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捨てた花嫁の影で、王冠は腐る  作者: 九葉(くずは)


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第4話 光は腐敗を照らすだけ

翌朝、温室の白銀草は昨日より少し深い影を抱いていた。


葉の裏側に戻った青灰色は、眠りから覚めたばかりの鳥の羽みたいに淡く、触れればすぐに消えてしまいそうに見える。それでも、昨日まで紙のように白く乾いていた葉が、今は光を受けても焦げつかず、根元からゆっくり呼吸しているのが分かった。


私は硝子越しの朝日を避けながら、白銀草の根元へ手をかざす。足元の影が細く伸び、葉と葉の間へ差し込んでいく。王冠の腐敗を受ける時の影は、いつも冷たく沈んでいたけれど、ここで動かす影は湿った土に近い。吸い取るのではなく、戻すための影だった。


「昨日より、根の揺れが落ち着いています」


そう言うと、温室管理人のリゼットが目を輝かせた。彼女は今日も前髪だけが湿気に負けて跳ねていて、気づくたびに指で押さえるのだけれど、押さえた指に土がついているせいで、額に薄い筋ができている。


「根の揺れ、というのは、影の乱れとは違うものですか」


「似ていますが、少し違います。影の乱れは、眠る場所を失っている状態です。根の揺れは、眠る場所を見つけても、まだ安心して体を預けられない状態と言えば近いでしょうか」


「人間で言うと、寝台には入ったけれど、まだ肩に力が入っているような」


「はい。昨日の私のように」


言ってから、しまったと思った。


リゼットは一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。笑われたのではなく、同じものを見つけた時の笑い方だったので、私は怒る代わりに前髪を直すふりをした。湿気のせいで、私の髪も一房だけ外へ跳ねている。


「セレスティア様、午後の講義の件ですが」


リゼットが帳面をめくりながら、少しだけ遠慮がちに切り出した。


「本当に、私が話すのですか」


「はい。薬草師、結界師、使節館付きの神官見習いが参加します。昨日の影戻しについて、皆が直接伺いたいと」


直接。


その言葉が、胸のあたりで小さく跳ねた。王宮で求められていたのは、たいてい結果だった。王冠を清めたか、鐘が鳴るか、殿下の顔色が保たれるか。私がどう考え、どう手順を選び、どこで危険を判断したかなど、聞かれたことはほとんどない。


だから、直接聞きたいと言われると、嬉しいより先に困ってしまう。


昼前、オルフェウス様が温室へ来た。今日の彼は執務用の上着を着ており、襟元の留め具が少しだけずれている。いつもきちんとしている人の小さな乱れは目立つもので、私はついそこを見てしまった。


「何か」


「留め具が、少し斜めです」


「失礼しました」


彼はすぐ直そうとしたが、一度目は逆に曲がり、二度目でようやく真っ直ぐになった。外交官でも留め具に負ける朝があるのだと思うと、なぜか心が軽くなる。


「午後の講義についてですが、無理に長く話す必要はありません。ただ、あなたが話しにくければ、私が質問を整理します」


「代わりに説明してくださる、という意味ではありませんよね」


私が尋ねると、オルフェウス様は少しだけ息を止めた。


「いいえ。あなたが話すために、話しやすい順番を作るだけです。必要がなければ、水を差し出す係に徹します」


「水を」


「昨日、鉢植えの陰から出る時に、それが一番有効だったので」


忘れていてほしかった。けれど、変に気を遣ってなかったことにされるより、こうして実務として扱われたほうが、かえって呼吸しやすい。


「では、水をお願いします。たぶん、喉が渇きます」


「承知しました」


彼はまるで重要な外交任務を引き受けたように頷いた。


その頃、王宮では、二度目の王冠浄化の儀が始まろうとしていた。


儀礼室ではなく、神殿に近い白の間が選ばれたと聞いた。クラウディオ殿下は、私の影が染みついた地下室を使うことを嫌がったのだろう。白大理石の壁と青い硝子天井を持つその部屋は、光の聖女を演出するには、よくできた舞台だった。


