第1話 止まった時計
はじめまして。質屋を舞台にした連作怪異譚です。一話完結、三千字ほど。隔日22時に更新します。どうぞ、期限までお付き合いください。
三月の終わりだった。彼岸が過ぎ、朝の光に少しだけ温みが出ていた。
「待宵堂」は、駅前から二本入った通りの角にある質屋だった。看板の文字は色あせ、戸の硝子には古い金文字が残っていた。
店主は八時半に店を開けた。シャッターを上げ、店先を掃き、ショーケースを拭いた。湯を沸かし、帳簿を開いた。順序は毎日同じだった。並ぶ品も、帳簿の開く頁も、ほぼ決まっていた。
その朝、帳簿は老人の頁で開かれた。三か月ごとの更新の日だった。十一年、欠かしたことのない日だった。その頁だけ、紙の端が手垢で少し黒ずんでいた。何度も開かれた頁だった。
十時を少し回った頃、戸の鈴が鳴った。
老人は戸の前で一度立ち止まり、看板を見上げてから入ってきた。十一年、変わらない仕草だった。
老人が入ってきた。背は少し曲がり、薄い上着の襟をきちんと合わせていた。十一年、この店に通う客だった。老人はカウンターの前の椅子に座り、帽子を膝に置いた。座る場所も、帽子の置き方も、いつも同じだった。
「更新を」
それだけ言った。
棚の一角には、年単位で預かられている品の並ぶ場所があった。持ち主が決まって戻ってくる品ばかりだった。
店主は棚から小さなケースを下ろした。中には腕時計が一つあった。安物だった。革のバンドは擦り切れ、針は止まっていた。
十一年前、この時計は店に預けられた。それきり店を出ていない。三か月ごとに老人が来て、利子を払い、期限を延ばしてきた。今日が四十四回目の更新だった。
店主が時計を手に取ると、安物にしては重かった。針は四時十二分で止まっていた。十一年、ずっとその時刻だった。
「期限まで、戻れますか」
店主は言った。
老人は顔を上げ、少し笑った。
「戻りますよ」
店主は湯呑みに茶を注ぎ、老人の前に置いた。老人は両手で持ち、一口だけ飲んだ。
店主は新しい質札を書いた。日付、品名、金額。隅に自分の名を小さく書いた。待宵宗一郎。
老人は布の小銭入れを取り出した。紐を解くのに少し時間がかかった。節くれ立った指で小銭を一枚ずつ数えて、カウンターに置いた。一枚、落としそうになり、落としはしなかった。金額はいつもと同じだった。店主は受け取り、帳簿の同じ欄に印を押した。その欄には、十一年分の印が等間隔に並んでいた。一番最初の印の日付も、三月の終わりだった。
店主は質札の控えを、古い控えの綴りに重ねた。綴りはもう分厚かった。
老人はケースを開け、止まった時計をしばらく眺めた。指先で文字盤に触れかけ、触れずにやめた。ガラスには、細い傷が一本入っていた。いつ付いた傷か、店主は知らなかった。
それから老人は蓋を閉め、両手で店主に返した。
店主はケースを受け取り、カウンターの端に置いた。
帰り際、老人は戸の前で一度だけ振り返った。
「また三か月、頼みます」
鈴が鳴り、老人の背中が通りの光の中へ出ていった。歩みは遅く、角を曲がるまで時間がかかった。店主はその背中が見えなくなるまで、帳簿に目を戻さなかった。
閉店後、店主は看板の札を返し、品を棚に戻し、帳簿を閉じた。金庫を閉め、鍵を掛けた。自分の湯呑みに茶を注いだが、飲まないうちに冷めていった。
カウンターの端に、あの時計のケースが残っていた。棚へ戻しそびれていた。
店主はケースを手に取り、蓋を開けた。
十一年の間、この時計は何度も店の棚にあった。だが店主は、ケースの中を改めたことが一度もなかった。受け取る。棚に置く。出す。また受け取る。その繰り返しで、開ける必要がなかった。
クッションの端が、少し浮いていた。
店主はクッションを持ち上げた。下に、紙が二枚、挟まっていた。
一枚は古い質札だった。十一年前の日付だった。店主自身の、若い字だった。品名も金額も、今とほとんど変わらなかった。十一年の間、この時計の値段は上がりも下がりもしなかった。
もう一枚は、小さく折り畳んだ新聞の切り抜きだった。紙は黄ばみ、折り目は白くなっていた。切り口はまっすぐで、鋏で丁寧に切った跡があった。
店主は切り抜きを広げた。踏切の事故を報じる、小さな記事だった。日付は十一年前だった。
