第四話 導きの鐘
昨夜、二人は夜明けを待って森へ入ることを決めた。
子どもの両親には、暗闇の中で捜索すれば、救える命まで失うと説明した。それでも、誰一人として眠ることはできなかった。
夜明け前、ベルク村の広場には、すでに多くの村人が集まっていた。
石を積んだだけの低い囲い。
ところどころ傷んだ木の柵。
家々の屋根には古い藁が重ねられ、窓から漏れる明かりも弱い。
狼鬼の群れを防げるような村ではなかった。
眠れなかったのだろう。
誰もが青ざめた顔で、森の方を見ている。
行方不明になった少年の両親もいた。
母親は両手を胸の前で組み、父親は落ち着きなく広場を歩き回っていた。
「森へ入るのは、私とミハルだけだ」
村人たちの前で、リシェルが言った。
兜をかぶり、剣を腰に下げている。
昨夜まで傷を負っていたとは思えない、落ち着いた声だった。
「猟師は何人いる」
「四人だ」
村長のロダンが答えた。
リシェルは集まった男たちへ目を向けた。
「二人は村に残れ。柵の傷んでいる場所を塞いで、森側に見張りを置く。狼鬼を見つけても追うな。すぐ鐘を鳴らせ」
二人の猟師がうなずいた。
「残りの二人は、森の入口で待機してくれ」
「俺たちも捜した方がいいんじゃないか」
若い猟師が言った。
「狼鬼の巣が近くにある。森の中で出会えば、お前たちを守りながら戦うことになる」
反論を許さない口調だった。
だが、ただ命令しているのではない。
何をさせ、何をさせないのか。
その理由まで、はっきりしていた。
「子どもを連れて戻ったら、入口で引き渡す。受け取ったら、すぐに村まで運べ。私たちを待つ必要はない」
「分かった」
「絶対に森へ入るな。声や物音がしてもだ」
二人の顔から、わずかに血の気が引いた。
それでも、今度はしっかりとうなずいた。
「子どもと年寄りは、なるべく広場に近い家へ集めてくれ。戸口には水と、火を消すための濡れ布を用意する。戦える者は農具でも構わない。森側の家には近づくな」
指示は淀みなく続いた。
村人たちは、それぞれの役目を与えられると、少しずつ動き始めた。
不安が消えたわけではない。
それでも、ただ森を見つめている者はいなくなった。
ミハルは、その様子を黙って見ていた。
昨日、狼鬼に囲まれたときもそうだった。
リシェルは迷わず前に出た。
自分の傷より先に、村人の避難を確かめていた。
そして、あの戦い方。
狼鬼の爪を、正面から受け止めてはいなかった。
剣を合わせた瞬間、相手の力を横へ流し、そのまま体勢を崩していた。
力で勝ったのではない。
狼鬼の力を使ったように見えた。
「あの、リシェルさん」
「なんだ」
「昨日の戦いのことなんですが」
リシェルが振り向く。
「狼鬼の攻撃を受けたとき、どうして――」
「今は捜索が先だ」
言葉は短かった。
しかし、突き放すような響きではなかった。
「戻ったら話す」
「はい」
リシェルは村長へ向き直った。
「日が昇ったら出る」
「どうか、お願いします」
ロダンが深く頭を下げた。
少年の母親も、その隣で何度も頭を下げる。
リシェルは何も約束しなかった。
ただ一度うなずき、森へ視線を向けた。
◇
朝日が木々の向こうから差し始めると、二人は森へ入った。
昨夜見つけた片方の靴から、狼鬼の足跡をたどる。
地面はまだ湿っていた。
大きな足跡の間に、引きずられたような跡が残っている。
だが、血はなかった。
リシェルは足を止めるたび、折れた枝や土のへこみを確かめた。
「こっちだ」
道と呼べるものはなかった。
茂みを避け、岩の間を抜け、深い場所へ進んでいく。
しばらくすると、獣の臭いが濃くなった。
土と毛と、古い血の混じった臭いだった。
リシェルが片手を上げる。
二人は身を低くし、岩陰へ入った。
その先に、木々の途切れた場所があった。
斜面の下に、大きな岩がいくつも重なっている。
