第3話 明日の雨
待宵堂の棚の奥に、真空管ラジオが一台あった。
質札の日付は、もう何年も前だった。持ち主は、気象台に勤めていた老人だった。期限が過ぎても受け出しはなく、品は店のものになった。何年かして、親戚だという男が一度だけ訪ねてきた。老人は亡くなった、とだけ言って、ラジオには触れずに帰った。
老人がラジオを持ってきたのは、春の終わりだった。箱を両手で抱えて店に入り、カウンターの上に静かに置いた。店主は質札を書いた。老人はそれを見ていた。帰り際、戸口で一度だけ振り返り、ラジオを見た。それから店を出た。天気の話を少しだけした。明日は崩れる、と言った。翌日、本当に雨が降った。
その後も、老人は何度か更新に来た。期限の少し前に来て、料金を払い、ラジオを見て帰った。三か月が過ぎ、また三か月が過ぎた。最後の更新のあと、老人は来なくなった。帳簿の隅に、老人の住所と名前が残っている。店主はそれを見ることがある。訪ねたことは、なかった。
それからも、ラジオを買う客はなかった。真空管は切れかけていた。箱の角には小さな傷があった。棚の品を並べ替えるたび、店主はそれを一番奥に戻した。捨てることも、表に出すこともなかった。
何年か前、電気屋に一度だけ見せたことがあった。真空管は寿命だと言われた。直す客も、もういない型だった。店主はそのまま持ち帰り、棚に戻した。
埃を払うときだけ、手に取った。重くも軽くもなかった。ただ古い品の重さだった。店主は布で箱を拭き、元の場所へ戻した。
その日は、朝から客がなかった。
店主はいつもどおりに店を開けた。雨戸を開け、表の掃除をして、軒下の品を並べた。水を打った表土が、すぐに乾いた。それから店に戻り、帳簿を開いた。
午前中、通りを何人か通り過ぎたが、戸を開ける者はなかった。郵便のバイクが一度止まり、隣の家に配達して行った。店の前は、また静かになった。
昼には、弁当の包みを解いて、店の奥で食べた。昼過ぎ、一度だけガラス戸が風で鳴った。店主は箸を止めた。空は晴れていた。風は、すぐに止んだ。
食後、店主は在庫棚の前に立った。売れない品ばかりの棚だった。欠けた置物、片方だけの靴、型の古い眼鏡。その並びの先に、ラジオがあった。店主は並びを目で追い、またカウンターに戻った。何をするでもなかった。質屋の午後は、そういうふうに過ぎた。
午後、店主は棚の並べ替えをした。古い時計、欠けた茶碗、誰も受け出しに来ない品々。一つずつ下ろして、埃を払い、また戻した。ラジオも下ろした。拭いて、一番奥に戻した。
それから、売り場の時計のネジを巻いた。三つある時計は、三つとも違う時刻を指していた。店主はどれも直さなかった。店の時計は、そういうものだった。
四時を過ぎると、通りに下校の子供らの声がした。すぐに遠くなった。店主は帳簿の今日の欄を開いた。書くことは、まだなかった。欄は白いままだった。店主はそのまま、しばらく座っていた。
やがて立ち上がり、湯を沸かして茶を飲んだ。茶は熱かった。表では、まだ日が明るかった。
夕方になっても、客はなかった。洗濯物がよく乾く一日だった。店主は店先の品を仕舞い、戸締まりをした。戸を閉める前に、店内を見回した。棚の奥のラジオは、暗がりの中で、形だけが見えた。
二階に上がり、湯を沸かし、簡単な夕食をとった。窓の外では、昼間の晴れがまだ残っていた。風もなかった。やがて星が出た。店主は早めに布団に入った。
夜中の二時過ぎだった。
下から、かすかな音がした。店主は目を覚ました。初めは、夢の中の音だと思った。音は続いていた。途切れては、また聞こえた。人の声のようでもあった。店主はしばらく布団の中で聞いていた。
やがて起きて、階段を降りた。店内は暗かった。棚の奥で、小さな明かりが点いていた。
ラジオだった。
ダイヤルの窓が、ぼんやりと光っていた。真空管の明かりだった。電源コードは、棚の下に垂れたままだった。差し込みは、床の上にあった。
