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捨てた花嫁の影で、王冠は腐る  作者: 九葉(くずは)


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第3話 夜明け公の下手な親切

翌朝、私は黒いリボンを結ぶのに五度失敗した。


一度目は右端が長くなり、二度目は左端が長くなり、三度目は結び目そのものが裏返った。四度目に至っては髪を巻き込んでしまい、ほどく時に痛くて、思わず小さく息を吸った。


宿の小さな鏡は、王宮の鏡ほど容赦がなかった。磨き抜かれた大鏡は人を少し美しく見せるけれど、宿の鏡は眠れていない目元も、髪の跳ねたところも、頬の血色の悪さも、そのまま返してくる。


王宮を出た。婚約は破棄された。儀礼室の鍵は、もう腰にない。それなのに、髪へ黒いリボンを結ぼうとしている自分がいる。


王宮のための印なら、置いてくるべきだったのかもしれない。けれど、黒いリボンは王宮だけのものではなかった。夜ごと王冠の腐敗を受けた時、震える指を隠してくれたものでもあり、誰にも見られない儀礼室で私の髪をまとめてくれたものでもある。


「今日は、少し曲がっていてもいいわね」


鏡の中の自分にそう言うと、足元の影が返事の代わりに揺れた。六度目で、ようやく結べた。正確には、整ったというより、これ以上触るとまた崩れる形だった。


廊下で足音が止まった。


扉を叩く音は、昨日と同じく控えめだった。急かさず、踏み込まず、けれど逃げ道を塞がない程度に確かな音。


「セレスティア様。オルフェウスです」


扉を開けると、オルフェウス様は昨日より旅装に近い服を着ていた。灰青の上着に、装飾の少ない銀の留め具。王宮の大広間では水晶灯に負けない静かな華があったけれど、宿の薄暗い廊下では、その色が朝の空に溶けるように見えた。


「……眠れましたか」


「正直に申し上げるべきですか」


「可能であれば」


「毛布と和解できませんでした」


彼は一瞬、真剣に考え込んだ。


「毛布の質に問題が」


「いいえ。たぶん、私の寝返りの問題です」


「寝返りにも、技術が必要なのですね」


「必要だったようです。王宮では、寝具が勝手に合わせてくれていたので気づきませんでした」


言いながら、私は少しだけ恥ずかしくなった。王宮を出たばかりの人間が、毛布の扱いに苦戦している。そんな小さな無力さを話してしまったことに、遅れて気づいたのだ。


けれどオルフェウス様は笑わなかった。かわいそうだとも言わない。ただ、部屋の端に畳まれた毛布を一度見てから、慎重に頷いた。


「ヴェルナード側の滞在先には、毛布を三種類用意しています。軽いもの、重いもの、暖かいが少し動きにくいものです」


「三種類」


「念のためです」


「念のためにしては、毛布が多いですね」


「先回りが過ぎると叱られる理由は、そのあたりにあるのだと思います」


本人があまりにも真面目に言うので、私はまた笑いそうになった。


「本当に、私をヴェルナードへ?」


「はい。正確には、まず王都内のヴェルナード使節館へ移っていただきます。国境を越える手続きは、その後あなたの意思を確認してから進めます」


「私が途中で断れば?」


「その時点で止めます」


「準備が無駄になります」


「準備が無駄になることより、あなたの意思を無視することのほうが問題です」


言葉は静かだったが、そこには迷いがなかった。王宮では、私の意思は常に何かの後ろに置かれていた。王家のため、国のため、殿下のため、儀礼のため。それらの言葉は立派で、だからこそ私の声はいつも端へ追いやられた。


