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第七話 鳴らなかった鐘

 翌朝。


 ミハルが一階へ下りると、酒場には昨夜の名残がそのまま残っていた。


 長椅子に寝転がっている者。


 テーブルに突っ伏している者。


 床に座り込んだまま、壁にもたれて眠っている者もいる。


 空になったジョッキが、いくつもテーブルの上に並んでいた。


 店員たちは、その隙間を縫うように歩きながら片づけを続けている。


「足、どけてください」


「うう……水……」


「起きたら自分で取りに行ってください」


 若い店員に足を押しのけられ、男が低くうめいた。


 ミハルは少し苦笑した。


 昨夜は、宴が終わったあともしばらく店の片づけを手伝った。


 空いた皿を厨房へ運び、倒れた椅子を戻し、床を拭き終えて部屋へ戻った頃には、かなり遅い時間になっていた。


 そのせいか、まだ少し身体が重い。


「おはようございます」


 ミハルが店員へ声をかける。


「おはようございます。昨日は助かりました」


「いえ。僕は何もしていませんから」


「十分してくれましたよ。あの人たちと違って」


 店員が床に転がる冒険者たちを見る。


 そのとき、酒場の扉が開いた。


 朝の冷たい空気が流れ込む。


 リシェルが入ってきた。


 鎧ではなく、薄手の服に動きやすそうなズボンを身につけている。


 長い髪は後ろでまとめられ、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。


「おはよう」


「あ、おはようございます」


 ミハルはリシェルの姿を見る。


「外に出ていたんですか?」


「ああ。走ってきた」


「今からですか?」


「もう戻ってきたところだ」


 リシェルは、何でもないことのように答えた。


 ミハルは思わず周囲を見回した。


 酒場に残っている冒険者たちは、ほとんどが起き上がることすらできていない。


挿絵(By みてみん)


