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捨てた花嫁の影で、王冠は腐る  作者: 九葉(くずは)


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第5話 戻れという命令

王宮からの使者は、雨の匂いを連れて来た。


その日は朝から空が低く、使節館の温室にも薄い灰色の光が差し込んでいた。硝子屋根を叩く雨粒はまだないのに、土はもう湿り、白銀草の葉裏にはいつもより濃い影が宿っている。植物は天気の変化に敏い。人より先に空の重さを知り、根の奥で静かに身構える。


私は白銀草の鉢の前に膝をつき、葉の影を確かめていた。昨日より落ち着いている。根元の揺れも少ない。影は戻した後もすぐ安定するわけではないから、数日は見守る必要がある。そうリゼットに説明したところで、温室の入口に立つ使節館の従者が、控えめに咳をした。


「セレスティア様。王宮より、使者が参っております」


その言葉を聞いた瞬間、白銀草の葉先が震えた気がした。実際には、私の手がわずかに動いたのだと思う。葉は私の影に反応しやすくなっている。術者の心が揺れれば、戻したばかりの影にも細かな波が立つ。


リゼットが、帳面を閉じた。彼女は何か言いたそうに私を見たが、口を開かなかった。代わりに、私の前髪を一瞬だけ見て、それから自分の跳ねた前髪を押さえる。額に土の筋がついているのに、やはり気づいていない。


その普段通りの不器用さに、少しだけ息ができた。


「分かりました。すぐに参ります」


応接室には、王宮の紋章をつけた若い使者が立っていた。顔は見覚えがある。確か、王太子府の書記補の一人だ。以前、儀礼室に必要な蝋燭の数を間違えて届け、ロザリーに三日続けて倉庫番を手伝わされた青年だった。


彼は私を見ると、あからさまにほっとした顔をし、それから慌てて王宮式の礼を取った。


「セレスティア・ルーベル様。王太子クラウディオ殿下より、帰還命令をお預かりしております」


帰還命令。


その硬い言葉は、応接室の空気に不釣り合いだった。窓辺には温室から分けられた薬草の鉢が置かれ、丸机にはオルフェウス様が昨日淹れた薬草茶の残り香がある。森の床の味がするあの茶と、王宮の命令文は、どうにも同じ部屋に収まりが悪い。


封を切ると、紙の匂いがした。王宮の書簡用紙は香を焚き込めてある。淡い百合と沈香の香り。以前は品がよいと思っていたのに、今は少し息苦しい。


文面は短かった。


セレスティア・ルーベルに命ず。王冠浄化の儀に関する疑義を晴らすため、ただちに王宮へ帰還せよ。クラウディオ・グランシェル王太子の名において、出頭を命じる。


私は一度、読み終えた紙から目を離した。


短い。あまりにも短い。昨夜の婚約破棄についても、私を王冠を穢した者だと疑ったことについても、何も書かれていない。ただ、戻れとある。まるで私は、王宮の引き出しから一時的に持ち出された道具で、必要になったから戻せと言われているようだった。


「殿下は、私に何か他の言葉を?」


私が尋ねると、青年は目を泳がせた。


「その、殿下は……戻れば、寛大に扱うと」


応接室が、少し遠くなった。


戻れば、寛大に扱う。


私が許される側なのだ。彼の中では、まだそういう形になっている。婚約を破棄し、王冠の異常を私のせいにし、影なら黙ってそこにいろと言った人が、今度は寛大に扱うと言う。


怒りより先に、疲れが来た。


「使者殿。ご苦労でした。返答は、後ほど正式にお渡しいたします」


青年は、またほっとした顔をした。拒絶の言葉をその場で聞かされずに済んだことに安堵したのだろう。彼は礼をして部屋を出ていき、扉が閉まる直前、廊下の向こうで誰かに小声で道を尋ねていた。


