第6話 戴冠式前夜、影は集まる
王宮へ戻る馬車の中で、私は何度も黒いリボンに触れた。
結び目がほどけているわけではない。朝から三度結び直し、最後にはリゼットが「少し歪んでいますが、そのほうがセレスティア様らしいです」と言ってくれたので、そのままにした。褒め言葉なのかどうか、まだ判断に迷っている。
それでも指は、勝手にリボンの端を探してしまう。
馬車の窓には、雨粒が細い線を描いていた。王宮の白い尖塔は灰色の空に溶けかけ、祝福の鐘の塔だけが、音のないまま高く突き立っている。鐘は今日も鳴っていない。王都の人々はそろそろ、その沈黙に慣れ始めているのかもしれない。
沈黙に慣れることは、とても怖い。
「寒くありませんか」
向かいに座るオルフェウス様が尋ねた。彼の膝には、きちんと畳まれた護衛配置図がある。以前は机いっぱいに広げて私を困らせたそれを、今は必要になるまで開かないと決めているらしく、紙の角だけが何度も指で押さえられ、少し丸くなっていた。
「寒くはありません。胃のあたりが、少し忙しいだけです」
「忙しい」
「緊張すると、胃の中で書類の仕分けが始まる感じがします。しかも、担当者があまり有能ではありません」
「それは、かなり問題がありますね」
「王宮ではよくありました」
そう答えると、オルフェウス様はほんの少し眉を寄せた。けれど、すぐに慰めようとはしなかった。彼は最近、私の痛みに急いで布をかけないようにしている。見えている傷を見えているままにして、私が言葉を選ぶまで待ってくれる。
「水は、馬車にも用意しています」
「合図のためですか」
「半分は。もう半分は、本当に喉が渇くかもしれないので」
王宮の東門をくぐると、石畳の音が変わった。王宮の道は、車輪の音まで整えられている。低く滑らかな響きが足元から上がり、懐かしさより先に、身体が昔の姿勢を思い出した。
けれど今日は、そのまま戻るわけにはいかない。
外には王宮侍従たちが並んでいた。彼らは私にどう礼をすればよいか迷っているらしく、深すぎる者、浅すぎる者、目を合わせない者が混ざっている。
オルフェウス様が先に降り、扉の前で手を差し出した。
「手を貸しても?」
「お願いします」
私はその手を借りた。けれど引き上げられるのではなく、自分の足で踏み台へ降りる。石畳に靴が触れた瞬間、冷たい雨の匂いと、白百合の甘く腐りかけた匂いが混ざって鼻をかすめた。
前庭の白百合は、見る影もなかった。花弁の端から黒く染まり、いくつかは首を折るように垂れている。雨に濡れたせいではない。あれは影の通り道が傷んだ時の枯れ方だ。
「王宮側は、長雨による傷みと説明しています」
「まだ雨は降り始めたばかりです」
東棟へ案内される途中、廊下の角でロザリーと出会った。
彼女は侍女長の制服をきっちり着ていた。背筋も、表情も、いつも通りに見える。けれど袖口の繕いは今日も少しだけ曲がっていて、その不完全な縫い目を見た途端、胸の奥がほどけそうになった。
「セレスティア様」
ロザリーは深く礼をした。
「ロザリー。お元気でしたか」
「私は元気です。あなた様のほうが、また顔色を紙に寄せておいでです」
「紙はもう少し丈夫です」
「冗談を仰る時は、たいてい倒れる前です」
懐かしいやり取りに、私は少しだけ笑いそうになった。
ロザリーは廊下の左右を確認し、人の気配がないと分かると、声を低くした。
「セレスティア様。私、明日証言いたします」
その一言は、思っていたより重かった。
「ロザリー、それは危険です」
「承知しております」
「王太子殿下の不興を買うことになります」
「不興なら、もう何度も買っております。先日など、あなた様のお部屋の寝台の位置を勝手に変えたことで、衣装係の若い子にひどく怒られました」
「衣装係に?」
「はい。あの子は殿下より細かいところが怖い」
ロザリーは真顔で言った。
「私は、夜ごとの儀礼後にあなた様がどれほど消耗していたかを見ております。王冠の黒い腐敗も、あなた様が殿下へ何度も警告していたことも、すべてではありませんが、見た範囲なら申し上げられます」
「あなたが責められるかもしれません」
「責められるべきことはございます。私は何度も休んでくださいと申し上げました。けれど結局、儀礼室までお送りしました。止められなかった。止める立場ではなかったと言えば、それまでです。でも、それだけでは済ませたくありません」
