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虐げられ令嬢は皇太子の愛に救われ、あの日の王子様に別れを告げた  作者: 堀吉 蔵人


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第9話 箱の中の白百合

クロエが白百合庭園を去ったあと、僕はしばらくその場に残った。


石の台の上には、銀栞が置かれている。


白百合の細工が施された、薄い銀色の栞。


十年前、彼女に渡したもの。


正確には、貸したもの。


けれど、彼女はそれを十年、宝物のように持っていた。


義母に奪われないよう隠し、義妹に見つからないよう小箱の奥にしまい、つらい夜には指で文字をなぞっていた。


泣き終わったら、続きを読めばいい。


僕がそう言ったから。


幼かった僕が、ただ一度、彼女に差し出した言葉を、彼女は十年も生きる理由にした。


その事実は、幸福だった。


幸福で、苦しかった。


彼女があの言葉を抱いて眠る夜を、僕は何度も想像した。


薄い布団。


冷えた部屋。


義妹の笑い声が遠くでしている夜。


そこでクロエが、小さな手で銀栞を握る。


僕の名前を、胸の中で呼ぶ。


ユリウス。


そう呼んでいたのだろう。


僕ではない。


今の僕ではない。


十年前の、白百合庭園に立っていた幼い王子の名前を。


そのことを考えるたび、胸の奥が甘く焼けた。


救いになれて嬉しい。


けれど、救いの名がまだクロードではないことが、どうしようもなく嫌だった。


「殿下」


背後から声がした。


近衛の一人が、静かに頭を下げている。


「庭園の封鎖、完了しております」


「そう」


「栞は、いかがいたしましょう」


僕は石の台に置かれた銀栞を見た。


クロエは、あれを置いていった。


あの日の王子様に別れを告げるために。


ユリウスに。


僕は、かつてその名で呼ばれていた。


王国歴五一八年、春。


白百合庭園で、泣きそうな顔の少女が、僕の左手にハンカチを押し当てた。


あの時の彼女は、自分が傷つけられたばかりだった。


迷子になり、笑われ、ハンカチを奪われ、服を裂かれた。


泣いても当然だった。


なのに、彼女は僕の小さな傷を見て、今にも泣きそうな顔をした。


血が出ています、と。


嘘です、と。


その声を、僕は覚えている。


十年経っても、まだ耳の奥に残っている。


残っているどころではない。


眠る前に、何度も思い出した。


書類を読んでいる途中で、ふいに戻ってきた。


臣下の報告を聞きながら、彼女の声だけを聞いていた夜もある。


あなたが痛いのは、いやです。


彼女はそう言ったわけではない。


けれど、あの顔はそう言っていた。


あの顔が、僕の一番柔らかいところに棲みついた。


誰にも触れさせたくなかった。


けれど、彼女になら触れられたかった。


「栞は回収しておいて」


僕は言った。


「傷をつけないように」


「承知しました」


近衛が銀栞を絹布で包む。


白百合の光の中から、彼女の過去が取り上げられる。


クロエは、もう見ない。


彼女は今日、自分で別れを告げた。


自分の意思で。


そう。


自分の意思で、僕を選んだ。


そのことを思うと、胸の奥が熱くなった。


庭園を出る前に、僕は一度だけ石の台を見た。


そこにはもう何もない。


白百合の花だけが揺れていた。


「ようやく」


声が漏れた。


「ようやく、ここまで来た」


その夜、僕は執務室へ戻った。


机の上には、政務書類が積まれている。国境の報告。税収の見込み。南方侯爵家からの婚姻打診。銀貨改鋳後の流通統計。


どれも重要だった。


けれど、今夜最初に開くべきものは決まっていた。


僕は机の鍵を開けた。


奥の引き出しに、銀の箱がある。


手のひらより少し大きい、何の紋章も入っていない箱。


王家の宝物庫ではなく、僕の執務机に置いている。


誰にも任せたくなかったからだ。


箱に触れる前に、手袋を替えた。


政務用の白手袋を外し、専用の薄い絹手袋をはめる。


インクの匂いが移るといけない。


紙の粉がつくといけない。


指先の熱が、少しでも布を痛めるといけない。


