第八話 帰還命令
ベルク村から戻って、二度目の朝だった。
ギルドの二階にある宿を出て、ミハルは一階の酒場へ下りた。
朝の酒場は、まだ静かだった。
この宿を利用している冒険者は、それほど多くない。町を拠点にして長く活動している者の多くは、自分の家や借りた部屋を持っているからだ。
ミハルのように、この町へ来たばかりで住む場所の決まっていない者や、ほかの町から訪れた冒険者が、主にギルドの宿を利用している。
酒場にいるのも、ミハルのほかには二、三人だけだった。依頼を探しに来る冒険者たちでにぎわい始めるのは、もう少しあとだろう。
ミハルが朝食を受け取ろうとしたところで、受付から声をかけられた。
「ミハルさん。おはようございます」
「おはようございます」
受付台の向こうに、ツキヤミが立っていた。
その手には一枚の書類がある。
「ミハルさん。今朝、リシェルさんを見かけませんでしたか?」
「いえ、まだ会っていません」
「そうですか。もしお会いしたら、受付へ来るようにお伝えいただけますか?」
「分かりました。何かあったんですか?」
「悪いお話ではありません」
ツキヤミは微笑んだが、それ以上は答えなかった。
ミハルが朝食を受け取って席へ着く。
それからしばらくして、酒場の扉が開いた。
入ってきたのはリシェルだった。
すでに朝の走り込みを終えてきたのだろう。額にはわずかに汗が残り、後ろで結んだ髪が歩くたびに揺れている。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
「ツキヤミさんが、来たら受付へ寄ってほしいそうです」
「私に?」
「悪い話ではないと言っていました」
リシェルは受付へ目を向けた。
「分かった」
リシェルが受付へ向かう。
そのまま朝食を続けようとしたミハルに、受付台の向こうからツキヤミが声をかけた。
「ミハルさんも、よろしければこちらへ」
「僕もですか?」
「今回のお話には、ミハルさんも関係していますから」
ミハルは食べかけのパンを皿へ戻し、リシェルのあとを追った。
ツキヤミの前には、一枚の書類が置かれていた。
それを見た瞬間、リシェルの足が止まる。
「ベルク村での依頼について、支部内での確認が終了しました」
ツキヤミの声に、奥のテーブルにいた冒険者たちが振り返った。
「当初の依頼は、村周辺に現れた狼鬼の討伐でした。しかし、実際には成獣八頭と幼獣三頭からなる巣を発見。行方不明だった少年を救出し、村への被害拡大も防いでいます」
酒場の話し声が、次第に小さくなっていく。
「依頼中の判断、戦闘で果たした役割、そして、これまでの活動実績を踏まえ――」
リシェルは動かなかった。
ただ、身体の横に下ろされた右手が、わずかに握られている。
「リシェル・エレノア・ヴァルクレインさん。あなたをDランク冒険者として正式に認定します」
ツキヤミが告げる。
リシェルは一度、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
一瞬、酒場が静まり返った。
次いで、奥のテーブルで朝食を取っていた冒険者が、勢いよく椅子から立ち上がった。
「ようやくか!」
向かいに座っていた男も、大きくうなずく。
「三年は長すぎるだろ。おめでとう、リシェル」
二人が手を叩くと、静かな店内に乾いた拍手の音が響いた。
リシェルが振り返る。
「朝から騒ぐな」
「そう言うなって。今夜は祝い直しだ!」
「昨日まで潰れていた者の言葉とは思えないな」
淡々と返すと、二人の冒険者が声を上げて笑った。
二人の祝いの言葉が収まり、酒場に朝の静けさが戻った。
その頃になって、ミハルは先ほど聞いた名前を思い返した。
「あの、リシェルさん」
「どうした?」
「さっき、ヴァルクレインと呼ばれていましたよね」
「ああ。私の家名だ」
「家名……。もしかして、リシェルさんは貴族なんですか?」
「そうだ」
あまりにもあっさりと認められ、ミハルは目を瞬いた。
「では、あの鎧も、ご実家で?」
「ああ。ヴァルクレイン家は、代々領地を守ってきた武門の家だからな。幼い頃から、剣も鎧の扱いも教えられる」
ミハルは、依頼へ向かうときのリシェルの姿を思い浮かべた。
頭から足先までを覆う、銀色のフルプレート。冒険者の中でも、あれほど本格的な鎧を身につけている者は珍しい。
リシェルがあの重い鎧を当然のようにまとい、剣を振るっていた理由が、ようやく腑に落ちた。
「だから、あの鎧だったんですね」
「騎士が鎧を着るのは、そう不思議なことではないだろう」
「いえ。冒険者にしては、ずいぶん立派な装備だと思っていたので」
「……あれでも、実家に置いてきたものよりは軽い」
「もっと重い鎧があるんですか?」
「ある。だが、あれで三日歩けと言われたら、私でも断る」
真顔で答えるリシェルに、ミハルは思わず笑った。
ツキヤミは青い認証帯をリシェルへ差し出した。