彼女もまた王宮に縫いつけられていた人なのだと気づく。私を送り出した人。私の手袋を用意した人。水を差し出し、黙って聞かなかったふりをしてくれた人。彼女は加害者ではない。けれど、無力であったことの痛みを抱えている。
「ありがとうございます」
私が言うと、ロザリーは少しだけ顔をしかめた。
「礼を言われる立場ではございません」
「それでも、言わせてください」
別れ際、ロザリーは私の髪を見た。
「結び目が、少し歪んでおります」
「やはり」
「お直ししましょうか」
私は一瞬、頷きかけた。けれど、この黒いリボンは、もう王宮の儀礼だけのものではない。
「あとで、自分で直します」
ロザリーは驚いたように瞬きし、それから深く頷いた。
「承知いたしました」
控え室へ入ると、老冠匠ギルベルトが待っていた。
彼は背の低い机の前に座り、眼鏡を磨いている。磨き布はすでにくたびれ、眼鏡はこれ以上ないほど綺麗なのに、彼の手は同じ動きをやめられないでいる。
「ギルベルト様」
「戻ったか」
「はい」
「戻らなくても、よかった」
短い言葉だった。けれど、その中に色々なものが詰まっている気がして、私はすぐには返事ができなかった。
「戻ると決めました。王宮を救うためではありません。見せるためです」
「なら、見せるものが要る」
ギルベルトは机の上に、小さな青い宝石片を置いた。蒼玉の欠片だった。欠片の奥には、細い黒筋が浮かんでいる。
「触れるな。腐敗が残っている」
「いつ、剥がれたのですか」
「昨日の白の間だ。ミレーヌ嬢が光を強めた時、宝石座の内側で音がした。殿下は聞かなかったふりをした。だが、冠匠は聞く」
彼はそう言い、また眼鏡を外しかけた。磨き布を探す手が途中で止まる。自分でも癖に気づいたらしく、彼は少し苦い顔をした。
「王冠は、あなたの影に反応していた。最初からだ」
「最初から?」
「婚約が決まった年、初めてあなたが王冠へ近づいた時、蒼玉の濁りが引いた。王族でも神官でもない娘の影に、王冠が応じた。私は見た」
胸の奥が、冷たくなる。
「なぜ、教えてくださらなかったのですか」
ギルベルトは長く黙った。
「王冠が選ぶのは王族だと、思いたかった」
それは、ずるい言葉であり、正直な言葉でもあった。王冠を守ってきた職人が、王冠の示す真実を見たくなかった。王家の正統性を信じたかった。
「申し訳ない」
ギルベルトは頭を下げた。飾りのない謝罪だった。
「明日、証言してくださいますか」
「する。王冠は嘘をつかん。職人も、もう嘘に手を貸せん」
次に控え室へ入ってきたのは、マリウス神官長だった。
扉が開いた瞬間、辛い茶の匂いがした。赤唐辛子と薬草を煮詰めたような、鼻の奥へまっすぐ刺さる香りだ。オルフェウス様が隣で静かに咳をこらえ、私は懐かしさと刺激で同時に目を瞬かせる。
「神官長。今日もお飲みになったのですね」
「儀礼前ですからな」
「お嫌いなら、やめてもよいのでは」
「好きなものでは覚悟になりません」
「その理屈は、まだ少し分かりません」
「私にも、時々分かりません」
神官長は真顔で言った。私は思わず笑ってしまいそうになった。
マリウス神官長は私の前に立つと、深く頭を下げた。
「セレスティア嬢。祝福の鐘は、今朝も鳴りませんでした」
「はい」
「鐘楼の機構に異常はありません。祈りの手順も、神殿側で三度確認しました。応じていないのは、王冠です」
彼は袖の内側から、小さな銀の鈴を取り出した。
「これは、祝福の鐘の調律鈴です。王冠が正しく祝福を受ける時、この鈴も共鳴します。だが、殿下の前では沈黙した。ミレーヌ嬢の光でも鳴らなかった」
「私の影には?」
神官長は、少しだけ目を伏せた。
「わずかに鳴りました。あなたが王宮を去る前から、ずっと」
また一つ、誰かが見ていて黙っていたことが出てくる。怒りはある。けれど、それだけではない。彼らは敵ではない。けれど、味方でいるための言葉を持たなかった人たちだ。
「明日、証言いたします。鐘が黙った理由を、神殿は曲げて語らない」
夕暮れ前、廊下でミレーヌ嬢と出会った。
彼女は白ではなく、淡い水色のドレスを着ていた。白を避けているのだと、すぐ分かった。袖口には新しいレースが重ねられていて、黒蜜の染みを隠した位置を、彼女は何度も指で押さえている。