「昨夜、かなり遅くまで飲んでいましたよね」


「そうだったか?」


「僕が部屋に戻るときも、まだ飲んでいました」


 ミハルが片づけを始めたあとも、リシェルは酒に強い冒険者たちと杯を重ねていた。


「眠くなったから、そのあとすぐに寝たぞ」


「すぐって、何時頃ですか?」


「覚えていない」


 近くのテーブルに突っ伏していた男が、ゆっくりと顔を上げた。


「嘘つけ……」


 片目だけを開き、リシェルを見る。


「俺が潰れたあとも飲んでただろ……」


「そうだったか?」


「そうだったかじゃねえ……」


 男は再びテーブルへ顔を伏せた。


 奥の長椅子からもう一人、力なく手を上げる。


「最後まで残った四人……全員返り討ちだった……」


「返り討ち?」


「酒でな……」


 酒場のあちこちから小さな笑いが漏れた。


 リシェルは不思議そうに首を傾げた。


 ミハルは、その顔を見つめた。


「平気なんですか?」


「何がだ?」


「頭が痛いとか、気分が悪いとか」


「特にない」


「その状態で走ってきたんですか?」


「日課だからな」


 リシェルは短く答えた。


 昨夜あれだけ飲んで、朝から走り込みをする。


 ミハルには、とても真似できそうになかった。


「ずいぶんお酒に強いんですね」


「家では、この程度は珍しくなかった」


「ご家族も強いんですか?」


「父は強い。兄も、弱くはなかった」


 リシェルがそう答えたところで、わずかに目を伏せた。


 ほんの一瞬だった。


 ミハルが何かを尋ねる前に、受付の方から声がした。


「ミハルさん。リシェルさん」


 ツキヤミが二人を見ていた。


 いつもの穏やかな表情だったが、その声には少しだけ固さがあった。


「少しよろしいですか?」


「はい」


「確認したいことがあります」


 ミハルは表情を引き締めた。


 森の中で鳴った鐘の音。


 離れた場所にいた狼鬼たちが、次々に巣を離れた。


 あれが普通ではないことは、ミハルにも分かっていた。


 二人はツキヤミに案内され、酒場の奥へ向かった。


 通されたのは、小さな訓練室だった。


 床には細かな傷があり、壁際には木剣や盾が並べられている。


 部屋の中には、すでに一人の男が待っていた。


 三十代半ばほどの冒険者だった。


 白い僧衣の上に革製の胸当てを着け、腰には小さな槌を下げている。


 ミハルはその顔に見覚えがあった。


 冒険者登録をした日、酒場で声をかけてきた僧侶だ。


「おはよう」


 男は片手を上げた。


「昨日は大仕事だったそうだな」


「ありがとうございます」


「子どもまで連れて帰ってきたんだろ。よくやった」


 ミハルが頭を下げると、ツキヤミが男を紹介した。


「こちらはアドベルさんです。Cランクの冒険僧侶で、この支部を拠点に活動されています」


「アドベルだ。よろしくな」


「ミハルです。よろしくお願いします」


 リシェルも短く挨拶をする。


「それで、私たちは何をすればいい?」


 ツキヤミは部屋の中央へ視線を向けた。


「昨日、ミハルさんが使った《導きの鐘》を、もう一度試していただきます」


「やはり、普通の使い方ではなかったんですか?」


 ミハルが尋ねる。


 アドベルがうなずいた。


「《導きの鐘》は、自分の近くで音を鳴らす祈祷だ。森や洞窟で、離れた仲間に居場所を知らせるために使う」


「遠くで鳴らすことは?」


「聞いたことがない」


「魔物を呼び寄せることは?」


「少なくとも俺は見たことがない」


 はっきりと言われた。


「ただ、魔物が音に反応することはある。だが、六頭が一度に巣を離れて、鐘の鳴った場所へ向かったというのは聞いたことがない」


 ツキヤミがミハルを見る。


「昨日のことを、もう一度確認させてください。鐘の音は、どこで鳴りましたか?」


「狼鬼の巣の近くです」


「ミハルさんは?」


「離れた森の中にいました」


「巣は見えていましたか?」


「少しだけ。木と斜面に隠れていました」


「それで、巣の近くで鐘を鳴らした」


「はい」


 リシェルが続ける。


「最初は、狼鬼が顔を上げただけだった。二度目で何頭かが立ち上がり、三度目で六頭が音を追った」


「音の場所も、少しずつ移動していましたか?」


「ああ。巣から離れていった」


 ツキヤミはしばらく考えたあと、ミハルを部屋の中央へ立たせた。


「まず、いつもどおり使ってみてください」


「分かりました」


 ミハルは胸の前で手を組む。


 教会で何度も練習した基礎祈祷だった。


 息を整える。


「迷える者へ、我が在り処を伝えたまえ。《導きの鐘》」


 チリーン。 


 澄んだ音が響いた。


 小さな鐘を一度だけ鳴らしたような音だった。


 音はミハルのすぐそばから生まれ、部屋の中へ広がった。


 それ以上のことは起きない。


「今度は、部屋の隅から鳴らすつもりで使ってください」


 ツキヤミが壁際を指す。


 ミハルは、そこに置かれた木製の盾を見つめた。


 あの近くで音が鳴るように意識する。


「《導きの鐘》」


 再び、澄んだ音がした。


 しかし、鳴ったのはミハルの肩の近くだった。


「もう一度」


 何度試しても変わらなかった。


 扉の外へ出ても。


 部屋の隅を見つめても。


 鐘は必ずミハルのそばで鳴った。


「昨日と同じように、狼鬼を呼ぶつもりで使えますか?」


「やってみます」


 ミハルは目を閉じた。


 森の中を思い出す。


 岩の重なった窪地。


 群れを作る狼鬼。


 その奥で、怯えていた少年。


 狼鬼を巣から離さなければならない。


 あのときと同じように考えようとする。


「《導きの鐘》」


 音が鳴る。


 やはり、ミハルのそばだった。


 ただの、小さな鐘の音。


 アドベルが部屋の中央へ進み出た。


「次は俺がやる」


 胸の前で手を組む。


「迷える者へ、我が在り処を伝えたまえ。《導きの鐘》」


 鐘の音が鳴った。


 ミハルのものより少し大きく、余韻も長い。


 だが、音が生まれたのはアドベルの近くだった。


 部屋の隅を意識しても、扉の外から使っても変わらない。


「これが本来の《導きの鐘》だ」


 アドベルが言った。


「鍛えれば音を大きくしたり、長く響かせたりはできる。だが、離れた場所で鳴らすことはできない」


 ミハルは自分の手を見つめた。


「昨日は、どうして……」


「祈祷は、使う者の状態で多少強くなることはある」


 アドベルが答える。


「治癒がいつもよりよく効いたり、守りの祈りが長く続いたりな」


「では、昨日も」


「ここまで性質が変わる話は知らない」


 アドベルは首を振った。


「音を遠くへ飛ばし、場所まで移し、魔物の群れを誘導する。それはもう、強くなったという範囲ではない」


 ツキヤミが静かに尋ねた。


「昨日、祈ったとき、何を考えていましたか?」


「少年を助けるために、狼鬼を巣から離さなければならないと思っていました」


「鐘の音を、巣のそばで鳴らそうと?」


「はい」


「できると思っていたのですか?」


 ミハルは答えに詰まった。


「……分かりません」


 少し考えてから、小さく続ける。


「でも、そうしなければ少年を助けられませんでした」


「そこから音が鳴ってほしいとは思いました。でも、どうすればできるのかは……」


「狼鬼が音を追うと思っていましたか?」


「追ってくれればとは思いました」


 ツキヤミは何も言わなかった。


 ミハルの顔を見つめたあと、床へ視線を落とす。


「もう一度、試しますか?」


 ミハルが尋ねる。


「いえ」


 ツキヤミはゆっくりと首を振った。


「今は、何度繰り返しても同じでしょう」


「でも、昨日は確かに起きました」


「ええ。リシェルさんも確認しています。なかったことにはできません」


 訓練室に沈黙が落ちた。


 ツキヤミだけが、何かを探るように目を細める。


「昨日は、何かが違いましたね……」


 その言葉に答えられる者はいなかった。


 ミハルはもう一度、自分の手を見た。


 昨日と同じ手だった。


 同じ言葉で祈った。


 同じように鐘は鳴った。


 それでも――


 昨日、あの森で起きたことだけは、再現できなかった。


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