第2話 王冠の黒蜜
王宮を出たあと、自分がどこへ向かって歩いているのか、しばらく分からなかった。
夜風は思ったより冷たく、広間で焚かれていた香と白百合の匂いが、髪や袖にまだ残っている。王太子の婚約者として用意された銀灰色のドレスは、夜道を歩くには薄すぎたけれど、足を止めて震えるほどの余裕もなく、私はただ石畳の継ぎ目を踏まないように歩き続けた。
子どもの頃から、継ぎ目を踏まない遊びが妙に好きだった。うまく避けきれたら、その日は嫌なことが起きない気がした。もちろん、そんなものに何の力もない。王冠の腐敗を知る者が、石畳の遊びに運命を預けるなんて滑稽だと思う。それでも私は、王宮を追われた夜に、つい足元の線を避けて歩いていた。
「……今日も重かったわね」
声は、白くならなかった。足元の影は、私の歩幅に合わせて静かに揺れている。王冠の儀礼室に置いてきたものが多すぎて、自分の影まで薄くなったような気がしたけれど、街灯の下へ出ると、影は思ったより濃く残っていた。
胸の前には、ほどけた黒いリボンがある。結び直そうとして、やめた。王宮のための印なら、もう必要ない。そう思うのに、掌の中の布を捨てることはできなかった。長く使いすぎたものは、役目を終えても、すぐにはただの布へ戻ってくれない。
たどり着いたのは、王都の外れにある小さな宿だった。以前、ロザリーが侍女たちの休暇先として話していた場所で、焼き林檎が安くて、湯はぬるいが女将が余計なことを聞かないらしい。
帳場にいた女将は、私のドレスと髪飾りをちらりと見たあと、視線をすぐ手元の台帳へ戻した。
「お一人ですか」
「はい。一晩、泊まれますか」
「部屋はありますが、湯はもうぬるいですよ。朝食は黒パンと豆のスープです。蜂蜜は別料金」
私は少し迷った。王宮なら、蜂蜜は銀の小壺に入って当然のように置かれている。けれど今の私には、儀礼室の鍵もなければ、王太子の婚約者という肩書きもない。
「蜂蜜は、なしで」
女将はそこで初めて、私の顔を見た。
「焼き林檎の余りならあります。焦げたところが多いので、銅貨一枚でいい」
「焦げたところは好きです」
口にしてから、私は自分で驚いた。そんなことを最後に言ったのは、いつだっただろう。王宮では、焦げた菓子は皿に出されない。失敗したものは、誰にも見えないうちに下げられる。
部屋は狭かった。寝台と椅子と小さな丸机でほとんど埋まっており、窓の金具は少し渋い。壁には花を描いた古い布が掛けられていたが、片方の留め具が外れて、絵の中の花畑が傾いている。
私はそれを直そうとして手を伸ばし、途中でやめた。何でも整えなければならない場所から、出てきたばかりなのだ。せめて今夜くらい、花畑が少し傾いていてもいい。
その夜、私はほとんど眠れなかった。
寝台は硬く、毛布は薄く、隣室の誰かが何度も咳をしていた。けれど眠れなかった本当の理由は、そんなことではない。目を閉じるたび、白百合に囲まれた王冠の蒼玉が浮かび、クラウディオ殿下の指についた黒蜜が思い出された。
君が、何かしたのか。
その声は、怒鳴り声より厄介だった。怒りなら跳ね返せる。けれど、疑いは湿っていて、布に染みる水のように心の奥へ入り込んでくる。
私は寝返りを打ち、毛布の端を何度も直した。右肩が寒い気がして引き上げると、今度は足先が出る。足先を包むと、首元が心許ない。王宮の寝台では考えたこともないような小さな不便に、私は夜明け前まで付き合うことになった。
それでも、何度目かに毛布を直した時、足元の影がゆっくりと濃くなった。
「戻らなくていいのよ」
自分に言い聞かせるように言うと、影は返事をしなかった。それがよかった。影まで慰めの言葉を持っていたら、私はきっと泣いていた。
同じ頃、王宮では誰も眠れずにいた。
大広間から王冠が運び戻されたのは、夜会が解散した後だった。黒蜜は止まらなかった。一滴、また一滴と黄金の蔓飾りを伝い、王冠台に敷いた白布へ落ちる。白布はすぐに茶色く染まり、さらにその中心から黒へ沈んでいった。
「ギルベルト、何をしている。早く収めろ」
クラウディオ殿下の声には苛立ちが混じっていた。指先についた黒蜜は拭ったはずなのに、爪の際にまだ薄く残っているように見えるのか、殿下は何度も親指でそこをこすっていた。
老冠匠ギルベルトは、王冠から目を離さずに言った。
「殿下、王冠は休ませるべきです」
「休ませる? 王冠に寝台でも用意しろと言うのか」
「古い祝福には、満ち引きがあります。腐敗が出ている時に無理に光を当てれば、内側の傷が広がるかもしれません」
「誰の受け売りだ」
ギルベルトは黙った。セレスティアの名を出せば、殿下が余計に聞かなくなると知っていたのだろう。
ミレーヌが一歩前へ出た。彼女は夜会の時より少し顔色が悪く、けれど周囲が見ていることを意識しているのか、背筋だけは美しく伸ばしていた。
「私が清めますわ」
その声は柔らかかったが、指先は震えていた。
彼女が王冠へ手をかざすと、白い光が部屋を満たした。見た目だけなら、息を飲むほど美しい。花びらの形をした光が王冠の周囲を舞い、黒蜜の滴に触れて、淡い金色の粒へ変わっていくように見えた。
だが、次の瞬間だった。
王冠の蒼玉の奥で、黒い点が膨らんだ。光に照らされた腐敗は、消えるどころか輪郭をはっきりさせ、宝石の内側から枝を伸ばすように広がっていく。黄金の蔓飾りの隙間から、どろりと新しい黒蜜があふれ、今度は王冠台だけでなく、ミレーヌの白い袖にも飛んだ。