「分かりました。使節館へ参ります」


口にすると、足元の影がほんの少し濃くなった。


オルフェウス様はそれを見ても、勝手に分析することはしなかった。ただ、影が落ち着くまで待っているように見えた。その待ち方が、少し不思議だった。


王宮の人々は、私の影を恐れるか、役に立つものとして見るかのどちらかだった。けれど彼は、猫が眠る場所を避ける人のように、私の影を踏まない位置に立っている。


宿の女将に礼を言うと、彼女は帳場から顔を上げずに頷いた。


「焦げた焼き林檎は、また来るなら残しておきます」


「ありがとうございます。けれど、次はいつになるか」


「逃げ場所は、いくつあっても邪魔にはなりません」


私は言葉を返せず、小さく頭を下げた。


馬車が動き出すと、王宮の尖塔が朝霧の奥に見えた。祝福の鐘の塔は、空へ指を伸ばすように立っているのに、今日も音を発していない。


「王宮では、昨夜からどうなっていますか」


聞かずにはいられなかった。


「王冠の腐敗は進行しています。神殿側は鐘楼の不具合として処理したいようですが、神官長は納得していません」


「マリウス神官長は、祝福の鐘の音にうるさい方ですから」


「ご存じなのですね」


「儀礼の時だけ激辛茶を飲まれるので、王冠台の近くまで香りが届きます。辛いものが苦手なのに、気合いを入れるためだと」


「苦手なのに飲むのですか」


「ええ。飲んだあと、必ず目元が赤くなります」


話しながら、私は少し懐かしくなってしまった。王宮には嫌なものだけがあったわけではない。だからこそ、離れることは簡単ではないのだ。


「無理に嫌いになる必要はありません」


オルフェウス様が言った。


「顔に出ていましたか」


「少しだけ。あなたは、王宮を思い出す時に怒るというより、忘れ物をした人の顔をします」


その指摘は、妙に正確だった。取り戻したいわけではない。けれど、捨て切ったと言えるほど軽くもない。


使節館は、王都の東端にあった。ヴェルナードの紋章が掲げられた門は、王宮ほど大きくはないが、石の色が明るく、朝日を受けると壁全体が淡い金に見える。庭には背の低い木々が整然と植えられ、奥には硝子張りの温室が建っていた。


温室。


私は馬車を降りた瞬間、その建物へ目を奪われた。硝子越しに、内側の緑が濃く揺れている。王宮の温室は花の美しさを誇るための場所だったが、ここは少し違う。蔓植物や薬草、背の低い果樹、湿地に似た鉢植えが混ざり合い、整いすぎていない生命の気配がある。


「温室宮と呼んでいます。もっとも、最近は不調がありまして」


「不調?」


「影の薄い花が枯れ始めています」


私は温室の硝子を見つめ直した。確かに、緑の奥でいくつかの葉が不自然に白んでいる。枯れるというより、影を失って平らになったような色だ。


「見てもよろしいですか」


「休まなくて大丈夫ですか」


「休む前に見たほうがよい状態かもしれません」


温室の中は、外よりも湿っていた。土の匂いと薬草の青い香りが混ざり、王宮の白百合とはまるで違う、深く呼吸できる匂いがした。


そこに植えられている白銀草は、本来なら葉の裏に青灰色の影を持つ薬草だ。影の色が濃いほど薬効が安定し、ヴェルナードでは眠れない子どもや悪夢を見る兵士のために使うのだと、温室管理人のリゼットが説明してくれた。


だが今、白銀草の葉裏はほとんど白い。


「光が強すぎるのですか」


リゼットが不安そうに尋ねた。髪をきっちりまとめているのに、前髪だけが湿気で跳ねていて、彼女は何度もそこを押さえていた。


「いいえ。光の強さではなく、影の居場所が乱れています。植物は光だけで育つと思われがちですが、休むための影がなければ、葉は疲れます」


「葉も、疲れるのですか」


「疲れます。人と同じです」


足元の影を温室の床へ広げる。王冠の腐敗を受ける時の影とは違い、今回は吸うのではなく、整える儀式だ。乱れた影の糸を拾い、植物の根元へ戻し、光と影の境目を結び直す。


床に伏せると、ドレスの裾が湿った。リゼットが慌てて布を差し出そうとしたが、私は首を振る。儀礼の途中で余計な布を挟むと、影の流れが変わる。ここでは、リゼットが一瞬で手を引いた。


