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質屋「待宵堂」怪異譚——流れた品は、夜に語る  作者: 北野風人
第1章「春の質札」

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第2話 狐の毛

四月の店は、冬より明るかった。

午後の光が、ガラス戸の曇りを薄く照らしていた。

客はなかった。

店主はカウンターの内側で、質札の束を揃えていた。

期限の近い札を上にし、遠いものを下にした。

揃え終わると、棚の品を一つ、布で拭いた。

拭きながら、札の期限を確かめた。

まだ先だった。

品を戻し、帳簿の端に手を置いた。

そのとき、戸の開く音がした。


入ってきたのは、若い男だった。

三十に届かないくらいだった。

両手で、小さな桐の箱を抱えるように持っていた。

箱の角は、持ち主の手に馴染んで、少し丸くなっていた。


「預かってもらえますか」


男は箱をカウンターに置いた。

しばらく、箱に手を置いたまま動かなかった。

店主は待った。

急かすことはなかった。

蓋を開けると、中にべっ甲の簪が一本、布の上に寝かせてあった。

飴色で、先のほうが少しだけ欠けていた。

男は箱を、店主のほうへ半寸ほど押し出した。


「妻のものです」

「去年の冬に、亡くなりました」


店主は簪を手に取った。

明かりのほうへ、少し傾けた。

べっ甲は軽いものだった。

だが手の中では、しばらく、思ったより重さがあった。

彼は何も言わず、簪を布の上に戻した。


「この欠けは、妻がぶつけた跡なんです」

男は言った。

「直すことも考えたんですけど」

そこで言葉を切った。


店主は頷いた。

「売る店にも、行ったんです」

男は簪を見ていた。

「あっちは、値段しか見ませんでした」

「値段を聞いたら、そのまま置いて帰れなくなって」

「だから、預けるだけにしようと思って」


店主は質札を書き、品名と金額を告げた。

期限は三か月だった。

男は札に、自分の名と住所を書いた。

書き終わると、ペンを置き、もう一度簪を見た。

「三か月、ここに置いていいんですね」

店主は頷いた。

男は財布を出しかけて、やめた。

今日は、預けるだけの日だった。


簪は新しい布に包み直された。

札を結ばれ、棚の空いた場所に置かれた。

男は棚のほうを、一度だけ見た。


「妻は、これを挿すと笑うんです」

帰り際、男は言った。

過去の話をする声ではなかった。

店主は控えを渡し、頭を下げた。

男は店を出た。

戸の外で一度立ち止まり、店の看板を見上げていた。

やがて、歩いていった。

戸が閉まると、店はまた静かになった。

棚では、簪の札だけが、かすかに揺れていた。

店主は帳簿に、簪のことを書いた。

金額と、期限と、男の名。

それだけだった。



その日の閉店間際だった。

店主はシャッターを半分まで下ろし、看板を仕舞った。

レジを締め、冷めた茶を流しに捨てた。

彼は時計を見た。

もう閉店の時刻だった。

帳簿を開き、その日の分を書き終えようとした。

そのとき、棚のほうで小さな音がした。


簪だった。

一度だけ、かすかに鳴った。

最初は、家の軋みかと思った。

だが軋みではなかった。

女の人の笑い声に、少し似ていた。


店主は手を止めた。

表では、自転車の通り過ぎる音がした。

店の中は、静かだった。


棚の下で、タマが座っていた。

猫は簪のほうを向いていた。

しばらくして、猫は目を閉じた。


音は、それきりだった。

店主は立ち上がり、棚の前まで行った。

簪は置いたときのまま、布の上にあった。

札も、結んだままだった。

彼は手を触れずに戻り、椅子に座った。


帳簿に目を戻すと、その日の質入れの欄に、書いた覚えのない字があった。

自分の筆跡の横に、細い字で、一行だけ書き足されていた。

彼の字ではなかった。


「預かりました」


店主は、その字をしばらく見ていた。

細い字のインクは、もう乾いていた。

消しはしなかった。

なぞりもしなかった。

上のほうの、自分の字で書いたその日の分を、彼はもう一度読んだ。

間違いはなかった。

やがて帳簿を閉じ、店の明かりを消した。

戸口で一度、足を止めた。

何も聞こえなかった。

外は、もう暗かった。



翌朝、店を開けた。

シャッターを上げ、看板を出し、店の前を掃いた。

