第五話 倒せてしまった
森の入口の向こうから、低い遠吠えが重なった。
ひとつではない。
いくつもの声が、木々の間を近づいてくる。
少年を抱えた猟師たちは、すでに村へ向かって走り始めている。姿は見えなくなっていたが、まだ十分に距離を取れてはいない。
狼鬼が二人の匂いを追っているのなら、このまま森の外へ出るわけにはいかなかった。
「では、どこへ行きますか」
「村から離れる」
「逃げ切れますか」
「難しいな」
リシェルは短く答えた。
鎧を着た彼女と、戦い慣れていないミハルでは、森を走る狼鬼から逃げ続けることはできない。
かといって、開けた場所で群れを迎えれば、たちまち囲まれる。
ミハルは、先ほどまで少年が捕らえられていた岩場を思い浮かべた。
大きな岩に囲まれた窪地。
奥には高い岩壁があり、左右にも岩が張り出している。正面は開いていたが、群れが一斉に並んで襲いかかれるほど広くはなかった。
「さっきの場所へ戻りませんか」
リシェルが振り返った。
「巣へ戻るのか?」
「はい。あの窪みなら、後ろから襲われません」
「囲まれない代わりに、逃げ道もなくなる」
「一度に入ってこられなければ、戦えますよね」
リシェルはしばらくミハルを見た。
「理屈ではな」
その言葉が意味する危険を、ミハルにも理解できた。
作戦が崩れても逃げられない。
それでも、ほかに群れを止める方法は思いつかなかった。
「行きましょう」
リシェルはそう言って、森へ引き返した。
二人は、狼鬼の足跡をたどって進んだ。
先ほどは少年を抱えていたため、周囲を見る余裕がなかった。今は木の根や岩を避けながら、できるだけ音を立てずに歩く。
背後から聞こえる遠吠えは、少しずつ近づいていた。
しばらく進んだところで、リシェルが口を開いた。
「さっきの祈りだが」
「導きの鐘ですか」
「なぜ、あんな場所で鳴った」
ミハルは少し考えた。
「鳴らしたかったからです」
リシェルは足を止めかけた。
「……見えていなかっただろう」
「はい」
「では、どうやって場所を決めた」
ミハルは前方の森を見た。
「あの先にも森が続いているって、分かりましたから」
リシェルは黙ったまま歩き続けた。
やがて、小さく息をつく。
「お前の『分かる』は、どうも普通じゃないらしい」
「そうでしょうか」
「たぶんな」
それ以上、リシェルは追及しなかった。
岩場が近づくにつれ、木々の隙間から狼鬼の声が聞こえ始めた。
唸り声。
岩を引っかく爪の音。
群れは、すでに巣へ戻っているようだった。
ミハルは前を歩くリシェルの兜を見た。
昨日の戦いでも、先ほど少年を救い出したときにも、リシェルは何度も身体ごと振り返っていた。
兜の隙間から見える範囲が狭いのだ。
「リシェルさん」
「なんだ」
「兜を外してください」
リシェルの足が止まった。
「何を言っている」
「兜があると、横が見えませんよね」
「頭を守るためのものだ」
「でも、リシェルさんは攻撃を受け止めていません」
リシェルが黙る。
「相手の動きを見て、少しだけずれて、力を流しています。見えなければ、できません」
「頭を狙われれば終わりだ」
「後ろは岩に守ってもらいます」
「前から来る爪は防げない」
「防御の祈りをかけます」
リシェルはミハルを見つめた。
「お前の祈りは、昨日ほとんど効かなかった」
「昨日より、近くで祈ります」
「それで強くなるのか」
「分かりません」
リシェルの眉が動いた。
「分からないことばかりだな」
「はい」
ミハルはうなずいた。
「でも、兜を外した方が、リシェルさんは戦いやすいと思います」
遠くで狼鬼が吠えた。
リシェルは兜の縁に手をかけた。
金属が擦れる音がして、兜が持ち上がる。
結い上げた金色の髪が現れた。
