
その隣で、直人がぽつりとつぶやいた。
「……きれいだな」
小春は思わず直人を見た。
直人は空を見上げたままだった。
花火のことを言ったのだと、ちゃんとわかっている。
それなのに、一瞬だけ、自分に言ってもらったみたいな気がして、顔が熱くなった。
直人の横顔が金色に照らされ、すぐに暗くなる。
小春は慌てて空へ目を戻した。
ちょうど次の花火が上がったところだった。大きな青い光が広がり、境内の人たちが一斉に声を上げる。
小春も声を出そうとしたけれど、うまく出てこなかった。
代わりに、膝の上で浴衣の袖を握った。
少ししてから、そっと隣を見る。
直人は相変わらず楽しそうに花火を眺めていた。小春が見ていることには、ちっとも気づいていない。
もう一度、花火へ目を戻す。
さっきの言葉が、まだ耳に残っていた。
家の鏡の前で浴衣を見せたとき、直人はかわいいと言ってくれた。
今度は、きれいって。
……言ってもらえたら、どんな気持ちになるんだろう。
「小春、見ろ。あれ、すごいぞ」
直人が空を指さした。
小春が顔を上げると、いくつもの花火が重なって咲いた。赤と金色の光が広がり、空からゆっくり降ってくる。
小春は思わず笑った。
「すごいね、お兄ちゃん!」
「ああ。今日は当たりだな」
直人の声は、いつもと変わらなかった。
小春もいつものように返事をして、また空を見上げた。
けれど、花火が一つ上がるたび、隣の直人が何を言うのか少し気になった。
花火はしばらく続いた。
最後には、数えきれないほどの光が夜空いっぱいに広がり、神社の屋根まで明るく照らした。大きな音が何度も重なり、胸の奥まで震えるようだった。
やがて最後の光が消えると、空には白い煙だけが残った。
周りから拍手が起こる。
小春も夢中になって手を叩いた。隣では直人が笑っていて、小春はその顔を見た途端、また少し嬉しくなった。
花火が終わっても、すぐには立ち上がりたくなかった。
さっきまで光でいっぱいだった空は、もう暗くなっている。人々が帰り始め、石段の前にも少しずつ静けさが戻ってきた。
小春は青い風船を引き寄せた。
手首には、直人が結んでくれた紐がしっかり掛かっている。
「お兄ちゃん」
直人は鞄に飲み物をしまいながら、顔を上げた。
「どうした?」
「来年も、一緒に花火見ようね」
直人は少し笑った。
「ああ、いいぞ。また来よう」
「ほんと?」
「ほんとだって」
小春は嬉しくなって、風船を高く持ち上げた。
来年は四年生だ。
今よりもっと背が伸びているかもしれない。浴衣だって、もっと上手に着られるようになっているはずだ。
直人は立ち上がり、石段の下に置いていた小春の下駄を揃えてくれた。
小春も立ち上がり、浴衣の裾を整える。
足の指は少し痛かったけれど、直人がそばで待っていてくれたので、慌てずに履くことができた。
神社の鳥居をくぐる頃には、帰り道にも人が増えていた。
提灯の灯りはまだ明るく、屋台からは楽しそうな声が聞こえてくる。小春は名残惜しく振り返ったけれど、直人は約束の時間に遅れないよう、人の少ない道を選んで歩き始めた。
小春もその隣に並ぶ。
さっきまで賑やかだった祭り囃子が、少しずつ遠くなっていく。
神社を離れると、通りにはいつもの家々が並んでいた。夕方はまだ明るかった塀も、今は街灯に照らされて白く浮かんでいる。庭木の陰から虫の声が聞こえ、下駄が地面に当たる音がよく響いた。
直人は小春の足元を一度見て、歩く速さを緩めた。
小春はその横顔を見上げた。
祭りの間、直人はいろんなことをしてくれた。
でも、帰り道では特に何も言わない。ただ小春が遅れないくらいの速さで、隣を歩いている。
小春が少し歩幅を大きくすると、直人もそれに合わせてくれた。
何度か試してみたけれど、結局、小春のほうが先に疲れてしまった。
やっぱり、お兄ちゃんの足は長い。
小春は浴衣の裾を押さえ、普段の歩き方に戻した。
直人も、何も言わずにゆっくり歩いてくれる。
道の向こうには、家々の明かりが見えてきた。
お祭りが終わってしまうのは残念だったけれど、今日はとても楽しかった。
小春は手首につながれた青い風船を見上げた。
白い雲の絵が、街灯の下を通るたびに明るく浮かび上がる。
風が吹いても、紐はもう飛んでいかない。
小春は空いているほうの手を、そっと直人へ伸ばした。
直人が気づいて、その手を握ってくれる。
大きくて、温かい手だった。
小春は隣を見上げた。
直人は前を向いたまま歩いている。小春が見上げていることにも気づかないらしく、ときどき道の先を確かめながら、歩く速さを合わせてくれた。
小春は、つないだ手に少しだけ力を込めた。
今度は、直人も握り返してくれた。
青い風船が夜風に揺れ、二人の影が街灯の下で長く伸びる。
小春は風船を持つ手を高く掲げてから、直人の隣をゆっくり歩いた。




