第4話 一分の値段
四月の初めだった。桜は散りかけ、通りの若葉が目につき始めていた。
店主は八時半に店を開けた。シャッターを上げ、店先を掃き、ショーケースを拭いた。湯を沸かし、帳簿を開いた。順序は毎日同じだった。
午前中、客はなかった。近所の主婦が、預けていた圧力鍋を受け出しに来たのが昼前だった。「やっと要る季節じゃなくなって」と主婦は笑った。「そうですね」と店主は答え、手続きをした。店はまた静かになった。
店主は昼食の弁当を、カウンターの中で立ったまま食べた。棚の品を一つずつ目で追い、埃の積もり具合を確かめた。拭くのは、閉店前の仕事だった。
その日の昼過ぎ、戸の鈴が鳴った。
入ってきたのは、三十代の終わりの男だった。背広の上着をきちんと着て、手には小さな包みを持っていた。
男はカウンターの前の椅子に座り、包みを膝の上に置いた。しばらく、その包みに手を置いたままだった。
「預けたいものがあって」
包みは、白い布だった。結び目を解く手つきは、ゆっくりしていた。
布の中から、銀の懐中時計が出てきた。鎖はなかった。裏蓋には細かい傷が多かった。蓋の縁は、長く使われた品らしく、少し丸くなっていた。
店主が蓋を開けると、小さな音がした。文字盤は古びていたが、数字は読みにくくなかった。
「祖父の形見です」
男は言った。
「秒針が正確なことで、家では知られた時計でした。祖父は駅員で、現役の頃はこれで発車を見ていたそうです」
店主は時計を受け取った。銀の重さにしては、もう少しだけ重かった。秒針は、狂いなく動いていた。
「去年、弟を亡くしました。駅の事故で」
男は時計を見たまま言った。
「それから、この時計を家に置いておけなくて。音が、大きく聞こえるんです」
店主は頷いた。それ以上は聞かなかった。
質札を書き、品名と金額を告げた。期限は三か月だった。
店主は湯呑みに茶を注ぎ、男の前に置いた。男は両手で持ち、一口だけ飲んだ。
男は札に名と住所を書いた。字は、丁寧だった。書き終わっても、ペンを置かなかった。
「一つ、頼めますか」
「何でしょう」
「一分ずつ、買い戻すことはできますか」
店主は男を見た。
「毎週、一分ずつ。値段は、そちらで決めてください」
店主はしばらく黙っていた。それから、帳簿の隅に小さく数字を書いた。一分の値段だった。
「百円です」
男は頷き、その場で百円玉を一枚、カウンターに置いた。
「では、今日の分を。一分、下さい」
「どの一分ですか」
男は少し考えた。
「今日の、一分を」
店主は帳簿の、男の頁の隅に、その日の日付を書いた。それだけだった。
時計は布に包まれ、札を結ばれて、棚に置かれた。
男は帰り際、棚のほうを一度見た。
「来週、また来ます」
その夜のことだった。
閉店の支度を終え、品を棚に戻し、帳簿を閉じた。店主が棚の前を通ると、布の向こうの時計の音が、耳に残った。
翌朝、店を開ける前に、店主は時計を取り出した。柱時計と比べた。一分、遅れていた。
ゼンマイは巻いてあった。秒針は正確に動いていた。ただ、一分だけ、遅れていた。
店主は竜頭に触れなかった。時刻を合わせ直さず、時計を布に包み直し、棚に戻した。
その日は、いつも通りに店を開けた。客は二人来て、二人とも品を受け出して帰った。
次の朝も、店主は時計を見た。さらに一分、遅れていた。一晩に、一分だった。
その翌朝も、同じだった。遅れは、三分になっていた。
棚の下では、タマが座って、時計の棚のほうを見ていた。しばらくして、目を閉じた。
店主は帳簿の男の頁に、何も書き足さなかった。時計は棚で、一分ずつ、遅れていった。
四日目の午後、大学生が教科書の束を質に入れに来た。店主は棚に並べながら、隣の布包みの向こうで、秒針の音が正確に続いているのを聞いた。遅れているのは、時刻だけだった。
一週間後、男は同じ曜日に来た。
椅子に座り、百円玉を一枚置いた。
「一分、下さい」
「どの一分ですか」
「弟の誕生日の、一分を」
店主は日付を聞き、帳簿の隅に書いた。