鍵を差し込む。


銀箱の内側には、保存の術式が七層に刻まれている。


防湿。


防虫。


防黴。


退色防止。


繊維固定。


匂いの封止。


そして、僕以外の人間が触れた時に発動する警戒術式。


宮廷魔導師は、最初、その必要はないと言った。


古い布一枚に、王家の文書庫でも使わない術式を施すのは過剰です、と。


だから、彼を地方の古文書修復院へ移した。


必要かどうかを決めるのは、僕だ。


僕は箱を開けた。


白い布が、静かに眠っていた。


白百合の刺繍が入った、小さなハンカチ。


十年前、クロエが僕に差し出したもの。


もう真白ではない。


時間は布の奥へ沈む。どれだけ丁寧に保管しても、十年は薄く色を残す。端にはかすかな血の跡がある。僕の左手の甲からにじんだ、小さな赤。


洗い落とさなかった。


落とす理由がなかった。


これは汚れではない。


彼女が、僕の痛みを見つけた証だから。


僕は箱の中を見下ろした。


胸の奥が、静かに満ちていく。


触れたい。


そう思った。


指先で、白百合の刺繍をなぞりたい。


彼女があの日、どんな力で僕の左手を押さえたのかを、もう一度確かめたい。


けれど、触れなかった。


触れれば、今の僕があの日の彼女に触れてしまう。


十年前のクロエは、まだ僕のものではなかった。


だから、あの白い布の中にいる彼女には、まだ触れてはいけない。


そう決めている。


決めていなければ、何度でも触れていた。


何度でも開けて、何度でも頬を寄せて、何度でも彼女の名を呼んでいた。


クロエ。


そのたびに、布は少しずつ僕のものになってしまう。


それは、まだ早い。


彼女が今日、僕を選んだ。


だから、もうすぐだ。


僕は箱の縁にだけ指を置いた。


触れないために。


十年。


クロエは、銀栞を十年持っていた。


僕も、このハンカチを十年持っていた。


彼女が、あの日の言葉を抱いて生きてきたように。


僕も、あの日の布を抱いて生きてきた。


おかしいとは思わない。


忘れる方が、おかしい。


あれほど鮮やかな顔を、どうして忘れられるだろう。


彼女は、自分が泣かされていたのに、僕の血を怖がった。


彼女は、自分のハンカチを奪われたのに、それを僕の傷に当てた。


彼女は、助けられた側なのに、僕を助けようとした。


あの時、僕は知った。


この子は、傷つけられても、まだ誰かの痛みに手を伸ばす。


ならば。


ならば、この子が本当に救われる時は、どんな顔をするのだろう。


どんなふうに泣き、どんなふうに笑い、どんなふうに僕を選ぶのだろう。


それを見たいと思った。


それだけだった。


いいや。


それだけではない。


その顔を、他の誰にも見せたくないと思った。


母親にも。


父親にも。


義妹にも。


婚約者にも。


十年前のユリウスにさえ。


クロエが救われる顔は、僕だけが見るべきだった。


そのためには、時間が必要だった。


彼女はまだ幼かった。


僕もまだ、ユリウスという名を持っていた。


クロエ。


その名を初めて聞いた時、僕は美しい名だと思った。


やわらかく、淡く、白百合の影に似た音。


それに比べて、ユリウスという名は遠かった。


どれほど紙に並べても、クロエの隣に置けない名だった。


クロエ。


ユリウス。


そこには距離がある。


王子と下級貴族の娘。


白百合庭園と男爵家の狭い部屋。


手を差し出す者と、手を伸ばすことさえ許されない者。


それでは駄目だった。


僕は、彼女の隣に置かれる名前が欲しかった。


クロエ。


クロード。


一文字目が同じで、響きも近い。


並べると、まるで最初から隣にあるための名のように見える。


運命に見えるなら、よかった。


彼女が中庭でそう言った時、僕は心からそう思った。


運命でなくてもいい。


運命に見えるだけでいい。


人は、見えたものを信じる。


信じたものを、やがて自分で選んだと思う。


彼女は今日、僕を選んだ。


自分で。


クロエは、あの日の王子様に別れを告げた。


ユリウスに別れを告げた。


そして、クロードを選んだ。


ああ。


長かった。


長すぎた。


でも、十年待った甲斐はあった。


