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虐げられ令嬢は皇太子の愛に救われ、あの日の王子様に別れを告げた  作者: 堀吉 蔵人


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8/15

第8話 あの日の王子様に別れを告げた

白百合庭園へ行く日は、よく晴れていた。


王宮に来てから十日目の朝だった。


マリーは私の髪を丁寧に梳き、淡い水色のドレスを用意してくれた。袖口には小さな白百合の刺繍がある。派手ではない。けれど、清らかで、やわらかくて、少しだけ背筋が伸びるようなドレスだった。


マリーは最後に、細長い箱を開けた。


中には、クロード様からいただいた白い手袋が入っている。


指先に薄い保護布が重ねられ、内側はやわらかい布で包まれていた。


「本日はこちらを」


マリーがそう言った時、私は少しだけ迷った。


白百合庭園へ行く。


十年前の私に別れを告げる場所へ。


そこへ、クロード様からいただいたものを身につけて行くのは、何かを決めてしまうようで、胸が小さく震えた。


けれど私は、手袋に指を通した。


痛んでいた手が、やわらかく包まれる。


これからは痛いものに直接触れなくてもいいのだと、そう言われているようだった。


「よくお似合いです」


マリーが鏡越しに微笑む。


私は鏡の中の自分を見た。


まだ頬は少し痩せている。けれど、目元の影は薄くなった。髪も艶を取り戻し始めている。


何より、そこに映っている私は、怯えていなかった。


緊張はしている。


怖くないわけではない。


けれど、逃げ出したいほどではなかった。


枕元の小箱を開ける。


中には、白百合の銀栞と、古いユリウス王子の銀貨が並んでいた。


私は少し迷って、銀栞だけを手に取った。


銀貨は置いていく。


今日は、あの日の言葉に別れを告げに行くのだから。


白百合の細工が施された栞は、朝の光を受けて淡く光った。


裏の文字を、私は指でなぞる。


泣き終わったら、続きを読めばいい。


――ユリウス


十年。


私はこの言葉を、十年抱えてきた。


これがあったから、私は壊れずにいられた。


いいえ。


本当は、何度も壊れそうだった。


でも、そのたびに、続きを読めばいいのだと思った。


今日がどれだけ嫌な日でも、明日が来る。明日も嫌な日なら、その次の日が来る。いつか、自分の物語が別の場所へ続いていく日が来る。


そう信じられた。


だから私は、今日まで来られた。


扉が叩かれる。


「クロエ」


クロード様の声だった。


「はい」


私は銀栞を胸元の小さな袋に入れ、扉へ向かった。


クロード様は、白を基調にした礼装で立っていた。公式の式典ほど重くはない。けれど、王家の人だと一目で分かる装いだった。胸元には白百合の紋章。


その姿を見た瞬間、私は息を止めた。


十年前のユリウス王子を思い出したからではない。


今ここにいるクロード様が、あまりにも静かに美しかったからだ。


「怖い?」


クロード様が尋ねた。


私は首を振った。


「少しだけ。でも、大丈夫です」


「無理をしなくていい」


「無理ではありません」


そう言えることが嬉しかった。


クロード様は私を見て、少しだけ微笑んだ。


「では、行こう」


差し出された手を、私は取った。


白い手袋に包まれた手。


あの夜、終わったと思った私の物語の続きを示してくれた手。


そして今は、私自身の手も、クロード様からいただいた白い手袋に包まれている。


そのことが、少しだけ照れくさかった。


でも、嫌ではなかった。


白百合庭園は、王宮の奥にあった。


十年前と同じように、白い花が風に揺れている。


けれど、記憶の中よりも広く感じた。


子供の頃の私は、花壇の背も高く、温室も大きく、道も複雑に思えた。今歩いてみると、庭園の道はきちんと整えられ、低い生垣の向こうには王宮の白い壁が見える。


それでも、胸が詰まった。


白百合の香り。春の光。遠くの水音。


何もかもが、あの日へつながっている。


私は足を止めた。


「クロエ?」


「ここです」


声が震えた。


「たぶん、このあたりで、私は迷子になりました」


クロード様は何も言わなかった。


ただ、私の隣に立ってくれた。


私は目を閉じる。


幼い日の自分が見える。


母の手を離した私。


蝶を追って、花壇の奥へ入り込んだ私。


知らない子供たちに笑われ、ハンカチを奪われ、泣きそうになっていた私。


そして、白百合の向こうから現れた王子様。


ユリウス殿下。


あの日、あなたは私を見つけてくれた。


私は胸元の袋から銀栞を取り出した。


光にかざすと、白百合の細工がきらめく。


白い手袋越しに触れる銀は、思っていたよりも冷たくなかった。


「十年前の私は、この栞をもらって、本当に嬉しかったのです」


私は静かに言った。


「ユリウス殿下にとっては、小さな親切だったかもしれません。でも私には、宝物でした」


クロード様は、ただ聞いていた。


「お母様が亡くなってから、私は何度もこの栞を握りました。義母に叱られた時も、リリアに笑われた時も、父が私を見てくれなかった時も、婚約者に冷たくされた時も」


指先で、裏の文字をなぞる。


「泣き終わったら、続きを読めばいい」


何度も読んだ言葉。


何度も救われた言葉。


「私は、その続きがいつか来ると思っていました。でも、いつの間にか、続きを読むことよりも、あの日の王子様を思い出すことだけが私の支えになっていました」


風が吹いた。


白百合が揺れる。


「私は、ユリウス殿下に恋をしていたのだと思います」


