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捨てた花嫁の影で、王冠は腐る  作者: 九葉(くずは)


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7/7

第7話 捨てた花嫁の影で、王冠は腐る

戴冠前儀の朝、王宮は白く整えられていた。


白い絹布、白い花、白い燭台、白い礼装。どこを見ても、汚れなど存在しないと言い張るための色で満ちている。けれど、前庭の白百合はすでに黒ずみ始めており、香でごまかした甘い腐敗の匂いが、扉の隙間から忍び込むように広間へ流れ込んでいた。


私は謁見の間の控え廊下で、自分の手を見下ろしていた。


指が、少し震えている。


昨夜、オルフェウス様に手伝ってもらった黒いリボンは、今朝も少し歪んでいた。自分で直そうとすれば、またほどける気がして、そのままにした。完璧に結ばれたリボンでなくてもいい。ほどけていなければ、私の影を連れていける。


「水を」


小さく言うと、隣にいたオルフェウス様が、すぐに杯を差し出してくれた。


「救出ですか、給水ですか」


「給水です」


「承知しました」


彼は真面目に頷いた。こんな時でも、その硬さは変わらない。


杯の水は冷たかった。喉を通る感触で、ようやく自分が息を詰めていたことに気づく。謁見の間の扉の向こうには、王族、神官、貴族、隣国使節、民代表が揃っている。今日の儀は、クラウディオ殿下が正式な戴冠へ進むための前祝であり、王冠が次代を認めるかどうかを示す場でもあった。


「セレスティア様」


ロザリーが近づいてきた。侍女長の制服はいつも通り整っていたが、袖口の縫い目は今日も少し曲がっている。彼女の表情は静かで、けれど手に持った盆の縁を握る指だけが、わずかに強張っていた。


「焼き菓子をお持ちしました。焦げております」


「今食べると、喉につかえそうです」


「では、終わった後に」


「ありがとうございます」


ロザリーは一礼し、私の黒いリボンへ視線を向けた。


「結び目は、まだ少し歪んでおります」


「知っています」


「ほどけてはおりません」


「はい」


彼女はそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。


「ならば、十分です」


ギルベルトは眼鏡を磨いていない。磨き布を懐に入れたまま、両手を膝の前で固く組んでいる。磨かないようにしているのだと分かる。その我慢が、かえって彼の緊張を示していた。


さらにその隣で、マリウス神官長が目元を赤くして立っている。今日は薄めると言っていた激辛茶を、結局また濃く淹れたらしい。辛い香りが、控え廊下の空気にじわじわ混ざっている。


「薄めると仰っていたのでは」


私が尋ねると、神官長は厳粛な顔で答えた。


「薄めました」


「そうは思えません」


「心の中で薄めました」


ロザリーが咳払いをした。オルフェウス様が真剣に考え込む顔をする。私は、こんな場面で笑いそうになる自分に驚いた。


けれど、笑えそうになることが、ありがたかった。


怖さだけでは立てない。怒りだけでも、きっと最後まで歩けない。こういう少し曲がった縫い目や、磨かれすぎた眼鏡や、薄まっていない辛い茶が、私を人の中へ戻してくれる。


謁見の間の扉が開いた。


白い光が流れ込んでくる。


私は黒いリボンに触れ、足元の影を確かめてから、一歩を踏み出した。


謁見の間は、まるで冬の祭壇のようだった。


白絹が壁を覆い、銀の燭台が並び、天井の水晶灯が無数の光を落としている。広間の中央には、王冠を置くための祭壇が設けられ、その周囲を白百合が囲んでいた。ただし、近くで見れば、その花弁の端は黒く縮れている。香炉から漂う百合の香は、腐敗の匂いを隠そうとして、かえって甘さを濃くしていた。


玉座の前には、クラウディオ殿下が立っていた。


金の礼装は、以前と同じように華やかだ。けれど、顔色は悪い。目元に薄い影があり、白い手袋をはめた指は、何度も何度も爪のあたりをこすっている。黒蜜はもう見えないのに、まだそこに残っている気がしているのだろう。


その隣には、ミレーヌ嬢がいた。


今日の彼女は白いドレスを着ている。おそらく、あえて白へ戻したのだ。怖くないと示すために。自分は聖女なのだと、誰よりも自分へ言い聞かせるために。


けれど、袖口のレースは厚すぎた。黒い染みを隠すために重ねられた布が、彼女の手首を少し不自然に膨らませている。彼女はそれを気にして、指先で何度も押さえていた。


王妃エヴァリス様は、玉座の右側に座っていた。背筋は真っ直ぐで、顔にはほとんど感情がない。けれど膝の上で重ねられた手は、左の親指が右の指を強く押している。王妃としてここにいる人。母として、息子の失敗を見たくない人。その二つが、同じ身体の中で静かに争っているのが分かった。