扉の向こうで声がした。


「白百合庭園より、銀栞の回収が完了いたしました」


「入って」


近衛が入室し、絹布に包まれた銀栞を差し出した。


僕は箱の隣に、別の小箱を置かせる。


「損傷は」


「ございません」


「よかった」


僕は銀栞を受け取った。


白百合の細工。


裏面の文字。


泣き終わったら、続きを読めばいい。


――ユリウス


幼い字だ。


今見ると、少し拙い。


けれど彼女は、この文字を十年なぞった。


この字を信じて、泣くことを我慢した。


いや、違う。


泣き終わる日を待っていた。


今日、彼女は泣いた。


白百合庭園で。


そして僕を選んだ。


「こちらも保管する」


「同じ箱に?」


近衛が尋ねた。


僕は少し考えた。


ハンカチと銀栞。


彼女が僕に差し出したもの。


僕が彼女に返したもの。


十年のあいだ、互いに別々の場所で守られていた二つ。


「いや」


僕は言った。


「別に。まだ一緒にしてはいけない」


「承知しました」


近衛は深く頭を下げた。


僕は銀栞を小箱に入れた。


蓋を閉じる前に、もう一度だけ文字を見る。


ユリウス。


そこに刻まれた名が、ひどく邪魔だった。


この栞を握った夜、クロエはその名を読んだ。


何度も。


何度も。


僕が知らない夜に。


僕が隣にいない夜に。


彼女は、僕ではない名前に救われていた。


その事実に、今でも嫉妬する。


過去の自分に嫉妬するなど、愚かだ。


けれど、愚かで何が悪い。


クロエに関することだけは、僕は賢くなくていい。


僕は蓋を閉じた。


その時、侍従長が入ってきた。


「殿下。レナード男爵家関連の追加報告書が届いております」


「置いて」


机の端に、厚い書類束が置かれる。


レナード家。


後妻。


義妹。


父。


婚約者。


処分の手続きは進んでいる。


すべて、予定通りに。


クロエは、もうあの家には戻らない。


あの家は、彼女の居場所ではない。


彼女の居場所は、僕の隣にある。


そうなるまでに、十年かかった。


僕は銀箱の蓋を閉じた。


鍵をかける。


胸の中に、静かな満足が広がっていく。


クロエは今日、ユリウスに別れを告げた。


彼女は知らない。


ユリウスという名を捨てたのは、僕の方が先だったことを。


彼女が初恋だと思っていた王子様は、もういない。


僕が殺した。


クロエの隣にいるために。


クロエと似た名で、クロエの続きを読むために。


ユリウスという名は、今日、ようやく完全に終わった。


僕は窓の外を見た。


夜の王宮に、白百合庭園の方角だけが淡く沈んでいる。


そこに、もう銀栞はない。


彼女の過去は、回収された。


僕は机に戻り、報告書の一枚目をめくった。


クロエ・レナード嬢に関する保護および環境整理報告。


見慣れた表題だった。


僕は静かに目を通す。


彼女の睡眠時間。


食事量。


手の傷の回復具合。


母親の遺品への反応。


銀貨受領時の表情。


白百合庭園での発話記録。


そして、最終行。


対象C、クロード殿下との生涯同伴意思を自発的に表明。


僕はその一文に指を置いた。


自発的に。


その文字が、ひどく美しく見えた。


「クロエ」


僕は、誰もいない部屋で彼女の名を呼んだ。


すぐに返事はない。


当然だ。


彼女はここにいない。


けれど僕は、もう一度呼んだ。


「クロエ」


声に出すと、少しだけ息が楽になる。


彼女がいない場所で彼女の名を呼ぶのは、本当は嫌いだった。


名前だけが部屋に残る。


本人がいない。


その空白に、腹の底が冷える。


けれど今夜は違う。


彼女は僕を選んだ。


この名前は、もう僕の方へ歩いてくる。


クロエ。


クロード。


似ている名前。


ようやく、並んだ。


銀箱の中で、白百合のハンカチは静かに眠っている。


十年前の彼女が、今もそこにいる。


僕はその箱を、もう一度だけ見た。


「待っていて」


小さく呟く。


「もうすぐ、全部終わる」


そして僕は、次の報告書を開いた。

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