王宮の使者も、他国の使節館では迷うのだ。その当たり前の事実が、少しだけ滑稽で、少しだけ寂しかった。


オルフェウス様は、すでに使者の来訪を知っていたのだろう。灰青の上着はきちんと整っているが、手元には折り畳まれた護衛配置図のような紙束があった。


嫌な予感がした。


「王宮からですか」


「はい。帰還命令です」


「文面を拝見しても?」


渡すと、彼はすばやく読み、眉を寄せた。怒りというより、何かを計算している顔だった。外交官の顔だ。国境、護衛、法的立場、王宮への入城経路。そういうものが彼の頭の中で並び替えられているのが分かる。


「戻る必要はありません」


彼は言った。


それは、私を気遣う言葉だったはずだ。けれど私の足元の影が、すっと縮んだ。


「オルフェウス様」


「王宮はあなたを保護する意思を示していません。疑義を晴らすという文言も危険です。責任をあなたに転嫁する可能性が高い。こちらで抗議文を作成し、王宮側には中立の場での聴取を要求します」


彼は言いながら、持っていた紙束を机へ広げた。護衛の配置図だった。使節館から王都東門までの経路、途中で待機する馬車、隣国への移送手順、王宮からの追手を想定した別経路。あまりにも整っている。あまりにも用意されている。


善意であることは分かる。私を守るためだ。王宮から遠ざけるために、彼は昨夜からほとんど眠らずにこれを整えたのかもしれない。紙の端には、薬草茶の染みらしき小さな輪がついている。彼もまた、眠らずにいたのだろう。


それでも、胸の奥が冷えた。


「いつから、用意を?」


「王宮があなたの帰還を求める可能性は高いと考えていました」


「それで、私を王宮から遠ざける準備を」


「はい。あなたが戻れば危険です」


「危険なのは分かっています。ですが、戻るかどうかは、私が決めます」


オルフェウス様は、はっとしたように私を見た。


その表情で、彼自身も気づいたのだと思う。自分が、私の選択より先に答えを出していたことに。


彼は机に広げた護衛配置図を丁寧に畳み始めた。折り目を揃え、角を合わせ、端を指で撫でる。その動きは落ち着いているようでいて、少しぎこちなかった。言い訳を整えようとして、まず紙を整えてしまう人なのだと、私は妙なところで理解する。


「申し訳ありません。あなたを守るつもりで、あなたの口を奪いかけました」


その言葉に、胸の奥の冷えが少しだけ揺らいだ。


「私も、言い過ぎたかもしれません」


「いいえ。必要な指摘です」


「必要でも、少し尖っていました」


「尖った言葉を受け取る準備も、必要です」


彼は真面目に言った。


「私は王宮へ戻ります」


口にした瞬間、影が足元で濃くなった。


「王家を救うためではありません。クラウディオ殿下に許しを乞うためでもありません。王冠の腐敗が私のせいではないこと、そして私が何を担っていたのかを、私の口で示すためです」


「危険です」


「はい」


「殿下は、あなたを犯人に仕立てる可能性がある」


「それも分かっています」


「ミレーヌ嬢も、自分の失敗を認めないでしょう」


「分かっています」


「それでも?」


「それでも」


私は封書を机に置いた。王家の香が、まだ紙から漂っている。白百合と沈香。嫌な匂いではないはずなのに、今は湿った鎖のように感じる。


「黙っていろと言われた場所へ、黙って戻るつもりはありません」


オルフェウス様は、しばらく何も言わなかった。彼は私を危険な場所へ行かせたくない。たぶん、それは本心だ。けれど、彼の本心が私の意思より重くなれば、結局それは王宮と似た形になる。


彼はゆっくり息を吐いた。


「では、私は止めません。代わりに、帰れる道と、戻れる場所を用意します。あなたが王宮で話す場を整え、あなたが退くと決めた時には退けるようにする。それは、許されますか」


私は少し考えた。守られることと、囲われることの境目は難しい。けれど彼は、私に尋ねた。許されますか、と。


「はい。お願いします」


オルフェウス様の肩から、ほんの少し力が抜けた。


同じ頃、クラウディオ殿下は王太子の執務室で何度も手袋を替えていた。


黒蜜がついた指先は、もうほとんど汚れていない。侍医も、皮膚に異常はないと言った。だが爪の際に残っているような気がして、彼は白い手袋をはめては外し、また新しいものを求めた。