「改めて、おめでとうございます」
「ああ。ありがとう」
リシェルは両手でそれを受け取った。
三年間、求め続けてきたものだった。
けれど、すぐに手首へ巻こうとはしなかった。
青い縁を指先でなぞり、その重さを確かめるように見つめている。
「おめでとうございます、リシェルさん」
ミハルが声をかける。
「ああ」
「本当に、よかったですね」
リシェルは小さく息を吐いた。
「これで、受けられる依頼が増える」
抑えた声の中に、はっきりとした喜びがあった。
「今まで断られていた依頼にも行ける。助けに行ける場所が増える」
名誉や待遇ではなく、助けられる相手が増えることを喜んでいる。
やはり、リシェルらしいとミハルは思った。
リシェルは青い帯を手首へ巻くと、ミハルへ向き直った。
「だが、今回の昇格は、私一人の力ではない」
「そんなことは――」
「お前がいなければ、あの子は助けられなかった」
ミハルは言葉を止めた。
「狼鬼を巣から引き離したのも、子どもを抱えて森を抜けたのも、お前だ。私一人では、群れと戦いながら、あの子を助け出すことはできなかった」
「でも、狼鬼と戦ったのはリシェルさんです」
「お前がいたから、私は戦うことだけに集中できた」
リシェルは迷いなく言った。
「お前がいたから、依頼を達成できた」
すぐには返事ができなかった。
教会では、祈りが弱いと言われた。
神聖魔法の才能がないと判断され、中央教会に残ることもできなかった。
森で使った《導きの鐘》も、昨日の検証では再現できなかった。
あれは偶然だったのではないか。
もう二度と、同じことはできないのではないか。
そんな考えが、何度も頭をよぎっていた。
けれど、リシェルは今、自分が必要だったとはっきり告げている。
「ありがとうございます」
ようやく、それだけを言った。
リシェルはうなずいた。
それから、少しだけ姿勢を正した。
「ミハル」
「はい」
「お前は、これからどうするつもりだ?」
突然尋ねられ、ミハルは戸惑った。
「冒険者として、ですか?」
「ああ」
「まだ、はっきりとは……。受けられる依頼を探して、少しずつ経験を積もうとは思っています」
「誰かと組む予定は?」
「ありません」
教会を出て、この町へ来た。
冒険者になることは決めていたが、その先に何があるのかは、まだ見えていない。
ベルク村の依頼も、ツキヤミに紹介されてリシェルと組んだだけだった。
「そうか」
リシェルは一度だけうなずいた。
「なら、これからも私と組んでくれないか」
「え?」
「ベルク村では、即席で組んだだけだった。だが、私はお前となら、これからも依頼を受けたいと思っている」
ミハルは、すぐには答えられなかった。
誘われるとは思っていなかった。
リシェルはDランクになった。これまでより難しい依頼を受けられるようになり、組む相手の選択肢も増える。
それでも、自分を選んでくれた。
「僕で、いいんですか?」
「だから誘っている」
「僕はまだ、登録したばかりのFランクです。それに、祈りも――」
「ランクなら、これから上げればいい」
リシェルはミハルの言葉を遮った。
「祈りが思うように使えないなら、使えるように訓練すればいい。足りないものがあるのは私も同じだ」
青い認証帯へ目を落とす。
「私は三年かかった。お前が今できないことを理由に、組まないとは言わない」
その言葉が、胸の奥へ真っ直ぐに届いた。
ミハルは、深く息を吸った。
「僕も、リシェルさんと一緒に行きたいです」
「ああ」
「これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ頼む」
リシェルが右手を差し出す。
ミハルは、その手を握った。
剣を握り続けてきた手は硬かった。
けれど、その温かさがはっきりと伝わってくる。
即席で組んだ二人が、その日、正式に同じ道を歩くことを決めた。
◇
それから、二人の朝の日課が始まった。
ミハルは夜明けとともに起き、町の教会へ向かう。
朝の祈りを捧げたあと、教会の片隅を借りて基礎祈祷を繰り返した。
傷を癒やす《小癒》。
身を守る《守護の衣》。
暗い場所を照らす《聖光》。
どれも教会で習った、僧侶としての基礎だった。
けれどミハルの祈りは弱く、効果も長く続かない。
それでも、やめるつもりはなかった。
祈りを終えて宿へ戻る頃には、リシェルも一時間の走り込みを終えている。
二人で朝食を取ったあと、宿の裏手にある空き地へ向かう。
建物に囲まれた、小さな空き地だった。
端には雑草が残っているが、中央の土は人の足で踏み固められている。リシェルは木剣を手に、空き地の中央へ立った。
ミハルは、その向かいに何も持たずに立つ。
「今日は《守護の衣》を使いながら、私の攻撃を避けてもらう」
「祈りながら、ですか?」
「ああ。僧侶だからといって、魔物が祈り終わるまで待ってくれるわけではないからな」
「分かりました」
