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第六話 帰る場所

 森を抜ける頃には、日が西へ傾き始めていた。


 二人とも、戦いの疲労を隠せなかった。


 口数は少ない。


 リシェルは兜を脇に抱えたまま歩いている。


 肩当てには狼鬼の爪痕が残り、鎧には乾き始めた血がいく筋も走っていた。


 ミハルも祈りを使い続けた疲労で足取りは重い。


 頭の奥に鈍い痛みが残っていた。


 やがて木々の向こうに、ベルグ村を囲む木柵が見えてきた。


 見張り台の男が二人を見つける。


「帰ってきたぞ!」


 大声が村へ響いた。


 次の瞬間、村の中が一斉に動き始める。


 門が開き、人々が駆け寄ってきた。


「帰った!」


「二人とも無事だ!」


 その中から、小さな影が飛び出した。


「お兄ちゃん!」


 救出された少年だった。


 母親が慌てて呼び止めるより早く、少年はミハルへ駆け寄り、その胸へ勢いよく抱きついた。


 小さな身体が震えている。


「ありがとう……」


 かすれた声だった。


 ミハルは驚いたように目を丸くした。


 どうしていいか分からず、一瞬手を浮かせる。


 それから、そっと少年の頭を撫でた。


「もう、安心して大丈夫だよ」


 少年は何度もうなずいた。


 その様子を見た母親が駆け寄り、少年を抱きしめる。


 涙を流したまま、何度も何度も二人へ頭を下げた。


「ありがとうございました……本当に、ありがとうございました……」


 父親も、その横で何度も頭を下げ続けた。


 周囲の村人たちも次々と礼を言い始める。


「ありがとう!」


「命の恩人だ!」


「本当に助かった!」


 村中に、ようやく安堵の空気が広がっていった。


 ロダン村長が歩み寄ってくる。


 目には涙が浮かんでいた。


「本当に……助けてくださったのですね」


「はい」


 リシェルは短く答えた。


「子どもは無事です」


「……狼鬼は、どうなりましたか」


「五頭討伐しました。三頭は負傷して逃走しました」


 その場が静まり返る。


「……五頭?」


 猟師の一人が思わず聞き返した。


 リシェルはうなずく。


「巣には、成獣が八頭いました」


「八頭……」


「幼獣も三頭いました」


 誰も言葉を失った。


 あの二人が相手にしたのは、昨日襲ってきた三頭だけではなかった。


 村を滅ぼしかねない群れ、そのものだった。


 ロダンは震える声で尋ねる。


「群れは……もう来ないのでしょうか」


「分かりません」


 リシェルは首を横へ振った。


「負傷した三頭が幼獣を連れて逃げました」


「では……」


「だからこそ、急いでギルドへ報告します」


 リシェルは真っ直ぐロダンを見る。


「巣の場所も分かっています。ギルドへ討伐依頼を出してください」


「……分かりました」


「それまでは森へ近づかないことです」


「はい」


 ロダンは深くうなずいた。


 その横で、ミハルも口を開く。


「見張りは続けてください。」


「鐘を決めていた場所も、そのまま使ってください。」


「狼鬼は警戒していますが、絶対に戻らないとは言えません。」


 村人たちは顔を見合わせ、引き締まった表情でうなずいた。


 勝った。


 だが終わってはいない。


 それは全員が理解していた。


          ◇


 その夜、村ではささやかな食事が用意された。


 本来なら祝いの宴を開きたいところだった。


 しかし、狼鬼はまだ森にいる。


 大きな声で騒ぐ者はいなかった。


 それでも食卓には、焼きたての黒パンと温かなスープが並び、村人たちは二人へ何度も礼を述べた。


 少年も家族と一緒に席へ座っている。


 ときおりミハルとリシェルの方を見ては、照れくさそうに笑っていた。