机の上には、神殿からの報告が積まれている。祝福の鐘は、依然として沈黙。鐘楼の機構に異常なし。白の間での王冠浄化の儀は中断。王宮庭園の白百合、三割が黒変。


「戻れば、収まる」


彼は呟いた。


「戻れば、あれも謝るだろう。いや、謝らせる必要はない。儀礼をさせればよい。婚約の件は、処分を軽くしてやれば」


クラウディオ殿下の中では、セレスティアはまだ戻ってくる人間だった。戻らないという選択肢を、彼は本当の意味で想像できていない。なぜなら、これまで彼女はいつも戻ったからだ。警告を無視されても、笑われても、儀礼室へ降りた。


扉の外で、控えめな声がした。


「殿下、ミレーヌ様がお見えです」


入ってきたミレーヌは、淡い桃色のドレスを着ていた。白ではない。白を着るのを避けたのだろうと、殿下は一瞬で気づいた。昨日の黒い染みが、彼女の中にまだ残っているのだ。


「クラウディオ様。セレスティア様は、戻られるのでしょうか」


「戻る」


殿下は即答した。そう言わなければ、机の上の報告書が一斉に重くなる気がした。


「戻れば、王冠は」


「君が心配することではない。あの女が王冠に影を残したのだ。本人に始末させる」


ミレーヌは少し黙った。


「私、怖かったのです」


彼女は小さく言った。その声は、広間で涙を飾る時の声とは違っていた。もっと幼く、もっと剥き出しで、誰かに見せるためではない弱さが混じっている。


クラウディオ殿下は、返事に詰まった。彼自身も怖かった。王冠が指先で黒く鳴った瞬間の感触が、まだ皮膚の奥に残っている。


だから彼は、彼女を抱きしめる代わりに、机の上の報告書を一枚裏返した。


「大丈夫だ。君の光は正しい」


その言葉は、ミレーヌを慰めるためであり、自分を慰めるためでもあった。


夕方、使節館の温室では、王宮へ向かう準備が進められていた。私の荷物は少ない。黒いリボン、影織りの記録、着替え、女将から買った焦げた焼き林檎を包んだ布。


リゼットは、白銀草の小さな鉢を差し出そうとしていた。


「持って行かれますか」


「王宮へ、鉢植えを?」


「影が落ち着きます」


「それは、白銀草がですか。私がですか」


「両方です」


真顔で言われると、断りにくい。けれど王宮へ鉢植えを抱えて入る自分を想像し、私はさすがに首を振った。


「ありがとうございます。でも、今回は置いていきます。白銀草には、ここで休んでいてもらったほうがいい」


私は黒いリボンを髪へ結んだ。一度目は失敗し、二度目でどうにか結べた。左右は少し不揃いだが、今日はそれでよいことにする。


王宮のためではない。


私の影を、私が連れていくための結び目だ。


「セレスティア様」


オルフェウス様が呼んだ。


「馬車は用意できています。使節館から王宮までは、私も同行します。王宮内では、あなたの発言の場を求めますが、あなたの代わりに話すことはしません」


「ありがとうございます」


「ただ、危険を感じたら、合図をください」


「どんな合図を?」


「黒いリボンに触れる、というのはどうでしょう」


私は黒いリボンへ手をやりかけ、すぐ止めた。


「私、緊張すると何度も触ります」


「では、合図として不適切ですね」


「かなり頻繁に救出されることになります」


彼は真剣に想像したのか、少し困った顔をした。


「別の合図を考えます」


「水をください、と言ったら?」


「分かりました」


馬車に乗る前、私は一度だけ温室を振り返った。白銀草の葉が、雨の薄い光の中で静かに揺れている。ここへ戻れる場所がある。そう思えることが、こんなにも足を強くするのだと初めて知った。


オルフェウス様が、馬車の扉の前で手を差し出す。


「手を貸しても?」


「お願いします」


私はその手を取り、自分の足で踏み台へ上がった。


怖い。


その感情は消えない。消えないまま連れていく。怖くないふりをして強くなる必要はないのだと、温室の白銀草が教えてくれた。


私は黒いリボンを結び直した。王宮のためではなく、私の影を連れていくために。

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