店主はまず、奥の品を一つ取りに棚へ行った。

その帰りに、空いた場所が目に入った。


簪はなかった。

布も、札も、棚には残っていなかった。

簪のあった場所に、細い毛が一本だけあった。

長い毛だった。

茶色とも、白ともつかない色だった。


店主は毛を拾い、明かりにかざした。

棚の他の品には、触れなかった。

探しもしなかった。

彼は小さな封筒を取り、毛を入れて、引き出しにしまった。


その日も店はいつも通り開いた。

昼前に、近所の老婦人が来た。

春に預けた裁縫箱を受け出しに来たのだった。

「孫が来るんでね、繕い物をしなきゃならなくて」

婦人は笑って、金を払った。

店主は箱を棚から下ろし、布の埃を払って渡した。

婦人は箱を抱えて帰った。

そのときも、簪のあった場所は空いていた。

午後に来た客は、腕時計を一本置いていった。

店主は札を書き、棚の、簪のあった場所とは違う場所に置いた。


その日の帳簿には、昼の裁縫箱のことと、午後の腕時計のことが書かれた。

細い字の一行のことは、店主は何も書かなかった。



それから三か月が過ぎた。

四月の光は五月の雨になった。

雨の日は、客が一日来ないこともあった。

店主は帳簿を書き、品を拭き、戸の曇りを拭いた。


六月には、期限の来た品が二つ戻り、一つ流れた。

戻る品は、いつも持ち主の手つきが少し慌ただしかった。

流れる品の棚は、一つ空いたまま、次の品を待った。

店主はどちらの日も、同じように帳簿を書いた。


引き出しの封筒は、そのままだった。

切手を取り出すとき、封筒の端が指に触れた。

開けることはなかった。

六月の終わりに、男から一度、電話があった。

期限の日を確認するだけの電話だった。

声は、四月と同じだった。

店主は日付を答え、それ以上は話さなかった。

電話を切ったあと、彼はカレンダーの、その日に小さな印をつけた。

印は、他の期限の印と同じ大きさだった。


梅雨の晴れ間に、店主は棚の品を陰干しした。

一つずつ下ろし、布で拭き、戻した。

空いた場所の前で、手が一度止まった。

そこも、他の場所と同じように拭かれた。


雨が上がると、蝉の声が店の前まで来た。

店主は扇風機を出した。

棚の品を並べ直したときも、簪のあった場所だけは、空けたままにした。

期限の前に、男が店に来ることは一度もなかった。



期限の当日は、七月の暑い日だった。

朝から、店の前の道が白く乾いていた。

朝、切手を買いに引き出しを開けたとき、封筒が目に入った。

店主はすぐに閉めた。


昼前に、店主は棚の品を拭いた。

簪のあった場所も、同じように拭いた。


昼過ぎに、男が来た。

四月より、少し痩せていた。

汗を拭いながら、封筒を差し出した。

贖う金と、利息の分だった。

中のお金は、きちんと揃えてあった。

金の横に、質札の控えも置かれた。


男は棚のほうを見た。

四月に簪の置かれた場所だった。

何もなかった。

彼はしばらく、そこを見ていた。


「お願いします」


店主はすぐに返事をしなかった。

引き出しを開け、小さな封筒を取り出した。


「簪は、もうありません」

彼は言った。

「初日の夜に、無くなりました」


男は黙っていた。

カウンターの上で、両手が重なった。

責める言葉は、来なかった。


「代わりに、これが残っていました」

店主は封筒を開け、布の上に、細い毛を一本置いた。


男は毛を見ていた。

長いこと、見ていた。

店の前の蝉の声が、遠くなったり近くなったりした。

やがて男は小さく息をして、少し笑った。


「やっぱり、来たんですね」


男は毛を両手で包むように受け取った。

胸のポケットに、大事そうに入れた。

ポケットの上から、手を一度当てた。

「ありがとうございました」

贖う金の封筒は、カウンターに置いたままだった。

店主はその封筒を開けずに、レジに入れた。

何も言わなかった。

男は一礼して、店を出た。


店の外は、強い日差しだった。

男は日傘もささずに、駅のほうへ歩いていった。

店主は戸の内側から、それを見送った。


夕方、店を閉める前に、彼は引き出しを開けた。

封筒はもう無かった。

当たり前だった。

彼は引き出しを閉めた。



その夜、店主は帳簿にこう書いた。


「簪は戻った。毛が一本、残った。」


お読みいただき、ありがとうございます。

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