クラウディオ殿下が、私を見た。その目に、勝ちを確信する光はなかった。代わりに、苛立ちと安堵が混ざっている。私が戻ってきたことに、彼はまだどこかで安心しているのだろう。戻ってきたなら、また使える。そう思いたいのだ。


「セレスティア。よく戻った」


その言葉の中には、謝罪がなかった。


私は礼をした。王太子の元婚約者としてではなく、隣国使節団の儀礼師として、過不足のない角度で。


「本日は、王冠の状態を確認するため参りました」


「違う。君は、自分が王冠へ何をしたのかを明らかにするために来たのだ」


広間に、薄いざわめきが走る。


私は顔を上げた。扇を持つ令嬢たち、年配の貴族、神官たち、隣国使節、民代表。皆の視線が集まっている。大広間で婚約破棄を告げられた夜と同じように、視線は重い。けれど、今は背後にロザリーがいる。ギルベルトがいる。マリウス神官長がいる。オルフェウス様がいる。


そして、足元には私の影がある。


「では、王冠へお尋ねくださいませ」


私は静かに言った。


「私が穢したのか、それとも私が去ったことで腐敗が隠れなくなったのか」


殿下の眉が動いた。


「王冠に尋ねる?」


「はい。王冠は、嘘をつきません」


マリウス神官長が前へ出た。彼は銀の調律鈴を手にし、祝詞を唱える。声は年齢を感じさせないほどよく通り、辛い茶で痛めたらしい喉を少しだけ気にしながらも、音程は一つも揺れなかった。


祝詞が終わる。


広間は静まり返った。


塔の鐘は、鳴らない。神官長の手の中の調律鈴も、沈黙したままだった。


「鐘の調子が悪いだけだ」


クラウディオ殿下が声を上げた。


マリウス神官長は、ゆっくり顔を上げた。


「鐘楼の機構に異常はございません。神殿の祈りの手順にも欠けはありません。応じていないのは、王冠です」


広間が揺れた。


「では、王冠を見ればよい」


殿下は祭壇へ向かった。


ミレーヌ嬢が一瞬、袖口を押さえる。その顔には、止めてほしいという色が浮かんだ。だが彼女は何も言わなかった。言えなかったのだろう。彼女は聖女として、王太子を信じる姿を見せなければならない。


殿下の手が、白絹へ伸びる。


布が取り払われた。


その瞬間、謁見の間の空気が凍った。


王冠は、黒く濡れていた。


黄金の蔓飾りの隙間から、黒い蜜がにじみ、蒼玉の奥には太い墨筋が走っている。中央の宝石だけではない。小さな宝石座のひとつひとつにも腐敗が回り、王冠全体が内側から熟れすぎた果実のように傷んでいた。


誰かが悲鳴を上げた。貴族の一人が、思わず扇を落とす。銀の骨が床に当たり、乾いた音を立てた。


クラウディオ殿下は、顔を強張らせながら王冠へ手を伸ばした。


「これは、あの女の影が」


指が王冠に触れた。


王冠が、低く鳴った。


前にも聞いた音だった。床下の器に内側からひびが入るような、深く鈍い音。黒蜜が王冠の縁からあふれ、殿下の白い手袋へ垂れる。彼は反射的に手を引いたが、黒蜜はもう指を濡らしていた。


その黒は、手袋の白へ瞬く間に染み込んだ。


「違う。これは」


殿下の声が揺れる。


ミレーヌ嬢が、急いで前へ出た。


「私が清めますわ」


誰も止める間がなかった。


彼女は両手をかざし、白い光を生んだ。花びらの形をした光が広間へ舞う。美しい。今でも、美しいと思う。けれどその光に触れた瞬間、王冠の腐敗はさらに輪郭を強めた。


黒蜜が、隠れていた傷口からあふれ出す。


蒼玉の奥の墨筋は枝を伸ばし、王冠の影が床に歪んで広がる。ミレーヌ嬢の光は、腐敗を消さない。ただ、照らしている。美しい光で、美しくない真実を余さず晒している。


「なぜ」


ミレーヌ嬢の声は、小さかった。


彼女の白いドレスの裾に、黒蜜が一滴落ちた。黒は布へゆっくり広がり、白い刺繍の花を塗りつぶしていく。


「いや……いや、違います。私は」


彼女は光を強めようとした。けれど手が震えて、花びらの光はばらばらに散る。涙は出ていなかった。泣き方を忘れた人の顔で、彼女は自分のドレスに広がる黒を見ている。


「私は、聖女ですもの」


その言葉は、もう誰かへ向ける飾りではなかった。自分が崩れないように唱える、細い呪文だった。


私は彼女から目を逸らさなかった。彼女を許すためではない。傷ついた人の顔を見たからといって、されたことが消えるわけではない。けれど、その顔を踏みつけて勝ち誇ることも、私のしたいことではなかった。