 昨日まで泣き続けていた母親の顔には、ようやく笑顔が戻っていた。


 食事を終えると、村長のロダンが一枚の封筒を差し出した。


「これは?」


 ミハルが尋ねる。


「村からギルドへの報告書です」


 ロダンは丁寧に両手で封筒を差し出した。


「今回の経緯を、村長としてまとめました。どうか、ギルドへ提出してください」


「狼鬼の群れのことも、お二人が命を懸けて村を救ってくださったことも、正しく伝えたいのです」


 リシェルは封筒を受け取り、静かに頭を下げた。


「ありがとうございます」


          ◇


 翌朝。


 村人たちは門の前まで二人を見送りに集まっていた。


 少年が前へ出る。


「僕、大きくなったら冒険者になります!」


 リシェルは少し驚き、それから小さく笑った。


「そうか。」


「でも、その前によく食べて、よく寝ろ。」


「はい!」


 少年は元気よく返事をした。


 村人たちの笑い声が広がる。


 ミハルも自然と笑っていた。


 ロダンが最後に深く頭を下げる。


「ベルグ村は、お二人のご恩を決して忘れません。」


「どうか、お元気で。」


 二人も一礼し、村をあとにした。


 朝の風が草原を渡る。


 ベルグ村は少しずつ遠ざかっていった。


          ◇


 二人は再びギルド支部の扉を押し開けた。


 昼下がりの酒場はいつもどおり賑わっている。


 酒を飲む者。


 依頼書を眺める者。


 その空気が、扉の開く音とともに一瞬止まった。


「帰ってきたぞ」


 誰かが小さくつぶやく。


 受付の向こうでは、ツキヤミが静かに顔を上げた。


「お帰りなさい」


 穏やかな笑顔だった。


「依頼の報告をお願いします」


 二人は受付へ歩み寄る。


 リシェルが封筒を差し出した。


「ベルグ村のロダン村長からです」


 ツキヤミは封を確認すると、丁寧に開封した。


 しばらく報告書へ目を通す。


 その表情が、ほんのわずかに動いた。


「……成獣八頭、幼獣三頭。」


 酒場の何人かが顔を上げる。


「五頭討伐。」


 今度は酒場全体が静まり返った。


「おい、聞き間違いか?」


「狼鬼が八頭?」


「Eランク二人だぞ」


 ざわめきが広がる。


 ツキヤミは報告書を閉じた。


「リシェルさん、ご本人からも報告をお願いします」


「はい」


 リシェルは順を追って説明した。


 三頭との最初の戦闘。


 夜を待ったこと。


 翌朝、巣を発見したこと。


 少年が生きていたこと。


 導きの鐘で群れを誘導したこと。


 岩場で迎え撃ったこと。


 五頭を討伐し、三頭が幼獣を連れて撤退したこと。


 酒場は、水を打ったように静かだった。


 最後まで聞き終えたツキヤミは、静かに尋ねる。


「素材は。」


「回収していません。」


「まだ群れが残っていましたので。」


 ツキヤミは小さくうなずいた。


「賢明な判断です。」


 ツキヤミは一度、報告書へ視線を落とした。


「ですが、本来であれば撤退すべき状況でした。」


 酒場が静まり返る。


 リシェルは迷わず答えた。


「はい。」


「依頼内容を大きく超えていました。」


「規則違反であることは承知しています。」


 ツキヤミは静かにうなずいた。


「現場では、そのような判断を迫られることもあります。」


「今回は無事に救出できましたが、次も同じ結果になるとは限りません。」


「そのことだけは忘れないでください。」


「はい。」


「ひとつ、確認させてください」


 ツキヤミは今度はミハルへ視線を向けた。


「《導きの鐘》を使い、狼鬼六頭だけを巣から引き離したのですね」


「はい。最初はうまくいかなかったんですが、何度か祈り方を変えたら……」


 ツキヤミはわずかに目を細めた。


「そのような使い方は……普通の僧侶にはできません」


