第8話 あの日の王子様に別れを告げた
白百合庭園へ行く日は、よく晴れていた。
王宮に来てから十日目の朝だった。
マリーは私の髪を丁寧に梳き、淡い水色のドレスを用意してくれた。袖口には小さな白百合の刺繍がある。派手ではない。けれど、清らかで、やわらかくて、少しだけ背筋が伸びるようなドレスだった。
マリーは最後に、細長い箱を開けた。
中には、クロード様からいただいた白い手袋が入っている。
指先に薄い保護布が重ねられ、内側はやわらかい布で包まれていた。
「本日はこちらを」
マリーがそう言った時、私は少しだけ迷った。
白百合庭園へ行く。
十年前の私に別れを告げる場所へ。
そこへ、クロード様からいただいたものを身につけて行くのは、何かを決めてしまうようで、胸が小さく震えた。
けれど私は、手袋に指を通した。
痛んでいた手が、やわらかく包まれる。
これからは痛いものに直接触れなくてもいいのだと、そう言われているようだった。
「よくお似合いです」
マリーが鏡越しに微笑む。
私は鏡の中の自分を見た。
まだ頬は少し痩せている。けれど、目元の影は薄くなった。髪も艶を取り戻し始めている。
何より、そこに映っている私は、怯えていなかった。
緊張はしている。
怖くないわけではない。
けれど、逃げ出したいほどではなかった。
枕元の小箱を開ける。
中には、白百合の銀栞と、古いユリウス王子の銀貨が並んでいた。
私は少し迷って、銀栞だけを手に取った。
銀貨は置いていく。
今日は、あの日の言葉に別れを告げに行くのだから。
白百合の細工が施された栞は、朝の光を受けて淡く光った。
裏の文字を、私は指でなぞる。
泣き終わったら、続きを読めばいい。
――ユリウス
十年。
私はこの言葉を、十年抱えてきた。
これがあったから、私は壊れずにいられた。
いいえ。
本当は、何度も壊れそうだった。
でも、そのたびに、続きを読めばいいのだと思った。
今日がどれだけ嫌な日でも、明日が来る。明日も嫌な日なら、その次の日が来る。いつか、自分の物語が別の場所へ続いていく日が来る。
そう信じられた。
だから私は、今日まで来られた。
扉が叩かれる。
「クロエ」
クロード様の声だった。
「はい」
私は銀栞を胸元の小さな袋に入れ、扉へ向かった。
クロード様は、白を基調にした礼装で立っていた。公式の式典ほど重くはない。けれど、王家の人だと一目で分かる装いだった。胸元には白百合の紋章。
その姿を見た瞬間、私は息を止めた。
十年前のユリウス王子を思い出したからではない。
今ここにいるクロード様が、あまりにも静かに美しかったからだ。
「怖い?」
クロード様が尋ねた。
私は首を振った。
「少しだけ。でも、大丈夫です」
「無理をしなくていい」
「無理ではありません」
そう言えることが嬉しかった。
クロード様は私を見て、少しだけ微笑んだ。
「では、行こう」
差し出された手を、私は取った。
白い手袋に包まれた手。
あの夜、終わったと思った私の物語の続きを示してくれた手。
そして今は、私自身の手も、クロード様からいただいた白い手袋に包まれている。
そのことが、少しだけ照れくさかった。
でも、嫌ではなかった。
白百合庭園は、王宮の奥にあった。
十年前と同じように、白い花が風に揺れている。
けれど、記憶の中よりも広く感じた。
子供の頃の私は、花壇の背も高く、温室も大きく、道も複雑に思えた。今歩いてみると、庭園の道はきちんと整えられ、低い生垣の向こうには王宮の白い壁が見える。
それでも、胸が詰まった。
白百合の香り。春の光。遠くの水音。
何もかもが、あの日へつながっている。
私は足を止めた。
「クロエ?」
「ここです」
声が震えた。
「たぶん、このあたりで、私は迷子になりました」
クロード様は何も言わなかった。
ただ、私の隣に立ってくれた。
私は目を閉じる。
幼い日の自分が見える。
母の手を離した私。
蝶を追って、花壇の奥へ入り込んだ私。
知らない子供たちに笑われ、ハンカチを奪われ、泣きそうになっていた私。
そして、白百合の向こうから現れた王子様。
ユリウス殿下。
あの日、あなたは私を見つけてくれた。
私は胸元の袋から銀栞を取り出した。
光にかざすと、白百合の細工がきらめく。
白い手袋越しに触れる銀は、思っていたよりも冷たくなかった。
「十年前の私は、この栞をもらって、本当に嬉しかったのです」
私は静かに言った。
「ユリウス殿下にとっては、小さな親切だったかもしれません。でも私には、宝物でした」
クロード様は、ただ聞いていた。
「お母様が亡くなってから、私は何度もこの栞を握りました。義母に叱られた時も、リリアに笑われた時も、父が私を見てくれなかった時も、婚約者に冷たくされた時も」
指先で、裏の文字をなぞる。
「泣き終わったら、続きを読めばいい」
何度も読んだ言葉。
何度も救われた言葉。
「私は、その続きがいつか来ると思っていました。でも、いつの間にか、続きを読むことよりも、あの日の王子様を思い出すことだけが私の支えになっていました」
風が吹いた。
白百合が揺れる。
「私は、ユリウス殿下に恋をしていたのだと思います」
口にすると、胸が少しだけ痛んだ。
