第1話 影なら、黙ってそこにいろ
王冠から、黒い蜜がにじんでいた。
黄金の蔓飾りを伝って落ちるその雫は、燭台の光を吸い込んで、夜を煮詰めた砂糖菓子のように艶めいている。甘そうに見えるのに、匂いは古い鉄と湿った土に似ていて、儀礼室の冷えた空気をひと口吸うたび、喉の奥に薄い苦みが残った。
私は手袋をはめる前に、髪へ結んだ黒いリボンを指で確かめた。結び目が、少しだけ右に寄っている。直したほうがいいと思ってほどきかけたところで、床に刻まれた月紋が低く震えた。王冠が、こちらの迷いを待ってくれるはずもない。
「セレスティア様、結び目は十分整っております」
侍女長のロザリーがそう言って、手袋を差し出してくれた。彼女は私の背後に控えているのに、なぜ髪飾りの歪みまで見えるのか、昔から不思議でならない。
「少し曲がっていませんか」
「殿下方は、結び目より王冠をご覧になるべきです」
「そうしてくだされば、どれほど助かるでしょうね」
私が薄く笑うと、ロザリーは眉を上げた。冗談のつもりだったのに、彼女には倒れる前の軽口だと思われたらしい。
王冠は、王家の祝福を宿す器だ。王族の血に積もった澱みを吸い、国の結界を保ち、戴冠の時には祝福の鐘を鳴らす。そう教えられてきた。けれど、その祝福がいつも清らかな姿で保たれているわけではない。
王冠は、腐る。
腐敗があふれる前に、影織りの術で吸い出す者が必要になる。王太子の婚約者として選ばれた私は、その役目を引き受けてきた。正確に言えば、いつからか引き受けていることになっていた。
「今夜は、いつもより濃いですね」
ロザリーの声が、石壁に吸われて小さくなる。
「ええ。少し食べすぎています」
「王冠が、ですか」
「言い方が悪かったわ。腐敗が、王冠の内側で育ちすぎているのです」
私は王冠台の前で膝をつき、手袋をはめた指先を床に置いた。燭台の光に逆らうように、私の影がゆっくりと伸びる。黒い絹を水へ垂らした時のように輪郭がほどけ、床の月紋をなぞりながら王冠台へ届いた。
痛みはない。ただ、冷たい石を胸の奥へ詰められていくような重さがある。呼吸を深くすれば、その石が肋骨の内側で動く気がして、自然と息は浅くなる。
王冠の黒蜜が、私の影へ落ちた。影がそれを受け止めるたび、足元から冷えが上がってくる。黒い滴は一つ、また一つと薄れていき、黄金の蔓飾りが本来の輝きを取り戻していった。
けれど、中央の蒼玉だけは違った。宝石の奥に、小さな黒点が残っている。傷ではない。煤でもない。光の当たり方を変えても消えないそれは、眠っている虫がまぶたを開けたように、じっとこちらを見返していた。
「残りましたか」
「はい。昨夜より深いです」
ロザリーの表情が曇る。彼女は儀礼の理を知らないが、私の声の変化だけで、茶の温度から王宮の不穏まで当ててしまう人だった。
「殿下へお伝えになりますか」
「朝一番に、私から申し上げます」
朝一番。その言葉には、ずいぶん頼りない響きがある。クラウディオ殿下は朝が好きではない。朝が好きではないというより、朝に差し出される都合の悪い話が嫌いなのだと思う。庭師が夜露の害を伝えた時も、神官が祝福の鐘の音程を気にした時も、殿下は銀杯の縁を指で叩きながら、まず朝食を済ませようと言った。
私はその音が苦手だった。金属の、軽くて冷たい音。
「セレスティア様、髪のリボンが」
まただ。儀礼の間に、結び目が緩んでいたらしい。私は指を伸ばして結び直そうとしたが、手袋を外したばかりの指先は冷え切っていて、細い布をうまくつまめなかった。一度目はほどけ、二度目は右の端が長くなる。三度目で、どうにか形になった。
「今日は三度で済みました」
「それは、幸先がよろしいのでしょうか」
「そういうことにしておきましょう」
ロザリーは笑わなかったが、口元がほんの少しだけ緩んだ。その小さな変化に救われる日がある。王冠を守っているのは私だと周囲は言うけれど、私のほうこそ、こういう歪んだ袖口や、温すぎる茶や、聞かなかったふりをしてくれる沈黙に、どうにか支えられているのかもしれない。
翌日の夜会は、白百合の匂いで満ちていた。