「ミレーヌ嬢。あなたの光が美しいことは、否定しません。けれど、王冠を浄化する力ではありませんでした」


その言葉は、刃だったかもしれない。けれど、嘘ではなかった。


ミレーヌ嬢は唇を震わせ、何も言えずに一歩下がった。背後の侍女が彼女を支えようとする。彼女は振り払わなかった。ただ、立っていられない人のように、その手を受け入れた。


クラウディオ殿下が叫んだ。


「セレスティア! お前が何かしたのだろう!」


私は、答える前にロザリーを見た。


彼女は一歩前へ出た。侍女長としてではなく、証人として。


「私は、セレスティア様が夜ごと儀礼室で王冠の腐敗を受けていたことを見ております。儀礼後、立つことも難しい状態であっても、殿下へ王冠の異常を報告し続けておられました」


「黙れ、ロザリー」


殿下の声が飛ぶ。


ロザリーの肩が一瞬だけ震えた。けれど、彼女は下がらなかった。


「黙っておりました。長く、黙っておりました。ですが、これ以上はできません」


彼女はそう言い、曲がった袖口をぎゅっと握った。


「セレスティア様は、王冠を穢したのではありません。王冠からあふれるものを、誰にも見えない場所で受けておられたのです」


次に、ギルベルトが進み出た。老冠匠は、眼鏡を外さなかった。磨き布も出さなかった。両手で小さな箱を持ち、その中から蒼玉の欠片を取り出す。


「これは、昨日、王冠の宝石座から剥がれた欠片だ。光を当てたことで腐敗が消えたのではない。内側の傷が露出した」


「ギルベルト、お前まで」


「王冠は、セレスティア様の影に応じていた。婚約が決まった年からだ。王冠は王家の血だけを見ていたのではない。王家の腐敗を受け止める影を、見ていた」


「馬鹿な」


「馬鹿だったのは、見て黙った私だ」


その一言に、広間が静まった。


マリウス神官長が、調律鈴を掲げた。


「祝福の鐘は、殿下に応じませんでした。ミレーヌ嬢の光にも応じませんでした。ですが、セレスティア嬢の影に、わずかに共鳴しております」


彼は鈴を私の足元へ近づけた。


私は深く息を吸い、影を少しだけ広げる。


銀の鈴が、かすかに鳴った。


小さな音だった。けれど、謁見の間の誰もが聞いた。


足元の影が、王冠へ向かって伸びる。私は動かしていない。影のほうが、王冠に呼ばれているのだ。王冠の黒蜜が、私の影へ落ちた。影はそれを吸おうとした。何年も続けてきたように、当然の手順として、王冠の腐敗を受け止めようとした。


私は、影を止めた。


足元の黒が、ぴたりと動きを止める。


胸の奥が痛んだ。今なら、たぶん少しは浄化できる。王冠を休ませ、黒蜜の流れを止め、祝福の鐘を鳴らすための道を作ることもできるかもしれない。


でも、それをクラウディオ殿下へ返すのか。


私を影と呼び、黙っていろと言い、必要になったら戻れば許すと思っていた人の頭上へ、もう一度この王冠を載せるのか。


違う。


それは、責任ではない。


搾取だ。


私は影を自分の足元へ戻した。


王冠が、ひどく低く鳴った。


黒蜜がさらにこぼれ、白百合の花弁を染める。クラウディオ殿下は青ざめ、王冠から一歩下がった。けれど、下がった先にはもう玉座の影がなかった。


「セレスティア」


クラウディオ殿下の声が、かすれた。


「浄化しろ」


命令だった。


まだ、命令だった。


「戻れば許す。いや、婚約の件も考え直してやる。お前は、私の影だったはずだ。王家のために働くのが、お前の役目だったはずだ」


私は殿下を見た。


彼は怖がっている。手袋は黒く染まり、額には薄い汗が浮いている。失敗を認めれば、自分が空っぽだと分かってしまう。王太子として生まれ、王冠を戴くために育てられた人が、その王冠から拒まれている。