「え……?」


 ツキヤミはそれ以上は何も言わず、小さく首を振る。


「いえ。詳しいことは、今後あらためて確認しましょう」


「残る群れについてはギルドで討伐隊を編成し、素材もあわせて回収いたします。」


 それを聞いたリシェルも静かにうなずいた。


「お願いします」


 酒場の奥で誰かがぽつりとつぶやく。


「……本当に、あのリシェルか」


「三年Eだったよな」


「いや」


 別の男が腕を組んだ。


「あいつは前から腕だけは確かだった。」


「俺はいつかDに上がると思ってた。」


「嘘つけ。」


 すぐ隣から笑い声が飛ぶ。


「この前まで『また安い依頼か』って言ってたじゃねえか。」


「それとこれとは別だ。」


「別じゃねえよ!」


 酒場に笑いが広がった。


 そのときだった。


 酒場の奥で、一人の男がゆっくり立ち上がる。


 新人講習を担当していた隻腕の男だった。


 男は木杯を高く掲げる。


「……よく帰ってきた。」


 低い声だった。


 しかし、その一言だけで酒場は静まり返る。


 男は口元だけで笑った。


「今日は俺のおごりだ!」


 一瞬の静寂。


 そして。


「おおおっ!」


「待ってました!」


「親父! 一番いい酒出せ!」


「黒パン追加だ!」


「肉も焼け!」


「今日は祝いだ!」


 歓声が酒場中へ弾けた。


 厨房では女将が苦笑しながら大鍋を火へ掛け直し、若い店員たちが慌ただしく皿を運び始める。


 焼きたての黒パン。


 炙った鹿肉。


 川魚の香草焼き。


 茹でた芋。


 山羊のチーズ。


 野菜がたっぷり入った熱いシチュー。


 次々と長机へ並べられ、香ばしい匂いが酒場いっぱいに広がっていく。


 誰かが大きな酒樽を転がしてきた。


「どけどけ!」


 栓を抜く。


 勢いよく泡立つ酒が木杯へ注がれた。


 琥珀色の酒があふれ、床へ少しこぼれる。


「細けぇことは気にするな!」


 笑い声が起きる。


「ほら!」


「今日の主役だ!」


 ミハルとリシェルは背中を押されるように長机へ座らされた。


「飲め飲め!」


「英雄が遠慮するな!」


 木杯が次々と差し出される。


 リシェルは困ったように周囲を見回した。


「……いや、私は。」


「駄目だ!」


「今日は断らせねえ!」


「一年分飲め!」


 酒場中が笑う。


 リシェルは観念したように木杯を受け取り、小さく息をついた。


「……参った。」


 そのまま一口だけ口を付ける。


 周囲から歓声が上がった。


「飲んだ!」


「珍しいもん見たぞ!」


 普段の凛々しい剣士とは違う。


 少し照れくさそうに笑うその横顔は、ごく普通の十八歳の少女だった。


(あんな顔もするんだ……)


 ミハルは思わず見入ってしまう。


「おい、お前も。」


 赤ら顔の冒険者が木杯を押し付けてくる。


「す、すみません。僕、お酒は……。」


「じゃあ果実水だ。」


 いつの間にか木杯は果実水へ替わっていた。


 さらに焼きたての黒パンが一つ。


 山盛りの鹿肉。


 湯気の立つシチュー。


「細いんだから食え!」


「回復役が倒れたら困る!」


 豪快な笑い声が響く。


 初めてこの酒場へ来たとき。


 誰も近寄ってこなかった。


 笑われ。


 試され。


 どこか居場所のない空気だった。


 だが今日は違う。


 肩を叩かれ。


 料理を分けてもらい。


 木杯を掲げられる。


 「また僧侶か」と笑っていた赤ら顔の男が、無言で焼きたてのパンを一つ差し出した。


「……食え。」


「あ……ありがとうございます。」


 男は照れ隠しのように鼻を鳴らし、何も言わず酒をあおる。


 それだけだった。


 それだけなのに。


 胸の奥がじんわりと温かくなった。


(これが……


 本当のギルドなんだ。)