口にすると、胸が少しだけ痛んだ。


「子供の恋です。殿下は、きっと私のことなど覚えていらっしゃらない。それでも、私にとっては初めての光でした」


クロード様の手が、ほんの少しだけ強く私の手を握った。


白い手袋同士が触れる。


私はそれを受け止めた。


怖くはなかった。


「でも、今の私は、あの日の光だけで生きているわけではありません」


私はクロード様を見る。


「今ここに、私を見てくださる人がいます」


クロード様の瞳が揺れた。


「私が泣くことを許してくださる人がいます。眠っていい、食べていい、怒っていい、受け取っていいと言ってくださる人がいます」


言葉にするたび、胸の中にあった白い靄が晴れていくようだった。


「私は、ユリウス殿下に感謝しています」


銀栞を両手で包む。


「でも、もう、あの日の王子様だけを見て生きるのは終わりにします」


庭園の奥に、小さな石の台があった。


白百合の花壇のそば。


十年前、ユリウス殿下が本を開いた場所に似ていた。


私はそこへ歩いた。


足が震えた。


けれど、クロード様が隣にいた。


石の台の上に、銀栞をそっと置く。


白い手袋越しに、指先から銀の冷たさが離れた。


白百合の細工が、朝の光を反射した。


「ユリウス殿下」


声に出すと、涙がにじんだ。


「ありがとうございました」


これは別れだ。


でも、憎しみではなかった。


忘れるためでもない。


大切だったものを、大切だったまま、過去へ返すための別れ。


「あの日の言葉があったから、私は今日まで来られました」


涙が頬を伝う。


でも、私は笑えた。


「でも、私はもう続きを読みます。あの日の私ではなく、今の私として」


白百合の香りがした。


十年前の私が、少し離れたところでこちらを見ているような気がした。


泣いていた小さな私。


私は、その子に向かって心の中で言った。


もう、大丈夫。


あなたは、ここに置いていかれるのではない。


ここから、私が連れていく。


ただ、あの日の王子様にすがったままではなく。


自分の足で。


自分の明日へ。


「クロエ」


クロード様が私の名を呼んだ。


私は振り返る。


「はい」


「本当に、それでいい?」


優しい問いだった。


確認してくれている。


私が後悔しないように。


私が自分で選んだのだと、私自身が分かるように。


私は涙を拭い、頷いた。


「はい」


そして、少し迷ってから言った。


「クロード様」


初めて、殿下ではなく、名前で呼んだ。


クロード様は、息を止めたように見えた。


私は恥ずかしくて、けれど目を逸らさなかった。


「私は、あなたと生きたいです」


言ってしまった。


言葉にした途端、心臓が大きく鳴った。


それは、恋の告白というには不器用だった。婚約の申し込みというには無礼だった。皇太子殿下に向ける言葉としては、あまりにまっすぐすぎた。


でも、今の私にはそれしか言えなかった。


クロード様は、しばらく何も言わなかった。


白百合の花が揺れる。


風が私たちの間を通り過ぎる。


やがて、クロード様はゆっくりと目を伏せた。


泣きそうな顔だった。


「ありがとう、クロエ」


その声は震えていた。


「ようやく、君が僕を選んでくれた」


ようやく。


その言葉に、私は胸が熱くなった。


ずっと待っていてくださったのだと思った。


私が自分で立てるようになるまで。


私が過去に別れを告げられるまで。


私が差し出された手を、誰かに言われたからではなく、自分の意思で取れるようになるまで。


「はい」


私は頷いた。


「選びました」


クロード様は私の手を取った。


その手は、あたたかかった。


「僕は、君を幸せにする」


「もう、していただいています」


「まだ足りない」


「十分です」


「足りないよ」


困ったように、けれど本気でそう言うので、私は笑ってしまった。


「では、少しずつ受け取る練習をします」


「うん」


「でも、甘やかしすぎは困ります」


「努力する」


「本当ですか」


「たぶん」


私はまた笑った。


白百合庭園で、私は泣いて、笑った。


十年前、ここで泣いた私は、王子様に見つけてもらった。


今日、ここで泣いた私は、自分で明日を選んだ。


庭園を出る前に、私は一度だけ振り返った。


石の台の上に、銀栞が置かれている。


白百合の光の中で、それは静かに輝いていた。


さようなら、あの日の王子様。


ありがとうございました。


私は、もう行きます。


クロード様が隣にいる。


私はその手を握り返した。


もう、過去だけを支えにしなくていい。


もう、泣き終わるのを待つだけではなくていい。


私は、自分の続きを読みに行く。


白百合庭園の門を出る時、クロード様が小さく言った。


「クロエ」


「はい」


「君の続きを、僕にも読ませてくれる?」


その言葉があまりにも優しくて、私は胸がいっぱいになった。


「はい」


私は微笑んだ。


「一緒に、読んでください」


白百合庭園の扉が、静かに閉じる。


そして私は、あの日の王子様に別れを告げた。


その先に、まだ知らない栞が挟まれていることにも、気づかないまま。


虐げられ令嬢は皇太子の愛に救われ、あの日の王子様に別れを告げた


【Fin.】

ハッピーエンド派の皆様へ。

ここで本を閉じることを、強くおすすめします。

ここまでは、間違いなく幸福な物語です。

どうか、クロエの幸せを信じてあげてください。

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