「いいえ」


声は、思ったより震えなかった。


「私は、私の影です」


その言葉が広間に落ちた瞬間、黒いリボンの端がふわりと揺れた。


「王冠を見捨てるのか」


「王冠を見捨てるのではありません。あなたのために、私を差し出さないだけです。民を守るために必要な応急の処置と技術的助言はいたします。けれど、あなたの戴冠を支えるために、もう私の影を使わせることはありません」


言ったあと、胸が痛んだ。それでも、痛みは間違いではなかった。


王妃エヴァリス様が、ゆっくり立ち上がった。


「クラウディオ」


殿下の顔が、ほんの少し幼くなった。


「母上」


その呼び方に、王妃の指が一瞬だけ震えた。彼女は息子を愛しているのだろう。たぶん、愛している。だからこそ、この場で切り捨てることは簡単ではない。


けれど彼女は、広間の中央へ視線を戻した。


「王冠は、あなたに応じていません。祝福の鐘も沈黙しています。このまま戴冠へ進むことは、王国の根を腐らせることになります」


「母上、違います。これはセレスティアが」


「まだ、その名を責任逃れに使うのですか」


王妃の声は鋭くなかった。だからこそ、逃げ場がなかった。


「王妃エヴァリスの名において、王太子クラウディオ・グランシェルの戴冠前儀を停止します。継承権については、王族会議および神殿立会いのもと、即時審議へ移します」


広間が、大きくざわめいた。


ミレーヌ嬢は、その場に座り込みかけた。侍女が支える。彼女は抵抗しなかった。白いドレスの裾には黒い染みが広がり、花の刺繍を飲み込んでいる。


「私は、聖女では」


彼女は小さく呟いた。


誰も答えなかった。その沈黙は罰のようでもあり、ようやく嘘を続けなくてよいという終わりのようでもあった。


クラウディオ殿下は、王妃に向かって一歩踏み出そうとした。だが、足元に影がない。玉座の影が離れ、王冠の影も離れ、彼の靴の下には水晶灯の光だけが残っていた。


光は明るい。けれど、人が立つには薄すぎる。


殿下は王冠の重みに耐えられない人のように、膝をついた。


その姿を見た時、胸がすく感覚がなかったと言えば嘘になる。けれど同時に、ひどく空しくもあった。彼は私を見下し、使い、疑った。その報いを受けている。けれど、膝をついた彼は、ただ何か大きな役にしがみつきすぎた一人の人間にも見えた。


だからといって、手は差し出さない。


それが私の境界線だった。


数日後、クラウディオ殿下の継承権の停止が正式に告げられた。


彼は王宮地下の王冠保管室へ下りる役目を命じられた。


そこは、かつて私が夜ごと通った儀礼室よりもさらに冷たい場所だった。窓はなく、燭台の火はいつも細く、王冠から落ちる黒蜜の音だけが、石床にぽたり、ぽたりと響く。


彼は毎朝、白い手袋をはめて王冠台の前に立つ。


最初の一滴を拭う時、必ず顔をしかめると聞いた。黒蜜は布に染み込み、指先まで冷たく濡らし、何度洗っても爪の際に残ったような気がするらしい。彼はかつて私に「影なら、黙ってそこにいろ」と言った。その彼が今は、誰にも見えない地下で、誰にも褒められない仕事を黙って続けている。


王冠は、彼が触れるたびに低く鳴る。


祝福ではない。


拒絶の音だ。


その音を聞くたび、クラウディオ殿下は手を止める。けれど止めれば、黒蜜はまた一滴、石床へ落ちる。彼が拭わなければ、腐敗は広がる。彼が見ないふりをすれば、次の朝にはもっと濃くなる。


かつて私に押しつけた影の仕事は、今度こそ彼自身の手に戻った。


ただし、彼には私のように腐敗を受け止める影はない。


あるのは、汚れた手袋と、鳴らない鐘と、誰にも届かない後悔だけだった。


ミレーヌ嬢は聖女候補の資格を失い、神殿の療養院へ送られた。


白いドレスは取り上げられ、代わりに渡されたのは、飾り気のない薄灰色の修道衣だった。最初の朝、彼女は袖口に光の花びらを咲かせようとしたが、現れた光は小さく震え、すぐに消えた。


誰も感嘆の声を上げなかった。


誰も彼女を聖女と呼ばなかった。


彼女はその沈黙の中で、初めて自分の光が人々の視線に支えられていたことを知った。美しいと言われるたび、本物になれた気がしていた。けれど光は王冠を救わず、白いドレスは黒く染まり、彼女の名前から聖女候補という飾りだけが剥がれ落ちた。