 隻腕の男が、ミハルの隣へどかりと腰を下ろした。


 残った腕で木杯を持ち上げ、酒を一口あおる。


「勘違いするなよ」


 突然言われ、ミハルは姿勢を正した。


「お前を嫌ってたわけじゃねえ」


「……はい」


「冒険者は、命を預け合う仕事だ。昨日まで何者かも分からなかった奴を、簡単に仲間だとは呼べねえ」


 男は賑わう酒場を見渡した。


「だから、みんなお前を見てた」


 あの日、自分へ向けられていた視線を、ミハルは思い出した。


 値踏みされているようで、居心地が悪かった。


「だが、今日で分かった」


 隻腕の男は木杯を軽く掲げた。


「お前は、命を預けられる奴だ」


 そして、ぶっきらぼうに笑う。


「今日から、お前も俺たちの仲間だ」


 ミハルは、すぐには返事ができなかった。


 胸の奥が熱くなり、何かを言えば声が震えてしまいそうだった。


「……はい」


 ようやく、それだけを答えた。


 そのとき。


 酒場の隅で、白髪の吟遊詩人がゆっくりとリュートを抱えた。


 ぽろん。


 柔らかな音色が酒場へ流れる。


 それに合わせるように、一人の冒険者が酒樽を叩く。


 ドン。


 ドン。


 机を叩く者。


 木杯で拍子を取る者。


 足で床を鳴らす者。


 やがて酒場中が同じリズムに包まれた。


 一人の大男が腹の底から歌い始める。


「おれたちゃ冒険者!」


 すぐに何十人もの声が重なる。


「命をかけて 世界を渡る!」


「魂の使い方を 間違えるな!」


「戦う者は 勇ましく!」


「魔法は派手に爆発させろ!」


「僧侶の治療も必要だ!」


「偵察、情報わすれるな!」


 歌声が酒場いっぱいに響く。


 誰かが立ち上がって踊り出した。


挿絵(By みてみん)


 隣も。


 また隣も。


 肩を組み。


 笑い。


 机を叩き。


 木杯を打ち鳴らす。


 歌は二番へ続く。


「勝利の宴に 酔う時は!」


「遠慮はするな 歌えや踊れ!」


「仲間の死に 向き合う時も!」


「悲しみに暮れるな 歌えや踊れ!」


 笑って歌う者もいた。


 涙を流しながら歌う者もいた。


 きっと、この歌を亡くした仲間へ捧げた夜もあったのだろう。


 だから誰も、この歌を笑わない。


 最後に全員が木杯を高く掲げた。


「おれたちゃ冒険者!」


「命をかけて 世界を渡る!」


「魂の使い方を 間違えるな!」


 歓声が酒場を揺らした。


 宴はまだ終わらない。


 笑い声も、歌声も続いている。


 その喧騒から少し離れた窓際で、リシェルは静かに木杯を置いた。


「ミハル。」


「はい?」


 リシェルは少し照れくさそうに笑う。


「今回の依頼……私一人では達成できなかった。」


 ミハルは首を振る。


「そんなことありません。」


「僕は少し手伝っただけで──」


「違う。」


 リシェルは静かに遮った。


「あの場で、お前がいなければ私は負けていた。」


 しばらく沈黙が流れる。


 酒場の喧騒だけが遠く聞こえていた。


「だから。」


 リシェルは真っすぐミハルを見る。


「しばらく、私と組まないか。」


 ミハルは思わず目を見開く。


「え?」


「……正直に言う。」


 リシェルは視線を逸らさなかった。


「まだ、お前のことはよく分からない。」


「今回のことが偶然なのか。」


「それとも、お前には本当にあの力があるのか。」


「私は、それを確かめたい。」


 ミハルは少しだけ困ったように笑った。


「僕にも、よく分からないんですけどね。」


 その言葉に、リシェルもわずかに口元を緩めた。


「なら、一緒に確かめればいい。」


 ミハルはしばらく考え、それからゆっくりとうなずく。


「……よろしくお願いします。」


「こちらこそ。」


 二人は小さくうなずき合った。


 酒場では、再び冒険賛歌の合唱が始まっていた。


 木杯が鳴り、笑い声が重なり、誰かがまた酒樽を叩き始める。


 賑やかな歌声の中で、ミハルは初めて、共に歩いていく仲間を得た。


 その日、ミハルの冒険者としての人生が、本当の意味で始まった。


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