ラジオの前に、タマが座っていた。背を丸めず、耳だけをラジオのほうへ向けていた。店主が近づいても、タマは振り向かなかった。
雑音が続いた。途切れ途切れに、音が寄っては離れた。遠くの放送を聞いているようだった。店主は棚の前で立ったまま、しばらく聞いていた。店の時計の秒針の音が、雑音の合間に聞こえた。
やがて、雑音の奥から声が聞こえてきた。天気予報だった。落ち着いた声だった。慌てたところは、どこにもなかった。
明日の天気だけを報せる声だった。低気圧が近づいている。雨は昼前から降り出す。夕方にかけて、風が強まる。春の嵐になる、と声は言った。それだけを繰り返し、二度繰り返して、声は止んだ。
明かりが消えた。店内は、また暗くなった。タマはしばらくその場に座っていたが、やがて立ち上がり、階段のほうへ歩いていった。
店主はラジオに触れなかった。コードにも触れなかった。明かりを点けず、二階に戻って、布団に入った。窓の外は、まだ晴れていた。風の音もなかった。店主はしばらく天井を見ていたが、いつの間にか眠った。
明け方近く、遠くで一度、戸の鳴る音がした。それきりだった。
朝、目を覚ますと、空は曇っていた。
店に降りると、棚の奥はまだ暗かった。ラジオはいつもどおりの場所にあった。コードは床に垂れたままだった。店主はその前を通り過ぎて、戸口に出た。
雲は低く、流れが速かった。店主はしばらく戸口に立って、空を見た。昨夜の星は、もうどこにもなかった。
店主は店を開ける前に、表に出た。軒下の品を奥へ下げ、物干しの洗濯物を取り込んだ。隣の家の植木鉢を、壁際に寄せた。風はまだ弱かったが、空気の匂いが変わっていた。雨の来る前の匂いだった。
店先の立て看板を内へ入れようとして、戸口に戻ったとき、傘が一本、立っていた。
黒い傘だった。濡れてはいなかった。昨夜、戸締まりをしたときには、なかった。今朝、表に出たときにも、気がつかなかった。骨は安いものだった。柄には、使い込んだ跡があった。
店主は傘を手に取り、軒下の釘に掛けた。忘れ物として、掛けた。それ以上はしなかった。誰のものか、確かめようともしなかった。
店主は店に戻り、いつもどおりに店を開けた。昼前、予報どおりに雨が降り出した。最初は細い雨だった。軒下の乾いた土が、少しずつ色を変えた。
昼過ぎには、風が出た。雨は横に流れた。表のガラス戸が、何度も鳴った。店主は早めに戸を閉め、店の中で帳簿の整理をした。品の埃を払い、質札の束を揃えた。客は来なかった。
取り込んだ洗濯物を、店の奥で畳んだ。屋根を打つ雨の音が、ずっと続いていた。一度、表で何か転がる音がした。店主は手を止めたが、外へは出なかった。棚のラジオは、嵐の間も鳴らなかった。
昼の弁当を、雨の音を聞きながら食べた。昼前から雨。夕方に風。声の言ったとおりに、一日が進んでいた。
午後のいちばん風の強い頃、店の明かりが一度だけ揺れた。店主は帳簿から目を上げた。明かりは、すぐに元に戻った。店主はまた書き続けた。ガラス戸の内側が曇ったので、一度だけ布で拭いた。外は白く煙って、何も見えなかった。
夕方近く、店主は湯を沸かして茶を飲んだ。茶は熱かった。雨の音を聞きながら、今日の帳簿の欄に、少しだけ書き込んだ。
夕方、雨も風も、少しずつ弱まった。夜になる頃には、止んでいた。店主は戸を開けて、表に出た。通りは濡れていて、街灯の明かりを映していた。店先に溜まった水を、箒で掃いた。雲の切れ間から、星が見えた。
掛けた傘は、軒下で乾いていた。店主はそれを見た。そのままにして、店に戻った。持ち主は、来なかった。
その夜、店主は帳簿を開いた。今日の欄に、客の名はなかった。仕舞った品のことも、天気のことも、書くほどのことはなかった。それでも店主はペンを置かず、一日を書き終えてから、最後に一行、書き足した。
「天気は当たった。傘の持ち主は、来ない。」
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