療養院で彼女に与えられた仕事は、夜泣きする子どもの手を握り、眠るまでそばにいることだった。


光を咲かせる必要はない。


涙を飾る必要もない。


けれど、誰かの苦しみから逃げずに座っていることは、彼女が思っていたよりずっと難しかった。


私は、王宮を去った。


今度は追われるのではなく、自分で歩いて。


ロザリーは最後まで見送ってくれた。彼女は餞別として、焦げた焼き菓子を布包みに入れてくれた。袖口の縫い目は、やっぱり少し曲がっている。


「直しませんの?」


私が尋ねると、彼女は真面目な顔で答えた。


「最近、少し曲がっているくらいが落ち着くようになりました」


「それは、よいことなのでしょうか」


「たぶん」


その曖昧な答えに、二人で少し笑った。


隣国ヴェルナードへ戻ったのは、春の初めだった。


使節館の温室宮では、白銀草が青灰色の影を深く抱いている。リゼットは私を見るなり走ってきて、途中で鉢植えを避け損ね、帳面を落とし、前髪に土をつけた。全部いつも通りだった。


「お帰りなさいませ、セレスティア様」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が温かくなる。


帰る場所。


その言葉は、今まで少し怖かった。帰る場所とは、戻らなければならない場所のことだと思っていたからだ。けれど、ここで言われたお帰りなさいは、命令ではなかった。


私は温室の奥に、小さな工房を持つことになった。


影織りの工房だ。王冠を支えるためではなく、病んだ庭や、眠れない子どもや、戦で影を欠いた騎士たちのために、影を整える場所。最初の依頼人は、悪夢で眠れない少年だった。私は彼の足元に柔らかい影を戻し、母親が持ってきた羊毛の靴下を少し温めてから履かせた。


影織りは、王冠のためだけの技術ではなかった。


ある朝、オルフェウス様が工房へ薬草茶を持ってきた。


「改善しました」


彼は誇らしげではなく、慎重な顔で言った。


「今回は、森の床ではありませんか」


「森の入口くらいです」


「まだ森なのですね」


「蜂蜜を増やしました」


「根本的な解決ではありませんね」


「はい。補強です」


二人でしばらく杯を見つめる。


私は覚悟を決めて一口飲んだ。苦い。けれど、以前ほど土を噛んでいる感じはしない。蜂蜜の甘さが少しだけ勝っている。


「飲めます」


「それは、褒め言葉でしょうか」


「私にとっては」


オルフェウス様は、少しだけ安心したように息を吐いた。


私は黒いリボンを髪に結んでいた。王宮の儀礼用ではない。工房で影織りをする時、髪が邪魔にならないようにするためのものだ。今日の結び目は、少しだけ真っ直ぐだった。たぶん、慣れてきたのだと思う。けれど完璧ではない。右端が少しだけ長い。


「今日は、よく結べています」


「ありがとうございます」


褒められても、鉢植えの陰へ逃げなかった。


「セレスティア様」


オルフェウス様が、いつもより少し緊張した声で呼んだ。


「あなたの隣にいる許可を、これからも求めたいと思っています」


言葉の形が、あまりにも硬い。まるで外交文書の冒頭だった。たぶん彼は、何度も考えて、考えすぎて、その結果こうなったのだろう。


「許可ではなく、相談にしてください」


彼は真剣に考え込んだ。


「相談」


「はい。隣にいるかどうかは、一方が許可して終わるものではないと思います」


「その通りです。言い直します」


彼は少し息を吸った。


「隣にいたいです」


今度は、とても短かった。


短すぎて、私は思わず笑ってしまった。けれど笑いながら、胸の奥が温かくなる。


「私も、相談しながらなら」


「はい」


「薬草茶の味についても、相談します」


「それは重要ですね」


「とても重要です」


温室の小さな鐘が鳴った。


白銀草の結界が安定した合図だ。王宮の祝福の鐘とは違う。けれど、その音は澄んでいて、私の工房の朝にちょうどよかった。


私は窓辺に立ち、足元の影を見た。


もう誰かの足元に縫いつけられる影ではない。王冠の下で黙って腐敗を受け続ける影でもない。私の影は、私の足元にあり、私が歩く方向へ伸びている。


黒いリボンが、朝の光の中で静かに揺れた。


王冠は遠くで、まだ少しずつ癒えているのだろう。


けれど、花嫁はもう腐らない。


私は私の影を連れて、自分の明日へ歩いていく。

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