リシェルは兜を小脇に抱え、森の奥へ目を向けた。
「それから、ひとつだけ確認する」
リシェルが言った。
「どうやって一頭ずつ相手にする」
ミハルは、教会で習った祈りを思い出していた。
暗い礼拝堂。
地下の貯蔵室。
夜の山道。
手元や足元を照らすために、何度も使った初歩の祈り。
「探求の燈を使います」
リシェルが怪訝そうな顔をした。
「あれは灯りだろう」
「はい」
「狼鬼を止められるほど強い光ではない」
「目の前で灯せば、少しは眩しいと思います」
リシェルは一度、目を閉じた。
「お前は、ときどき話を簡単にしすぎる」
「難しいでしょうか」
「動いている狼鬼の目の前に、正確に灯せるならな」
ミハルは首をかしげた。
「見えていれば、できると思います」
リシェルは何も答えなかった。
二人は岩陰まで戻った。
窪地には、群れが集まっていた。
成獣が八頭。
幼獣が三頭。
成獣たちは岩場の匂いを嗅ぎ、少年が消えたことに気づいている。
二頭は地面を引っかき、残りは森の方角を警戒していた。
リシェルは兜を岩陰に置き、剣を抜いた。
「八頭を相手にはさせないと言ったな」
「一頭ずつにします」
リシェルは窪地の奥へ目を向けた。
「私にできると思うか」
「できます」
ミハルは迷わず答えた。
リシェルが振り返る。
「ずいぶん簡単に言うんだな」
「リシェルさんなら、できます」
リシェルはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐き、剣を握り直す。
「不思議だな」
「何がですか」
「お前に言われると、できる気がする」
リシェルは窪地の奥へ入り、岩壁を背にした。
「鐘でこちらへ向かせろ」
ミハルもその後ろに立つ。
正面の開口部は狭い。
だが、一頭しか通れないほどではない。
二頭、無理をすれば三頭が同時に入ってくる幅はある。
リシェルは剣を両手で構えた。
「祈れ」
ミハルは胸元で手を組んだ。
「神よ。彼女をお守りください」
淡い光が、リシェルの鎧を包んだ。
昨日よりも、はっきり見えた。
けれど、これが狼鬼の爪をどこまで防げるのかは分からない。
ミハルは次の祈りへ意識を移した。
群れの手前。
岩場の入口。
そこに、小さな鐘があると考える。
――チリン。
澄んだ音が鳴った。
八頭の成獣が一斉に顔を上げる。
一頭が岩場へ飛び込んできた。
牙を剥き、リシェルへ襲いかかる。
「今です!」
ミハルは狼鬼のこめかみへ《探求の燈》を灯した。
狼鬼が反射的に顔をそむける。
その一瞬で十分だった。
リシェルは爪をかわし、前脚を斬る。
体勢を崩した喉へ、返した剣が走った。
「次!」
リシェルには、振り向かなくても、横から迫る二頭目の動きが見えていた。
再び燈が灯る。
狼鬼が顔を振った拍子に、一頭目の血を踏んだ。
巨体が滑る。
岩へ肩からぶつかった。
剣が首を薙ぐ。
「今のは狙ったのか」
「光だけです」
「そうか」
三頭目が仲間を飛び越えた。
続いて四頭目。
ミハルは次々と燈を灯す。
光を避けた三頭目が、四頭目へ肩からぶつかった。
二頭の動きが重なる。
リシェルは迷わず踏み込んだ。
一閃。
三頭目の前脚が断たれ、巨体が地面へ落ちる。
その身体につまずき、四頭目も大きく体勢を崩した。
リシェルは倒れた三頭目の喉を斬り裂く。
そのまま剣を返し、起き上がろうとした四頭目の首へ突き入れた。
二頭の身体が、重なるように倒れた。
出来すぎだった。
倒れた狼鬼が通路を狭める。
流れた血が足場を奪う。
狼鬼同士が互いの邪魔をする。
そこへミハルの燈が重なり、わずかな乱れが致命傷へ変わっていく。
だが――。
五頭目は止まらなかった。
燈が目の前に灯る。
狼鬼は目を細めただけだった。
「効きません!」