ミレーヌは、真新しい白い手袋をはめていた。袖口の内側には、急いで直した針目が残っている。侍女が徹夜で縫ったのだろう。近くで見れば、糸の終わりが一本だけ飛び出している。


ミレーヌはそれを何度も指で押さえた。完璧な聖女に見えるために整えられた衣装の、たった一本の糸。人は時々、他人には見えないほつれに心を縛られる。


「ミレーヌ」


クラウディオ殿下が、彼女の名を呼んだ。


「君ならできる。あの女の影が残した不吉を、君の光で晴らすのだ」


ミレーヌは頷いた。彼女はたぶん、その言葉に傷ついたのではなく、すがったのだろう。君ならできる、と言われた人は、できないかもしれない自分を隠す場所を失う。けれど同時に、その言葉を手放せば、自分が立っている床まで崩れてしまう。


王冠は白い布の上に置かれている。昨日より黒蜜の量は減っているように見えるが、それは表面を拭き取ったからだ。蒼玉の奥に広がる黒い筋は、かえって深くなっていた。


「始めますわ」


ミレーヌが手をかざす。


白い光が生まれた。花びらの形をした光が王冠の周囲に舞い、白の間を柔らかく照らす。見た目だけなら、昨日よりずっと美しい。青い硝子の光と混ざり合い、まるで天上の庭が降りてきたようだった。


その瞬間、王冠の蒼玉が黒く濁った。


黒蜜は表面からではなく、宝石の内側から湧いた。蒼玉の奥にあった黒い筋が、光に照らされてくっきり浮かび上がり、黄金の蔓飾りの裏側へ伸びていく。昨日までは隠れていた腐敗の根が、部屋の全員に見える形で姿を現した。


「消えない……」


ミレーヌが呟いた。それは演技ではなかった。


王冠から、どろりと黒蜜が垂れた。白い布へ落ちた滴は、そこからじわじわと広がり、まるで布地の下に黒い花が咲くようだった。ミレーヌは慌てて光を強めたが、強めるほど腐敗の輪郭は鮮明になり、王冠の影が白の間の床に歪んで伸びる。


「やめよ」


老冠匠ギルベルトが低く言った。


「このままでは、宝石の座が割れます」


「黙れ。ミレーヌの光が弱いわけではない」


クラウディオ殿下の声には、怒りより恐怖が混じっていた。自分が選んだものが間違いではないと証明したい。自分が捨てたものに価値があったなど、認めたくない。彼の中で、その二つが絡み合っているのが見えるようだった。


ミレーヌは青ざめた顔で、なおも手をかざしている。止まれば、聖女ではない自分が残ってしまう。


「もっと、光を。もっと明るくすれば、きっと」


白の間がまぶしくなる。その光の中で、王冠はさらに黒くなった。


午後の講義室は、思っていたより人が多かった。薬草師、結界師、神官見習い、温室管理人たちが集まっている。机の上には帳面とペンが並び、窓辺には昨日影を戻した白銀草の鉢が置かれていた。


私は入口で立ち止まった。人の視線がこちらへ向く。誰も嘲笑っていない。誰も扇を開いていない。それでも、視線そのものに体が反応してしまう。


「セレスティア様。水は、演台の右側に置いてあります」


オルフェウス様がそれだけ言った。


大丈夫ですかとも、私が代わりましょうかとも言わない。水の場所だけ教えてくれる。その実務的な優しさが、思った以上にありがたかった。


「影織りとは、光を否定する術ではありません」


言えた。けれど声が少し硬い。


「影織りとは、光を否定する術ではありません」


二度目を言ってしまった。前列の神官見習いが、真面目に頷きながら帳面へ書き込んでいる。私は慌てて手を少し上げた。


「今のは、二度書かなくて大丈夫です」


神官見習いの耳が赤くなった。講義室の空気が、少しだけ緩む。


私は息を吸い直した。


「影織りとは、光を否定する術ではありません。光がものを育てるなら、影はものを休ませます。どちらか一方が強すぎれば、根は疲れ、祝福は偏り、器は内側から傷みます」


今度は続いた。


最初の数分、私は自分の声ばかり気にしていた。早すぎないか。震えていないか。専門用語を使いすぎていないか。王宮で話す時は、相手を怒らせない言い方を探してばかりいたので、相手に伝わる言い方を選ぶのに慣れていなかった。