その中央には、浅いくぼみがあった。
男の子がいた。
泥にまみれ、膝を抱えて座っている。
服は何か所も裂けていたが、大きな傷は見えない。
その周囲を、三頭の幼い狼鬼が歩き回っていた。
成獣より二回りほど小さい。
それでも、子どもと比べれば十分に大きかった。
一頭が少年の足先へ鼻を寄せる。
少年は身を縮めた。
泣き声すら上げなかった。
その外側には、成獣がいた。
一頭。
二頭。
ミハルは目で数えた。
全部で八頭。
岩陰に伏せているものもいれば、木の根元で眠っているものもいる。
だが、どの狼鬼も幼獣と少年を囲むように位置を取っていた。
「生きています」
「ああ」
リシェルは小さく答えた。
「だが、多すぎる」
しばらく巣の様子を見つめたあと、リシェルは岩陰へ身を戻した。
「一度、村へ戻る」
「助けを呼ぶんですか」
「ギルドへ知らせる。成獣八頭だけでも、Dランク五人で当たる仕事だ」
リシェルは巣の方を見た。
「そのうえ、戦いながら子どもを救出する必要がある。二人でやるなら、Cランク以上になる」
ミハルにも、その意味は分かった。
自分たちはEランクが二人。
正面から挑めば、勝ち目はない。
本来なら、ギルドへ戻るべきなのだろう。
しかし、それは少年を見捨てることを意味した。
助けを連れて戻るまで、少年が無事でいる保証はない。
ミハルは必死に考えた。
正面から戦う以外に、少年を助ける方法はないのか。
そのとき、幼獣の一頭が少年の前へ近づいた。
遊ぶように前足を伸ばす。
爪が少年の袖を裂いた。
少年は声を上げず、両腕で頭を覆った。
別の幼獣も近づいてくる。
成獣の一頭が、それを止めようとはしなかった。
むしろ、伏せたまま見ている。
幼獣が、獲物へ近づく様子を。
リシェルの手が剣の柄に触れた。
だが、抜かなかった。
八頭を相手にすれば、少年まで巻き込む。
ミハルは巣を見つめた。
狼鬼を倒すことはできない。
けれど、倒す必要はないのではないか。
少年から離せればいい。
そのために、何か。
教会で覚えた祈りを、一つずつ思い返す。
傷を癒やす祈り。
身を守る祈り。
暗い場所を照らす祈り。
そして、道に迷った者を導くための祈り。
「リシェルさん」
「なんだ」
「一つだけ、試してもいいですか」
リシェルがミハルを見る。
「何をする」
「狼鬼を、あの場所から離します」
「できるのか」
「分かりません」
答えると、リシェルの目がわずかに細くなった。
「でも、あの子は待てません」
幼獣が再び少年へ近づいていた。
リシェルはしばらく黙っていた。
「説明しろ」
「僕が狼鬼を森の奥へ誘います。全部は動かないかもしれません。残った狼鬼を、少しだけ引きつけてください」
「少しだけ、か」
「その間に、僕が子どもを連れ出します」
無謀な作戦だった。
それでもリシェルは笑わなかった。
「何頭残るか分からない」
「はい」
「群れが戻るまでの時間も分からない」
「はい」
「失敗したら、私たちだけでは済まない」
ミハルは少年を見た。
「それでも、何もしないで戻れません」
リシェルも同じ方を見た。
やがて剣の柄から手を離す。
「どうする」
「森の奥で導きの鐘を鳴らします」
リシェルがミハルを見た。
「……そんなことができるのか」
「鳴らせます」
ミハルは当然のようにうなずいた。
「導きたいのは狼鬼ですから」
「そういう問題じゃない」
リシェルは森の奥へ目を向ける。
「あそこは見えていない」
「はい」
「導きの鐘は、術者の近くで鳴らす祈りだ」
ミハルは少し考えた。
「でも、向こうへ導きたいなら、向こうで鳴った方が自然ですよね」
リシェルは数秒、ミハルを見つめた。
冗談を言っている顔ではない。
「……やれ」
ミハルは目を閉じた。
巣のさらに奥。
木々に隠れ、誰の姿も見えない場所を思い浮かべる。
