第6話 クロエとクロードは、少し似ている
王宮での三日目の朝、私は初めて庭に出た。
白い石畳。丸く刈り込まれた植え込み。噴水の水音。花壇には淡い紫の花が揺れていて、遠くには衛兵の足音が聞こえる。
白百合庭園ではない。
そのことに、私は少しだけ安心した。
まだ、あの場所へ行く勇気はなかった。
「足元に気をつけて」
クロード殿下が隣で言った。
「はい」
昨日、医師に診てもらった。
大きな病はないが、疲労と栄養不足、睡眠不足が続いていたのだという。手荒れの薬と、肩の痛みに効く湿布薬と、よく眠れるようにと香草の小袋をもらった。
診察中、医師は何度か黙った。
腕の青あざ。指の傷。足首の古い擦り傷。
それらを見るたび、医師は何か言いかけて、結局言わなかった。
クロード殿下も何も言わなかった。
ただ、私が袖を下ろそうとした時、静かに視線を逸らしてくださった。
責められないことが、ありがたかった。
中庭には、二人分の椅子と小さな丸卓が用意されていた。
卓の上には、紅茶と焼き菓子。それから、蜂蜜の小瓶。
蜂蜜の小瓶を見て、私は少し笑ってしまった。
「どうしたの」
クロード殿下が尋ねる。
「いえ。蜂蜜が」
「多かった?」
「いいえ。半匙なら、大丈夫です」
そう答えてから、自分でも少し驚いた。
大丈夫です、と自然に言えた。
今までは、何を出されても「ありがとうございます」と言うしかなかった。好きか嫌いか、足りるか多いか、そんなことを口にするのはわがままだと思っていた。
クロード殿下は小瓶を手に取り、紅茶にほんの少しだけ蜂蜜を落とした。
「これくらい?」
「はい」
「覚えておく」
その言葉に、胸が小さく鳴った。
「もう、覚えてくださっているのでは」
言ってから、私は慌てた。
失礼だったかもしれない。
けれどクロード殿下は笑った。
「そうだね。では、忘れないようにする」
「私の好みなど、忘れてくださっても」
「嫌だ」
あまりにまっすぐな返事だったので、私は目を瞬かせた。
クロード殿下は、少しだけ視線を落とした。
「君の好きなものを、忘れたくない」
優しい声だった。
だから、私はそれ以上何も言えなかった。
「クロエ」
殿下の声がした。
「彼らの処分が決まった」
私はカップを持つ指に力を入れた。
彼ら。
その言葉だけで、誰のことか分かってしまった。
父。義母。リリア。エドガー様。
「聞くのがつらければ、今でなくていい」
クロード殿下はそう言った。
私は少し迷ってから、首を振った。
「聞きたいです」
もう、知らないままでいたくなかった。
クロード殿下は頷いた。
「レナード男爵は、君の母君の信託財産を不正に取り崩したこと、婚約契約の署名を偽造したことを認めた。爵位そのものは審議にかけられるが、男爵家の財産管理権と家政権は即日停止。王宮監督下で隠居を命じる」
父の顔が浮かんだ。
家のためだ。
そう言った声。
家のために私を差し出した父は、家を動かす権利を失ったのだ。
「男爵夫人は、横領への関与と虚偽証言、君の母君の遺品を隠匿していた件で処分される。王都社交界への出入りは永久に禁じる。宝飾品や衣装も差し押さえ、実家へ送還したうえで監視を置く」
義母の扇。
義母の笑顔。
姉なのだから、と言う声。
それらが、遠くなる。
「リリア嬢は、偽証と証拠工作の関与が認められた。夜会、茶会、公式行事への出入りを禁じ、婚約話はすべて白紙にする。当面は地方の修道院で謹慎だ」
リリアは、きっと泣くだろう。
けれど今度は、その涙で誰かを動かすことはできないのだと思った。
「エドガー・バルクス令息は、バルクス家の跡取りから正式に外された。王宮への出入りも禁じる。公衆の面前で君を辱めた責任は軽くない。辺境騎士団の補給部隊で、身分ではなく働きで扱われることになる」
私は、何も言えなかった。
胸が晴れるわけではなかった。
ざまあみろ、とは思えなかった。
ただ、長い間、私を囲んでいた壁が、ひとつずつ遠ざかっていくようだった。
「……もう、戻らなくていいのですね」
声が震えた。
クロード殿下は、静かに答えた。
「戻らなくていい」
その言葉を聞いた瞬間、私はようやく息を吸えた。
「君を傷つけたものは、もう君の前に立たせない」
優しい言葉だった。
優しすぎるほどに。
私はそれに救われた。
だから、その時は気づかなかった。
傷つけたものが、あまりにも綺麗に、ひとつ残らず取り除かれていくことの怖さに。
「殿下は」
私はカップを置いた。