「セレスティア様。戻っていらしたのですね」
彼女は笑った。けれど、うまく笑えていなかった。
「はい。隣国使節団の儀礼師として参りました」
「儀礼師」
彼女はその言葉を繰り返した。元婚約者でも、影でも、捨てられた花嫁でもない。私が自分の職能として名乗ったことが、彼女には少し眩しかったのかもしれない。
「また、私の光を否定なさるのですか」
その声には、怒りと怯えが混じっていた。
「あなたの光が美しいことは、否定しません。ですが、美しい光と、王冠を浄化できる光は違います。あなたも、もう気づいているはずです」
彼女の唇が震えた。
「私は、聖女です」
「その言葉を、誰のために言っていますか」
問いかけると、彼女は答えられなかった。
「クラウディオ様は、私を選びました」
「はい」
「なら、私は正しいはずです」
それは理屈ではなく、祈りだった。
「選ばれたことと、正しいことは、同じではありません」
ミレーヌ嬢は、泣かなかった。泣けなかったのかもしれない。彼女は白い顔のまま私の横を通り過ぎ、ドレスの裾を少し踏みかけて、侍女に支えられた。
その夜、私はかつて自分の部屋だった場所に通された。
正確には、少しだけ違う部屋になっていた。寝台の位置が変えられている。以前は儀礼室へ下りる扉の正面に置かれていたため、夜中に呼ばれればすぐ動けた。今は窓辺に寄せられ、扉から少し遠い。
机の上には水差しと、布に包まれた焼き菓子が置かれていた。
添えられた紙には、ロザリーの字でこうあった。
焦げております。お好きでしたので。
私はしばらく、その一文を見つめた。
小さな優しさは、時々、大きな励ましより深く届く。
明日のために、黒いリボンを結び直そうと思った。鏡の前に立ち、髪からリボンをほどく。夜会の日の大広間が、ふいに鏡の奥へよみがえる。白百合、王冠、クラウディオ殿下の指についた黒蜜。影なら、黙ってそこにいろという声。
私はリボンを結ぼうとして、失敗した。
一度目は布が指から滑り落ちた。二度目は結び目が緩すぎた。三度目は髪を巻き込んでしまい、痛くて手が止まった。
鏡の中の私は、思ったより怖がっている顔をしていた。
扉が控えめに叩かれた。
「セレスティア様。オルフェウスです」
今、誰かに見られたくない。けれど、誰にも見られないまま一人で整えることにも、少し疲れている。
「どうぞ」
彼は入ってすぐに足を止めた。私の手元を見て、状況を理解したのだろう。彼は一歩近づきかけ、すぐに止まる。
「手伝っていいですか」
その問いだけで、胸の奥が詰まった。昔なら、誰かが当然のように手を伸ばした。けれど彼は、触れる前に尋ねる。
「……少しだけ」
オルフェウス様は静かに近づき、私の背後に立った。鏡越しに見える顔は、真剣すぎるほど真剣だった。
「強く結ばないようにします」
「はい」
「髪を巻き込まないように」
「お願いします」
「左右は、正確に揃えるべきですか」
私は少し笑った。
「少し歪んでいても、今日は大丈夫です」
一度目は、右端が長くなった。彼は鏡越しに私を見て、やり直すべきか迷っている顔をする。
「歪んでいます」
「分かっています」
「やり直しますか」
「いいえ。そのままで」
黒いリボンは、少し歪んでいる。けれど、ほどけてはいない。私が全部一人で整えたわけでも、誰かに任せきったわけでもない。手伝ってほしいと言い、少しだけ手を借り、その結果として歪んだ結び目だった。
不思議と、それでよかった。
「明日、あなたの代わりに話すことはしません」
「はい」
「ですが、あなたが話せる場は守ります」
「お願いします」
窓の外で、雨が止んだ。
黒ずんだ白百合が、夜の庭でうつむいている。宝物庫の奥では、王冠が明日の戴冠前儀を待っている。腐敗はもう、隠しきれないところまで来ている。
私はリボンの端へ触れた。合図ではない。ただ、確かめただけだ。
「結び目は、少し歪んでいますね」
オルフェウス様が言う。
「はい。でも、ほどけてはいません」
鏡の中の私は、まだ怖がっている顔をしていた。けれど、怖いまま立っていればいい。震える手で結んだリボンでも、誰かに少し手伝ってもらった結び目でも、私の影を連れていけるなら、それでいい。
結び目は少し歪んでいた。
けれど今夜の私は、その歪みごと王宮へ戻る。




