第7話 白百合の庭へ行く前に
王宮に来てから、七日が過ぎた。
その間に、私は少しずつ眠れるようになった。
最初の夜は、扉に鍵がかかっていることを何度も確かめた。
二日目は、暖炉の火が消えていないか気になった。
三日目は、朝まで眠った。
四日目の朝、マリーに「顔色がよくなりましたね」と言われて、鏡を見た。
まだ痩せていた。
目元の影も残っていた。
けれど、ひどく怯えた顔ではなくなっていた。
そう思えるだけで、不思議だった。
その日の午後、クロード殿下は私を王宮図書室へ案内してくださった。
大きな扉を開けた瞬間、紙と革表紙の匂いがした。
高い天井。壁一面の書架。梯子。金色の背文字。窓から差し込む光の中に、細かな埃が白く浮かんでいる。
私は思わず足を止めた。
「本は好き?」
クロード殿下が尋ねた。
「好き、だったと思います」
「思います?」
「昔は、母がよく読んでくれました。でも母が亡くなり、義母が来てからは、本を読む時間があまりなくて」
言いながら、私は少しだけ笑った。
「リリアには、本を読む姉様は陰気だと言われました」
「陰気?」
「はい。庭で本を読んでいると、花が曇るそうです」
クロード殿下は黙った。
その沈黙が少し怖くて、私は慌てて付け足す。
「でも、もう気にしていません」
「気にしていい」
「え?」
「傷ついたことを、気にしていいんだ」
殿下の声は静かだった。
私は少しだけ視線を落とした。
そう言われても、まだうまくできなかった。
傷ついたと認めることは、私にはひどく難しい。
だって認めてしまえば、今まで平気なふりをしてきた私が、全部崩れてしまいそうだったから。
クロード殿下は、私を急かさなかった。
「今日は、見て回るだけにしよう」
「よろしいのですか」
「もちろん」
私は頷き、ゆっくり書架の間を歩いた。
歴史書。詩集。旅行記。薬草図鑑。王家の記録。
そのうち、私は一冊の本の前で足を止めた。
古い童話集だった。
表紙には、白百合の庭で迷子になった少女と、王子様の絵が描かれている。
「これ……」
手を伸ばしかけて、止めた。
クロード殿下が横から取ってくださる。
「読んだことがある?」
「お母様が、昔」
私は本を受け取った。
開くと、挿絵の下に小さな文字が並んでいた。
泣き虫の少女は、白百合の庭で王子様に出会いました。
その一文を見ただけで、胸が締めつけられた。
私は、十年前のことを思い出した。
白百合庭園。
迷子。
意地悪な子供たち。
右手の甲の小さな血。
白いハンカチ。
そして、銀栞。
泣き終わったら、続きを読めばいい。
あの日の言葉。
私は本を閉じた。
「クロエ?」
「大丈夫です」
そう言ったけれど、指が少し震えていた。
クロード殿下は、私の手元を見ていた。
「無理に読まなくていい」
「はい」
「でも、持っていく?」
「よろしいのですか」
「君が読みたいと思った時に読めばいい」
私は本を胸に抱いた。
「ありがとうございます」
クロード殿下は少しだけ笑う。
「どういたしまして」
図書室を出る頃には、夕方の光が廊下に差し込んでいた。
その光の中で、私はふと王宮の中庭を見下ろした。
遠くに、白い花が見える。
白百合ではない。
そう分かっていても、胸の奥が小さく痛む。
「白百合庭園は、こちらとは別の場所なのですね」
私がぽつりと言うと、クロード殿下は足を止めた。
「行きたい?」
「分かりません」
正直に答えた。
「行きたい気持ちもあります。でも、怖いです」
「うん」
「十年前の私は、あの場所で救われました。でも今の私は、あの場所に行ったら、何を思うのか分からなくて」
クロード殿下は、私を見下ろした。
「ユリウス王子のことを?」
私は小さく頷いた。
その名前を聞くたびに、胸の中にまだ淡い痛みが残る。
恋と呼ぶには幼すぎる。
けれど、憧れと呼ぶには、長く抱えすぎた。
「私は、ずっとユリウス殿下に救われた日のことを大切にしてきました」
「うん」
「でも、殿下に救っていただいてから、少しだけ分からなくなったのです」
「何が?」
「私が大切にしているのは、ユリウス殿下なのか、それとも、あの日に救われた私自身なのか」
言葉にすると、胸の中が少し軽くなった。
ずっと考えていた。
銀栞を握りしめるたびに。
泣き終わったら、続きを読めばいい。
私は、その言葉に支えられた。
でも、いつの間にか、その言葉をくれた王子様にすがっていたのかもしれない。
あの日の私を見つけてくれた人。
その人がいたから、私は自分に価値があると思えた。
でも、いつまでもそれだけではいけないのではないか。
そんなことを、王宮へ来てから何度も考えていた。
クロード殿下は何も言わず、私の言葉を待ってくれた。
私は続けた。
「ユリウス殿下は、きっと私のことを覚えていらっしゃいません。私にとっては宝物でも、殿下にとっては小さな出来事だったのでしょう。それなのに私は、十年も」
声が震えた。
「十年も、その日のことだけを握っていました」
クロード殿下の手が、ほんの少し動いた。
私に触れようとして、けれど触れずに止まったように見えた。
「それは悪いことではないよ」
「そうでしょうか」
「君が生きるために必要だったんだ」
その言葉に、目の奥が熱くなった。
「でも、今は」
私は本を抱きしめた。
「今は、別の言葉も知りました」
「別の言葉?」
「君は何も悪くない、と」
クロード殿下が黙った。
「受け取っていい、と。怒っていい、と。眠っていい、と。ここにいていい、と」
一つずつ口にするたびに、胸の中にあった固いものがほどけていく。