店主は記事を二度読んだ。店の中は静かで、柱時計の音だけが聞こえた。
切り抜きの日付と、最初の質札の日付は、同じだった。
店主は老人の顔を思い浮かべた。昼間、止まった時計を眺めていた顔だった。それ以上は考えなかった。
それから店主は、切り抜きを元の折り目通りに折り、質札と重ねて、クッションの下へ戻した。その手つきは、店で品を包むときと同じだった。蓋を閉める前に、布でケースの埃を一度拭った。
何も起きなかった。それ以上のことは、何もなかった。
店主は蓋を閉めたあとも、しばらくその場に立っていた。何を考えるでもなかった。柱時計が、閉店の時刻を打った。
そのとき、音もなくタマがカウンターに上がってきた。店で飼っている老猫だった。タマはケースの上に座り、そのまま丸くなって目を閉じた。尻尾の先だけが、時々小さく動いた。
店主は追い払わなかった。ケースは棚に戻さず、カウンターに置いたままにした。
奥には、開けない棚が一つあった。店主は戸締まりをして、店の灯りを落とした。
三か月が過ぎた。四月、五月と、店先の品は少しずつ入れ替わった。棚のケースだけは、ずっと同じ場所にあった。店主は時々その前を通り、何もせずに通り過ぎた。
六月の終わりだった。
更新の朝、店主は帳簿を開き、その日の頁を見た。老人の名があった。今日で四十五回目の更新になるはずだった。
八時半に店を開けた。ショーケースを拭き、湯を沸かした。棚から時計のケースを下ろし、カウンターに置いた。老人が来れば、すぐに出せるようにだった。カウンターの前の椅子の向きも、直しておいた。
十時を過ぎても、老人は来なかった。十一年、老人が来なかったことはなかった。決まって十時を少し回った頃、鈴が鳴った。雨の日も、風の日も、同じだった。
店主は一度、戸の硝子越しに通りを見た。老人の姿はなかった。
十時半、店主は売り棚の値札を一つ直した。やることがなかったからだった。
正午に、柱時計が鳴った。ケースはまだカウンターにあった。
昼になった。近所の女が、預けていた指輪を受け出しに来た。「春に預けたのに、もう夏ですね」と女は言った。「そうですね」と店主はそれだけ答えた。店主はいつも通り手続きをし、女は礼を言って帰った。店はまた静かになった。昼食の弁当を開け、店主はカウンターの中で立ったまま食べた。
店主は新しい質札を取り出し、日付だけを書いて、カウンターに置いた。ケースの隣だった。
一時過ぎ、店主はケースの蓋を開けた。時計は四時十二分で止まっていた。当たり前のことだった。蓋を閉めた。
午後の光が硝子戸から斜めに入った。やがて空が暗くなり、梅雨の雨が静かに降り出した。
二時を過ぎ、電話が鳴った。
店主が出ると、若い女の声だった。老人の娘だと言った。
今朝、父が家で倒れた。そのまま亡くなった。知らせるのが遅れてすみません、と娘は言った。葬儀は明後日だ、と小さく付け加えた。店主は頷いた。電話の向こうには伝わらなかった。
「そうですか」
店主は言った。
「お悔やみを」
受話器を置いた。置いてからも、店主はしばらく受話器に手を置いていた。店の中は静かで、外では雨が降り続いていた。
店主はカウンターのケースを見た。蓋は開けなかった。
流れた品には値札を付け、売り棚に並べる。それがこの店のやり方だった。
店主は帳簿の、老人の名の横に小さく「流」と書いた。日付だけ書いた新しい質札は、破らずに帳簿へ挟んだ。その頁は、四十五回目の印の場所が空いたままになった。
値札は用意しなかった。ケースを、カウンターの下の引き出しの奥に仕舞った。引き出しの閉まる音が、小さく鳴った。店主はその引き出しに鍵をかけた。その引き出しに鍵をかけるのは、久しぶりのことだった。
店主はそのまま、閉店の時刻まで店を開けていた。六時になり、シャッターを下ろした。引き出しのあるカウンターを一度見てから、帳簿を開いた。老人の頁には、四十四の印が並んでいた。その先は白かった。
その夜、帳簿にこう書いた。
「十一年、時は止まったまま預かった。」
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