大広間の柱には花綱が巻かれ、水晶灯からこぼれた光が、貴族たちの肩飾りや宝石を次々に照らしている。床は磨き上げられ、靴先の角度まで映すほど艶やかで、誰もが自分の立ち姿を少しだけ美しく見せようとしていた。
私も、その中に立っていた。黒いリボンを結んだまま。
「セレスティア様、花茶を」
ロザリーが銀盆を持って近づいてきた。杯の中には、白百合に似せた香りの花茶が揺れている。昔は好きだった香りだ。まだ王冠の儀礼を任される前、私はこの茶に小さな蜂蜜菓子を浸して食べるのが好きで、ロザリーに行儀が悪いと叱られたことがある。
今は、その甘い匂いが喉の鉄味と混ざって、少し飲みにくい。
「水もあります」
ロザリーは、私が頼む前に別の杯を差し出した。
「ありがとう。花茶は、あとでいただきます」
「あとで、と仰って飲まれたことがありません」
「今日は、努力します」
「努力するものではないと思います」
その言い方があまりにも真面目で、私は少しだけ笑いそうになった。けれど笑う前に、大広間の入口で歓声が上がる。
クラウディオ殿下が、入場された。
金糸の礼装をまとった殿下は、誰よりも光の似合う人だった。その隣で、ミレーヌ・フロリア嬢が微笑んでいる。白いドレスに包まれた彼女の周囲には、花びらの形をした淡い光が舞っていた。
美しい魔法だと思う。それは、認めるしかない。
私は杯を銀盆へ戻し、殿下のもとへ歩いた。
「クラウディオ殿下」
殿下は、私の声を聞いて振り返った。視線はまず私の顔を通り過ぎ、髪の黒いリボンで止まる。
「またその色か、セレスティア。君は夜会を葬儀と間違えているのか」
近くで扇の陰に笑いが咲いた。
私は一度だけ息を吸い、黒いリボンには触れないよう指を重ねた。
「殿下、昨夜の儀礼で王冠の蒼玉に腐敗の残滓が確認されました。祝福の器そのものが傷んでいる可能性がありますので、今夜の戴冠前祝の儀はお控えください」
「夜会の初めに、ずいぶん湿った話をする」
「王冠の話をしております」
自分の声が、少し冷えた。怒るほど丁寧になる癖は、直したいと思っている。けれど直らない。
ミレーヌ嬢が、殿下の袖をそっと引いた。
「クラウディオ様、セレスティア様はきっとお疲れなのですわ。昨夜も暗い場所で、長くお務めだったのでしょう?」
いたわりの形をした声だった。それなのに、私の足元の影がわずかに縮む。
「お気遣い、感謝いたします。けれど、私の疲労ではなく王冠の異常です」
「まあ。私の光で清めれば、すぐに晴れるのではありませんか」
「フロリア嬢。その光を、王冠へ近づけるのはおやめください」
彼女の笑みが、紙の端を湿らせたように少し歪んだ。
「私の光が、穢れていると仰るのですか」
「いいえ。性質が違います。光で照らせば、腐敗は見えやすくなります。けれど、見えることと浄化できることは別です」
広間に、薄いざわめきが広がった。
「セレスティア」
殿下の声が低くなる。
「君は、ミレーヌを侮辱しているのか」
「王冠の話をしております」
「私には嫉妬に聞こえる」
嫉妬。なんて便利な箱だろう。女の警告も、専門の知識も、夜ごと吸った腐敗の重みも、そこへ放り込めば蓋が閉まる。
「殿下。王冠をお持ちくださいませ。この場で、蒼玉に触れてください。何も起きなければ、私の警告は取り下げます」
殿下は祭壇へ歩いた。王冠は大広間の奥に、白百合に囲まれて置かれている。遠目には清らかそのものだった。遠目には。
殿下の指が、蒼玉に触れた。
王冠が鳴った。
それは金属の音ではなかった。床下の大きな器に、内側からひびが入るような低い響きだった。白百合の一輪が、縁から黒く染まり、茎を折るようにうなだれる。殿下が手を引くと、その指先には黒い蜜がついていた。
「これは」
「昨夜、申し上げた腐敗です。儀を止めてくださいませ。今ならまだ、王冠を休ませられます」
殿下は、指先の黒蜜を見たまま言った。
「君が、何かしたのか」
広間の奥で、燭台の火が揺れる。
「昨夜、王冠に触れていたのは君だろう。君の影とやらで、王冠を穢したのではないか」