分かろうとしてくれる人の動きは、静かだ。


細い葉が震え、裏側に淡い青灰色が戻り始めた。最初は一枚、それから隣の一枚へ。影は色ではなく、深さだ。平らだった葉に奥行きが戻り、温室の空気が少しだけ重みを取り戻す。


温室の隅で、小さな鐘が鳴った。


結界が安定した合図なのだろう。王宮の祝福の鐘とは違う、高くて素朴な音だった。けれどその音を聞いた瞬間、私は胸の奥にあった石がまた少し軽くなるのを感じた。


まだ、鳴るものがある。私の手で、戻る音がある。


「影が戻りました」


リゼットが、ほとんど泣きそうな声で言った。


私は立ち上がろうとして、少しふらついた。オルフェウス様が半歩近づいたが、すぐに止まり、私の目を見る。


「支えても?」


「……お願いします」


そう答えるまで、彼は触れなかった。


温室管理人、薬草師、結界師見習い、使節館の職員たちが、次々に白銀草の状態を確認していく。彼らは私を遠巻きに見るのではなく、根の状態や影の戻り方について質問してきた。


どうしてここは、こんなに細かいことを聞くのだろう。


王宮では、結果だけ求められた。王冠が輝くか、鐘が鳴るか、殿下の面子が保たれるか。けれどここでは、葉の裏の色や根元の湿り気、影を結ぶ角度について、皆が真剣に知りたがる。


「白銀草の場合、影は根元から戻します。葉先から入れると、形だけは整いますが、夜に崩れやすいです」


「根元からですか」


「はい。人が眠る時に、まず肩の力を抜くようなものです。指先だけ温めても、心臓が冷えていれば眠れませんから」


リゼットは真剣に頷き、帳面へ書き込んだ。


「根元は肩。葉先は指先」


「いえ、そのまま書かなくても」


「分かりやすいです」


その言葉が、予想外に嬉しかった。私が自分の言葉で説明したものを、誰かがそのまま受け取ってくれたことが嬉しかった。


「見事でした」


オルフェウス様が言った。たったそれだけだった。


王宮の褒め言葉には、たいてい続きがあった。見事だから次も頼む、役に立ったから黙っていろ。けれど、オルフェウス様の言葉はそこで終わった。


だから私は、どうしていいか分からなくなった。視線をどこへ置けばいいのか分からず、近くにあった大きな鉢植えの陰へ半歩下がる。半歩のつもりだったが、鉢植えは思ったより大きく、私はほとんどその陰に隠れてしまった。


「セレスティア様」


「少し、葉の状態を確認しています」


「その鉢は白銀草ではありません」


「……存じております」


オルフェウス様は笑わなかった。笑わないようにしているというより、どう反応すれば私が困らないかを本気で考えている顔だった。そして少し悩んだあと、彼はただ一言だけ言った。


「では、水をお持ちします」


それがありがたかった。


夕方、使節館の一室に案内された。寝台には本当に三種類の毛布が畳まれていた。軽いもの、重いもの、暖かいが少し動きにくそうなもの。


私はそれを見た瞬間、とうとう笑ってしまった。一人の部屋で、声を出して。


窓の外には温室が見えた。白銀草の影は、夕暮れの中で静かに葉裏へ沈んでいる。


今夜だけは、私の影が私の足元にある。


それを確かめるように、私は床へ手を伸ばした。


「今日も重かったわね」


影は何も答えない。その沈黙が、やはり優しかった。


扉の外に置かれていた盆には、水差しと、蜂蜜を添えた薬草茶。それから、焦げたところのある焼き林檎が一切れ。


添えられた紙には、短くこう書かれていた。


薬草茶は、昨日より薄めました。


私はその紙を読んで、少しだけ笑った。まずいかどうかではなく、薄めたかどうかで改善を示すあたりが、彼らしい。


窓の外で、温室の小さな鐘が一度だけ鳴った。


王宮の祝福の鐘ではない。けれど私の手で影を戻した場所から、確かに音が生まれている。


私は焼き林檎を一口食べ、焦げた砂糖の苦みを舌の上で溶かした。


「見事でした」


たったそれだけの言葉が、王冠よりも重く胸に残っていた。

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