第三話 夜の森
ベルク村へ着いたのは、陽が沈み始める頃だった。
ギルドを出てから、およそ半日。
なだらかな街道を外れた先に、低い木柵で囲まれた村が見えてきた。
家は二十軒ほどだろうか。
石造りの建物はなく、どれも木と土壁でできている。村の向こうには畑があった。そのさらに奥には深い森が広がり、黒々とした木々が、空との境を埋めていた。
「ここが、ベルク村ですね」
「ああ」
リシェルは短く答えた。
その声は、兜の中で低く反響している。
道中、二人は魔物が現れた場合の動きを確認していた。
戦うのはリシェル。
ミハルは村人を避難させ、リシェルに防御の祈りをかける。負傷者が出れば治療する。
教会で学んだことはあった。
魔物の種類も、傷の手当ても、防御の祈りも。
だが、それらを本当に使うのは、今日が初めてだった。
「緊張しているのか?」
前を歩くリシェルが尋ねた。
「少しだけ」
「そうか」
励ますでも、笑うでもなかった。
けれど、その素っ気ない返事が、ミハルにはありがたかった。
村の入口には、すでに何人かの村人が集まっていた。
ギルドから冒険者が来ると聞いていたのだろう。先頭に立つ白髪の男が、二人を見つけると駆け寄ってきた。
「ギルドの方ですか?」
「狼鬼討伐の依頼を受けた。私はリシェル。こちらは僧侶のミハルだ」
「よろしくお願いします」
ミハルが頭を下げると、男も深く頭を下げ返した。
「村長のロダンです。よく来てくださいました」
その声には、安堵と不安が入り交じっていた。
二人は村長の家へ案内された。
家の中には簡素な机と椅子があり、壁際には農具が立てかけられている。
「狼鬼を見たのは、これまでに三度です」
村長は机の上に粗い村の見取り図を広げた。
「最初は羊が一頭。次は畑が荒らされました。その次は、牛小屋の近くまで来ています」
「目撃した数は?」
「三頭です。毎回、三頭でした」
リシェルは見取り図に目を落とした。
「現れた場所は同じか?」
「おおよそは。畑と家畜小屋がある方から来ます」
村長が地図を指さした。
「森へ入って調べた者は?」
「猟師が二人、途中まで入りました。ですが、足跡が重なっていて……」
村長が言い終える前に、外から叫び声が聞こえた。
「狼鬼だ!」
戸が乱暴に開いた。
若い村人が、息を切らして立っていた。
「畑の方だ!」
リシェルは椅子を蹴るように立ち上がった。
「ミハル」
「はい」
二人は同時に家を飛び出した。
村の奥から、甲高い悲鳴と家畜の鳴き声が響いていた。
畑の間を、村人たちがこちらへ逃げてくる。
その向こうに、何かがいた。
最初に見えたのは、背中だった。
灰色がかった黒い毛。
その背は人の胸ほどの高さがあり、振り返った頭には、太く短い角が二本突き出していた。
狼鬼。
教本には、成体は虎ほどの大きさと書かれていた。
群れで行動し、人や家畜を襲う。
頭部の角は硬く、正面からの攻撃は危険。
ミハルは、その文章を何度も読んでいた。
だが、知識として知ることと、目の前に立つことは、まるで違った。
狼鬼が口を開く。
黄色く濁った牙の間から、粘つく唾液が垂れた。
低いうなり声が、腹の奥まで響いた。
怖い。
ミハルの足が、ほんの一瞬止まった。
「家の中へ! 急げ!」
リシェルの声が飛んだ。
その声で、身体が動いた。
「皆さん、こちらへ! 走らないでください! 子どもを先に!」
畑の脇で立ち尽くしていた少女の手を取り、近くの家へ向かわせる。転んだ老人を村人と一緒に起こし、道を空ける。
狼鬼は三頭いた。
一頭が畑の中央。