「私は、あの日の言葉だけで生きてきました。でも今は、今の私に言ってくださる言葉があります」
クロード殿下は、静かに目を伏せた。
「それは、ユリウス王子への別れ?」
「まだ、分かりません」
私は正直に言った。
「でも、いつか白百合庭園へ行きたいです」
「いつか?」
「はい。自分で歩いて行けると思えたら」
「一緒に行くよ」
「よろしいのですか」
「もちろん」
クロード殿下はそう言って、少しだけ困ったように笑った。
「君がひとりで行きたいなら、遠くで待つ」
「ひとりでは、まだ怖いです」
「なら、隣にいる」
その言葉が、あまりに自然で。
私は思わず笑ってしまった。
「殿下は、本当に私を甘やかしすぎです」
「そうかな」
「そうです」
「なら、少しずつ慣れて」
「慣れるものなのですか」
「たぶん」
殿下が真面目に答えたので、私はまた笑った。
笑える。
そのことが嬉しかった。
夜、部屋に戻ると、マリーが小箱を持ってきた。
「本日、王宮宝物管理官より戻ったものでございます」
箱を開けると、中に入っていたのは銀貨だった。
私は息を呑んだ。
古いユリウス王子の銀貨。
幼い横顔が刻まれた、小さな銀貨だった。
「これ……」
「殿下より、クロエ様へと」
指先が震えた。
私はその銀貨を、そっと持ち上げる。
十年前の春、母と王都の菓子屋に行った時、釣銭に一枚だけ混じっていた銀貨。
その横顔は、白百合庭園で私を助けてくれた王子様に、ほんの少ししか似ていなかった。
それでも私は嬉しかった。
お守りのように、小箱へしまった。
けれど、いつの頃からか、その銀貨は王都のどこにも見えなくなった。
市場でも、教会の寄付箱でも、父の財布の中でも、誰もユリウス王子の銀貨を使わなくなった。
新しい銀貨には、クロード皇太子殿下の横顔が刻まれていた。
大人たちは言った。
病弱だったユリウス第一王子が表舞台を退き、弟君であるクロード王子が立太子されたのだと。
だから銀貨も、新しい皇太子殿下の横顔へ改められたのだと。
ユリウス殿下は療養のため王都を離れ、それから公の場には姿を見せていないという。
王家の方々の消息を、私たちが確かめる術はない。
私は、どこか遠い場所で穏やかに暮らしていらっしゃるのだと思っていた。
私はそれを聞いて、なぜか寂しかった。
まるで、世界中からユリウス王子の横顔が消えてしまったようで。
その時、扉が叩かれた。
「クロエ。起きている?」
クロード殿下だった。
私は銀貨を手にしたまま、立ち上がった。
「はい」
殿下が部屋に入る。
その視線が、私の手元に落ちた。
「届いたんだね」
「はい。ありがとうございます」
私は銀貨を見つめた。
「もう、見つからないと思っていました」
「探させた」
「そこまでしていただくものでは」
「君が寂しそうにしていたから」
私は顔を上げた。
「私、殿下にそのような話をしましたか」
クロード殿下は、少しだけ黙った。
それから優しく微笑む。
「白百合の栞を見る時と、似た顔をしていた」
「銀貨を?」
「うん」
「私、そんなに分かりやすいでしょうか」
「とても」
私は困ってしまった。
「ユリウス王子の銀貨は、もうほとんど残っていない」
殿下が言った。
「だから、これを君に」
「貴重なものでは」
「君が持っていて」
その言い方には、少しだけ強さがあった。
私は頷くしかなかった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
クロード殿下は銀貨を見て、それから私を見た。
「まだ、ユリウス王子のことを思う?」
その問いは静かだった。
責める響きはなかった。
けれど、胸が小さく痛んだ。
「思います」
私は正直に答えた。
「でも、今は少し違います」
「違う?」
「はい。前は、あの日の王子様だけが、私を見つけてくれた人だと思っていました」
私は銀貨を両手で包んだ。
「でも今は、クロード殿下も、私を見つけてくださいました」
殿下の瞳が揺れた。
「クロエ」
「だから、私はきっと、いつか白百合庭園へ行けます」
私は微笑んだ。
「ユリウス殿下に、ありがとうと言うために」
「別れを告げるためではなく?」
「それも、あるかもしれません」
私は銀貨を見つめた。
幼い横顔。
遠い日の王子様。
「でも、まずはお礼を言いたいです。あの日の言葉があったから、私は今日まで生きてこられました」
クロード殿下は何も言わなかった。
「そして、そのあとで、今の私の続きを読みたいと思います」
「今の君の続きを」
「はい」
私は、クロード殿下を見た。
「もしよろしければ、その時は、隣にいてください」
言ってから、心臓が大きく鳴った。
大胆すぎた。
けれど、撤回したくなかった。
クロード殿下は、ゆっくり息を吐いた。
「もちろん」
その声は、少しだけ震えているように聞こえた。
「君が望むなら、どこへでも」
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
ユリウス王子の銀貨は、手の中で冷たかった。
でも、クロード殿下の声は温かかった。
私はその夜、銀貨を小箱にしまった。
銀栞の隣に。
あの日の王子様の言葉と、今ここにいる人の優しさ。
その二つが並んでいるのを見て、私は少しだけ泣いた。
悲しい涙ではなかった。
たぶん、別れの前に流す涙だった。
白百合庭園へ行こう。
そう思った。
あの日の王子様に、ありがとうを言うために。
そして、今の私の続きを読むために。