私は、すぐに言葉を返せなかった。言い返す言葉ならある。腐敗の出方、蒼玉の反応、祝福の器の傷み方。いくらでも説明できる。けれど、殿下の声には、真実を知りたい人の響きがなかった。
ミレーヌ嬢が殿下の手を取った。
「クラウディオ様、おかわいそうに。セレスティア様は、きっとお寂しかったのですわ。私があなたのおそばにいるから」
彼女は泣きそうな顔をした。涙は落ちていない。けれど、落ちる前の顔が一番人を動かすことを、彼女はよく知っているように見えた。
「よく分かった」
クラウディオ殿下は祭壇の前で振り返り、広間全体へ届くように声を張った。
「セレスティア・ルーベル。君との婚約を、ここに破棄する」
誰かの扇が閉じた。私の耳には、その音だけがやけにはっきり届いた。
「王太子妃にふさわしいのは、光の似合う女性だ。陰気な儀礼に縋り、聖なる光を妬み、王冠に不吉を持ち込む者ではない」
私は息を吸った。花茶の甘い匂いと、黒蜜の鉄臭さが混じっている。
私の手は、また黒いリボンへ伸びていた。結び目がほどけかけている。こんな時に、私はまだそれを気にしている。あまりにもくだらなくて、けれどそのくだらなさに救われる。
一度目は、布が滑った。二度目で結べたが、右端が長く残った。もう直さない。
「まだそんなものを」
殿下が吐き捨てるように言った。
「儀礼師の印です」
「もう不要だ。君には、何の役目もない。影なら、黙ってそこにいろ」
その言葉は、初めて聞くものではなかった。会議で意見を求められなかった時。夜会で隣に立たされながら紹介されなかった時。儀礼室から上がった私が、朝の食卓で倒れそうになった時。殿下はいつも少しずつ違う言い方で、同じことを告げていた。
黙っていろ。そこにいろ。役に立て、目立つな。
私は腰の鎖に触れた。黒銀の鍵が、指先に冷たく当たる。
「承知いたしました」
広間に、勝ちを確信したような緩みが生まれた。殿下も同じように受け取ったのだろう。
私は鎖から鍵を外し、祭壇の前へ歩いた。それを、白百合の花びらの上に置いた。小さな金属音がした。
「では、ここに置いてまいります」
殿下の笑みが消える。
「何をしている」
「影は、黙ってそこにいろとのことでしたので。ただし、私の影をどこに置くかは、私が決めます」
広間は静かだった。
「セレスティア、戻れ」
殿下の声が、わずかに乱れた。命令の形をしているのに、底に焦りが混じっている。
「ご婚約破棄、謹んで承りました」
私は礼をした。王太子の婚約者としてではなく、一人の儀礼師として、最後に形だけは崩さない。
「殿下の御代に、祝福の鐘が正しく鳴りますよう」
皮肉ではない。祈りでも、たぶんない。ただ、私の影が足元で小さく震えたので、その言葉を完全には信じていないのだと分かった。
私は踵を返した。
大広間の出口まで歩く間、誰も私に声をかけなかった。扉の近くで、黒いリボンの端がほどける。床に落ちかけたそれを、誰かの靴先が踏む前に、すっと横へ寄せる手があった。
隣国の使節団の席にいた青年だった。
灰青の礼装は、夜明け前の空に似ている。彼はリボンに触れそうになって、寸前で指を止めた。代わりに、近くにあった白百合の茎をそっとずらし、リボンが汚れない場所を作る。
直接拾い上げることはしない。慰めの言葉もない。それなのに、彼は半歩だけ退いて、私が通るための道を空けた。
オルフェウス・ヴェルナード。隣国の夜明け公。
私は小さく会釈した。声を出すと、結び目より先に私のどこかがほどけてしまいそうだった。
扉の外へ出ると、廊下は広間より暗く、石壁の冷たさが肌に戻ってきた。私は落ちかけたリボンを握り、結び直さずに歩き出す。
腰は、軽い。儀礼室の鍵がもうないからだ。
階段の手前で一度だけ振り返ると、大広間の扉の下から、細い黒が染み出していた。王冠の影だ。玉座の真下へ続く古い闇が、ほんの少しだけ、私の後を追っている。
私は待たなかった。
外へ向かう扉を押し開けた時、祝福の鐘が鳴る時刻になった。
王宮の塔は、黙っていた。
その沈黙の中で、私の影だけが、久しぶりに私の足元へ戻ってきた。