残る二頭は左右へ散り、弧を描くようにリシェルを囲んでいく。
村人の避難を終えたミハルは、打ち合わせどおり両手を組んだ。
「願わくは、その身を守りたまえ」
淡い光が、リシェルの全身を包んだ。
白とも青ともつかない薄い光は、鎧の表面を滑るように揺れ、すぐに見えなくなった。
次の瞬間、三頭が同時に地面を蹴った。
速い。
巨体からは想像できない速度だった。
正面の一頭が跳びかかる。
リシェルは身体を半歩ずらし、剣を低く払った。
刃が前脚の内側だけを浅く裂く。
致命傷ではない。
狼鬼の体勢だけが、わずかに崩れる。
左右の二頭が同時に迫る。
リシェルはそちらを見ない。
いや、見られない。
兜の視界では、もう見えていなかった。
「右です!」
ミハルが叫ぶ。
狼鬼の体当たりが鎧へぶつかる。
鈍い衝撃。
それでもリシェルは倒れない。
ミハルは思わず息をのんだ。
(違う……)
防御魔法だけじゃない。
衝突の瞬間、リシェルは肩と腰をわずかに開き、踏み出した足へ体重を逃がしていた。
真正面から受けたように見えて、受けていない。
衝撃そのものを流している。
もう一頭の爪が背中をかすめ、金属が激しく鳴る。
リシェルは追わなかった。
正面で脚を傷つけた一頭だけを見ていた。
狼鬼が怒りに任せて再び飛びかかる。
その一瞬の隙に、リシェルの剣が再び走る。
今度は後脚。
狼鬼が崩れる。
(受け止めたんじゃない……)
(狼鬼の力を、そのまま使った……?)
土と枯れ草が舞う。
リシェルは剣を逆手に持ち替え、倒れた狼鬼の首元へ踏み込んだ。
毛の薄い喉へ、刃を突き立てる。
狼鬼の身体が大きく震えた。
やがて、その四肢から力が抜けた。
残る二頭は、仲間が動かなくなったのを見ると、同時に身を翻した。
追う間もない。
二つの灰色の背中は畑を横切り、そのまま森の中へ消えていった。
しばらく、誰も動かなかった。
家畜の荒い鳴き声と、風に揺れる草の音だけが残った。
リシェルは剣を振り、刃についた血を払った。
「終わったんですか……?」
ミハルが尋ねる。
「今のところはな」
リシェルは森を見たまま答えた。
その言葉が、ミハルの胸に小さく引っかかった。
◇
倒れた柵を直し、逃げた家畜を集めているうちに、日が傾いていた。
戦いのあった畑から村へ戻る頃には、空はもう薄紫色に染まり始めていた。
リシェルは村長の家の一室を借り、鎧を外した。
金属が床に置かれるたび、重い音がした。
最後に兜が外される。
押し込められていた金色の髪が、肩の上へこぼれた。
汗で額に張りついた髪を、リシェルは無造作にかき上げる。
ミハルは薬箱を開きかけたまま、その顔を見た。
「……女性だったんですね」
リシェルが怪訝そうに眉を寄せた。
「言ってなかったか?」
「聞いてません」
「そうか」
それだけ言うと、リシェルは袖をまくった。
腕には擦り傷があり、肩から脇腹にかけて赤黒い痣が浮かんでいる。
ミハルは傷へ手をかざした。
「痛みますか?」
「動かせる。問題ない」
「問題があるから治療するんです」
「そうなのか」
祈りを唱える。
淡い光が傷の周りに集まり、赤みが少しずつ引いていく。
擦り傷は薄くなった。
だが、痣までは完全には消えない。
教会で練習していたときより、治りが遅い。
ミハルは唇を噛んだ。
「すみません。全部は治せなくて」
「……そういえば」
リシェルが肩を回した。
「狼鬼にぶつかられたとき、思ったより衝撃が軽かった」
「防御の祈りが効いたんだと思います」
「そうか」
リシェルはもう一度、確かめるように腕を動かした。
「なら、助かった」
「でも……」