「どうして、そんなに私のことを分かってくださるのですか」
また聞いてしまった。
けれど、どうしても不思議だった。
好きな色。蜂蜜の量。眠る時に完全な暗闇が苦手なこと。痛いときほど、謝ってしまうこと。
クロード殿下は、私が自分でも忘れていたことまで知っているようだった。
「分かっているつもりはないよ」
殿下は言った。
「ただ、君がつらそうな顔をした時、見逃したくないだけだ」
「見逃したくない」
「うん」
「では、私が嬉しそうな顔をした時は?」
少しだけ、冗談のつもりで言った。
クロード殿下は、真面目に答えた。
「それは、もっと見逃したくない」
私は思わず笑ってしまった。
「殿下は、少し大げさです」
「そうかな」
「はい。私の顔など、そんなに見ていても面白くありません」
「面白いかどうかではないよ」
殿下は紅茶を置いた。
「大切なんだ」
胸が、また鳴った。
困る。
そんなふうに言われると、困ってしまう。
「不思議ですね」
「何が?」
「私の名前と、殿下のお名前」
私は少し恥ずかしくなりながら言った。
「クロエと、クロード。少し似ています」
クロード殿下は笑わなかった。
むしろ、ひどく静かな目で私を見た。
「嫌?」
「いいえ。ただ……呼ばれるたびに、少し近いところにいるみたいで」
言ってから、顔が熱くなった。
「僕は、その響きが好きだよ」
「クロエと、クロード、ですか」
「うん」
「名前まで似ているなんて、少しだけ運命みたいですね」
言ってしまってから、私は自分の大胆さに固まった。
けれどクロード殿下は、怒らなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「運命に見えるなら、よかった」
静かな声だった。
「見えるなら?」
「うん」
「殿下は、そうは思われないのですか」
「僕は、運命という言葉に少し臆病なんだ」
「臆病」
「運命だと言ってしまえば、君が選んだことまで、最初から決まっていたみたいになる」
私は黙った。
「僕は、君に選んでほしい」
殿下は静かに続けた。
「僕が差し出したものを、君が受け取るかどうか。僕の隣にいるかどうか。いつか白百合庭園へ行くかどうか。全部、君が決めていい」
全部、君が決めていい。
その言葉は、今の私にはまだ大きすぎた。
「私は、選ぶのが下手です」
「なら、ゆっくりでいい」
「間違えたら?」
「間違えてもいい」
クロード殿下は、当たり前のように言った。
「君が間違えたからといって、君の価値がなくなるわけじゃない」
そのあと、殿下は細長い箱を差し出した。
中には、手袋が入っていた。
柔らかな白い手袋。指先には薄い保護布が重ねられ、内側には肌に触れても痛くないよう、なめらかな裏地がついている。
「手が治るまで使うといい」
クロード殿下が言った。
「洗濯や針仕事で荒れたところに、布が擦れると痛むだろうから」
私は手袋を見つめた。
高価な宝石ではない。
豪華なドレスでもない。
けれど、私にはその手袋が、どんな贈り物よりもありがたかった。
私の手が痛むことを、殿下は覚えていてくださった。
痛みを、小さなものとして扱わないでいてくださった。
「ありがとうございます」
今度は、素直に言えた。
「私、受け取ってもいいのですね」
クロード殿下は、少しだけ息を止めた。
それから、ゆっくり頷く。
「いいよ」
「優しさも、贈り物も」
「うん」
「居場所も」
「もちろん」
私は手袋を胸に抱いた。
「では、少しずつ、受け取る練習をします」
その言葉を口にした瞬間、クロード殿下の表情が変わった。
泣きそうな、笑いそうな、どちらともつかない顔。
「うん」
殿下は言った。
「少しずつでいい」
中庭に風が吹いた。
淡い紫の花が揺れる。
私は白百合ではない花を見ながら、ようやく思った。
今ここにいるのは、十年前の私ではない。
泣いていた子供ではない。
婚約破棄された惨めな令嬢でもない。
少しだけ、前に進みたいと思っている私だ。
「クロード殿下」
名前を呼ぶと、殿下が顔を上げた。
クロエとクロード。
似ている名前。
その響きが、今は少しだけ嬉しい。
「また、ここに来てもよろしいですか」
クロード殿下は、やわらかく微笑んだ。
「いつでも」
「では、明日も」
「明日も」
「蜂蜜は半匙で」
「もちろん」
私は笑った。
殿下も笑った。
それは、とても穏やかな朝だった。
私が、初めて明日を楽しみにした朝だった。