時計は出さなかった。男も、出してほしいとは言わなかった。
茶を一口飲み、男は帰った。
次の週も、男は来た。百円玉一枚と、買う一分の日付だった。海へ行った日の一分。兄の結婚式の日の一分。どの日付にも、説明はなかった。店主も、尋ねなかった。
ある週は、雨だった。男は濡れた上着の袖を払って座り、同じように百円玉を置いた。「父が退職した日の、一分を」。声は、雨の日も晴れの日も同じだった。
ある週は、少し遅れた。閉店に近い時刻だった。男は息を切らして入ってきて、「すみません」と言った。店主は何も言わず、茶を出した。その日買ったのは、正月の朝の一分だった。
週が重なった。男の来る曜日は、いつも同じだった。帳簿の隅には、日付が一行ずつ増えた。行の間隔は、等しかった。
男の来ない日は、店はいつも通りだった。品が入り、品が出た。朝ごとに、店主は時計を見た。遅れは増えていた。合わせ直すことは、なかった。
そのたび、店主は朝の時計のことを思った。言うことはなかった。
四月の終わりの週だった。
男は百円玉を置いて、言った。
「弟と、最後に電話した日の。一分を」
店主は日付を書きながら、その日が事故の何日前だったかを、思わなかったことにはできなかった。書く手は、止めなかった。
男はその日、茶を飲み干してから帰った。いつもは、一口だけだった。
五月の半ばだった。
その日、店には昼過ぎまで客がなかった。店主は棚の品を下ろし、埃を払っていた。懐中時計の布も、持ち上げて下を拭いた。時刻は、見なかった。
昼過ぎ、鈴が鳴った。
男は椅子に座っても、すぐには百円玉を置かなかった。両手を膝に置き、しばらく店の中を見ていた。
「今日が、最後の一分にします」
店主は帳簿を開いたまま、手を止めた。
「どの一分ですか」
男はしばらく黙っていた。
「去年の、事故のあった日の。あの一分を」
店の外では、通りの音がしていた。
店主はペンを持った。日付は、男が言った。書き終えて、店主はペンを置いた。
そのとき、柱時計の音が止んだ。
振り子の音が、なかった。棚の時計の秒針も、止まっていた。店の中の、すべての時計が止まっていた。
男は目を閉じていた。両手は膝の上で、重ねられていた。午後の光の中で、男の影がカウンターの端に落ちていた。
店主は動かなかった。帳簿は開いたままだった。茶も、湯呑みの中で冷めていった。通りの音は、遠くに聞こえた。自分の呼吸の音が、大きく感じられた。
一分が過ぎた。
柱時計が、また鳴り始めた。棚の時計の秒針も、動き出した。店の中に、時刻が戻ってきた。
男は目を開けた。
「ありがとうございました」
それだけ言って、男は立った。
戸口で、男は上着のポケットからハンカチを取り出した。何か包んだまま、握った。結び目の脇に、土が少しついていた。駅前の土を、ひと握り包んだものだった。
男はそれを握ったまま、店を出た。
翌週の朝、店主はいつものように時計を取り出した。
一分、また遅れていた。昨夜の分だった。その一分を買う者は、もう来ないはずだった。
店主は時計を布に包み直し、棚には戻さず、カウンターの端に置いた。昼には、男が来るはずだった。
昼過ぎ、鈴が鳴った。
男が来た。今日は包みではなく、封筒を持っていた。贖いの金と、利息の分だった。
店主は棚から時計を下ろし、布を解いた。時刻は、遅れたままだった。男はそれを見て、小さく頷いた。
「このままで、いいです」
金を受け取り、店主は質札の控えを渡した。男は時計を両手で受け取り、しばらく蓋を開けたまま見ていた。それから蓋を閉め、上着の内ポケットに仕舞った。
「世話になりました」
男は一礼して、店を出た。
戸の鈴が鳴った。男の背中は、五月の光の中へ出ていった。角を曲がるまで、歩みは速くも遅くもなかった。
その後、男が店に来ることはなかった。棚の一角は空いたまま、しばらく次の品を待った。
その夜、帳簿にこう書いた。
「一分売れた。一分だけ、売れ残った。」
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