そこに、小さな鐘を描く。
誰かを呼ぶために。
誰かを導くために。
祈りを結ぶ。
――チリン。
澄んだ音が、木々に遮られた森の奥から響いた。
だが、群れは動かなかった。
ミハルの胸が強く鳴る。
失敗したのかと思った。
そのとき、一頭の耳がわずかに動いた。
頭を上げ、音のした方を見る。
ミハルはもう一度、森の奥を思い浮かべた。
今度は、先ほどよりも遠い場所。
獲物が逃げていくように。
――チリン。
二度目の音が鳴った。
一頭が立ち上がった。
続いて、別の二頭も顔を上げる。
鼻を鳴らしながら、木々の間を見つめている。
まだ足りない。
ミハルはさらに遠くへ意識を伸ばした。
森のもっと深い場所。
そこへ向かえば、何かがいると感じる場所へ。
――チリン。
三度目の音が鳴った。
最初に立ち上がった狼鬼が駆け出した。
続いて一頭。
さらに一頭。
六頭の成獣が、次々と森の奥へ走っていく。
岩場に残ったのは、幼獣のそばにいた二頭だけだった。
リシェルが剣を抜いた。
「行くぞ」
岩陰から飛び出す。
二頭の狼鬼が同時に振り向いた。
リシェルはまっすぐ少年へ向かわなかった。
大きく横へ走り、剣を岩へ打ちつける。
鋭い音が響いた。
二頭の成獣が牙をむき、リシェルを追う。
幼獣たちも驚いて後ずさった。
「今だ!」
ミハルは斜面を駆け下りた。
少年の前へたどり着き、膝をつく。
「助けに来たよ」
少年は顔を上げた。
目だけが大きく見開かれていた。
声は出なかった。
「もう大丈夫」
ミハルが手を伸ばすと、少年はその袖を強くつかんだ。
抱き上げる。
体は冷え、細かく震えていた。
幼獣の一頭が唸る。
ミハルは少年を抱えたまま立ち上がった。
「リシェルさん!」
「走れ!」
リシェルは二頭の間に立っていた。
一頭が前から爪を振るう。
リシェルは剣を斜めに合わせた。
受け止めるのではなく、横へ滑らせる。
狼鬼の巨体が、そのままもう一頭の進路へ流れた。
二頭の肩がぶつかる。
ほんの一瞬だけ、道が空いた。
昨日と同じだった。
やはり、力で押し返しているのではない。
相手の勢いを、別の場所へ移している。
ミハルはその光景を目に焼きつけ、少年を抱えて走った。
◇
森の入口には、二人の猟師が待っていた。
「いたぞ!」
ミハルの姿を見つけると、二人が駆け寄ってくる。
「生きてるのか」
「生きています。大きな怪我もありません」
猟師の一人が少年を受け取った。
少年はまだ声を出せず、ミハルの袖を離そうとしなかった。
「大丈夫」
ミハルはその手を包んだ。
「この人たちが、お父さんとお母さんのところまで連れていってくれるよ」
少年の指が、少しずつ緩んだ。
「村へ戻れ」
追いついたリシェルが言った。
「でも、あんたたちは」
「私たちを待つな。言ったとおり、この子を村へ運べ」
猟師たちは顔を見合わせた。
それから少年を抱き直し、村へ向かって走り出した。
その背中が木々の向こうへ消える。
ミハルはようやく息を吐いた。
「助かりましたね」
「ああ」
リシェルは森を振り返った。
兜の奥から、じっと暗い木々を見つめている。
「どうして森の奥で鳴った」
「導きたいのは、あっちでしたから」
「見えていたのか」
「いいえ」
リシェルがミハルを見る。
「……あとで聞く」
低い遠吠えが響いた。
ミハルは森へ顔を向けた。
一頭ではない。
いくつもの声が重なり、木々の間を伝ってくる。
先ほどよりも近い。
その声には、獲物を失った怒りが混じっていた。
リシェルが剣を抜く。
「気づかれた」
「村へ戻りましょう」
「駄目だ」
リシェルは、少年が運ばれていった方角を見た。
「今戻れば、群れを村まで連れていく」
遠吠えが、さらに近づいた。
茂みの奥で、枝の折れる音がする。
リシェルは村とは反対の方角へ体を向けた。
「村には戻れない」