「子供の恋です。殿下は、きっと私のことなど覚えていらっしゃらない。それでも、私にとっては初めての光でした」
クロード様の手が、ほんの少しだけ強く私の手を握った。
白い手袋同士が触れる。
私はそれを受け止めた。
怖くはなかった。
「でも、今の私は、あの日の光だけで生きているわけではありません」
私はクロード様を見る。
「今ここに、私を見てくださる人がいます」
クロード様の瞳が揺れた。
「私が泣くことを許してくださる人がいます。眠っていい、食べていい、怒っていい、受け取っていいと言ってくださる人がいます」
言葉にするたび、胸の中にあった白い靄が晴れていくようだった。
「私は、ユリウス殿下に感謝しています」
銀栞を両手で包む。
「でも、もう、あの日の王子様だけを見て生きるのは終わりにします」
庭園の奥に、小さな石の台があった。
白百合の花壇のそば。
十年前、ユリウス殿下が本を開いた場所に似ていた。
私はそこへ歩いた。
足が震えた。
けれど、クロード様が隣にいた。
石の台の上に、銀栞をそっと置く。
白い手袋越しに、指先から銀の冷たさが離れた。
白百合の細工が、朝の光を反射した。
「ユリウス殿下」
声に出すと、涙がにじんだ。
「ありがとうございました」
これは別れだ。
でも、憎しみではなかった。
忘れるためでもない。
大切だったものを、大切だったまま、過去へ返すための別れ。
「あの日の言葉があったから、私は今日まで来られました」
涙が頬を伝う。
でも、私は笑えた。
「でも、私はもう続きを読みます。あの日の私ではなく、今の私として」
白百合の香りがした。
十年前の私が、少し離れたところでこちらを見ているような気がした。
泣いていた小さな私。
私は、その子に向かって心の中で言った。
もう、大丈夫。
あなたは、ここに置いていかれるのではない。
ここから、私が連れていく。
ただ、あの日の王子様にすがったままではなく。
自分の足で。
自分の明日へ。
「クロエ」
クロード様が私の名を呼んだ。
私は振り返る。
「はい」
「本当に、それでいい?」
優しい問いだった。
確認してくれている。
私が後悔しないように。
私が自分で選んだのだと、私自身が分かるように。
私は涙を拭い、頷いた。
「はい」
そして、少し迷ってから言った。
「クロード様」
初めて、殿下ではなく、名前で呼んだ。
クロード様は、息を止めたように見えた。
私は恥ずかしくて、けれど目を逸らさなかった。
「私は、あなたと生きたいです」
言ってしまった。
言葉にした途端、心臓が大きく鳴った。
それは、恋の告白というには不器用だった。婚約の申し込みというには無礼だった。皇太子殿下に向ける言葉としては、あまりにまっすぐすぎた。
でも、今の私にはそれしか言えなかった。
クロード様は、しばらく何も言わなかった。
白百合の花が揺れる。
風が私たちの間を通り過ぎる。
やがて、クロード様はゆっくりと目を伏せた。
泣きそうな顔だった。
「ありがとう、クロエ」
その声は震えていた。
「ようやく、君が僕を選んでくれた」
ようやく。
その言葉に、私は胸が熱くなった。
ずっと待っていてくださったのだと思った。
私が自分で立てるようになるまで。
私が過去に別れを告げられるまで。
私が差し出された手を、誰かに言われたからではなく、自分の意思で取れるようになるまで。
「はい」
私は頷いた。
「選びました」
クロード様は私の手を取った。
その手は、あたたかかった。
「僕は、君を幸せにする」
「もう、していただいています」
「まだ足りない」
「十分です」
「足りないよ」
困ったように、けれど本気でそう言うので、私は笑ってしまった。
「では、少しずつ受け取る練習をします」
「うん」
「でも、甘やかしすぎは困ります」
「努力する」
「本当ですか」
「たぶん」
私はまた笑った。
白百合庭園で、私は泣いて、笑った。
十年前、ここで泣いた私は、王子様に見つけてもらった。
今日、ここで泣いた私は、自分で明日を選んだ。
庭園を出る前に、私は一度だけ振り返った。
石の台の上に、銀栞が置かれている。
白百合の光の中で、それは静かに輝いていた。
さようなら、あの日の王子様。
ありがとうございました。
私は、もう行きます。
クロード様が隣にいる。
私はその手を握り返した。
もう、過去だけを支えにしなくていい。
もう、泣き終わるのを待つだけではなくていい。
私は、自分の続きを読みに行く。
白百合庭園の門を出る時、クロード様が小さく言った。
「クロエ」
「はい」
「君の続きを、僕にも読ませてくれる?」
その言葉があまりにも優しくて、私は胸がいっぱいになった。
「はい」
私は微笑んだ。
「一緒に、読んでください」
白百合庭園の扉が、静かに閉じる。
そして私は、あの日の王子様に別れを告げた。
その先に、まだ知らない栞が挟まれていることにも、気づかないまま。
虐げられ令嬢は皇太子の愛に救われ、あの日の王子様に別れを告げた
【Fin.】
ハッピーエンド派の皆様へ。
ここで本を閉じることを、強くおすすめします。
ここまでは、間違いなく幸福な物語です。
どうか、クロエの幸せを信じてあげてください。