「いや……」
ほんの一声だった。けれどその声は、聖女候補のものというより、熱い鍋に触れてしまった少女の声に近かった。
「これは、穢れが浮いたのです」
クラウディオ殿下が早口で言った。誰に向けた説明なのか、分からなかった。ギルベルトへか、ミレーヌへか、それとも自分自身へか。
翌朝、宿の扉を叩いたのはオルフェウス・ヴェルナードだった。
寝起きの乱れた髪で扉を開けた私は、彼の手元にある書状を見て、すぐに王宮の話だと悟った。彼は私の朝食と髪を見て、一瞬だけ言葉を失ったが、余計なことは言わなかった。
「あなたが置いていかれた儀礼室の鍵は、王宮側で回収されました。それから、王冠の状態についてですが、夜会後に腐敗が進行したと、隣国使節団の職員が確認しています。詳細は未公表ですが、祝福の鐘が昨夜から一度も鳴っていません」
「一度も?」
「神殿側は、鐘楼の機構不良と説明するつもりのようです」
「鐘の機構は、祝福の反応に従って鳴るはずです。歯車が壊れた時の沈黙とは、音の残り方が違います」
言ってから、私は自分がまだ王宮の異常を説明していることに気づいた。婚約を破棄されたばかりなのに、まだ心配している。腹立たしいほど、長年の役目は身に染みていた。
オルフェウスは、少し間を空けてから言った。
「セレスティア様。私は同情を申し上げに来たのではありません。あなたを、影織り儀礼の専門家として保護したい」
あまりに事務的な言い方だった。
「保護、ですか」
「はい。昨夜の王宮では、あなたの発言が嫉妬として扱われました。しかし、王冠の反応は専門的検証に値します。あなたの技術と証言は、王宮内部に留めておくには危険であり、同時に国家間儀礼の観点からも極めて重要です」
彼は一息でそう言ったあと、自分でも少し硬すぎたと思ったのか、眉間にうっすら皺を寄せた。
「言い直します。あなたを、荷物のように運び出したいわけではありません。あなたが望むなら、隣国ヴェルナードは滞在先と研究の場を用意できます」
私は膝の上でリボンを握った。
荷物ではない。
その言葉だけで、胸の奥に沈んでいた冷たい石が、少しだけ軽くなる。
「なぜ、そこまで」
「昨夜、あなたは王冠を恐れていませんでした」
「恐れていました。王冠の腐敗は、扱いを誤れば影を食べますし、大広間で殿下に反論するのも怖かった。正直に申し上げると、今も少し手が震えています」
オルフェウスは、すぐに励まさなかった。勇敢でしたとも、大丈夫ですとも言わない。その代わり、真剣に考え込む顔をしてから、少し困ったように頷いた。
「恐れていても、手順を間違えなかった。私が評価したのは、そこです。あなたの仕事は、見えなかっただけで国家規模です」
その一文は、静かに落ちた。
大げさに褒められたわけではない。花びらも光もない。けれど、誰かが初めて、私の夜を夜のまま見つけてくれた気がした。
彼が淹れてくれた薬草茶は、森の床を丁寧に煮出した味がした。
「まずいですか」
「とても、効きそうです」
「まずいのですね」
「森の床を、丁寧に煮出した味がします」
オルフェウスは杯の中を見下ろし、少しだけ肩を落とした。
「妹にも、似たようなことを言われました」
その様子があまりに真面目で、私はまた笑いそうになった。苦い茶は、焦げた焼き林檎より不器用で、王宮の花茶よりずっと正直な味がした。
その日の昼、王宮の祝福の鐘は、神殿の神官たちの前でも鳴らなかった。
鐘楼の歯車は動き、綱も切れておらず、青銅の鐘そのものにも亀裂はない。けれど神官長マリウスが祝詞を唱え、クラウディオ殿下が王家の紋章に手を置いても、塔の上は黙っていた。
「殿下、祝福が応じておりません」
「鐘が古いのだ。修理させろ」
「機構ではありません」
「では、神官たちの祈りが弱いのだろう」
その場にいた者たちは、息をひそめた。
祈りが弱い。それは神殿への侮辱だった。けれど殿下は、自分がどれほど危うい言葉を口にしたのか気づいていないようだった。
その知らせを聞いた時、私は冷めかけた薬草茶を見つめていた。
「あなたが王宮を去ったことと、王冠が腐ったことは、同じ出来事ではありません」
オルフェウスは静かに言った。
「けれど、つながっています」
「つながっていることと、あなたが責任を負うことは違います」
言葉は硬かった。けれど、その硬さは壁ではなく、橋の足場のようだった。急にこちらへ踏み込んでこない。私が渡るかどうかを待っている。
「もう少し、おいしくする方法はありますか」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。
オルフェウスは、たいへん真剣に考え込んだ。
「蜂蜜を入れると、多少ましになります」
「多少」
「根本的な解決にはなりません」
「薬草茶の話ですよね」
「はい」
その返事があまりにも重々しくて、私は杯を持ったまま、とうとう小さく笑った。
王宮の鐘は鳴っていない。王冠は腐り始めている。私は婚約を破棄され、安宿の狭い部屋で、隣国の外交官が作ったまずい薬草茶を飲んでいる。
状況だけ並べれば、ひどいものだ。
それでも、私の足元の影は、久しぶりに私のそばで眠るように静かだった。
王宮の鐘は鳴らなかった。
けれど私の影は、久しぶりに私の足元で眠っていた。