ミハルは息を整え、胸の前で両手を組んだ。
「我が身を包み、災いを遠ざけたまえ。《守護の衣》」
淡い光が、ミハルの身体を包んだ。
祈祷は発動した。
ミハルが組んでいた手を解いた、その直後だった。
リシェルが一歩踏み込む。
木剣が横から迫った。
ミハルは祈りが正しく働いているかを確かめることに意識を奪われ、その場に立ち尽くした。
淡い光が木剣をわずかに押し返したが、衝撃までは消しきれなかった。
「痛っ」
「なぜ避けない?」
「《守護の衣》が、どれくらい攻撃を防げるのか確かめようと……」
「避けられる攻撃まで、祈りで受ける必要はない」
リシェルは木剣を下ろした。
「実戦で祈りを使うのは、祈りの強さを確かめるためか?」
「いえ。自分や仲間を守るためです」
「なら、自分で避けられるときは避けろ。祈りに頼るのは、それでも間に合わないときだ」
言われてみれば、そのとおりだった。
教会での訓練では、正しい姿勢で両手を組み、決められた祈りの言葉を唱えることが求められた。発動した祈祷の強さや持続時間ばかりを測られ、祈ったあとの動きまで教えられることはなかった。
けれど、魔物を前にして、立ち止まって祈るだけでは生き残れない。
「祈ることだけに意識を奪われるな。周囲を見ろ。発動したらすぐに動け。次の祈りが必要なら、安全な位置を確保してから両手を組め」
「はい」
「もう一度だ」
ミハルは再び両手を組んだ。
「我が身を包み、災いを遠ざけたまえ。《守護の衣》」
淡い光が身体を包む。
手を解くと同時に顔を上げ、リシェルの動きを見る。
リシェルが踏み込んだ。
今度は、迫ってくる木剣に合わせて横へ動く。
しかし足がもつれ、危うく転びそうになった。
木剣の先が、反対の肩を軽く叩く。
「さっきよりはいい」
「二回とも当たっていますけど」
「今度は避けようとした」
「それだけですか?」
「最初からできるなら、訓練はいらない」
リシェルは当然のように答えた。
「もう一度」
ミハルは距離を取り、両手を組んだ。
祈る。
顔を上げる。
手を解いて動く。
間に合わず、木剣で打たれる。
距離を取り直し、また祈る。
何度も繰り返すうちに、少しずつリシェルの足や肩の動きが見えるようになってきた。
訓練が終わる頃には、ミハルの全身が汗で濡れていた。
地面へ座り込み、乱れた呼吸を整える。
リシェルは休むことなく、木剣を手に空き地の中央へ戻った。
「リシェルさんは、まだやるんですか?」
「ああ。ここから一時間、剣の稽古だ」
走り込みを一時間。
ミハルの訓練に付き合い、そのあとに自分の稽古を一時間。
酒を飲んだ翌朝だけではない。
リシェルは、毎日それを続けていた。
木剣が振られる。
踏み込むたびに土が小さく鳴る。
同じ動きを、何度も繰り返す。
速さも、足の位置も、剣の軌道も、ほとんど変わらない。
派手さはなかった。
ただ、一度ごとに自分の動きを確かめ、わずかなずれを修正している。
三年間、才能がないと言われ続けても、こうして剣を振ってきたのだろう。
ミハルは立ち上がった。
疲れた脚を伸ばし、リシェルから少し離れた場所へ立つ。
「何をしている?」
「僕も、もう少し続けます」
「何をするつもりだ?」
「祈って、周りを見て、すぐに動く練習です。今度は一人でやってみます」
「無理をすると、明日動けなくなるぞ」
「少しだけです」
リシェルはミハルの様子を確かめるように見た。
「なら、五回で終わりにしろ。急ぐ必要はない。祈り終えたあと、足元だけでなく周囲を見ることを忘れるな」
「はい」
リシェルが木剣を振る傍らで、ミハルは胸の前に両手を組んだ。
祈りの声と、木剣が朝の空気を切る音が、静かな空き地に重なった。
◇
そんな日々が始まって、一週間が過ぎた。
その日の昼前、訓練を終えた二人がギルドへ戻ると、受付にいたツキヤミがリシェルを呼び止めた。
ツキヤミの手には、一通の封筒があった。
「リシェルさん宛てに、こちらが届いています」
差し出された封筒を見た瞬間、リシェルの足が止まった。
厚い紙に、深い青色の封蝋。そこには、剣を支える二頭の獅子が刻まれている。
「もしかして、ご実家からですか?」
「ああ。家の紋章だ」
リシェルは封筒を受け取ったが、すぐには開こうとしなかった。
「何か心当たりがあるんですか?」
「ない」
短く答えてから、封を切った。
数行へ目を通したところで、その表情から感情が消える。
「リシェルさん?」
呼びかけても、答えない。
やがてリシェルは、書状を静かに折り畳んだ。
「父からだ」
「何と?」
「Dランクへの昇格を知ったらしい」
本来なら、喜ばしい知らせのはずだった。
しかし、リシェルの顔に喜びはない。
「三日以内に、この町を発てと書かれている」
「どこへ行くんですか?」
リシェルは、手の中の書状へ目を落とした。
「家へ戻れ、と」
ヴァルクレイン家の領都までは、馬車で三日。
リシェルの指が、手の中の書状を強く握り締めた。