「学んだんだ!」
爪が振り下ろされる。
リシェルは避けきれず、肩から岩壁へ叩きつけられた。
防御の光が大きくはじける。
狼鬼が追撃に入る。
ミハルは右目の前へ燈を灯した。
右。
左。
もう一度、右。
視線がぶれる。
爪が岩を打つ。
その隙へ、リシェルが踏み込んだ。
剣が腹を裂く。
それでも倒れない。
振り回された腕が背中をかすめる。
リシェルは退かず、喉元へ剣を突き上げた。
狼鬼が崩れ落ちる。
リシェルも同時に膝をつきかけた。
「リシェルさん!」
「前を見ろ!」
残る三頭が、岩場の外に並んでいた。
仲間の死骸を見ている。
最初のように、無防備には飛び込んでこない。
低く唸りながら、三頭が同時に距離を詰めた。
倒れた仲間の身体を避けるように、左右へ分かれる。
「三頭、来ます!」
「見えている!」
ミハルは先頭の一頭、その目の前へ《探求の燈》を置いた。
続けて二頭目。
さらに三頭目。
光はすべて狙った場所へ灯った。
だが、狼鬼たちは目を細め、顔を振りながら進んでくる。
もう、最初のようには止まらない。
三頭が岩場へ押し入った。
リシェルは最初の一頭の爪を避け、前脚を斬った。
二頭目の牙が迫る。
身を沈め、肩口を切り裂く。
三頭目の爪が横から振られた。
リシェルは剣で受けた。
金属が鳴り、身体ごと岩壁へ押しつけられる。
ミハルは三頭目の片目の前へ燈を灯した。
狼鬼が反射的に顔をそむける。
リシェルは押し返さず、その力を横へ流した。
剣先が狼鬼の頬から目元を裂いた。
三頭が一度、距離を取った。
前脚から血を流す一頭。
肩を深く斬られた一頭。
片目を押さえる一頭。
リシェルも荒い息を吐いている。
剣を持つ腕が震えていた。
ミハルの頭にも、鈍い痛みが広がっていた。
これ以上、同じ精度で祈りを置けるか分からない。
三頭の狼鬼は、倒れた五頭と二人を見比べた。
やがて、一頭が低く吠えた。
それを合図に、三頭はゆっくりと後退した。
窪地の端にいた幼獣たちが、成獣の後ろへ集まる。
負傷した三頭は幼獣を囲み、そのまま森の奥へ消えていった。
リシェルは追わなかった。
剣を下ろし、岩壁へ背を預ける。
「追わなくていいんですか」
「追えば死ぬ」
リシェルは短く答えた。
ミハルは地面に倒れた五頭を見た。
「五頭も倒せました」
「倒せたんじゃない」
リシェルは、二頭目の狼鬼が滑った血だまりに目を向けた。
「倒せてしまったんだ」
「でも――」
「一頭が滑った。二頭がぶつかった。倒れた身体が、次の一頭を止めた」
リシェルはへこんだ肩の鎧へ手を当てた。
「最後の一撃も、少しずれていれば、剣ごと腕を持っていかれていた」
ミハルは何も言えなかった。
「お前の祈りがなければ、一頭も倒せなかった」
リシェルは続けた。
「だが、祈りが当たれば勝てるという話でもない」
岩場には、五頭の狼鬼が倒れている。
大きな戦果だった。
それでも、勝利を喜べるような空気ではなかった。
「こんなことが、何度も上手く続くわけがない」
リシェルは岩陰に置いた兜を拾い上げた。
しばらく眺め、小さく息をつく。
「ひとつだけ認める」
「はい」
「兜を外したのは正しかった」
ミハルは少しだけ笑った。
「そうですか」
「横から来る動きが、よく見えた」
リシェルは兜を脇に抱え直す。
「今まで、ずいぶん損をしていたらしい」
そう言って、リシェルは森の出口へ歩き出した。
「村へ戻る」
「残った狼鬼はどうしますか」
「巣の位置と数をギルドへ報告する。正式な討伐隊を出してもらう」
「僕たちの依頼ではないんですか」
「もうEランク二人で扱う仕事じゃない」
リシェルは兜をかぶらず、脇に抱えた。
森の奥から、遠ざかっていく狼鬼の声が聞こえた。
「今日は、運が良すぎた」