「十分だ」
リシェルは腕を曲げ伸ばしした。
「さっきより動く」
そのとき、家の外が騒がしくなった。
何人もの足音が走り回っている。
「どうした?」
リシェルが立ち上がる。
外へ出ると、一組の夫婦が村人たちに何かを訴えていた。
「息子がいないんです!」
母親らしい女性の顔は、青ざめていた。
「昼から小川へ遊びに行って、それきり戻ってこないんです!」
「小川はどこだ」
リシェルが尋ねる。
「村の東です。少し外れたところに……」
父親が震える手で方角を指した。
村人たちは松明を持ち、手分けして探し始めた。
ミハルとリシェルも小川へ向かった。
村を出ると、辺りは急に暗くなった。
残った夕日の明かりが、木々の隙間から細く差している。
小川のせせらぎが聞こえた。
「ここです!」
先に着いていた村人が叫ぶ。
浅い水辺に、小さな靴が落ちていた。
片方だけだった。
そのすぐ脇には、子どものものらしい足跡がある。
だが、途中から大きく乱れていた。
草が押し倒され、柔らかい地面には、狼鬼の大きな足跡が残っている。
そこから森へ向かって、何かを引きずった跡が続いていた。
血はない。
母親が靴を拾い上げ、その場に膝をついた。
「そんな……」
父親が森へ駆け出そうとする。
リシェルが腕をつかんだ。
「放してくれ! 息子が!」
「今から入れば、あなたも戻れない」
「それでも行かないと!」
「狼鬼は夜に狩る。人間より目も鼻も利く。森の中では、こちらが先に見つけられる」
父親はリシェルの腕を振りほどこうとした。
「じゃあ、朝まで何もしないのか!」
リシェルは答えなかった。
代わりに、地面の跡へ視線を落とした。
「狼鬼は、さらった子どもをすぐに食べるとは限らない」
母親が顔を上げる。
「本当ですか?」
「幼獣に狩りを覚えさせるため、生きたまま巣へ運ぶことがある。血がないなら、まだ生きている可能性は高い」
「なら、なおさら今すぐ……!」
「巣には他の狼鬼がいる」
リシェルの声は静かだった。
「何頭いるか分からない。巣の場所も分からない。暗闇の中で追えば、囲まれる」
森の奥から、遠く低い遠吠えが響いた。
一つではなかった。
どこか別の方角からも、それに応える声がした。
ミハルは暗い森を見つめた。
あの奥に、八歳の子どもがいる。
今も怖がっているかもしれない。
助けを待っているかもしれない。
「行きましょう」
自分の口から出た言葉に、ミハル自身が驚いた。
リシェルが振り返る。
「今からです」
「駄目だ」
「でも、まだ生きているんですよね」
「だからこそだ」
リシェルは森を背にして、ミハルを見た。
「今入れば、子どもを見つける前に私たちが死ぬ」
「それでも、朝まで待っている間に何かあったら」
「焦って死ねば、助けられる者も助けられない」
ミハルは言葉を失った。
数日前、隻腕の男が言った言葉がよみがえる。
冒険者は、強い奴から生き残るんじゃねえ。
帰ってきた奴が、生き残るんだ。
理屈では分かる。
夜の森が危険なことも、二人だけで入るのが無謀なことも。
それでも、片方だけ残された小さな靴を見ると、頷くことができなかった。
「僕には、朝まで待てません」
リシェルはしばらく黙っていた。
森の向こうでは、もう夕日の名残も消えかけている。
「それでも私は、今は行かない」
「リシェルさん」
「お前を連れて、夜の森には入れない」
低い声だった。
だが、迷いがないわけではなかった。
リシェルの握った拳が、わずかに震えていた。
ミハルはそれを見た。
暗い森の奥から、もう一度、狼鬼の声が響いた。