けれど、質問が一つ出ると、少し楽になった。


「影を戻す順番は、植物と人間で違いますか」


「違います。植物は根元から、人間は影の欠けた場所によります。ただ、眠れない人の場合は、足元から戻すことが多いです。頭から戻すと、考えごとまで濃くなってしまうことがあります」


「考えごとまで濃くなる」


「はい。夜中に毛布と和解できなくなるような」


言ってから、また私的すぎたと思った。けれど今度は、講義室の数人が小さく笑った。笑いは軽かった。誰かを傷つけるものではなく、分かった、という合図に近い。


講義が終わる頃には、私の手元の資料の端が少し皺になっていた。緊張して、何度も同じ場所を押さえていたせいだろう。


リゼットが近づき、興奮した様子で帳面を開いた。


「セレスティア様、根元から影を戻す手順について、明日も教えていただけますか。今日だけでは足りません。分からないことが、きちんと増えました」


その言い方に、私はまた笑ってしまった。分からないことが増えるのを、ここでは前進と呼ぶらしい。


王宮の白の間で、王冠浄化の儀は中断された。


中断という言葉は、失敗より聞こえがいい。クラウディオ殿下はその言葉を選んだ。神殿へは、聖女候補ミレーヌの光により腐敗の位置が確認されたため、次なる儀礼準備へ移行する、と伝えられることになった。


けれど、白の間にいた者たちは見ていた。


光は王冠を救わなかった。ただ、腐っている場所を余さず照らした。


夕方、使節館の執務室で、オルフェウス様は王宮から届いた報告書を読んでいた。


「ミレーヌ嬢の光は、腐敗を照らしたのですね」


「おそらく」


「なら、王冠の傷はさらに深く見えるようになったはずです。見えるようになれば、隠すためにもっと強い光を当てるかもしれません」


「その結果、腐敗は進む」


「はい」


私は手を握った。まだ戻れば、止められるかもしれない。その考えは、また胸の奥から浮かび上がる。


「セレスティア様」


オルフェウス様の声がした。顔を上げると、彼は水差しをこちらへ少し押した。


「責任と搾取は違います」


その言葉は、まっすぐすぎて痛かった。けれど、私の中で絡まっていた糸に、一本の線が引かれた。


「もう少し、柔らかく言えませんか」


「申し訳ありません」


「いえ、間違ってはいません。ただ、少し石板で殴られた気持ちになりました」


「石板」


「薄めてください」


彼は真剣に頷いた。


「あなたが悪いわけではありません。けれど、あなたができることはあります。その二つは、分けて考えるべきです」


「少し、飲み込みやすくなりました」


「まだ硬いですか」


「少し」


「改善します」


彼があまりにも真面目なので、私はまた笑いそうになった。


夜、温室の小さな鐘が一度だけ鳴った。その同じ夜、王宮の祝福の鐘は鳴らなかった。


白の間では、王冠を覆う布の下から、黒蜜がじわじわと染み出している。拭っても、隠しても、光で照らしても、腐敗は消えない。


王冠の影は、少しずつ玉座の足元から剥がれ始めていた。


私は温室の窓辺で黒いリボンをほどき、机の上へ置いた。きちんとしていない一日だった。けれど、私の言葉を聞いてくれる人がいて、分からないことを分からないと書いてくれる人がいて、粉々になった菓子を食べてもよい場所があった。


「今日も、少し重かったわね」


影は何も答えない。


王宮の光は、王冠を救わなかった。


ただ、腐っている場所を余さず照らした。

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